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読書ノート「幸せのメカニズム」を読んで〜若いころは、大いに利己的に自己実現を目指すべきかもしれないという最後のメッセージに共感 [2017年01月09日(Mon)]
慶応大学 前野隆司教授の「幸せのメカニズム」。前野教授は、もともとロボット・脳科学の研究者ですが、ロボット工学や脳科学の視点を活かして「幸福学」「イノベーション教育」など、チームによるイノベーションと幸福の関係性を研究されいます。もともとはキャノンで超能力の研究をされていたとか。

今まで「人を幸せにする教育」「人を幸せにする製品やサービスの開発」という視点があまり研究されてきませんでした。前野教授の研究は、研究を研究で終わらせるのではなく、具体的な産業として、企業のサービスや製品開発につなげることを目的としている点が特徴です。

もともと、「日本は資源に乏しい国」と言われて育ち、「良い製品を作り、豊かな国にしたい」とキャノンのエンジニアに就職。しかし、経済発展に貢献できればみんな幸せになれると思っていた中で、経済が発展していなかった頃と現在の豊かな日本人の幸福度は変わっていないという事実を知り、大変ショックを受けられたとのことでした。

私たちは案外「自分がどうすれば幸せになれるか」を知らないものです。また、幸せの基準において、間違った判断をしてしまいがちでもあります。ついつい「幸せの幻想」にとらわれ、本当の幸せに気づけなかったりします。

本書では、「なぜ、幸福の研究が必要なのか」という視点から、幸福のメカニズムについて論じられています。

【気づき@】幸福は「目指す」のではなく「メカニズムを理解」すべきもの
本書では、幸福は目指すべきものではなく、ダイエットのようにメカニズムを理解すべきものだと述べられています。メカニズムを知ることで、意識して目指さなくても脳が自然と目指すようになるということです。だから、幸せの研究が必要なのだという筆者の主張は、なるほどと思いました。

【気づきA】ビーク・エンドの法則
ピーク・エンドの法則とは、人は苦痛・快楽の評価は「ピーク(絶頂)」と「終わったときの程度」で決まるのであって、「どのくらいの期間が続いたか」は無視されるというものです。恋愛、受験勉強、いろいろなことがあった中で思い出すのはピークかエンド。長い苦労も最後がよければ幸福度はあがり、逆に楽しい時間が長くても最後が悪ければ台無しになる。「終わりよければすべて良し」ということわざは、なるほどです。だから、仕事もプライベートも成功するまであきらめないという姿勢は、結果的に幸福度が上がるということになりますね。

【気づきB】長続きする幸せと長続きしない幸せ
幸せには、長続きする幸せと長続きしない幸せとがあるようです。「長続きする幸せ」は心的な要因による幸せで、他人と比べられないものになるそうです。筆者は、これを四つの因子として説明しています。


「自己実現と成長」
「つながりと感謝」
「前向きと楽観」
「独立とマイペース」


この因子を満たしている人が幸せな人で、一方、長続きしない幸せは、「地位財」といって、金銭欲、物欲、名誉欲だと筆者は説明しています。

むつかしいのは、この長続きしない幸せを目指すループに入ってしまうとそこから抜け出しにくいという点。ここには、あるものを「断ち切る」判断が必要で、それが出来ないと、短期的な幸せを追い求めることを繰り返し、刹那的な生き方、人の目を気にしたり、その結果孤独になってしまうというものです。


■まとめ
これだけ聞くと、「人生はやっぱり社会に貢献し、人とのつながりをもって・・」と思いがちですが、筆者は最後に「若いころは、大いに利己的に自己実現を目指すべきかもしれません」と述べています。これは私も賛成で、最初から仏様のような人なんて、なんかつまらない。近寄りがたいしですし、自分とは違うところにいる人だって他人事になっちゃうような気がします。金銭欲や名誉欲を追いかけるというのは、自分にエンジンをかける力になり、力をつけるというプロセスにおいて大事な部分もあるかと思います。エンジンと力がなければ、社会によいことをしようとしても、大きな影響力は発揮できないのではないでしょうか。

最後に、最近幸せになるために「つながる」という言葉が多用されていますが、個人的にはつながりすぎず、「和して同ぜず」を大事に生きていきたいと思います。

幸せのメカニズム
https://www.amazon.co.jp/dp/B00J4G0QP0/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

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〜読書ノート〜 「善の研究」 [2016年02月28日(Sun)]
和魂洋才としての西田哲学に挑戦。かなり難解だったので、解説を希望します。。。飛ばし飛ばし読んだけれど、なんとなくわかった範囲で説明すると、

「私」というものは根本的には存在せず、あるのはただ経験(純粋経験)だけである。意識している「私」は実在せず、無意識に経験しているものだけが実在しているということなのだろう。

たとえば、美しい景色や音楽に心を奪われた時、「わぁ!!」と大きな感動・気持ちの高まりを感じ、一瞬我を忘れる。その時、私たちは「私はいま●●を見ている」という客観的な意識などはなく、ただ純粋に無意識のうちに経験をしている。このような、主観と客観の分化する前の原初の経験を、純粋経験であり、実在している唯一のものだと説明している。少し脱線するかもしれないけれど、ひとめぼれとかも、そういうことなのかもしれない、と思った。

最終章では、「知と愛」について論じられている。私たちが物を愛するというのは、自己をすてて他に一致することであり、自他合一、その間一点の間隙なくして初めて真の愛情が生まれ、自己の私を棄てて無私となればなるほど愛は大きくなり深くなると説明されている。また、私たちは、自分が好きなことに没頭しているときは、無意識状態になる。自己を忘れ、ただ、自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。また、他人の感情の中に自分を感じ、共に笑い泣くとき、愛は他人の感情を直観させる力があることを知る。 このような主客合一の経験が、現代社会では薄れており、必要とされているのかもしれない。

「親子夫妻の愛より盟友の愛に進み、盟友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。」
読書ノート〜ビッグクエスチョンズ 倫理 (THE BIG QUESTIONS) 〜 [2016年02月27日(Sat)]
世界の創業200年以上の長寿企業の56%を日本企業が占めており、それには、日本人の倫理観が影響しているのではという話を聞いた。でも、「倫理」って何だろうか。「道徳」「良心」との関係は?

「道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である」(芥川龍之介)

行為の倫理的な価値を判断するのが、「道徳」「良心」であると考えらるが、「道徳」とは社会全体に共有された規範であり、その分、他律的な基準という特性がある。一方、「良心」は、個人個人の独立した自律的な基準と考えられている。昨今の企業の不祥事により、強化されているのが「道徳」のように思うが、次々に共有される規範・ルールに従うことで、自分自身で考え、事の善悪を判断するということをしなくなってしまっているように感じている。これでは、倫理観は育ちにくいのではないだろうか。

高まる倫理意識と道徳観の低下という奇妙な現象を、どう説明するか。

本書では、道徳とは「ある行動が許容されているか否かを示すルール」であり、倫理とは「人生がうまくいっているとか、ひどい状況であるとかに関連したあらゆることを含むもっと範囲の広い原則」だと定義し、倫理における最も大きな論点は『「自らの人生をいかにより良く生きるか」ということだけでなく、私たちの行為が「いかに深く他者の幸福に影響を与えるか」』ということであると指摘している。

そう考えるとき、何か道徳的な問題行為を「する」「しない」という責任においての「行動の量」よりも、「影響の量」が重要であり、それは、時に「怠慢(何もしない)」方が、より多くの責めを追うことがあると、筆者は述べている。この視点は、深く考えさせられ、企業CSRにも深く関係していると考えられる。

また、「多様性への寛大さ」と「自由放任」は大きく異なり、しばしば、そこを混同してしまい、問題を見逃してしまう傾向にあることも指摘している。自分には持っていない価値観で動いているコミュニティやチームに対して、多様性を理解する姿勢を示したいばかりに、明白な事実を見逃してしまうことがある。問題があるかもしれないと感じても、それがそのコミュニティの慣習であると主張されると、見過ごしてしまうことがある。しかし、それは、単純にそのような文化が、その組織において、道徳的に間違った慣習を制度化しているということであり、「間違っている」と言わなくてはならないこともある。ただし、最終的には、何が正しくて何が間違っているかは、状況によってはっきりと変わりうるため、結局は、その道徳的原則が、妥当性があるのか無いのかは、社会一般(世間)で合意されている基準であるか否かということになるのだろうと思う。最後は、自分で考えるしかない。

ビッグクエスチョンズ 倫理 (THE BIG QUESTIONS)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BA-%E5%80%AB%E7%90%86-THE-BIG-QUESTIONS/dp/4799316559/ref=pd_sim_14_4?ie=UTF8&dpID=51R-G39hArL&dpSrc=sims&preST=_AC_UL160_SR100%2C160_&refRID=0CGY4JAF7Y23030QPWN7
読書ノート〜ジオジオのかんむり〜 [2016年02月27日(Sat)]
ジオジオは、かつて、ライオンの中でも一番強い王様でした。でも最近はつまらかったのです。
身体も衰えてきて、キリンやシマウマを追いかけるのも嫌になり、誰かとゆっくり話をしたくなっていました。
そこへ、卵を全て、他の動物に獲られたりして死なせてしまった鳥がやってきました。そこで、ジオジオは王様の象徴である王冠の中に、巣を作って卵を産むことを鳥に提案します。

人は自分のために(利己的に)生きていく時期があり、そして、それは必要なことでもあると、私は思う。利己的に生きることは自分の力をつけることにもなるから、結果的に、強いジオジオだからこそ、敵から弱い鳥の卵を守ることができた。ジオジオに限らず、力がある人は、力がない人よりも多くの人を守ることができる。もちろん、何をもって「力」というのかはあるけれど。

利己的から利他的に変わるその重要性、そして、利他的な精神は、他人にとってだけでなく、本人にとっても幸せになるということを、この絵本は描いている。ジオジオも、年老いて目が見えなくなっても、自分が守った鳥の家族が周りにいることでうれしそうだ。

幸せとは何か、と考えさせられる絵本でした。

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〜読書ノート〜 「脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説」(前野隆司) [2016年02月27日(Sat)]

本書によると、「私」とは、脳の無意識の状態のことであり、意識的な「私」は、本当の「私」ではない。そして、その「無意識」は、たくさんのエージェント(本書では小びとと表現されている)から成り立っており、その小びとたちがせっせと仕事をして成り立っているものが、「私(個性)」となると説明されている。

例えば、「欲(食欲、社会貢献欲、自己顕示欲等)」とは、私たちの「意識」によって主体的にコントロールできるものではない。多少はコントロールできるが、基本的には、心の底からわきあがってくるものであり、それも小びとたちの仕業であると筆者は述べている。

私たちが、「自分(らしさ)」だと思っているものは、「意識的な私がつくりあげたもの」ではなく、この多様な小びとたちの働きにある。笑う小びと、怒りやすい小びと、言葉を組み立てる小びとetc..。最初の人員配置は遺伝(DNA)であるが、その後の学習によって、後天的に変わっていく。増えていくのは笑う小びとなのか、怒る小びとなのか。だから、育つ環境は人格形成のために重要なのである。どんな環境で育つか、どんな体験をするか、どんな思考をするのかで、小人たちは、より「私らしい」小びとになっていく。これが、まさに個性となり、自分らしさになると説明されている。面白いことを考える小びとが育つとユニークで創造的な人になったり、正直な小びとが育っていれば誠実な人になる。

また、大切な思い出、生き方の基盤となる意味記憶は、大脳の中に格納されている。それを思いださせてくれたり、必要な知識を届けてくれたりするのも、小びとの役割であると説明されている。

従って、「私」とは、小びとの結果を受け取る受動的な存在であり、そこに逆らうことはしない。欲や煩悩は、「私」に付随するものではなく、小びとたちが行う無意識の処理から生まれる。自分の考えを持って主体的に生きる人が素晴らしい(心の天動説)と考えられているが、実際は、「私」は『生きている』のではなく『生かされている』(心の地動説)という東洋的な世界観とあい通じるものかもしれないという筆者の考えには、共感するとともに、今の自分があることを考えさせられた本であった。


〜読書ノート〜 「逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか 」(森下伸也 ) [2016年02月09日(Tue)]

逆説(パラドックス)とは、「一般に正しいとされている常識的な見解に反するけれども、それにも関わらずやはり正しい見解」、「反常識の真理」である。 常識から自由になって、あるいは常識に逆らって考えることで真理を発見しようとする精神を「逆説の精神」と呼ぶ。

本書は、この逆説思考とは具体的にどういことか、どんな意味があり、社会および個人にとってどんな価値があるのかが論じられている。 個人的には、予言的パラドックスの例として取り上げられている夏目漱石の「文明開化」についての深い洞察が大変興味深かった。

漱石が生きていた明治時代に日本が全力で取り組んでいたのは文明開化であったが、漱石の作品から、漱石はこれをどう見ていたのかを分析している。

漱石の予言的パラドックス、第一は「個人主義が、かえって人を苦しめる」 「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明はちょっといいようでもつまり駄目なのさ。 これに反して東洋じゃ昔から心の修行をした。その方が正しいのさ。」(『吾輩は猫である』)

漱石によると、文明の原動力は「活力節約」「積極的活力」という、人間の二つの本源的な傾向性であり、前者は「できるだけ労力を節約したいという願望」で、そこから様々な発明・発見が生じる。後者は、「できるだけ気ままに勢力を費やしたい」という願望で、そこから様々な娯楽が生じる。 その結果「昔よりも生活が楽になっていなければならないはず」なのに、「昔の人に比べても苦痛の下に生活している」「生活はいよいよ困難になるような気がする」という状況が訪れ、開花の結果、生活の程度は高くなっても、生存の苦痛がいささかも和らぐわけではない、これこそ「開花の生んだ一大パラドックス」だと漱石は主張しているという分析である。実際、個人主義から生じる自我の苦悶が、漱石の多くの小説のテーマになっている。

第二は「職業の分業が進むことで、人を偏った人間に打ち崩す」
「開花の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分かれれば分かれるほど、我々は片輪な人間になってしまうという妙な現象が起こるのであります」
「万事人に待つ所なき点において、また生活上の知識を一切自分に備えたる点において完全な人間と言わなければなりますまい。 ところが、今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らしているものは何処をどう尋ねたって1人もいない。」
「大きく言えば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むものだと評して差支えない」(漱石文芸論集)

文明の恩恵を受けるということは、一方で高度なるがゆえに苦痛にさらされることを自覚して生きよというのが漱石の主張であると述べられているが、 今、多くの人が生きづらさを抱える社会を考えると、予言的逆説思考が的中しているのではという、なんとも言えない実感を感じた。

では、文明の恩恵に感謝しながら、どのような社会を目指していったら良いのか。その答えはなかなか見つからないが、模索し続けるしかないのかもしれない。 最後に、漱石門下の寺田寅彦の希望となる教えから。

「頭の悪い人は、頭の良い人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命に続けている。 やっと、それがだめだとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。 そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。 自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を書いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んでくる人にのみ神秘の扉を開いて見せるからである。」(寺田寅彦随筆集)
〜読書ノート〜 デュルケームの「自殺論」 [2016年02月04日(Thu)]

エミール・デュルケームは、ユダヤ系フランス人の社会学者である。本書は、デュルケームによる社会学の古典的名著であり、自殺という現象を、社会構造および道徳的構造の特質と深く関係しているという視点から考察している。

本書の特徴は、自殺が「個人」の決断によるものだという心理学の視点ではなく、その背後にある「社会」という側面にスポットを当てた社会学の視点での考察であり、大変興味深いものであった。人が自殺をする背景には、生き続けることが難しいと感じる個人の不幸な状態があるわけであるが、それは、どの時代、どの国においても、失業、借金、病気、裏切りなど、共通しているものであると考えられる。また、これらの要因は、どこにでもあるものであり、すなわち、人が不幸な状態に陥る確率は、どんな社会でも大差がないと言えるのかもしれない。しかし、統計上では、国別に自殺率が高い国と低い国とがあり、その差は何十倍という大きいものである。

デュルケームは、ここに着目し、自殺を抑止する要素がある社会と欠けている社会の間にあるものは何か、それが自殺率を決定しているのではないかと考え、それを集合意識(同じ社会の構成員が共有している価値観や感情の総体)という概念で説明しようとした。集合意識のありようによっては自殺がおこりやすくなり、自殺の潮流が出現するということになる。自殺率が高い我が国においても、参考となる視点であった。

デュルケームは、自殺は、以下の4つに分類されると述べている。

【自己本位的自殺】
個人主義が自殺の潮流を生むという視点。個人主義が強調されると、社会的な連帯感が希薄になる。つまり、人が孤独におちいりやすく、何か不幸が生じても人に頼りにくくなる。事実、地方より都会、家族との共同生活者より単身者に自殺者が多い。

【集団本位的自殺】
日本に多いタイプの自殺であり、集団が個人に対して過度の忠誠心を求めたり、個人が集団に対して過度の忠誠心をもつ場合、集団に何かが生じると、責任を背負って集団の犠牲になるよう無言の圧力が働いたり、個人があえて犠牲になろうとするという視点。汚職事件と中間管理職の自殺、戦争末期の集団自決、切腹など。

【アノミー的自殺】
アノミーとは、社会規範が、人間の行為をコントロールできなくなってしまった状態 「無秩序状態」「無機性状態」のことを指す。これには、個人的な事情によるものと社会的な事情によるものとがあるが、デュルケームが重視するのは後者であり、その中でも資本主義の特性を指摘している。資本主義は、物資的意欲をたえず刺激し欲望をかきたてるが、金銭は不平等に割り振られる。そのため、欲望を満たせない人は犯罪に走る(アノミー的犯罪)こともあれば自殺に追い込まれたりする(アノミー的自殺)。アノミーの状態に置かれると、人は生きる指針を失い、何か不幸なきっかけがあったときに、自殺への道に進みがちになる。また、欲望が増大し、それがうまく叶わなかったりすることにより、自己顕示願望から焦燥感や挫折感が生まれ、自殺や犯罪へ至ることもある。

【宿命的自殺】
個人の自由があまりにも制約されると、人は見動きがとれなくなり、生きていても仕方がないという絶望を感じるようになる。

現代の日本社会は、個人主義とアノミーの時代であり、非常に自殺を生みやすい状況を作り出してしまっていると感じた。また、自殺へ追い込む社会的背景は、同時に犯罪へも人を走らせやすいのかもしれない。外に向けば犯罪、内に向けば自殺、その差はわずかなものにも感じる。
少年非行の動向〜犯罪白書より [2015年10月11日(Sun)]
●少年非行の動向

・少年による刑法犯の検挙人員は、平成16年から毎年減少している。
・少年犯罪は、成人犯罪と比べ、共犯率が高い。(強盗58.1%、恐喝51.5%、詐欺31.9%)
・家庭内暴力は増加傾向にあり、平成25年には過去最高の1806件。(うち中学生が最も多く805人)。被害者は母親が59%、父親、兄弟姉妹がいずれも8.5%。
・いじめに起因する補導人員は、昭和63年以降は横ばいだったものの、平成24年からは増加傾向となっている。
・平成25年犯罪少年の検察庁新規受理者を年齢別に罪名でみてみると、年少少年(14歳以上16歳未満)は窃盗が約6割、中間少年(16歳以上18歳未満)は窃盗が4.5割、年長少年(18歳以上20歳未満)は、自動車運転過失致死等が約4割。
・少年鑑別所への入所人数は、平成16年以降減少傾向。年齢別構成比は、中間少年が一番多い。しかし、男女別に見てみると、男子は年少少年が増加傾向にある。また、女子は、以前から年少少年の構成比が高い。

●女性の覚せい剤取締法違反の多さ

・少年鑑別所の非行名構成比を見ると、女子の特徴として、年長少年の覚せい剤取締法違反が17.4%と目立って高くなっている。(男子は0.8%)
・これが、少年院となると、女子の年長少年の覚せい剤取締法違反が37.5%となっており、最も多い非行名となっている。次が傷害、暴行。

●少年院入院者が置かれている環境

・男女とも半分以上が、不良集団との関係なし
・最近10年間では、保護者が実母のみである者の構成比が上昇傾向にある。逆に、実父母である者の構成比は低下傾向にある。(実母子家庭の比率は、男女とも約4割)
(犯罪白書 平成26年度版より)

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【鑑別所】少年を社会から隔離した上での矯正教育が必要か否かを判断する施設。
【少年院】鑑別結果などから「社会生活での更生は難しい」と判断された場合に送致される矯正施設。
 ☆刑罰ではなく、少年に健全な社会復帰をさせるための”矯正教育”を受けさせる施設
【少年刑務所】少年審判の結果、保護処分(保護観察や少年院送致など)よりも懲役や禁固などの刑罰を科すことほうがふさわしいと判断され、刑事裁判にかけられ実刑となった場合に収容される施設
なぜ遊びが大事なのか〜「社会学がわかる辞典」 [2015年10月06日(Tue)]
■「なぜ遊びが大事なのか」→ 遊びには資質が必要

遊びは、人生に必要な不可欠の資質がベースになっている。

@競争の遊び・・スポーツ、将棋、クイズ ★闘争本能
A偶然性の遊び・・じゃんけん、さいころ遊び ★決断力や胆力
B模倣の遊び・・ものまね、ごっこ遊び、積み木 ★模倣本能
Cめまいの遊び・・ぶらんこ、ジェットコースター ★不快感に耐える忍耐力

 
闘争本能がなければ勝負の場面で敗北してしまったり、決断力がなければチャンスを逃し、模倣本能がなければ社会化されず、忍耐力がなければ何かを達成することはできない。

トランプのような偶然性による遊びからは、決断力だけでなく、不運を享受する覚悟が生まれる。ごっこ遊びなど模倣の遊びからは、想像力が発達する。また、めまいの遊びからは、不愉快さを敢えて楽しもうという不敵な精神が発達する。また、「勝っておごらず、負けても悔やまず」というおおらかな人生態度も学ぶ。

現代の遊びは「商品化」された、お金がかかるものになっている。また、現代のおもちゃは、規格品で、子どもにとって創意工夫の余地が非常に少なく、ただ行為を消費するだけのものになっている。遊びにお金をかけず、手作りのものであれば、かわりに工夫が生まれるものである。

遊びは、人生に必要な資質をムダづかいしつつ、それを鍛錬する場となる。大人になってみて、こうした資質を自分はもてているだろうか。また、これは、子どもにとって、遊ぶことがいかに大事かも示している。勉強ももちろん大事だけれど、より生きる力になるのは、こちらではないだろうか。大人も子どもも、もっと遊ぼう。
(社会学がわかる辞典 遊びの社会学を読んで)
孤独や退屈は、実は、人間にとってとても重要な時間 〜「社会学がわかる辞典」の孤独の社会学を読んで [2015年10月05日(Mon)]
孤独や退屈は良くないものだと言われるけれど、実は、人間にとってとても重要な時間。

@リラックスした時間で、自分と向き合うためには孤独になる必要がある。
A退屈な時間をもったとき、自分で自分を楽しませる探索と工夫が始まる。


@自分と会話するということは、人間が成長するために不可欠の行為であり、そこで、自分が身に着けてきた知識や経験がたばねられ、編成しなおされる→たえず「新しい自分」が出来上がる。孤独を遠ざけると、「自分」をもつことができない。

A真の自発的な経験はそうして生まれる。

しかし、現代人は、マスメディア(TV、ネット、ゲーム)によって、孤独で退屈なのに、それを感じることが出来ないという状況に置かれている。今の子どもは生まれたときから、このような環境にいる。その結果、どうなるかというと、「孤独に耐えられない大人」になることが予測される。スマートフォンを手放せない症状は、赤ちゃんがハンカチがないと泣き出すことに似ているのかもしれない。こうして、自分と向き合うことを奪われ続けると、当然、「自分」もほとんど形成されることがない。「自分」がないから経験は経験にならず、動物的な刺激レベルで生きていかざるを得ない。

こういう時代だからこそ、意識して、「孤独」と「退屈」をつくる必要がある。

(「社会学がわかる辞典」の孤独の社会学を読んで)
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