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韓氏意拳 初体験 [2020年09月02日(Wed)]


友人がやっている韓氏意拳の

初級ショートコースを初めて受講した。

講師は野中先生。

自然体、これがなかなか。

ただ、両手を、手に導かれて上にあげる、

下げて来る。

何かをやり遂げるためという目的の為ではなく、
「状態」そのもの。
命は生きているから、
その手を挙げている状態が生きていることそのもの、ということ。

と感じた。

後日すぐ光岡英稔氏の「身体の聲」を読む。

こんなに、すいすいと体と心に届いてくる本、
最近になかった。





ドアー開いたら色んな音がゴロンゴロン [2019年10月18日(Fri)]


北大路バスターミナルで、
バス待ちをしていた。

ちょっと、目をつむって耳を澄ませてみた。

バスがやって来ると、ガラスのドアが開くんだけど、
開いたとたんに、まるで一杯モノが詰まった押入れのふすまを
開けたら、いろんなものが転がり落ちてくるように、
いろんな種類の音が、そうたとえば、四角い箱やらとんがった塊やら
細々したバラバラな立体や。。。。
そういうものが、一度に転がって来るイメージがした。
音をこんなふうに、いろんな立体物として
感じ取ったのは、初めてかな?

これは、おもしろいわ。

で、その立体たちは、ドアが閉まると、
すーっと透明に消えて行く、というか、
また、ドアの後ろに吸い込まれていくようだった。

WSねた、でした。


残るものと、消えるものと  [2016年12月12日(Mon)]


何カ月も、もっと長い期間かかって準備し、
エネルギーを使い、
本番は、たった10分とか、30分とか、一時間とかで
終わってしまう。
同じ時間と空間を共有した人だけで
味わい尽くすしかないこと

それがパフォーミングアーツとか、
舞台と呼ばれるもの


それに対して、
美術、書道、文学、建築など・・・
長い時間をかけて作って、
或いは、瞬間的に出来たとしても、
朽ち果てるまで結果である
作品が残るものがある


踊りは、瞬間で消えてしまい、
そこに居る、限られた人しか受け取れない、
そのためにチラシを作ったりして、
贅沢だ、と感じる人もいるようだ。

時間のとらえかたが違うんだろう
映像に残しても、でもやっぱりそれは、
映像だ。

だから、先へ先へ
時間を捕まえにいくのか・・・・

消えることがわかってるから

しかし、現象が消えても、
瞬間の記憶に深く焼き付いている
ことがあって、
だから、まだ、先へか
横へか、後ろにか
止まらないんだと思う

止まる時まで






キーワード2 [2015年10月25日(Sun)]


続き

要するに環境、ということなのだろう。

アートに出会う環境が、

障害のある人の場合、ものすごく環境に左右される現実があるという事。

施設の話をいくつか聞いたけど

まだまだ、閉じ込められ空間。

アートどころか、様々なものから排除されてる

一日働いて、缶ビール一本、たばこ一本
禁じられてる施設。
そうじゃない所もあるかもしれないけど、
不自由な世界で一生を過ごす人がいるということ。


対談のキーワードを考える? [2015年10月25日(Sun)]



あと1週間後に
Dance&Peopleの活動についての??
話をさせてもらうことに。
そして、それは、他のたくさんの方のインタビューと共に
本になるそうだ。

障害、アート、福祉、などなどに関係する人たちが対象。

ここ最近は、大山崎WSしかやってないし、
Dance&Peopleとしては、
企画を出してないしなあ・・・
(と思いつつ、考えるためのメモ)

その理由は、主に個人的な事情があったけど(親の介護とか)
あまりにも政治状況が酷いので、
そのことに時間を費やさずにはおれないからでもある。

ツイッターやインデペンデント系の
ネット情報(IWJ)http://iwj.co.jp/
などで、多くのインタビュー動画や記事や
本を読む時間に費やしているからだ。

動画は、ちゃんと見ようとすると、一回に2時間3時間かかる。

だから、本当はマスコミがちゃんとまともな報道してれば、
毎日忙しく働いてる人々、や、忙しくなくても
暇な人にも(時間のある年金生活者とか)
一目でわかる情報が手に届き、
こんなに時間を費やさなくてもいいのだ。
が、それも、この国の事実なんだから仕方がない。

現政権があまりにもひどく、
多くのマスコミがそれに追随して、腰抜けなので、
違うやろ、この報道は!と、
自分で情報をつかもうとするから、
時間と労力がかかる。

とぼやいでも仕方ないけどさ。

ダンスは直接身体を使ってるので、
生活というか、人そのもの、に近い、
それに対して、美術は、
その作品が、本人と離れて、観客の目の前に
存在するまでの経過と、
一旦切れている。
たぶん創作過程は、
ある人にとっては、小さな植物を描くのに1年かかっており、
ある人にとっての作品は、瞬間的にばばっばと
出来てしまうもの、
また、ある人にとっては、昔のように
大きな作品創作は困難になりつつあり(体力の問題)
・・・というようなこと。

対談「アート・パーティ企画展から見えてきたこと」
(2006年1月武庫川すずかけ作業所アトリエにて)
服部正さん・はたよしこさん・中西恵子さん・長友郁代さん

の中で、服部さんが制作者側8ここでは障害のある人側)の事情を重視する見方を
「福祉的」と呼んでいたので
ほう、そうかなるほど、と思った。
「福祉と美術のはざま」というサブタイトルでの
ところだったが、観客にとってどうか?という視点が
抜けてることが、まさに福祉的である、と。

もちろん、身体表現は時間芸術であり、
生身の人が観客の前に存在するので、
福祉的ということでいうと、
ダイレクトに本人の納得が観客に伝わりやすい。
が、生身なだけに、だらだらと見せられても
観客にはつらい場合もあるので、
そこには演出等が必要だ、
という話にもある。

:::::

「福祉的」か、ということでいうと、
ほとんど、福祉的だな、と思う。
参加者の動機が100パーセント重要視され、
そこに、アーティストが面白いと思う視点との
クロス部分が、クローズアップされ
拡大していく。

そして私個人のこだわりなのかもしれないが、
参加者の個人的事情がダンスの場から遠ざかりそうなときや
、ダンスとは無関係に、生活に問題があり
それが、周囲の無関心から来ていそうな場合は、
そこに、コミットしてしまう、ということがある。

ダンスの企画制作として、そこまでやる必要はないのかもしれないが、
見過ごす訳に行かない状況が転がっている。
それは、経済格差であり、まざに福祉的な問題なのである。

アートに出会うかどうか?は、個人の資質による部分もあるが、
どういう関係がもてるか?に左右されてるのが
現実だと思う。
だから、そういうことになるのだ、

家庭環境や経済的に困窮している人が、アートという
枠から外されていく現実、それがある。

だから、作品の見せ方としては
福祉的だけではないが、
現実がそうさせる。


あと、発表会をやればいい、
みたいな考えには反対だ。

10段組体操は、論外だが、
オリンピックやパラリンピックも
それに通じる発想を感じてしまうのだが、
派手なものが好きな人が多いけど、
そこには、落としあ穴があることを
わからないといけない。

目先の効果を求めすぎだ。

[続≫












虚構と現実 [2014年06月28日(Sat)]


ダンス・演劇・音楽・美術・・・・などなど

を、舞台「虚構の世界」と呼ぶとする。

それに対して現実の日常の日々がある。

「事件」ということばは、舞台上では、良く使われるだろう。

そして、日常の日々でも「事件」はあふれている。

障害のある人、特に、知的の人、精神の人と、その家族や支援者にとって

「虚構の世界」の中においてであっても「事件を楽しむ」というような言葉は、

神経を逆なでするような場合があるのかもしれない。

或いは「ねつ造」という言葉。

舞台では、様々な状況が「ねつ造」されるわけだけど、

これまた「ねつ造」という言葉だけを、切り取って扱われてしまうと

ある人たちをいたずらに怒らせてしまうことになるのかもしれない。

言葉が、どのような文脈で語られているのか?

それを受け取る注意も必要だけど、

語る側が、注意を要する言葉の周りや前後に、どのようにして文脈を明確に示すか、ということが、とても重要なんだ、ということを痛感する。

そのためにも、対話型という方法はいいのかもしれない。

公開セミナーを終えて一か月、様々な立場の人の感想を

頂き、考えること。

そして、興味深い課題がたくさん見えてきて、

感謝です。



5/25公開セミナー「複数の感覚と想像力〜他者理解を楽しむ?〜」 [2014年05月05日(Mon)]


活動12年目にして、可能となった企画です。
開催していただけることが、喜びです。

他者理解を楽しむワークショップシリーズ1〜4の
振り返りをします。
多様な他者との未来での共生を一緒に模索する公開セミナーです。


チラシ掲載しています。
https://blog.canpan.info/d_a_p/archive/270


以下、チラシの文字データです。

(チラシ表面情報)
OSIPP稲盛財団寄附講座公開セミナー&ラボカフェスペシャル
「複数の感覚と想像力 - 他者理解を楽しむ? - 」

日時:2014 年5 月25 日(日)14 時〜17 時
会場:アートエリアB1(京阪電車なにわ橋駅地下1階)
参加費:無料
定員:50 名 (申込み推奨)

申込み方法
Email : inamori_seminar0525@osipp.osaka-u.ac.jp
TEL : 06-6850-5638 (電話受付は平日10 時半〜17 時)
FAX : 06-6850-5656

ゲスト:広瀬浩二郎(ひろせこじろう 文化人類学者/国立民族学博物館准教授)、光島貴之(みつしまたかゆき 美術家/鍼灸師)、沼田里衣(ぬまたりい 音遊びの会代表/神戸大学大学院協力研究員)、牛若孝治(うしわかこうじ アートパフォーマー/立命館大学大学院博士課程)、伴戸千雅子(ばんどちかこ 振付家/ダンサー)、黒子沙菜恵(くろこさなえ 振付家/ダンサー)、阿部こずえ(あべこずえ ミュージアム・アクセス・ビュー代表)、五島智子(ごしまともこ Dance & People 代表)

カフェマスター:本間直樹(ほんまなおき 大阪大学CSCD 准教授)

司会:富田大介(とみただいすけ 大阪大学OSIPP 特任講師)

主催:大阪大学大学院国際公共政策研究科(OSIPP)稲盛財団寄附講座、アートエリアB1〔大阪大学+NPO 法人ダンスボックス+京阪電気鉄道(株)〕
共催:Dance&People
協力:ほうげばーこ、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)
助成:(公財)倶進会
企画制作:富田大介、Dance & People


(チラシの裏面情報)

OSIPP 稲盛財団寄附講座公開セミナー & ラボカフェスペシャル
「複数の感覚と想像力 〜他者理解を楽しむ?〜」

Vol. 3 となる今回のOSIPP 稲盛(いなもり)財団寄附講座公開セミナーは、大阪大学が企業やNPO と連携して運営する文化芸術施設アートエリアB1(ラボカフェ)と協同して、エイブルアートの実践を報告します。かつて白虎社(びゃっこしゃ)の踊り手であり、現在は介護ヘルパーをしている五島智子さんが代表を務める任意団体Dance & Peopleの活動にスポットを当て、なかでも、障碍のあるアーティストや研究者をナビゲーターにして展開された「他者理解を楽しむワークショップシリーズ」を取り上げます。この公開セミナーでは、そのシリーズに参画していた講師らをお招きし、その多彩なワークを振り返りながら、さまざまな「他者」との未来共生を模索します。当日は、ゲスト講師によるWS も予定しています。みなさんの感覚と想像力をアートエリアB1 にお寄せ下さい。(富田)

OSIPP 稲盛財団寄附講座公開セミナーとは:
大阪大学大学院国際公共政策研究科(OSIPP : Osaka School of International Public Policy)では、公益財団法人稲盛財団からのご寄附を受け、2012 年4 月より「グローバルな公共倫理とソーシャル・イノベーション」を全体テーマとする寄附講座を開設致しました。研究・教育に加えて、社会貢献活動も行うという本講座の趣旨に照らして、2013 年10 月より、市民向けの公開セミナーを開催することになりました。今回はその3 回目のセミナーとなります。奮ってご参加下さい。
稲盛財団寄附講座のHP ⇒ http://www.osipp.osaka-u.ac.jp/inamori/

参画者それぞれのプロフィール

広瀬浩二郎(ひろせこうじろう)
文化人類学者。13 歳の時に失明。筑波大学附属盲学校から京都大学に進学。2000 年、同大学院にて文学博士号取得。01 年より国立民族学博物館に勤務、現在は民族文化研究部准教授。専門は日本宗教史、障害者文化論。学生時代から趣味として続ける武道では、居合道、合気道の有段者(ともに二段)でもある。主な著書は、『障害者の宗教民俗学』(明石書店、1997 年)、『さわる文化への招待』(世界思想社、2009 年)など。最新刊の岩波ジュニア新書『さわっておどろく!』(嶺重慎(みねしげしん)との共著)では、柔軟な障害者観とユニークな博物館論を展開している。

光島貴之(みつしまたかゆき)
美術家、鍼灸師。1995 年、カッティングシートやラインテープを用いたスタイルで「触る絵画」の制作を開始。見えていた頃の記憶をたどりながら色を選び、何気ない日常のなかから、さわる世界の面白さを表現している。触覚や音に注目することで、見ることを問い直す「タッチ・アート」ワークショップを企画。「こどものてつがく美術館」プロジェクトにも参加。http://mitsushima.txt-nifty.com/

沼田里衣(ぬまたりい)
音遊びの会代表。学術博士、日本音楽療法学会認定音楽療法士。現在、神戸大学大学院異文化研究交流センター協力研究員、川崎医療福祉大学非常勤講師。知的障害者、乳幼児、小学生や高齢者と即興音楽ワークショップや公演活動を行うかたわら、技術や価値観の差異を超えた音楽づくりについて研究を続けている。http://riinumata.com/

牛若孝治(うしわかこうじ)
アートパフォーマー。立命館大学大学院先端総合学術研究科後期博士課程。鍼灸マッサージ師の資格、および中学校社会科、高等学校地理歴史科、高等学校公民科の教員免許を取得。男性というジェンダー、あるいはセクシュアリティー、また「顔」という部位について関心をもつ。「見る」ことと、「触る」ことの間にどのような共通点や差異があるかなどを研究している。2010 年度から現在まで、年に数回、看護学校や大学などでジェンダー論やボディーワークの講師を務める。

伴戸千雅子(ばんどちかこ)
振付家、ダンサー。演劇、バリ舞踊、舞踏等を学び、1989 年から2011 年までダンスグループ「花嵐(はなあらし)」で活動。女性のカラダをテーマに作品づくりを行う。現在は、ソロ活動として、主に音楽家との即興セッションや、昔話を題材にした作品づくりに取り組む。また、ダンス経験のない人、さまざまな障害をもつ人を対象にしたワークショップの講師も務め、身体を通じての出会いの場づくりに力を注いでいる。http://chikakobando.jimdo.com/

黒子沙菜恵(くろこさなえ)
振付家、ダンサー。N.Y. でさまざまなダンスに出会い、その後、身体の構造に着目。骸骨の模型を眺める日々。リヨンビエンナーレ、SPAF などへの招聘歴もある。音楽家や他ジャンルの作家とのコラボレーションも数多く行ない、また、劇場以外の空間でも踊ることを好む。最近の舞台作品は、竹ち代毬也(たけちよまりや)との「懺悔」やWI’RE11「ひとがた」。年齢や身体の異なる人とのワークショップを各地で展開している。http://blogs.yahoo.co.jp/sanaekuro512

阿部こずえ(あべこずえ)
ミュージアム・アクセス・ビュー代表。2002 年より視覚障害のある人と言葉で作品鑑賞をする「ミュージアム・アクセス・ビュー」を立上げる。ほぼ同時期から約10年間、光島貴之氏の制作サポートをする。2011年より一般財団法人たんぽぽの家にて勤務。奈良県の障害のある人の作品を紹介する展覧会の企画や支援者のネットワークづくり、また子どもを対象とした鑑賞のプログラムを行う。http://www.nextftp.com/museum-access-view/

五島智子(ごしまともこ)
Dance&People 代表。障害者ヘルパー。舞踏グループ白虎社で活動後、さまざまな職を経て介護職に。神戸連続児童殺傷事件に衝撃を受け身体感の希薄さにダンスの必要性を再認識。また、ある脳性マヒ女性の介護経験を機に2002 年には「介護はダンスだ!?」(介護者向けワークショップ)を開始。以降、見える人と見えない人がつくる舞台など、障害や年令、経験等の異なる多様な身体が出会う環境づくりに取組む。https://blog.canpan.info/d_a_p/

本間直樹(ほんまなおき)
大阪大学コミュニケーションデザイン・センター、同大学院文学研究科准教授。コミュニケーション論を軸に、臨床哲学の試みとして、哲学対話の方法論と実践、こどもの哲学、身体論ほか、映像、音楽コミュニケーションの実践的研究に取り組む。2005 年に臨床哲学の仲間たちとCaféPhilo(カフェフィロ)を創設。哲学カフェなどの対話活動を推進する。主な業績として、『ドキュメント臨床哲学』(共編著、大阪大学出版会、2010)など。

富田大介(とみただいすけ)
大阪大学大学院国際公共政策研究科 稲盛財団寄附講座 特任講師、美学・身体文化研究。近年はR・ショピノやJ・ベルの作品に出演。主な論考に「土方巽(ひじかたたつみ)の心身関係論」(『舞踊学』第35 号)などがある。現在、京都芸術センター通信「明倫art」においてダンスレヴュー欄を担当。また、2014 年度大阪大学アート・フェスティバル人材育成事業では「アーティスト・イン・レジデンス」のプログラムを担当。

日時:2014 年5 月25 日(日)14 時〜17 時

申込み方法: inamori_seminar0525@osipp.osaka-u.ac.jp / 06-6850-5638

会場:アートエリアB1
〒530-0005 大阪市北区中之島1-1-1 京阪電車なにわ橋駅地下1階
TEL&FAX:06-6226-4006(12時〜19時)※月曜(祝日の場合は翌日)休館
HP: http://artarea-b1.jp/

アクセス
京阪電車中之島線「なにわ橋駅」地下1 階コンコース(地下鉄「淀屋橋駅」「北浜駅」から徒歩約5 分)「なにわ橋駅」@出入口が最寄りとなります。
※直通のエレベーターはございませんので、車いすでお越しの場合は予めアートエリアB1 までご連絡頂きますようお願い致します。

「他者理解を楽しむワークショップシリーズ」を考える [2014年05月01日(Thu)]


自分で名づけておきながら、
ちょっと変なタイトルだと思う。

瞬間的に違和感を感じる人もいるだろう。

そもそも、理解とは概ね苦しいものだと思う。

「理解に苦しむ」という言葉を、一番最近見たのは、4年半前に亡くなった母の日記だった。
自分の伴侶へのコメントであったのだが。

ーーーー

私の中では、共感より理解のほうが相手にやや距離感がある。
共感できればいいんだが、共感できない。
けど、なんとなく理解できた、、、という
ような感じ。

他者とは、自分と違う身体の人、ということだけど、
ほとんどそれは、自分以外のすべて、ということになる。

ある時は、見えない人であり、言葉を話さない人であり、
自分で歩かない人であり、
認知症のお年寄りであり、移民労働者であり、
町内のおじさんであり、泣き叫ぶ幼児であり・・・・
そして、自分でありながらどうなってるのかわからないわが身、かもしれない。

ーーーーーーーーーーーー

言葉で自分の意志が説明できにくい人が、
親が倒れた場合、親戚か福祉行政にかかわる人が
その人の人生を決めてしまうことがある。
そのときに、○○障害何種何級、障害認定何、、、、というような
ラべリングで判断されることが7起こる。
そのような現場は、個人情報保護法の名の下で、
わからないうちに進められる。

他者理解は、邪魔なのかもしれない。
あるいは、管理者は、一人の人を知ろうとする
他者理解という概念?を捨てることをよしとする。
ラべリングやマニュアルが、他者理解の道を遮断する。
想像力は、そういう場では必要ないのだ。

ーーーーーーー

勘違いの想像力も、困ったもんだけど、
私が良くはまる。
悪気はないが、はた迷惑になる。

ーーーーーーー

おせっかいは、大事だ、今の時代は。

ーーーーーーー

楽しむ・・・のことばは、
苦しむ、から出てきた。
こうあらねばならない、というハードルが、
人を離れさせるから、
まず、そこに近づきましょう、ということ。
は〜、そういうことなのか〜
ということが、けっこう多いような気がする。

知らないことは、勝手な恐怖感を呼び寄せるから。
まちつくり、だとか、
地域で暮らす、とか、
当たり前にそんな言葉を見るけれど、
本気で?と思う。
同質性を求めがちな、島国日本で、
多様な他者が幻想の恐怖の存在にならないために、

ということなのかもしれない。














料金設定 [2014年03月23日(Sun)]


最も、苦手とする所である。

それで、いつも自分が苦しむ。

まさか、ここまでストレスが体に出るとは、

だれにもわからないだろう。

人は、何にお金を払うのか?

見えるものにしか払わない?

全部、ご破算に願いたい



見えない人のダンスの謎が・・・ [2013年07月25日(Thu)]


2005年春の頃か、それ以降か

視覚障害の人のダンス公演に取り組んでいた頃、

ナビゲーターとよく話していたこと

それは、見えない人のダンスが、

流れない、ドン、とその瞬間にそこに「在る」

その存在感の独特さ、についてだった。

その謎が、先日のWS体験で、すこしわかりかけたような気がする。

アートエリアb1(京阪電車のなにわ橋駅の中にある、スペース)での

「踊りと眼」という企画に、

久々に参加者として参加した。

講師は、広瀬浩二郎氏(全盲の文化人類学者)と、古後奈穂子氏(ダンス批評)。

そのWSで、ペアになって、相手の人に誘導されながら

(アイマスクをして)

その空間を移動する、6〜7分の間のこと。

どう考えても、ここは、アートエリアb1という場所に間違いがないのだが

全く異空間に居るような感じを体験した。

モノに触ったり、誰かの頭皮にいきなり触ってしまったり、

通りすぎる場所場所の「熱」、や温度をはっきりと感じることが出来た。

そして、何も触らない、何もないような空間に出会った時は、

不安な?方向性のない、未知の空間の広がりがあった。

何にも触れない時間と、確実に何かの手ごたえのある時間、

・・・・・・・

何も無い空間に向かっては、あいまいなものは出せない

でも、もし、何かを?振付を踊る場合、

そこには、連続性が無いのは当たり前のように感じた。

孤独、という云い方は適当ではないけれど、

自立して、孤立しているのだ。

たぶん、そういう種類のことを

2005年に感じていたような気がする。



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