
珈琲ブレイク(3)『昭和』が終わった日[2012年05月15日(Tue)]
昭和64年1月7日未明。「高木(顕)侍医長が迎えの車で自宅を出ました」。侍医長番の記者から緊急連絡が入った。昭和天皇が倒れられてから111日目。侍医長が皇居・吹上御所に詰め、帰宅後の深夜に宮内庁から呼び出されるのは、それだけ陛下のご容態が急変したということ。しかし、これで3度目だ。
「どうする、今回は見送るか」。
「いや、編集局の全員に呼び出しを掛けましょう」。
記者から整理マン、製版関係、運転手…招集の数は軽く200人は超える。呼び出し手当はいくらかかるのか、そんな心配がちょっと頭をよぎる。過去2回は持ち直されている、でも…。金額を振り払って、社会部遊軍長として、3度目の臨戦態勢を編集幹部にお願いした。
「どうする、今回は見送るか」。
「いや、編集局の全員に呼び出しを掛けましょう」。
記者から整理マン、製版関係、運転手…招集の数は軽く200人は超える。呼び出し手当はいくらかかるのか、そんな心配がちょっと頭をよぎる。過去2回は持ち直されている、でも…。金額を振り払って、社会部遊軍長として、3度目の臨戦態勢を編集幹部にお願いした。
昭和天皇と記者団=那須御用邸
◇
宮内庁担当となった昭和53年、私は記者7年目だった。ご静養先で天皇会見が行われる。約1時間。『会見』と記者は呼ぶが、宮内庁側は「たまたま記者に会っただけ」の位置づけ。海外の首脳なら別だが、「記者風情になにが会見か」というわけだ。
54年夏、栃木・那須御用邸で我々は散策中の昭和天皇に“たまたまお会い”した。ご一緒して会見場に歩きながら向かう途中、勇気を出してお尋ねした。
「あの竹の傘はもうお使いになりました?」。
その年の5月、愛知県で行われた全国植樹祭は雨が降ったり止んだりの天気だった。こうもり傘を使われたお姿に、落雷を心配した人が竹傘を寄贈したのだ。
「ああ、あの傘ね、使ってないよ」。
短いご返事だったが、あとでこれを聞いた両親がとても驚き、私以上に喜んだ。
その後、厚生省(現・厚生労働省)担当に異動した時、社内的には“昇進”なのに、「お前、なにをヘマしたの」「なんで宮内庁を外されたの」と責められた(?)のには困った。
また当時、カルガモ親子が三井物産社屋の池から皇居のお濠に、車の行き来が激しい道路を渡って移動する姿が人気の的だった。各社そろって“カルガモ番”を配置し、横断日をマーク。渡りに成功したその午後、デスクから宮内庁にいた私に命令が来た。
「陛下のコメントをとれ」。
なに〜陛下の…と絶句。気安くコメントをとれる訳ないでしょう。が、こちらはペーペー記者。向こうは鬼のデスク。仕方なく、侍従室に駆け込んだ。
「カルガモについて陛下は普段なにかおっしゃっていませんか」。
「新聞を読んで(カルガモの件は)ご存じでしょうが、特に話されたことはないですね」。
◇
ご病状が深刻になるにつれ、各社とも取材チームが増強された。半蔵門や乾門など皇居に出入りするすべてのポイントに張り番を置き、皇族方や医師団、政治家らの動向をチェックする。そのためには通行証が必要で、宮内庁記者クラブの登録数は増えるばかり。
崩御されて半年以上も経った平成元年10月のクラブ会員名簿を見ると、朝日91人、毎日18人、読売50人、共同通信32人、日本経済31人、NHK18人、日本テレビ70人、東京放送96人、フジテレビ76人…。産経も72人を登録していた。
記憶では、クラブ会費は1人月200〜300円。少額でも合計すれば大金。このクラブ会費は何に使ったのだろう。使い切れたのか?
“オモテ”取材だけでなく、“ウラ方”部隊も活躍した。地方支局に加えて大阪本社からも応援を求め、皇室班、医療班、張り番要員などに配置…彼らに日々の弁当や宿泊施設などを手配するのだ。地味な仕事だが、同期の裁判所キャップが指揮をとってくれた。
「大阪の分からず屋が、また変な注文をつけてきた」。
「張り番はじっと待っていることが多いので、雨具が欲しいという。そんなのコンビニで買って、後で請求すればいいだろう」などと、よくボヤいていた。
◇
1月7日午前6時33分、崩御。『昭和』の終焉。準備していた記事に、この日の状況などを盛り込んだ特別紙面が、号外とともに作成。夕刊(今はなくなったが)に続いて朝刊も特別編集。おおよその紙面づくりが終わった午前2時すぎ、同僚と2人、フラリと外に出た。社会部長からは「歯ブラシ1本用意しておけ、1週間は社に泊まり込みになる」と言われていたが、なぜか空白ができた。大手町から神田に出る。“自粛の町”に、赤ちょうちんがひとつ。ガラス戸を開け、熱燗を頼んだ。