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〜読書ノート〜 「善の研究」 [2016年02月28日(Sun)]
和魂洋才としての西田哲学に挑戦。かなり難解だったので、解説を希望します。。。飛ばし飛ばし読んだけれど、なんとなくわかった範囲で説明すると、

「私」というものは根本的には存在せず、あるのはただ経験(純粋経験)だけである。意識している「私」は実在せず、無意識に経験しているものだけが実在しているということなのだろう。

たとえば、美しい景色や音楽に心を奪われた時、「わぁ!!」と大きな感動・気持ちの高まりを感じ、一瞬我を忘れる。その時、私たちは「私はいま●●を見ている」という客観的な意識などはなく、ただ純粋に無意識のうちに経験をしている。このような、主観と客観の分化する前の原初の経験を、純粋経験であり、実在している唯一のものだと説明している。少し脱線するかもしれないけれど、ひとめぼれとかも、そういうことなのかもしれない、と思った。

最終章では、「知と愛」について論じられている。私たちが物を愛するというのは、自己をすてて他に一致することであり、自他合一、その間一点の間隙なくして初めて真の愛情が生まれ、自己の私を棄てて無私となればなるほど愛は大きくなり深くなると説明されている。また、私たちは、自分が好きなことに没頭しているときは、無意識状態になる。自己を忘れ、ただ、自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。また、他人の感情の中に自分を感じ、共に笑い泣くとき、愛は他人の感情を直観させる力があることを知る。 このような主客合一の経験が、現代社会では薄れており、必要とされているのかもしれない。

「親子夫妻の愛より盟友の愛に進み、盟友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。」
CSR48撮影会@サイボウズ社 [2016年02月27日(Sat)]
2月14日は、サイボウズ社にて、CSR48撮影会でした!

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カメラマンは、サイボウズ社長室の野水さん。副業がカメラマンとのことで、さすがプロは違います。みんなで、多様性、動物愛護、防災などCSRに関連することを12ポーズで表現しました。

野水さん、場所を貸して下さったサイボウズさん、企画してくれたメンバーのみなさん、ありがとうございました!!楽しかったです。

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読書ノート〜ビッグクエスチョンズ 倫理 (THE BIG QUESTIONS) 〜 [2016年02月27日(Sat)]
世界の創業200年以上の長寿企業の56%を日本企業が占めており、それには、日本人の倫理観が影響しているのではという話を聞いた。でも、「倫理」って何だろうか。「道徳」「良心」との関係は?

「道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である」(芥川龍之介)

行為の倫理的な価値を判断するのが、「道徳」「良心」であると考えらるが、「道徳」とは社会全体に共有された規範であり、その分、他律的な基準という特性がある。一方、「良心」は、個人個人の独立した自律的な基準と考えられている。昨今の企業の不祥事により、強化されているのが「道徳」のように思うが、次々に共有される規範・ルールに従うことで、自分自身で考え、事の善悪を判断するということをしなくなってしまっているように感じている。これでは、倫理観は育ちにくいのではないだろうか。

高まる倫理意識と道徳観の低下という奇妙な現象を、どう説明するか。

本書では、道徳とは「ある行動が許容されているか否かを示すルール」であり、倫理とは「人生がうまくいっているとか、ひどい状況であるとかに関連したあらゆることを含むもっと範囲の広い原則」だと定義し、倫理における最も大きな論点は『「自らの人生をいかにより良く生きるか」ということだけでなく、私たちの行為が「いかに深く他者の幸福に影響を与えるか」』ということであると指摘している。

そう考えるとき、何か道徳的な問題行為を「する」「しない」という責任においての「行動の量」よりも、「影響の量」が重要であり、それは、時に「怠慢(何もしない)」方が、より多くの責めを追うことがあると、筆者は述べている。この視点は、深く考えさせられ、企業CSRにも深く関係していると考えられる。

また、「多様性への寛大さ」と「自由放任」は大きく異なり、しばしば、そこを混同してしまい、問題を見逃してしまう傾向にあることも指摘している。自分には持っていない価値観で動いているコミュニティやチームに対して、多様性を理解する姿勢を示したいばかりに、明白な事実を見逃してしまうことがある。問題があるかもしれないと感じても、それがそのコミュニティの慣習であると主張されると、見過ごしてしまうことがある。しかし、それは、単純にそのような文化が、その組織において、道徳的に間違った慣習を制度化しているということであり、「間違っている」と言わなくてはならないこともある。ただし、最終的には、何が正しくて何が間違っているかは、状況によってはっきりと変わりうるため、結局は、その道徳的原則が、妥当性があるのか無いのかは、社会一般(世間)で合意されている基準であるか否かということになるのだろうと思う。最後は、自分で考えるしかない。

ビッグクエスチョンズ 倫理 (THE BIG QUESTIONS)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BA-%E5%80%AB%E7%90%86-THE-BIG-QUESTIONS/dp/4799316559/ref=pd_sim_14_4?ie=UTF8&dpID=51R-G39hArL&dpSrc=sims&preST=_AC_UL160_SR100%2C160_&refRID=0CGY4JAF7Y23030QPWN7
立教大学院 21世紀社会デザイン研究科 ソーシャルデザイン・オープンゼミ「リスク社会とソーシャルデザイン」〜専門家による科学的な判断と社会による価値判断〜  [2016年02月27日(Sat)]
20日 は、立教大学院 21世紀社会デザイン研究科 ソーシャルデザイン・オープンゼミ「リスク社会とソーシャルデザイン」〜専門家による科学的な判断と社会による価値判断〜 でした。

議論の主なテーマは「福島の原発」「移民政策」「災害」。共通しているのは、専門家は「リスクの特定」はできても、「対策」は個人・社会の価値観に大きく左右されるという点。これまで専門家にゆだねていたリスク管理を、社会が取り戻すという社会的な価値判断の重要性が高まってきています。この背景には、科学的な未知性・不確実性と、個人の価値観やライフスタイルの多様化などが考えられます。

専門家はどこまでリスクを正しく評価できるのか?
また、「リスクを受容」するという点において、当事者がリスクを巡る議論や対策に関与することが十分に保障されているか?

当研究科においてのリスクを巡る議論は、科学や数値を中心に議論されるのではなく、当事者の視点・価値観から哲学的な視点までも入ってくる点が特徴です。そして、法律や弁護士との連携、専門家による科学的な視点、NPOとの連携など、あらゆる分野を横断的にプロデュースできるソーシャルデザイナーを育成する研究科です。

オープンゼミは、来年度も開催予定ですので、当研究科にご関心ある方は、ぜひご参加ください!
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テーマ:「リスク社会のソー シャルデザイン 〜専門家による科学的な判断と社会による価値判断〜 」

講 師:長坂俊成(21世紀社会デザイン研究科教授)
https://www.rikkyo.ac.jp/sindaiga…/…/lecture/excellence.html

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お雛様と丸福清花園福家さんの花桃 [2016年02月27日(Sat)]
お雛様を出しました。お雛様って、美人ですよね。子どもの頃は綺麗だとは思わなかったけど。

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お雛様に合わせて社会貢献企業 香川県 丸福清花園福家さんの花桃【曙】を買いました。すごく綺麗です。

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丸福清花園の花桃の原点は、昭和50年代当時、小さな女の子が入院中のおばあちゃんのために桃の花を買いに来た時、桃の花がなく、泣きながら帰ったという話を聞きいたことから始まったそうです。 当時、枝物の消費の中心は生け花用だったので、現在とは違い店頭で一般向けの桃は3月3日を目前にして、既に売り切れていたそうですが、小さな子にこんなに残念な思いをさせてしまい、規格外の短い桃を捨てるのは忍びないと、地元の園児約500人に桃の無償提供をを始めたとのこと。その後、園児からたくさんの手紙をもらったそうで、このことが丸福清花園さんが「普段使いの枝物」を開発する原点となったそうです。

「子供がコップに水道水を入れて飾って十分というのが私どもの目指すところです」というコンセプトも素敵です。

その他、有機リン系の農薬使用は無し。この桃も、ひな祭りは、女の子の厄除けと健康を祈願したお祝いなので、そんな思いを込めて、大切に出荷されているそうです。

こういうストーリー素敵ですね。一層綺麗に感じます。

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読書ノート〜ジオジオのかんむり〜 [2016年02月27日(Sat)]
ジオジオは、かつて、ライオンの中でも一番強い王様でした。でも最近はつまらかったのです。
身体も衰えてきて、キリンやシマウマを追いかけるのも嫌になり、誰かとゆっくり話をしたくなっていました。
そこへ、卵を全て、他の動物に獲られたりして死なせてしまった鳥がやってきました。そこで、ジオジオは王様の象徴である王冠の中に、巣を作って卵を産むことを鳥に提案します。

人は自分のために(利己的に)生きていく時期があり、そして、それは必要なことでもあると、私は思う。利己的に生きることは自分の力をつけることにもなるから、結果的に、強いジオジオだからこそ、敵から弱い鳥の卵を守ることができた。ジオジオに限らず、力がある人は、力がない人よりも多くの人を守ることができる。もちろん、何をもって「力」というのかはあるけれど。

利己的から利他的に変わるその重要性、そして、利他的な精神は、他人にとってだけでなく、本人にとっても幸せになるということを、この絵本は描いている。ジオジオも、年老いて目が見えなくなっても、自分が守った鳥の家族が周りにいることでうれしそうだ。

幸せとは何か、と考えさせられる絵本でした。

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〜読書ノート〜 「脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説」(前野隆司) [2016年02月27日(Sat)]

本書によると、「私」とは、脳の無意識の状態のことであり、意識的な「私」は、本当の「私」ではない。そして、その「無意識」は、たくさんのエージェント(本書では小びとと表現されている)から成り立っており、その小びとたちがせっせと仕事をして成り立っているものが、「私(個性)」となると説明されている。

例えば、「欲(食欲、社会貢献欲、自己顕示欲等)」とは、私たちの「意識」によって主体的にコントロールできるものではない。多少はコントロールできるが、基本的には、心の底からわきあがってくるものであり、それも小びとたちの仕業であると筆者は述べている。

私たちが、「自分(らしさ)」だと思っているものは、「意識的な私がつくりあげたもの」ではなく、この多様な小びとたちの働きにある。笑う小びと、怒りやすい小びと、言葉を組み立てる小びとetc..。最初の人員配置は遺伝(DNA)であるが、その後の学習によって、後天的に変わっていく。増えていくのは笑う小びとなのか、怒る小びとなのか。だから、育つ環境は人格形成のために重要なのである。どんな環境で育つか、どんな体験をするか、どんな思考をするのかで、小人たちは、より「私らしい」小びとになっていく。これが、まさに個性となり、自分らしさになると説明されている。面白いことを考える小びとが育つとユニークで創造的な人になったり、正直な小びとが育っていれば誠実な人になる。

また、大切な思い出、生き方の基盤となる意味記憶は、大脳の中に格納されている。それを思いださせてくれたり、必要な知識を届けてくれたりするのも、小びとの役割であると説明されている。

従って、「私」とは、小びとの結果を受け取る受動的な存在であり、そこに逆らうことはしない。欲や煩悩は、「私」に付随するものではなく、小びとたちが行う無意識の処理から生まれる。自分の考えを持って主体的に生きる人が素晴らしい(心の天動説)と考えられているが、実際は、「私」は『生きている』のではなく『生かされている』(心の地動説)という東洋的な世界観とあい通じるものかもしれないという筆者の考えには、共感するとともに、今の自分があることを考えさせられた本であった。


NPOに必要なのは、正義感よりも、「プロ意識」と「ゆるさ」 [2016年02月25日(Thu)]
藤沢烈さんのFacebookへの投稿を読んで思ったこと。

今年、なんとなく心がけようと思っていて言語化できていないことが、これだったのかも。

正義感がなくていいというわけではなく、普段は表に出さず、ゆるさとプロ意識を出せるようにしたい。
正義感や強い問題意識というのは、自分にとってそうであっても、他の人にとっては違うかもしれないという前提をもっていないと、自分の視野も広がらないし、新しいタイプの仲間は出来ないものではないか、というのが、ここ数年の感想。出すべき時に出せばいいのであって、普段はいかに「ふつう」でいられるかを心がけたい。

また、私は今、仕事ではなくボランティア(プロボノ)として活動しているけれど、プロ意識というのは、義務が無いボランティアだからこそ求められる。義務がない仕事に自分がどこまでやるのか、そして、仕事の丁寧さはプロ意識に左右される。ボランティアは、それまで隠れていた自分の本性が見える時でもあったりする。
〜読書ノート〜 「逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか 」(森下伸也 ) [2016年02月09日(Tue)]

逆説(パラドックス)とは、「一般に正しいとされている常識的な見解に反するけれども、それにも関わらずやはり正しい見解」、「反常識の真理」である。 常識から自由になって、あるいは常識に逆らって考えることで真理を発見しようとする精神を「逆説の精神」と呼ぶ。

本書は、この逆説思考とは具体的にどういことか、どんな意味があり、社会および個人にとってどんな価値があるのかが論じられている。 個人的には、予言的パラドックスの例として取り上げられている夏目漱石の「文明開化」についての深い洞察が大変興味深かった。

漱石が生きていた明治時代に日本が全力で取り組んでいたのは文明開化であったが、漱石の作品から、漱石はこれをどう見ていたのかを分析している。

漱石の予言的パラドックス、第一は「個人主義が、かえって人を苦しめる」 「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明はちょっといいようでもつまり駄目なのさ。 これに反して東洋じゃ昔から心の修行をした。その方が正しいのさ。」(『吾輩は猫である』)

漱石によると、文明の原動力は「活力節約」「積極的活力」という、人間の二つの本源的な傾向性であり、前者は「できるだけ労力を節約したいという願望」で、そこから様々な発明・発見が生じる。後者は、「できるだけ気ままに勢力を費やしたい」という願望で、そこから様々な娯楽が生じる。 その結果「昔よりも生活が楽になっていなければならないはず」なのに、「昔の人に比べても苦痛の下に生活している」「生活はいよいよ困難になるような気がする」という状況が訪れ、開花の結果、生活の程度は高くなっても、生存の苦痛がいささかも和らぐわけではない、これこそ「開花の生んだ一大パラドックス」だと漱石は主張しているという分析である。実際、個人主義から生じる自我の苦悶が、漱石の多くの小説のテーマになっている。

第二は「職業の分業が進むことで、人を偏った人間に打ち崩す」
「開花の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分かれれば分かれるほど、我々は片輪な人間になってしまうという妙な現象が起こるのであります」
「万事人に待つ所なき点において、また生活上の知識を一切自分に備えたる点において完全な人間と言わなければなりますまい。 ところが、今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らしているものは何処をどう尋ねたって1人もいない。」
「大きく言えば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むものだと評して差支えない」(漱石文芸論集)

文明の恩恵を受けるということは、一方で高度なるがゆえに苦痛にさらされることを自覚して生きよというのが漱石の主張であると述べられているが、 今、多くの人が生きづらさを抱える社会を考えると、予言的逆説思考が的中しているのではという、なんとも言えない実感を感じた。

では、文明の恩恵に感謝しながら、どのような社会を目指していったら良いのか。その答えはなかなか見つからないが、模索し続けるしかないのかもしれない。 最後に、漱石門下の寺田寅彦の希望となる教えから。

「頭の悪い人は、頭の良い人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命に続けている。 やっと、それがだめだとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。 そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。 自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を書いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んでくる人にのみ神秘の扉を開いて見せるからである。」(寺田寅彦随筆集)
オープンイノベーションと人財 [2016年02月08日(Mon)]
新たな概念(社会に定着していない概念)を提案し、価値を創造することがソーシャルイノベーションへのプロセス。
オープンイノベーションとは、企業(自社)内と外部(大学、NPO、社会事業家など)のアイデアを組み合わせることで、革新的で新しい価値を生み出すこと。

しかしながら、多くの新たな事業が既成概念・勢力に阻害される。その克服の方法はいくつか考えられるが、結局は、人的資源の活かし方に鍵がある、あるいは突破口はそれしか無いのではないか、とも感じる。

オープンイノベーションを実現するためには、各々の組織(企業、行政)の中で、新たな働き方が受容される必要がある。そのためには、イノベーターは転職し外から組織を変えると言う方法だけでなく、企業の中から既成概念や制度を変えていくことも必要である。しかし、多くの場合、革新的な人財は、組織(企業・行政)に見切りをつけ、次へと旅立つ。

また、これは、地域でもそうであるが、プロジェクトを進める際、多様な人々を巻き込むことは容易ではない。協力者間で話し合いをしても、譲歩しない人々がいる。特に地域の人々は企業内のようにある一定の基準や義務があるわけでもなく、そこから全員で新たな関係を構築できるものだろうか。

共感しあえない場合、全員の同意がなくともよいか、理解しあえた人々だけで突き進めばいいのか、方向性を示しながら時間をかけて合意形成を行うのか。

先日、ある大企業にて、発売を目の前にした製品を差し止め、大きな反対勢力がある中から、ソーシャルイノベーションとも言える新製品開発と販売の成功を成し遂げた方のお話を聞く機会があった。その方の「多様な人を巻き込むコツ」は以下であった。

・それぞれの妥協点(腑に落ちる)を見出すまで、情報収集と対話を続ける
・各部門が抱える課題、個が抱えている課題を見抜き、他の知識を挿入させ、ヒントを与える介入・調整役が必須。
・その課題がプロジェクトと関係なくとも解決する手伝いもする。これらのプロセスが個を主体的な行動へと導く
・専門的知識を集約させ、組織の集合知を高める工夫は、徹底した情報収集力にある。そのための自らの専門的基礎知識の集積(学び)は怠らない
・利害関係者によって説得の仕方は変わる。


その方のお話を聞いて思ったのは「ひとりひとりの経験・技術を活かす努力」をあきらめなかったということと、一方そのために膨大なエネルギーを使っていた。その方は、いわゆる、一般的にいわれる「カリスマ」ではない。だからこそ、腰の低さと押しの強さを併せ持っていて、敵対している相手であっても、その人の経験や技術を取り入れようと粘り強く努力を続けることを最後までできたのかもしれない。また、当事者意識をもたせる「あなたの仕事(問題)でもある」ということは、心の中では思っていても、自分が言ってはいけない、気づいてもらわないと、という姿勢を徹底したそう。

一人のカリスマではなくチームでイノベーションを生み出した貴重なお話と大切な視点をいただきました。ありがとうございました。
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