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美味しそうな缶詰[2008年05月08日(Thu)]
実際に会った話しです笑い



初めて日本に来たのは「南米日系人出稼ぎブーム」が始まった88年の終わりでした。この頃、日本には外国人が少なかったためローマ字の看板はほとんどなく、スーパーの商品は漢字ばかりでした。今の様に教えてくれる外国人の先輩もいなかったため戸惑いの連続と失敗を繰り返しながら生活を送っていました。

今となって笑い話ですが、日本に来て間もないとき、神奈川県に住んでいた出稼ぎの叔母さんの家に遊びに行きました。みんな日本に来たばかりで、電車に乗るのも一苦労でした。普段なら1時間で行ける距離を3〜4時間かけて移動をしていました(困った笑)。この日も思った以上に時間がかかってしまい、昼食の時間が過ぎていましたので、お腹を空かしながら叔母さんの家に着きました。

「叔母さん、お腹空いたよ〜、何か食べるものない料理料理?」と聞くと、嬉しそうに「昨日、やっと魚の缶詰がどきにあるのか発見したよ〜ハート、それに何故か知らないけど、50%オフになっていて安かったよ〜ラブ」と述べました。「上の棚にあるから出して、何か美味しいものを作ってあげるよ」と付け加えました。棚を空けてみるとそこには魚の缶詰は見つからず、日本語と漢字ばかりが載せられている缶詰数個ありました。カタカナとひらがなしか読めなかった僕は注意深く書かれている文字を見たら「キャットフード」の部分だけ理解できました。

叔母さんに缶詰を見せながら「これ〜?」って聞いたら、「そうそう、それ美味しいよ、昨日サラダにして食べたよ」と嬉しそうに返事をしてくれました。

この日みんなで大笑いをしました笑い笑い


日本学校初日の面白話[2006年11月22日(Wed)]


日本に初めて来たのは1988年12月(当時11歳)で、日本語を片言しか話せなくて、心が不安でいっぱいでした。小学校は1月から始まり(4年生の三学期)、朝礼に僕と、転校生二人が前に立たされ、校長先生が自分に理解できない言葉を長々と話しをしていました。突然話しが終わりマイクを渡されました。。。「。。。困った?」何をすればいいか分からず、ただ先生を見て「自己紹介、自己紹介」って言われ、「あ。。。、え〜、ペルーの橘谷エルナンです困った」しか言えませんでした。みんなし〜んとしていたので、余計緊張をしていました。

朝礼が何と無事に終わり、教室でまた自己紹介〓。。。教室では朝礼より落ち着いていたが、何を言ったのかは覚えていません。

当時の担当の先生は英語を少し話せたが、クラスメートは誰一人英語の分かる人がいませんでした。初めて外国人を見る人が殆どで、先生を含めて戸惑った人が多いと思います。

僕の日本語能力のなさのため、学校初日で面白いハプニングが起こりました。

先生にスペイン語を習うための本(日本語の文書があって、スペイン語に翻訳されていた)を渡され、「Study Japanese、これ貸してあげる」と言われ、自分は英語の半分しか分からず「かしてあげる?」と分からなかった部分を繰り返すと、先生がもう一度丁寧に「これ、貸してあげます」と言われました。自分が覚えていた日本語の少ない単語の中に「あげます電球があったので、てっきり先生が本をくれていたと思ってしまいました困った

家に帰るとお母さんに学校初日のことを話しながら、先生から日本語を勉強するためにプレゼントされた本だと説明しました。お母さんは全ての本に名前を書く習慣があるので、その日のうちに大きく「KITSUTANI」と書いてしまいました。

次の日、先生に「本は?」と言われ、カバンから出して、渡したら「□△☆。。。名前書いたの。。。」(しか理解できなかった)と困った顔をして、英語で「貸してあげる」の意味を説明してくれました。そこで初めて「貸して」という言葉の意味が理解でき〓、僕は慌てました困った困った困った。慌てている僕を見て、先生は優しく笑ってくれて「It’s ok, for you」と言われ、先生が記念のサインを書いてくれました落ち込み

先生本当にすみませんでしたすいませんすいません

逆カルチャーショックA[2006年10月22日(Sun)]


続き。。。




夏休みの間は、勉強をするつもりもなく、時間があまっていたので、様々なテーマの本を読みました。SF、サスペンス、ノンフィクション、東洋哲学などなど。。。お母さんが言ってくれた通り、何となくポジティブなエネルギーをもらい、前向きに2学期を迎えることが出来ました。前向きとは言っても、不安はまだ残っていましたが、自然と授業をサボる回数が減りました。

それまで、授業を真面目に受けていなかった罪悪感があったため、親との会話を避けていましたが、夏休みの件以来、何となく、お互いの距離が近くなり、話すことが多くなりました。予備校に通いながらも、読書は続けました。特に心理学・哲学的なテーマに興味を持ち、新しい発想が自分に生まれ始めました。

お母さんはペルーの日系社会向けの新聞「ペルー新報」で、長くボランティアで記事を書いていました。お互いの距離が近くなってから、新聞に出す前に、僕に記事を読ませ、感想を聞いていました。その刺激も受け、心に溜まっていた「モヤモヤ」を吐き出すために、自分の考えを自分のために書く様になりました。

そんなある日、自分が書いたものをお母さんに見せたら、「いいね〜」と言われ、自分が知らないうちに、ペルー新報に載せられました(笑)。お母さんは僕を驚かそうとして、秘密にしていたみたいです。

最初は戸惑いましたが、自分が書いたものが新聞に載ることによって、思いもよらない様な人から声をかけられました。「いい記事を書いたね」、「これからも続けるよね」、「いろいろ考えているんだね〜、偉いね〜」と言われ、今まで自分に一番欠けていた「自信」が少しつきました。

心にぽっかり空いていた「穴」が、少しずつ埋まって行き、自分にとって一番大変だった時期を乗り越えることが出来ました。大学にも無事合格し、子供の頃から夢だった獣医への第1歩を歩むことが出来ました。

母親の優しさ、本、ペルー新報、そして声をかけてくれた人たちによって、泥沼にはまっていた自分を救ってくれました。

今でも感謝の気持ちで心がいっぱいです。

(その後、新聞からの依頼もあり、約2年間、ボランティアで書き続けました)


逆カルチャーショック[2006年10月21日(Sat)]

日本で5年間生活(小5〜中3まで)を送った後、ペルーに帰国しました。高校を無事卒業し、念願の獣医学科に入学するために、予備校に入学しました。高校の卒業(12月)後から大学入試(3月)までの3ヶ月間でしたが、勉強についていけなくて、大変でした。

最初の1ヶ月は真面目に授業を受けていましたが、ペルー歴史、地理、国語、解剖学、生理学などは受けていなく、おまけにスペイン語でしたので、僕にとっては宇宙語にしか聞こえませんでした困った。焦りと不安に襲われました困った

そんなとき、勉強がイヤで授業をサボる人たちと仲良くなり、自分も少しずつ予備校に行かなくなりましたウインク。親にばれないように、朝は普通に家を出て、予備校の入り口で、皆と合流してはビリヤード、サッカー、海に行ったりしました。毎日、毎日がその繰り返しでした。友達と一緒にいる時は、連帯意識が強く、大丈夫でしたが、一人で自分の将来について考えると不安に襲われました。結局、逃げているのは知っていたので「自己嫌悪」になることもありましたし、一所懸命頑張っていた親に会わせる顔がありませんでした悲しい



3ヶ月間はあ〜っと言う間に過ぎ、受験日を向かえました。結果は勿論分かっていました「不合格」。。。国立大学の入試は年に1度ですので、1年の留年が確定し、大学の付属学校に入学しました。「今度こそ、やってやる」と思っていたが、やはり勉強についていけず、中々「悪循環」から抜け出すことが出来ませんでした困った。「勉強についていけなくては、授業から逃げ、自己嫌悪」。

この頃が自分にとって、一番大変な時期だったのかもしれません。。。

付属学校の半年が過ぎ、夏休みの間、自分を前向きにさせてくれることがありました。泥沼にどっぷりははまっていた自分に、お母さんは暖かい言葉をくれました「授業をサボり半分に受けているのは知っているよ。おまえは、皆と違う状況を抱えているから、焦らないで、自分のペースで、出来ることからやればいい。焦れば、焦るほどダメになるから。逃げれば、逃げるほど自分がイヤになる。。。取りあえずやれるところまで、やって、ダメだったらそのときは、そのときで考えればいい」。沈黙のまま、話を聞いていた僕に、一冊の本を渡し「夏休みの間は勉強を忘れて、リフレッシュをして。気が向いたらその本を読んでみて。本には不思議な力があるから」と言ってくれました。

このときのお母さんの言葉に暖かく、心が抱きしめられたのを感じました。怒られたり、怒鳴られたりするより、心を打つ言葉でした。
そして、夏休みの間、読書が嫌いだった僕は、本の面白さを覚え、次から次へと本を読む様になりました。


両親です〜笑い


続く。。。

両親が教えてくれた価値観[2006年10月16日(Mon)]

セラミック工場の倒産後、両親は様々な困難を抱えていたにも関わらず、ボクに不自由を感じさせないため、様々な工夫をしていました。

日本に初めて来て、見たことがなかった、お菓子、玩具、洋服などに目を光らせるボクがいました。「あれも欲しい、これも欲しい」とわがまま言う僕に、決まってお母さんは「ダメ!」と言っていましたが、お父さんはボクに甘く、二人きりになったときに、こっそり買ってくれたりしました(笑)。

ペルーでは夢にも思わなかった玩具が手に入るようになって、浮かれていました。でも、少しずつ。。。自然にわがままを言わなくなるようになりました。誰に何かを言われたからではなく、両親の苦労する姿を見て、自然とそうなりました。

ボクやお母さんに何でも買ってくれるお父さんでしたが、自分のことになると、一切買いませんでした。長年使っていた洋服も変えようとせず、お母さんが「ボロボロで恥ずかしいから、新しいのを買おうよ〜」と言っても、お父さんは必ず「そんな小さなことを気にしないでいいよ、ほら縫えばまだまだ使える」と答えていました。

それを見たり、聞いたりしていたボクは、自然とお父さんの愛情と優しさが分かるようになり、玩具などを見て心がチクッと痛むようになりました。「お父さんがかわいそう。。。、わがままを言うのを止めなければ。。。自分も頑張らなければ。。。」と思うようになりました。

お母さんも大好きだったタバコを止め、少しでも貯金に回そうと努力をしていました。その当時は、タバコを止める難しさを理解していませんでしたが、自分も吸うようになり、お母さんの苦労も分かるようになりました。

異国で、ストレスを抱える毎日だったにも関わらず、タバコを止めたお母さん。。。みんなに優しかったのに、自分には一切、ものを買わなかったお父さん。。。そんな二人を見て、ワガママだった自分も少しずつ変化していきました。



親戚たちにいくら「ワガママなやつ、早く大人になりなさい」と言われても、「ふ〜ん」としか思いませんでした。いくら言葉で言われても、変わろうとしませんでした。

この出来事を今振り返ると、「子供には態度でしか教えられないものがたくさんあるのだな〜」と思えるようになりました。
初めての料理作り[2006年10月13日(Fri)]


子供の頃、両親はセラミックの工場を営み、それなりに安定した生活を送っていました。兄弟のいない僕は何を不自由することなく、育っていました。家(工場もあった)には必ずお手伝いさんがいて、自分では料理も、皿洗いも、洗濯もしたことがありませんでした。従兄弟たちは小学校低学年から家の手伝いを当たり前の様にこなしていたのに、僕は遊ぶことしか知らなかったのです。今でも親戚からは「子供の頃、おまえは甘やかされていて、何かがあるとすぐわ〜わ〜泣き喚いていたよ〜」とよく言われます。考えると確かによく泣いていた。。。

でも、セラミック工場と経済的安定した甘い生活は長く続きませんでした。80年代ペルーを襲った不況は、両親の工場を強く扇ぎ、倒産しました。借金を抱えた親は、日本で就労することを決意し、88年に日本に来ることになります。

知り合いが一人もいない新しい環境で、言葉、習慣、文化の壁にぶつかりながら、新しい生活がスタートしました。ボクは先生や友達に恵まれて、早く順応することが出来ましたが、両親はなれない工場での仕事、人間関係に長く悩まされました。夜の9時過ぎに仕事から帰ってくる両親、疲れきっていました。僕の前では出来るだけポジティブに、明るく振舞っていましたが、親が子供の変化に敏感な様に、子供も親の変化を敏感にキャッチします。

それまで、何と言われようと、皿洗い一つやらなかった僕は、何も言われなくても家の手伝いをする様になりました。疲れた顔の両親を見るのが辛かったのです悲しい。。。

僕は料理をするお母さんの横に立って、具を盗み食いするのが好きでした。料理を作るお母さんを見ながら、何故か「料理なら自分にも出来る」と思い込み、母の許可なく、料理を作って、親を驚かそうとしました。

初めて料理を作ったのはチャーハンでした。お母さんの作り方を思い出しながら、材料を切り、具を作っていきました。ここまでは順調でしたが、炊飯器を初めていじる僕は、出て来る水蒸気にびっくりして、いけない操作をしてしまったと思い込み、オロオロしていました。「ヤバイ!火事になる」と思い込み、とにかく水蒸気を無くさなくてはと思い、何度も水を足してしまいました(笑)。

親が仕事から帰って来たときには、ご飯に混ぜる具は出来ていたけど、ご飯は悲しい。。。怒られると思っていたけど、お母さんに事情を説明したら、優しい顔で笑いながら「あ〜、あのままでよかったんだよ〜」と言ってくれて、許可なく料理を作ってしまったことに関しては、何も言わなかったのです。あの時は本当にホッとしました。


イメージでは写真のように出来上がるはずでしたが、最終的に出来上がったのはチャーハンというより、お粥?お茶漬け?でした(笑)。それでもお父さんとお母さんは大きな笑顔を見せながら「美味しい、美味しい」と言って、子供が作った初めての料理を食べてくれました。

自分の人生を変えた先生[2006年10月12日(Thu)]





当時の写真が手元にないので、小田原市久野小学校
ホームページから写真を借りました〜。



日本に初めて来たのは1988年の終わり頃で、当時11歳でした。

市役所の教育担当に「学校入学」のことで話をしに行ったとき、初めての外国人で、どう対応すればいいか分からない状態でした。言葉は全く分からず、平仮名と片仮名しか書けなかったので始めは「小学校1年生からやり直す」と言われ「え〜〜〜!!!困った困った」思いました。でも最終的に「様子を見ながら5年生から」と言うことになり、親には「小1に落とされないためにも、勉強頑張ってよ」と言われていました。

「11歳で小1は絶対にイヤだ〜!!勉強頑張るぞ〜力こぶ走る!!」と思いましたが、何をどうすればいいか分からず、困っていました。不安を抱える中、当時の5年B組を担当していた小林先生が強い見方になってくれました。

彼は自分の気持ちから、休みと呼べる時間(昼休み、春夏秋冬休み)に小1〜4年生までの国語教科書を使って、日本語を教えてくれました。僕が飽きない様に、先生はいろいろ工夫してくれました。勉強の合間に僕が好きだった卓球野球やサッカーサッカー(二人でしたのでPK)を一緒にやってくれました。夏に時々おごってくれたアイスやカキ氷は何よりも楽しみにしていましたウインク

小林先生のお陰でいつの間にか不安も消え、知らないうちに友達と日本語で会話をしていました。勉強でつまずくこともありましたが、その度、先生は優しく「少しずつでいいよ。自分のペースで覚えて、一緒に頑張ろう〜」と言ってくれました。この言葉はその後の自分の人生をも大きく支える言葉となりました。

後になって、先生から聞いた話では、彼も教師という仕事を始めたばかりで、それも僕みたいな特別事情を抱えた生徒がいて、とても不安だったそうです。でも、僕にとって、小林先生は先生を超えた存在、友達、遊び仲間、話し相手となってくれて、辛いはずの時期を、辛いと思わずに乗り越えることが出来ました笑い太陽音符。本当の意味での恩師です。

先生本当にありがとうございました〜。
先生のくれた言葉「少しずつ、自分にあったペースで。。。」は、今でも辛いときの支えになっています。この言葉のお陰で、何度も投げ出しそうになった自分を引き止めてくれました。

近々お会いしたいですね〜。十何年ぶりに。。。

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