強権的なリーダーが幅を利かせる世界をどう変えるのか[2026年03月31日(Tue)]
NHK出版デジタルマガジン2025年9月10日付け「「普通の人」が社会を変えるには? 「非暴力闘争論」を足掛かりに考える」から、強権的なリーダーが幅を利かせる世界で、私たちはいかに抵抗しえるのでしょうか?
平和運動に軍事的戦略性を持ちこんだ「非暴力におけるマキアヴェッリ」とも称されるジーン・シャープ。彼の非暴力闘争論を足掛かりに、とりたてて勇敢でも立派でもない「普通の人」が社会変革に携わる方策や、身近な抑圧や服従から抜け出すためのヒントを提示する『武器としての非暴力 日常からはじめる抵抗論』(中見真理 著)の刊行を記念し、中見さんによる本書のイントロダクションを公開いたします。
終わりの見えない暴力連鎖
あっという間に暴力が蔓延する世界となりました。暴力行使への抑制がきかなくなったせいか、最近は身近なところでも暴力的犯罪が増えているような気がします。
なかでも心痛むのは、イスラエルによるガザ侵攻・パレスチナ人の大虐殺です。民間人の殺戮が当たり前のようになり、幼い子供や病院内の患者ですら攻撃の対象となっています。悲惨な映像がメディアを通じて日々伝えられることで、遠く離れた世界の人々の多くが大きな衝撃を受けています。頼みとなるはずの国連は無力を露呈し、すさまじいまでの国際人道法違反を食い止めることができません。これまで築き上げられてきた国際秩序への信頼が大きく揺らぎ、私たちは終わりの見えない暴力連鎖のなかに置かれています。
いつの間にか世界には強権的政治体制が増え、テロや紛争を武力で解決しようとする動きが暴力行使に拍車をかけています。数年前にはめったに聞くことのなかった軍事用語が、メディアでは当たり前のように日々飛び交っています。
この状況のなかでも、何とか暴力連鎖をくい止めたいと思っている人が多数いることは事実です。しかしあまりの惨状に無力感に陥りがちとなって、どうすればいいのかわからなくなっている人も多いに違いありません。
私自身しばしば無力感に襲われてしまいますが、それでもこの世界を少しでも改善に向かわせていくためにできることがあるならば、たとえ小さな試みであってもやってみるべきだと気を取り直しています。一粒の麦のようなものであれ、それを蒔くことによって、社会を良くしようと思う人がひとりでも増えてくれるよう願うことはできます。世界が暴力連鎖状態から少しでも抜け出せるよう心からの願いを込めて、本書を執筆しました。
非暴力による社会変革
暴力によらずに戦争や様々な抑圧・差別を解消していくにはどうすればよいのか。これはそう簡単な問題ではありません。
この難問に長年向き合い、ひとつの道筋を具体的に示してくれたのが、本書で取り上げる米国人ジーン・シャープ(一九二八〜二〇一八)の非暴力論=戦略的非暴力闘争論です。
シャープは、インドの政治的指導者マハトマ・ガンディーの研究を礎(いしずえ)として、独自の非暴力論を構築した政治学者です。二〇一八年に九十歳で亡くなるまで、一貫して非暴力による社会変革の重要性を訴え、抑圧されてきた人々が自らの手で自由をつかみとる方法を発信しつづけてきました。日本ではあまり知られていませんが、バルト三国の独立回復や、セルビアの独裁政権崩壊、エジプトのホスニー・ムバラク政権打倒をもたらした「アラブの春」など、冷戦終焉前後から二〇一〇年代初頭にかけて世界に広く伝播(でんぱ)した非暴力革命に多大な影響を与え、四回にわたってノーベル平和賞の候補にもなっています。二〇一二年には、スウェーデンの財団から環境・人権問題などに尽くした人物に贈られる「もう一つのノーベル賞」とも呼ばれるライト・ライブリフッド賞を与えられています。
私は国際関係の思想的研究、とくに世界が戦争や差別(構造的暴力)の少ない方向に向かうためには、どのような思想が求められるかに関心を寄せ、研究を重ねてきました。歴史の事例から平和に資する様々なタイプの思想を拾い上げ考察してきましたが、ジーン・シャープの非暴力論に注目したのは、そこにそれまで学んだ非暴力平和論にはほとんどみられない冷徹でリアリスティックな観点を見出したからでした。
非暴力に基づく平和論は、ほとんどの場合、宗教心の深さや強い道徳心を重んじ、非情な弾圧にも屈しない勇者・聖人をモデルとして高く評価する傾向を持っています。これ自体は素晴らしいことで敬意を払わねばなりませんが、この方法で活動の裾野を広げるのは容易ではありません。宗教的・道徳的に優れた人、捕まったり殺されたりした人が高く評価される傾向が強く、普通の人との接点が弱い議論になりがちです。一般の人に、平和と関わるのは恐ろしいという印象を与え、平和の問題は自分とは無関係だと思う人を増やしているようにも思われます。
軍事戦略に学ぶべきこと
これに対し、シャープが説く非暴力論は、とりたてて勇敢でも立派でもない「普通の人」が、日常生活の延長として平和活動の一翼を担うことを目指しています。
シャープは、非暴力を用いるのは、それが宗教的・道徳的に優れているからではなく、「政治的に賢明な策」だからだと説いています。
私は、シャープが軍事からも積極的に学び、非暴力論に軍事戦略の発想を取り入れていることにも着目しました。
平和活動の大きな課題は、軍事や暴力との戦いです(それだけではありませんが)。戦いを展開するとき、一般に「敵」についてしっかり研究する必要があります。ところが第二次世界大戦後、日本の平和論は軍事を腫れ物のように忌避してきました。とりわけ「平和主義者」と言われる人々の間でその傾向が強く、平和勢力が、理解を深めなければならない軍事を無視している状況が長く続いていました。そのことを私は残念に思っていました。
暴力に対して非暴力で対抗する場合にも、軍事のように戦略を練って周到に準備し、非暴力で闘うための知識やスキルを身につけておく必要があるのではないか。戦略も戦術もない場当たり的な活動が、望ましい結果につながりにくいのは当然でもあります。シャープの研究には、既存の自然発生的非暴力闘争をより意識的、戦略的なものにしたいという強い問題意識が貫かれています。
しかしそもそも、非暴力で暴力に対抗することなど本当にできるのか。皆さんのなかには、強い疑念を持っておられる方も多いのではないでしょうか。特に大多数の人々が、軍事的発想に傾斜し、日々戦争報道を目にしている今日の状況下では、なおさらその感は強まります。けれども、いつまでもこの状態でよいわけはありません。
軍事力への過度の依存は、問題の根本的解決を導いてくれるでしょうか。また地球規模の自然環境破壊を考えた時、軍事によってさらに破壊を加え続けることは本当に現実的解決策といえるのでしょうか?
少しでも非暴力が機能する領域を広げたい。そのための方法を考えるということは、真剣に取り組むに価(あたい)する課題だと思います。
民主主義を守りぬくために
シャープの考えについて理解を深め、そこから自分たちの考えをより深めるために、本書では、彼の著作のうち世界中の多くの人に大きな影響を与えた『独裁体制から民主主義へ』を中心に取り上げ、非暴力が「政治的に賢明な策」であるとする理論的根拠や、独裁体制を崩壊させる具体的な方法を学んでいきたいと思います。『独裁体制から民主主義へ』はとてもコンパクトな本です。しかし、強権的な独裁体制下で無力感に打ちひしがれていた世界の多くの人々に希望を与え、彼らが独裁体制から抜け出すための導きの書となりました。
独裁体制下や戦時下に置かれるなどということは、平和な日本に暮らす私たちには一見無縁な話のように思われるかもしれません。しかしロシアのウクライナ侵攻によって、日本人にとっても戦争が遠い話ではないと思った人は多いのではないでしょうか。
特に独裁体制については、民主的な手続きを経て独裁政権が生まれることもあるように、どの国の民主主義も決して安泰ではありません。近年はポピュリスト政治家の台頭も目立つので、なおさら警戒が必要です。
私たちが民主主義国の代表格と信じてやまなかった米国においてすら、ドナルド・トランプ大統領の登場以来、独裁体制化が進行しつつあるのではないでしょうか。法や秩序を無視して傍若無人に振る舞い、自分の考えに異議を唱える政治家を周囲から追放し、大学における言論・研究の自由を許さないなど、民主主義国としてあってはならない事態が進んでいることに注意を払う必要があります。
独裁者の台頭を許さぬために、またいつの間にか戦争体制に巻き込まれないために私たちは常日頃から民主主義の基盤を強くしておく必要があります(民主主義が戦争体制を強化する場合もあることにも注意を払わねばなりませんが)。したがって『独裁体制から民主主義へ』は、軍隊や独裁者が政権に居座るような国の人々に限らず、民主主義国家に暮らす人々にも読まれるべき書物だということができます。
シャープの理論には、暮らしの身近なところから民主主義を守るためのヒントが数多く含まれています。たとえば学校や職場で、あるいは地域や社会の問題について、理不尽な決定や抑圧に対して「NO」と言う際にも参考になります。そのような抵抗力をつけていきたいものです。
現在の日本では、自分が受けた抑圧を弱いものに向けて、自己のバランスを維持しようとする者が多いように見受けられますが、その方向を反転させ、不当な要求を強いる強者、権力者に対して正当な異議申し立てをする力を強めていく必要があります。このことは自分を強くし、結果的に民主主義を強化していくことにつながります。
なお強調しておきたいのは、非暴力とは「何もしないことではない」ということです。シャープは、暴力はもちろん、何も抵抗せずに権力を受け入れる無抵抗も、真の平和を生み出すことはできないと語っています。つまり非暴力は暴力に対抗するものであると同時に、何もせぬことに代わり得るものでもあるのです。
シャープはいきなり大きな問題に立ち向かうのではなく、今の自分に無理なくできることから始めればよい、ともアドバイスしています。
民主主義を守り、暴力の連鎖を止めるために「今の自分」に何ができるのか。シャープの言葉を糸口に、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
あっという間に暴力が蔓延する世界となりました。暴力行使への抑制がきかなくなったせいか、最近は身近なところでも暴力的犯罪が増えているような気がします。なかでも心痛むのは、イスラエルによるガザ侵攻・パレスチナ人の大虐殺です。民間人の殺戮が当たり前のようになり、幼い子供や病院内の患者ですら攻撃の対象となっています。悲惨な映像がメディアを通じて日々伝えられることで、遠く離れた世界の人々の多くが大きな衝撃を受けています。頼みとなるはずの国連は無力を露呈し、すさまじいまでの国際人道法違反を食い止めることができません。これまで築き上げられてきた国際秩序への信頼が大きく揺らぎ、私たちは終わりの見えない暴力連鎖のなかに置かれています。いつの間にか世界には強権的政治体制が増え、テロや紛争を武力で解決しようとする動きが暴力行使に拍車をかけています。数年前にはめったに聞くことのなかった軍事用語が、メディアでは当たり前のように日々飛び交っています。この状況のなかでも、何とか暴力連鎖をくい止めたいと思っている人が多数いることは事実です。しかしあまりの惨状に無力感に陥りがちとなって、どうすればいいのかわからなくなっている人も多いに違いありません。私自身しばしば無力感に襲われてしまいますが、それでもこの世界を少しでも改善に向かわせていくためにできることがあるならば、たとえ小さな試みであってもやってみるべきだと気を取り直しています。一粒の麦のようなものであれ、それを蒔くことによって、社会を良くしようと思う人がひとりでも増えてくれるよう願うことはできます。平和を踏みにじるような独裁的な動きに蔓延していますが、傍観しているだけでいいはずはないでしょう。「普通の人」が、日常生活の延長として平和活動の一翼を担うことを目指しています。シャープは、非暴力を用いるのは、それが宗教的・道徳的に優れているからではなく、「政治的に賢明な策」だからだと説いています。平和活動の大きな課題は、軍事や暴力との戦いです。戦いを展開するとき、一般に「敵」についてしっかり研究する必要があります。ところが第二次世界大戦後、日本の平和論は軍事を腫れ物のように忌避してきました。とりわけ「平和主義者」と言われる人々の間でその傾向が強く、平和勢力が、理解を深めなければならない軍事を無視している状況が長く続いていました。独裁体制下や戦時下に置かれるなどということは、平和な日本に暮らす私たちには一見無縁な話のように思われるかもしれません。しかしロシアのウクライナ侵攻によって、日本人にとっても戦争が遠い話ではないと思った人は多いのではないでしょうか。特に独裁体制については、民主的な手続きを経て独裁政権が生まれることもあるように、どの国の民主主義も決して安泰ではありません。近年はポピュリスト政治家の台頭も目立つので、なおさら警戒が必要です。私たちが民主主義国の代表格と信じてやまなかった米国においてすら、ドナルド・トランプ大統領の登場以来、独裁体制化が進行しつつあるのではないでしょうか。法や秩序を無視して傍若無人に振る舞い、自分の考えに異議を唱える政治家を周囲から追放し、大学における言論・研究の自由を許さないなど、民主主義国としてあってはならない事態が進んでいることに注意を払う必要があります。法や秩序を無視して傍若無人に振る舞う独裁体制を何とかしなければならないでしょう。独裁者の台頭を許さぬために、またいつの間にか戦争体制に巻き込まれないために私たちは常日頃から民主主義の基盤を強くしておく必要があります。現在の日本では、自分が受けた抑圧を弱いものに向けて、自己のバランスを維持しようとする者が多いように見受けられますが、その方向を反転させ、不当な要求を強いる強者、権力者に対して正当な異議申し立てをする力を強めていく必要があります。このことは自分を強くし、結果的に民主主義を強化していくことにつながります。いきなり大きな問題に立ち向かうのではなく、今の自分に無理なくできることから始めればよい。民主主義を守り、暴力の連鎖を止めるために「今の自分」に何ができるのか。民主義を守り強化していくことができるようにすることが大事なのでしょう。独裁者の台頭を許してしまっている世界を変えて平和を創造していかなければならないでしょう。日本、日本人は何ができるのか真摯に考える必要があるでしょう。
平和運動に軍事的戦略性を持ちこんだ「非暴力におけるマキアヴェッリ」とも称されるジーン・シャープ。彼の非暴力闘争論を足掛かりに、とりたてて勇敢でも立派でもない「普通の人」が社会変革に携わる方策や、身近な抑圧や服従から抜け出すためのヒントを提示する『武器としての非暴力 日常からはじめる抵抗論』(中見真理 著)の刊行を記念し、中見さんによる本書のイントロダクションを公開いたします。
終わりの見えない暴力連鎖
あっという間に暴力が蔓延する世界となりました。暴力行使への抑制がきかなくなったせいか、最近は身近なところでも暴力的犯罪が増えているような気がします。
なかでも心痛むのは、イスラエルによるガザ侵攻・パレスチナ人の大虐殺です。民間人の殺戮が当たり前のようになり、幼い子供や病院内の患者ですら攻撃の対象となっています。悲惨な映像がメディアを通じて日々伝えられることで、遠く離れた世界の人々の多くが大きな衝撃を受けています。頼みとなるはずの国連は無力を露呈し、すさまじいまでの国際人道法違反を食い止めることができません。これまで築き上げられてきた国際秩序への信頼が大きく揺らぎ、私たちは終わりの見えない暴力連鎖のなかに置かれています。
いつの間にか世界には強権的政治体制が増え、テロや紛争を武力で解決しようとする動きが暴力行使に拍車をかけています。数年前にはめったに聞くことのなかった軍事用語が、メディアでは当たり前のように日々飛び交っています。
この状況のなかでも、何とか暴力連鎖をくい止めたいと思っている人が多数いることは事実です。しかしあまりの惨状に無力感に陥りがちとなって、どうすればいいのかわからなくなっている人も多いに違いありません。
私自身しばしば無力感に襲われてしまいますが、それでもこの世界を少しでも改善に向かわせていくためにできることがあるならば、たとえ小さな試みであってもやってみるべきだと気を取り直しています。一粒の麦のようなものであれ、それを蒔くことによって、社会を良くしようと思う人がひとりでも増えてくれるよう願うことはできます。世界が暴力連鎖状態から少しでも抜け出せるよう心からの願いを込めて、本書を執筆しました。
非暴力による社会変革
暴力によらずに戦争や様々な抑圧・差別を解消していくにはどうすればよいのか。これはそう簡単な問題ではありません。
この難問に長年向き合い、ひとつの道筋を具体的に示してくれたのが、本書で取り上げる米国人ジーン・シャープ(一九二八〜二〇一八)の非暴力論=戦略的非暴力闘争論です。
シャープは、インドの政治的指導者マハトマ・ガンディーの研究を礎(いしずえ)として、独自の非暴力論を構築した政治学者です。二〇一八年に九十歳で亡くなるまで、一貫して非暴力による社会変革の重要性を訴え、抑圧されてきた人々が自らの手で自由をつかみとる方法を発信しつづけてきました。日本ではあまり知られていませんが、バルト三国の独立回復や、セルビアの独裁政権崩壊、エジプトのホスニー・ムバラク政権打倒をもたらした「アラブの春」など、冷戦終焉前後から二〇一〇年代初頭にかけて世界に広く伝播(でんぱ)した非暴力革命に多大な影響を与え、四回にわたってノーベル平和賞の候補にもなっています。二〇一二年には、スウェーデンの財団から環境・人権問題などに尽くした人物に贈られる「もう一つのノーベル賞」とも呼ばれるライト・ライブリフッド賞を与えられています。
私は国際関係の思想的研究、とくに世界が戦争や差別(構造的暴力)の少ない方向に向かうためには、どのような思想が求められるかに関心を寄せ、研究を重ねてきました。歴史の事例から平和に資する様々なタイプの思想を拾い上げ考察してきましたが、ジーン・シャープの非暴力論に注目したのは、そこにそれまで学んだ非暴力平和論にはほとんどみられない冷徹でリアリスティックな観点を見出したからでした。
非暴力に基づく平和論は、ほとんどの場合、宗教心の深さや強い道徳心を重んじ、非情な弾圧にも屈しない勇者・聖人をモデルとして高く評価する傾向を持っています。これ自体は素晴らしいことで敬意を払わねばなりませんが、この方法で活動の裾野を広げるのは容易ではありません。宗教的・道徳的に優れた人、捕まったり殺されたりした人が高く評価される傾向が強く、普通の人との接点が弱い議論になりがちです。一般の人に、平和と関わるのは恐ろしいという印象を与え、平和の問題は自分とは無関係だと思う人を増やしているようにも思われます。
軍事戦略に学ぶべきこと
これに対し、シャープが説く非暴力論は、とりたてて勇敢でも立派でもない「普通の人」が、日常生活の延長として平和活動の一翼を担うことを目指しています。
シャープは、非暴力を用いるのは、それが宗教的・道徳的に優れているからではなく、「政治的に賢明な策」だからだと説いています。
私は、シャープが軍事からも積極的に学び、非暴力論に軍事戦略の発想を取り入れていることにも着目しました。
平和活動の大きな課題は、軍事や暴力との戦いです(それだけではありませんが)。戦いを展開するとき、一般に「敵」についてしっかり研究する必要があります。ところが第二次世界大戦後、日本の平和論は軍事を腫れ物のように忌避してきました。とりわけ「平和主義者」と言われる人々の間でその傾向が強く、平和勢力が、理解を深めなければならない軍事を無視している状況が長く続いていました。そのことを私は残念に思っていました。
暴力に対して非暴力で対抗する場合にも、軍事のように戦略を練って周到に準備し、非暴力で闘うための知識やスキルを身につけておく必要があるのではないか。戦略も戦術もない場当たり的な活動が、望ましい結果につながりにくいのは当然でもあります。シャープの研究には、既存の自然発生的非暴力闘争をより意識的、戦略的なものにしたいという強い問題意識が貫かれています。
しかしそもそも、非暴力で暴力に対抗することなど本当にできるのか。皆さんのなかには、強い疑念を持っておられる方も多いのではないでしょうか。特に大多数の人々が、軍事的発想に傾斜し、日々戦争報道を目にしている今日の状況下では、なおさらその感は強まります。けれども、いつまでもこの状態でよいわけはありません。
軍事力への過度の依存は、問題の根本的解決を導いてくれるでしょうか。また地球規模の自然環境破壊を考えた時、軍事によってさらに破壊を加え続けることは本当に現実的解決策といえるのでしょうか?
少しでも非暴力が機能する領域を広げたい。そのための方法を考えるということは、真剣に取り組むに価(あたい)する課題だと思います。
民主主義を守りぬくために
シャープの考えについて理解を深め、そこから自分たちの考えをより深めるために、本書では、彼の著作のうち世界中の多くの人に大きな影響を与えた『独裁体制から民主主義へ』を中心に取り上げ、非暴力が「政治的に賢明な策」であるとする理論的根拠や、独裁体制を崩壊させる具体的な方法を学んでいきたいと思います。『独裁体制から民主主義へ』はとてもコンパクトな本です。しかし、強権的な独裁体制下で無力感に打ちひしがれていた世界の多くの人々に希望を与え、彼らが独裁体制から抜け出すための導きの書となりました。
独裁体制下や戦時下に置かれるなどということは、平和な日本に暮らす私たちには一見無縁な話のように思われるかもしれません。しかしロシアのウクライナ侵攻によって、日本人にとっても戦争が遠い話ではないと思った人は多いのではないでしょうか。
特に独裁体制については、民主的な手続きを経て独裁政権が生まれることもあるように、どの国の民主主義も決して安泰ではありません。近年はポピュリスト政治家の台頭も目立つので、なおさら警戒が必要です。
私たちが民主主義国の代表格と信じてやまなかった米国においてすら、ドナルド・トランプ大統領の登場以来、独裁体制化が進行しつつあるのではないでしょうか。法や秩序を無視して傍若無人に振る舞い、自分の考えに異議を唱える政治家を周囲から追放し、大学における言論・研究の自由を許さないなど、民主主義国としてあってはならない事態が進んでいることに注意を払う必要があります。
独裁者の台頭を許さぬために、またいつの間にか戦争体制に巻き込まれないために私たちは常日頃から民主主義の基盤を強くしておく必要があります(民主主義が戦争体制を強化する場合もあることにも注意を払わねばなりませんが)。したがって『独裁体制から民主主義へ』は、軍隊や独裁者が政権に居座るような国の人々に限らず、民主主義国家に暮らす人々にも読まれるべき書物だということができます。
シャープの理論には、暮らしの身近なところから民主主義を守るためのヒントが数多く含まれています。たとえば学校や職場で、あるいは地域や社会の問題について、理不尽な決定や抑圧に対して「NO」と言う際にも参考になります。そのような抵抗力をつけていきたいものです。
現在の日本では、自分が受けた抑圧を弱いものに向けて、自己のバランスを維持しようとする者が多いように見受けられますが、その方向を反転させ、不当な要求を強いる強者、権力者に対して正当な異議申し立てをする力を強めていく必要があります。このことは自分を強くし、結果的に民主主義を強化していくことにつながります。
なお強調しておきたいのは、非暴力とは「何もしないことではない」ということです。シャープは、暴力はもちろん、何も抵抗せずに権力を受け入れる無抵抗も、真の平和を生み出すことはできないと語っています。つまり非暴力は暴力に対抗するものであると同時に、何もせぬことに代わり得るものでもあるのです。
シャープはいきなり大きな問題に立ち向かうのではなく、今の自分に無理なくできることから始めればよい、ともアドバイスしています。
民主主義を守り、暴力の連鎖を止めるために「今の自分」に何ができるのか。シャープの言葉を糸口に、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
あっという間に暴力が蔓延する世界となりました。暴力行使への抑制がきかなくなったせいか、最近は身近なところでも暴力的犯罪が増えているような気がします。なかでも心痛むのは、イスラエルによるガザ侵攻・パレスチナ人の大虐殺です。民間人の殺戮が当たり前のようになり、幼い子供や病院内の患者ですら攻撃の対象となっています。悲惨な映像がメディアを通じて日々伝えられることで、遠く離れた世界の人々の多くが大きな衝撃を受けています。頼みとなるはずの国連は無力を露呈し、すさまじいまでの国際人道法違反を食い止めることができません。これまで築き上げられてきた国際秩序への信頼が大きく揺らぎ、私たちは終わりの見えない暴力連鎖のなかに置かれています。いつの間にか世界には強権的政治体制が増え、テロや紛争を武力で解決しようとする動きが暴力行使に拍車をかけています。数年前にはめったに聞くことのなかった軍事用語が、メディアでは当たり前のように日々飛び交っています。この状況のなかでも、何とか暴力連鎖をくい止めたいと思っている人が多数いることは事実です。しかしあまりの惨状に無力感に陥りがちとなって、どうすればいいのかわからなくなっている人も多いに違いありません。私自身しばしば無力感に襲われてしまいますが、それでもこの世界を少しでも改善に向かわせていくためにできることがあるならば、たとえ小さな試みであってもやってみるべきだと気を取り直しています。一粒の麦のようなものであれ、それを蒔くことによって、社会を良くしようと思う人がひとりでも増えてくれるよう願うことはできます。平和を踏みにじるような独裁的な動きに蔓延していますが、傍観しているだけでいいはずはないでしょう。「普通の人」が、日常生活の延長として平和活動の一翼を担うことを目指しています。シャープは、非暴力を用いるのは、それが宗教的・道徳的に優れているからではなく、「政治的に賢明な策」だからだと説いています。平和活動の大きな課題は、軍事や暴力との戦いです。戦いを展開するとき、一般に「敵」についてしっかり研究する必要があります。ところが第二次世界大戦後、日本の平和論は軍事を腫れ物のように忌避してきました。とりわけ「平和主義者」と言われる人々の間でその傾向が強く、平和勢力が、理解を深めなければならない軍事を無視している状況が長く続いていました。独裁体制下や戦時下に置かれるなどということは、平和な日本に暮らす私たちには一見無縁な話のように思われるかもしれません。しかしロシアのウクライナ侵攻によって、日本人にとっても戦争が遠い話ではないと思った人は多いのではないでしょうか。特に独裁体制については、民主的な手続きを経て独裁政権が生まれることもあるように、どの国の民主主義も決して安泰ではありません。近年はポピュリスト政治家の台頭も目立つので、なおさら警戒が必要です。私たちが民主主義国の代表格と信じてやまなかった米国においてすら、ドナルド・トランプ大統領の登場以来、独裁体制化が進行しつつあるのではないでしょうか。法や秩序を無視して傍若無人に振る舞い、自分の考えに異議を唱える政治家を周囲から追放し、大学における言論・研究の自由を許さないなど、民主主義国としてあってはならない事態が進んでいることに注意を払う必要があります。法や秩序を無視して傍若無人に振る舞う独裁体制を何とかしなければならないでしょう。独裁者の台頭を許さぬために、またいつの間にか戦争体制に巻き込まれないために私たちは常日頃から民主主義の基盤を強くしておく必要があります。現在の日本では、自分が受けた抑圧を弱いものに向けて、自己のバランスを維持しようとする者が多いように見受けられますが、その方向を反転させ、不当な要求を強いる強者、権力者に対して正当な異議申し立てをする力を強めていく必要があります。このことは自分を強くし、結果的に民主主義を強化していくことにつながります。いきなり大きな問題に立ち向かうのではなく、今の自分に無理なくできることから始めればよい。民主主義を守り、暴力の連鎖を止めるために「今の自分」に何ができるのか。民主義を守り強化していくことができるようにすることが大事なのでしょう。独裁者の台頭を許してしまっている世界を変えて平和を創造していかなければならないでしょう。日本、日本人は何ができるのか真摯に考える必要があるでしょう。



