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〜読書ノート〜 「善の研究」 [2016年02月28日(Sun)]
和魂洋才としての西田哲学に挑戦。かなり難解だったので、解説を希望します。。。飛ばし飛ばし読んだけれど、なんとなくわかった範囲で説明すると、

「私」というものは根本的には存在せず、あるのはただ経験(純粋経験)だけである。意識している「私」は実在せず、無意識に経験しているものだけが実在しているということなのだろう。

たとえば、美しい景色や音楽に心を奪われた時、「わぁ!!」と大きな感動・気持ちの高まりを感じ、一瞬我を忘れる。その時、私たちは「私はいま●●を見ている」という客観的な意識などはなく、ただ純粋に無意識のうちに経験をしている。このような、主観と客観の分化する前の原初の経験を、純粋経験であり、実在している唯一のものだと説明している。少し脱線するかもしれないけれど、ひとめぼれとかも、そういうことなのかもしれない、と思った。

最終章では、「知と愛」について論じられている。私たちが物を愛するというのは、自己をすてて他に一致することであり、自他合一、その間一点の間隙なくして初めて真の愛情が生まれ、自己の私を棄てて無私となればなるほど愛は大きくなり深くなると説明されている。また、私たちは、自分が好きなことに没頭しているときは、無意識状態になる。自己を忘れ、ただ、自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。また、他人の感情の中に自分を感じ、共に笑い泣くとき、愛は他人の感情を直観させる力があることを知る。 このような主客合一の経験が、現代社会では薄れており、必要とされているのかもしれない。

「親子夫妻の愛より盟友の愛に進み、盟友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。」
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