
珈琲ブレイク(6) 《御巣鷹山はるか》[2012年06月29日(Fri)]
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「何ィ、ジャンボ機が行方不明だと!?」
本社の社会部と警視庁記者クラブを直結する『ガラガラ』の受話器を握りしめたデスクの大声が、局内に響いた。ガラガラとは、本体の横に付いているハンドルをガラガラ回して話す電話機のこと。午後7時半ごろ、そろそろ早版の締切が来るころだ。
こんな時は、とにかく情報だ。何を差し置いても電話機に飛びつく。モタモタしているとデスクの怒声が飛んでくる。ポーズでもいいから「(取材を)やっている」姿勢を見せることだ。事件記者としての“処世術”は、10数年の体験を経て十分に身にしみついていた。日本航空、運輸省航空局(当時)、羽田空港、消防庁…しかし受話器の向こうには、確たる情報は皆無に等しかった。
「まず行ってくれ、秩父方面を目指せ。情報は追って入れる」。デスクの指示に午後8時すぎ、自動車課が手配したハイヤーで東京・大手町の社を飛び出す。出動第1陣。2陣、3陣と飲み屋などから呼び集められた記者が続くはずだ。首都圏の喧騒を抜け、小さな町並みをいくつか通過。自社の小型ジェット機を含む本社からの情報は、依然あいまいなものばかり。途中、コンビニで食料を買い込み、長靴や雨具も仕入れた。埼玉(秩父)、群馬、長野の県境の周辺を、情報交信しながら、ただ走る。
午前1時ごろ。群馬か長野県警のヘリコプターの赤い点滅ランプが見えた。空中に留まった「ホバリング」飛行。
「あそこだ」
赤いランプを目指して、山道を駆けのぼる。他社のハイヤーも続く。細い山道に10数台の車がアリのように列を作る。峠に差し掛かったとき、前の車の動きが止まった。
「どうした」「早く行けよ」
「反対の方向からも車が来ていて、通せんぼしている」
「道を譲れって言い争っているようだ」
ヘリコプターの灯りを目指して、山の反対側の道からも車が来て、テッペンで鉢合わせしたのだ。ヘリはいつの間にか姿が見えなくなっていた。墜落現場はここではない。
夜が白々と明けていく。私たちのハイヤーは、地元消防団が操車する消防車の後についていた。そこがどこなのか、よく分からない。「カーン、カーン」と間延びした鐘を鳴らして捜索する消防車。しばらく山裾の石ころの道を走り、引き返してきた。「この先は行き止まりのようだ」と消防団員。情報収集を兼ねて町役場(川上村だったと思う)に戻る途中、同僚のカメラマンとフジテレビのクルーが乗った車とすれ違う。
「この道はダメだよ」
「ここまで来たので、とりあえず行けるところまで行ってみますワ」
この一行が、細い道を車でくぐり抜け、現場に徒歩で近づき、一命を取りとめた乗員をヘリコプターで吊り上げるスクープ映像・写真をモノにした。
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その夜は上野村役場のカーペットの床に眠った。毛布などはなく、服のまま横になった。山頂に向かった同僚の1人は、買い込んだ食料を、荷物になるからと車に置いていき、自衛隊員から乾パンを分けてもらって飢えをしのいだ。先輩カメラマンは下山途中の渓流沿いで、他社の連中と肩を寄せ合い、原稿用紙を燃やして「暖」をとった。支局から応援で来た若手記者が連絡なしで自宅に帰り、行方不明者として大騒ぎに…とにかく予想外の事態が続いた。
上野村の対策本部に詰めて2日目。さらに予想もしていなかった指令を受けた。「夕刊を改革するので本社に戻れ」。現場に到着できなかったことを咎められたのか。取材らしきものを何一つしていないまま、私は御巣鷹山を後にした。
事故の記憶は、月日の流れとともに薄れていく。思い出に変わり、やがてそれも忘れ去る。しかし、事故の教訓、安全に対する強い思いなど、決して忘れてはいけないこともある。遺族の方々の悲しみも、時間の経過で少しは癒されることはあっても、消え去ることはないだろう。
『鎮魂の山』に間もなく27回目の夏が来る。