• もっと見る
« 2026年01月 | Main | 2026年03月 »
<< 2026年02月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
月別アーカイブ
最新記事
最新コメント
Tomoko
虹の懸け橋 (10/05)
大館市A
東北地方太平洋地震 (03/13)
藤原 克己
NPO法人の活動資金 (02/28)
モヤコ
買ってもらえる民芸品 (02/19)
「学校に行かない選択は”悪”ではない」[2026年02月28日(Sat)]
 +rkb2025年8月27日付け「「学校に行かない選択は”悪”ではないと伝えたい」不登校が増える夏休み明け 経験した男性が語る思い 仮想空間の学校で支援する自治体も」から、夏休みが明けるこの時期、気がかりなことの一つが「不登校」です。
福岡県内の不登校の児童・生徒の数は年々増えていて、2023年度は小・中学生と高校生あわせて2万1550人に上り、過去最多となっています。
夏休み明けは「生活リズムの乱れ」や「人間関係に不安を感じる」などの理由から学校に行きたくないと訴える子どもが増える時期のひとつです。
子どもが不登校になったとき、本人は何を求めていて保護者はどう向き合えばいいのか、過去に不登校を経験した男性に話を聞きました。
「学校に行かない選択は悪ではない」
中井健翔さん(20) 「学校に行かないこと自体が終着点・ゴールではなくて、むしろそれが始まり。その後、どうしていくかと考える新たなスタートだと僕は思っている。学校に行かない選択は、必ずしも悪ではないと伝えたい」
福岡市に住む中井健翔さん・20歳。
現在、通信制の大学で日本文学を学んでいます。中井さんは脳性まひで足に障害があります。 小学生の頃、これを理由にいじめにあい、学校に行かなくなりました。
当時、それは、学校に行くより辛い選択だったと言います。
不登校になった途端、「負けてしまった」と・・・
中井健翔さん(20) 「学校でいじめにあっている時は、まだ闘っている認識があった。『いじめと闘っているから僕は大丈夫。負けてない』と思っていたんですけど、不登校になった途端に『自分は負けてしまった』とか『ダメだこの先どうやって生きていこう』と思ったんです」
自信を失い、部屋にこもりっきりになった中井さん。
学校、そして教師のことも嫌いになり、中学校へも行かないという選択をしました。
しかし、14歳のときクラウドファンディングで資金を集め、子どもたちが交流するイベントを開催。
そして、通信制の高校、さらに大学へ進学するために勉強に打ち込むようになりました。
前を向くきっかけを作ってくれたのは母親でした。
”学校だけが全てじゃない”という気づきが転機に
中井健翔さん(20) 「僕の母親が交流会であったり、大学の先生であったり、いろんな人に会わせてくれた時に、学校だけがすべてじゃないというか、一歩外に出れば認めてくれる先生とかもいるってことに気づけて。それがすごくよかったですね」
これまでのコミュニティーとは別の「新しい出会い」が、”転機”になったのです。
不登校の児童・生徒が通う”仮想空間の学校”も
福岡県太宰府市の教育支援センター。
こちらに不登校の児童生徒が通うちょっと変わった学校があります。
それは、職員が向かうパソコンの中。
「夏休みは何をしましたか?」「絵を描いていました」
ここは仮想空間の学校「とびゆめキャンパス」通称「ゆめキャン」
不登校の児童や生徒が、自分の分身のキャラクターを使って画面に現れ、支援教師や市の相談員などとチャットで会話したり、ビデオ通話をしたりすることができます。
話す内容は趣味の話題など、なんでもオッケー。
そして・・・ 太宰府市教育支援センター 花田文さん 「教室があり、教育支援センターに出前授業に来てくださった様子を録画して編集したものを用意しています」
太宰府市内の学校の教師たちが収録した動画を視聴して勉強することもできるんです。
復帰が目標ではなく”居場所作り”登校を再開した子供も ゆめキャンには現在、小学生14人と中学生28人が登録していて、多い日には15人ほどが”仮想登校”しています。
太宰府市の小中学校では25日に学校が再開しました。「ゆめキャン」への参加が、在籍する学校の出席扱いにもなるのです。
太宰府市が「ゆめキャン」を開設したのは2025年6月。休み明けの8月25日から再び登校した利用者もいます。
太宰府市教育支援センター 村上伸一 所長 「一番は居場所作りです。学校復帰のきっかけにはなっていますが、学校復帰が目標ではないと思っています。子供たちの自立を支援する、学習も含めてです。そういう場所になっていけばいいのかなと思います」
中井健翔さん(20) 「やっぱり不登校で1つ思うのは、家庭もちょっと苦しい場所でもあるんですよね。だって親がいて、自分はここにいて、劣等感がすごくて、当時は。だから家庭すらも苦しい。でも学校には戻れない。家庭以外の第3の場所を持つ、そういうのはすごく大事かなと思います」
不登校になった児童・生徒の相談内容は 文部科学省が調査した全国の小中学校で不登校になった児童生徒側から、学校への相談内容です。
一番多いのが、「学校生活に対してやる気が出ない」、ほかには「生活リズムの不調」、「友人関係をめぐる問題など」となっています。
不登校になった児童生徒のうち、学校内外の機関で専門的な相談・指導を受けたのが6割。
4割は受けていないということです。DSC00709.JPG

 福岡県内の不登校の児童・生徒の数は年々増えていて、2023年度は小・中学生と高校生あわせて2万1550人に上り、過去最多となっています。不登校の子どもたちが多いですね。「学校に行かないこと自体が終着点・ゴールではなくて、むしろそれが始まり。その後、どうしていくかと考える新たなスタートだと僕は思っている。学校に行かない選択は、必ずしも悪ではないと伝えたい」その通りですね。中井さんは脳性まひで足に障害があります。 小学生の頃、これを理由にいじめにあい、学校に行かなくなりました。「学校でいじめにあっている時は、まだ闘っている認識があった。『いじめと闘っているから僕は大丈夫。負けてない』と思っていたんですけど、不登校になった途端に『自分は負けてしまった』とか『ダメだこの先どうやって生きていこう』と思ったんです」自信を失い、部屋にこもりっきりになった中井さん。学校、そして教師のことも嫌いになり、中学校へも行かないという選択をしました。しかし、14歳のときクラウドファンディングで資金を集め、子どもたちが交流するイベントを開催。そして、通信制の高校、さらに大学へ進学するために勉強に打ち込むようになりました。新たな、目標を見つけることができれば目を向いて進むことができるかもしれません。「僕の母親が交流会であったり、大学の先生であったり、いろんな人に会わせてくれた時に、学校だけがすべてじゃないというか、一歩外に出れば認めてくれる先生とかもいるってことに気づけて。それがすごくよかったですね」これまでのコミュニティーとは別の「新しい出会い」が、”転機”になったのです。新たな出会いの場があれば前を見据えて進むことができるかもしれません。不登校の児童や生徒が、自分の分身のキャラクターを使って画面に現れ、支援教師や市の相談員などとチャットで会話したり、ビデオ通話をしたりすることができます。復帰が目標ではなく”居場所作り”登校を再開した子供も ゆめキャンには現在、小学生14人と中学生28人が登録していて、多い日には15人ほどが”仮想登校”しています。太宰府市の小中学校では25日に学校が再開しました。「ゆめキャン」への参加が、在籍する学校の出席扱いにもなるのです。太宰府市が「ゆめキャン」を開設したのは2025年6月。休み明けの8月25日から再び登校した利用者もいます。いいアイデアですね。多様なやり方があってもいいでしょう。不登校になった児童・生徒の相談内容は 文部科学省が調査した全国の小中学校で不登校になった児童生徒側から、学校への相談内容です。一番多いのが、「学校生活に対してやる気が出ない」、ほかには「生活リズムの不調」、「友人関係をめぐる問題など」となっています。不登校になった児童生徒のうち、学校内外の機関で専門的な相談・指導を受けたのが6割。4割は受けていないということです。一人ひとりの子どもたちを尊重すれば不登校の子どもたちに寄り添って対処する必要があるでしょう。DSC00708.JPG
農福連携は推進すべきでしょう[2026年02月27日(Fri)]
 熊本日日新聞2025年8月26日付け「農福連携で地域の産業守る 小国町社協が事業多角化 大豆生産、鶏卵、レストラン…障害者に多様な雇用」から、就農を通じて障害者の社会参加を促す「農福連携」の取り組みが、各地で広がっている。熊本県小国町の町社会福祉協議会は、農福連携をきっかけに農産物生産から加工、販売へと6次産業化を進める。レストラン経営も手がけ、人口減と高齢化が進む地域の農業と産業の衰退の抑止に欠かせない存在となっている。
8月中旬、小国町の山間部に広がる大豆畑。町社会福祉協議会が運営する障害者福祉施設「サポートセンター悠愛」の利用者たちが雑草取りに励んでいた。  
「もともとここは、後継者不足で耕作放棄地になってしまった農地だった」。知的障害や発達障害がある人の就労事業を担当する河津志保さん(59)が、一帯を見渡しながら汗を拭った。  
町社協は農福連携に取り組み始めた2016年に、1ヘクタールほどの農地を借りて大豆栽培を始めた。地域の耕作放棄地の活用を引き受けていった結果、今では10ヘクタール超まで生産面積を拡大する。24年秋には約2トンの大豆を収穫、一部ではコメも作る。
「小国のゆめ」ブランドで販売する豆腐は1日平均210丁、油揚げは100枚に上り、みそや納豆など12種類をつくる。製造ノウハウは、廃業を考えていたという豆腐店の職人を雇用することで継承した。加工場でも、施設利用者が働いている。  
22年には鶏卵生産も始めた。豆腐作りで出るおからを飼料とし、鶏ふんは大豆畑の肥料として活用。約1千羽を平飼いして1日約500個を採卵する。町内の製材所の廃業で、施設利用者の作業受注がなくなったため始めた養鶏だったが、昨年には食肉加工施設を新設、採卵を終えた地鶏のもも肉を真空冷凍して販売するなど事業を広げている。  
人手不足で休業していた飲食施設の運営を引き受け、20年に開業したレストランも好評だ。生産した卵や野菜、地鶏を中心としてメニューで、1日平均12万円を売り上げる。施設利用者が主に配膳や接客を担っており、観光客に人気の店の運営を支える。  
就労継続支援B型として多様な働く場所を提供する各施設では、10代から70代の利用者36人が得意分野に応じて作業に従事する。事業拡大に伴い24年度の収入は約4千万円に達し、施設利用者の雇用創出と工賃アップにつながっている。
小国町によると、8月1日時点の町人口は6158人。年間150〜200人程度減少しており、65歳以上の高齢化率は約45%に達する。町内にはかつて、10店以上の豆腐店や商店、製材所があったが、農福連携に始まった町社協の取り組みが地域の産業維持にも結びついたかたちだ。  
統括施設長の椋野正信さん(62)は「障害者の居場所が、地域の農林業と産業の衰退とともに失われていた。農産物を作り、加工、販売する地域活性化は、地域の福祉の観点からも欠かせない」と手応えを語った。  
政府、「倍増」めざすビジョン決定  
農林水産業と福祉が連携する農福連携は、担い手不足が深刻な農業、継続的な就労機会の確保を求める福祉事業所の双方に利点があるとされる。基幹産業の農業を基盤に、地域の産業全体を将来につなぐ役割も期待される。  
政府は2024年6月、農福連携の取り組み主体となる農業法人や障害者就労施設などの数を22年度末時点の6343から、30年度までに約2倍の1万2千以上に増やす「推進ビジョン」を決定した。
今月4日には九州農政局が、小国町社会福祉協議会の先進事例などを報告する交流会を開き、農福連携に取り組む関係者らが意見を交わした。同局都市農村交流課は「地域単位でネットワークを作り、マッチングに取り組んでいくことが重要だ」としている。DSC00717.JPG

 熊本県小国町の町社会福祉協議会は、農福連携をきっかけに農産物生産から加工、販売へと6次産業化を進める。レストラン経営も手がけ、人口減と高齢化が進む地域の農業と産業の衰退の抑止に欠かせない存在となっている。「もともとここは、後継者不足で耕作放棄地になってしまった農地だった」。知的障害や発達障害がある人の就労事業を担当する河津志保さん(59)が、一帯を見渡しながら汗を拭った。町社協は農福連携に取り組み始めた2016年に、1ヘクタールほどの農地を借りて大豆栽培を始めた。地域の耕作放棄地の活用を引き受けていった結果、今では10ヘクタール超まで生産面積を拡大する。24年秋には約2トンの大豆を収穫、一部ではコメも作る。「小国のゆめ」ブランドで販売する豆腐は1日平均210丁、油揚げは100枚に上り、みそや納豆など12種類をつくる。製造ノウハウは、廃業を考えていたという豆腐店の職人を雇用することで継承した。加工場でも、施設利用者が働いている。22年には鶏卵生産も始めた。豆腐作りで出るおからを飼料とし、鶏ふんは大豆畑の肥料として活用。約1千羽を平飼いして1日約500個を採卵する。町内の製材所の廃業で、施設利用者の作業受注がなくなったため始めた養鶏だったが、昨年には食肉加工施設を新設、採卵を終えた地鶏のもも肉を真空冷凍して販売するなど事業を広げている。人手不足で休業していた飲食施設の運営を引き受け、20年に開業したレストランも好評だ。生産した卵や野菜、地鶏を中心としてメニューで、1日平均12万円を売り上げる。施設利用者が主に配膳や接客を担っており、観光客に人気の店の運営を支える。農業従事者が減少して耕作放棄地が増え続けている状況の中で農福連携を推進する取り組みは評価されるでしょう。就労継続支援B型として多様な働く場所を提供する各施設では、10代から70代の利用者36人が得意分野に応じて作業に従事する。事業拡大に伴い24年度の収入は約4千万円に達し、施設利用者の雇用創出と工賃アップにつながっている。携わっている障害者の収入が増える方策は必要でしょう。「障害者の居場所が、地域の農林業と産業の衰退とともに失われていた。農産物を作り、加工、販売する地域活性化は、地域の福祉の観点からも欠かせない」農林水産業と福祉が連携する農福連携は、担い手不足が深刻な農業、継続的な就労機会の確保を求める福祉事業所の双方に利点があるとされる。基幹産業の農業を基盤に、地域の産業全体を将来につなぐ役割も期待される。政府は2024年6月、農福連携の取り組み主体となる農業法人や障害者就労施設などの数を22年度末時点の6343から、30年度までに約2倍の1万2千以上に増やす「推進ビジョン」を決定した。「地域単位でネットワークを作り、マッチングに取り組んでいくことが重要だ」可能な限り取り組む法人数を増やして推進していく必要があるでしょう。DSC00710.JPG

「自分はダメじゃない」[2026年02月26日(Thu)]
 朝日新聞2025年8月26日付け「母校撮影し「自分はダメじゃない」 不登校だった映像作家は気づいた」から、中学時代に不登校を経験した映像作家の田中健太さん(32)。自身の母校を舞台に撮影したドキュメンタリー映画「風たちの学校」が今年、公開されました。不登校だったときや高校時代の経験がいまの仕事につながっていると話します。
中学時代の3年間、不登校でした。きっかけはささいなことです。小学校の卒業式の前日、友だちとけんかをして、右手を骨折したんです。  
友だちとはすぐに仲直りしました。ただ、中学入学直後、けがのため、体育の授業は見学だし、先生や友だちにも気を使われておっくうでした。それでちょっと休もうかなって。それが1日、2日と延びて3年間になっていた感じです。  
当時は、学校に行くのは「当たり前」でした。母も最初は学校に行ってほしいと思っていたと思います。朝、起こしに来るけど、僕は布団から出られない。そんなやりとりを3カ月ほど続け、母は「学校に行きなさい」とは言わなくなりました。
ドラマを見て過ごした  
ただ、自分自身が「学校に行けない自分はダメだ」と思っていました。勉強はもちろん、「この後、自分はどうやって生きていくんだろう」という不安がずっとありましたね。  
その頃は、だいたい深夜1、2時に寝て、昼ごろに起きる生活でした。テレビをつけると、ワイドショーの後に昔のドラマの再放送がある。1990年代の「GTO」や「踊る大捜査線」の再放送を見るようになりました。  
それがおもしろくて。母に近所のTSUTAYAで連続ドラマのDVDをたくさん借りてきてもらって、ひたすら見ていました。  
進路について考えたとき、地元の教育センターから紹介されたのが愛知県の私立黄柳野(つげの)高校です。不登校といった様々なバックグラウンドを抱えた生徒が全国から集まる全寮制の高校です。  
ずっと家にいたのに寮生活ができるのかな、と思いましたが、「このままじゃいけない」という気持ちが強かった。中3の2月に見学に行くことにしました。
「ここなら」という直感  
大阪から新幹線と在来線を乗り継ぎ、最寄り駅から20分ほどタクシーに乗って、山間部にある高校の玄関口に降り立ちました。その瞬間に吹き抜けた風が、気持ちよかったんです。「ここならやっていけるかも」と感じました。  
最初は同年代の子との共同生活は心配でした。でも、自分と近い感情を持っている子が多く、思いを共有できたし、高校生活は楽しかったです。  
高校では映画鑑賞部に入り、3年生のとき、友だちとお金を出し合ってカメラを買って映画を撮り始めました。将来は映像関係の仕事につきたいと考えるようになり、大阪芸術大学映像学科に進みました。「大学に行きたい」と思えたことで一歩を踏み出すことができ、実際に進学し、自信にもなりました。  
「風たちの学校」は、学生だった2013年から5年ほどかけて撮影しました。学生時代に取り組んだ別の作品で接した子どもが、不登校を経験した自分に重なり、母校を舞台にした作品を撮ることにしたんです。  
通っているうちに、自分から深い話をしてくれる子が出てきました。それがメインで登場する2人の生徒です。
自信を持っていい  
撮影を通して、先生や寮のスタッフが、ありのままの生徒を認めようと、意識して接しているのがわかりました。  
高校に入学した頃は「自分はダメなやつだ」と思っていました。それが、高校で先生や友人にありのままの自分を受け入れてもらって、前に進むことができたんだな、と改めて感謝しました。  
もっと、学校に行っている子も行っていない子も、フラットな目で見られる社会になってほしいと感じます。そんな社会なら、少なくとも中学生の自分はあんなに苦しまなくてすんだんじゃないかな。  
一方で、中学には行かなかったけど、いまの自分は映画を作っているし、生活もできている。そして、結果的に不登校の経験が仕事につながっています。いま、悩んでいる子には「自分に自信を持って」と伝えたいです。 
たなか・けんた 1993年、大阪府生まれ。大阪芸術大学で映画監督の原一男氏に指導を受け、卒業制作「ぼくと駄菓子のいえ」で監督デビュー。「風たちの学校」は今年3月から、東京、大阪、広島など各地で上映されている。DSC00719.JPG

 中学時代の3年間、不登校でした。きっかけはささいなことです。小学校の卒業式の前日、友だちとけんかをして、右手を骨折したんです。友だちとはすぐに仲直りしました。ただ、中学入学直後、けがのため、体育の授業は見学だし、先生や友だちにも気を使われておっくうでした。それでちょっと休もうかなって。それが1日、2日と延びて3年間になっていた感じです。誰でも不登校になる可能性はあるでしょうが、日本は不登校の子どもたちが多過ぎないでしょうか。教育のあり方を考えなければならないのではないでしょうか。自分自身が「学校に行けない自分はダメだ」と思っていました。勉強はもちろん、「この後、自分はどうやって生きていくんだろう」という不安がずっとありましたね。その頃は、だいたい深夜1、2時に寝て、昼ごろに起きる生活でした。テレビをつけると、ワイドショーの後に昔のドラマの再放送がある。1990年代の「GTO」や「踊る大捜査線」の再放送を見るようになりました。それがおもしろくて。母に近所のTSUTAYAで連続ドラマのDVDをたくさん借りてきてもらって、ひたすら見ていました。好きなことが見つかればというか見つけることができれば助けになるでしょう。進路について考えたとき、地元の教育センターから紹介されたのが愛知県の私立黄柳野(つげの)高校です。不登校といった様々なバックグラウンドを抱えた生徒が全国から集まる全寮制の高校です。ずっと家にいたのに寮生活ができるのかな、と思いましたが、「このままじゃいけない」という気持ちが強かった。中3の2月に見学に行くことにしました。大阪から新幹線と在来線を乗り継ぎ、最寄り駅から20分ほどタクシーに乗って、山間部にある高校の玄関口に降り立ちました。その瞬間に吹き抜けた風が、気持ちよかったんです。「ここならやっていけるかも」と感じました。進学など環境の変化がきっかけになることは多いでしょう。最初は同年代の子との共同生活は心配でした。でも、自分と近い感情を持っている子が多く、思いを共有できたし、高校生活は楽しかったです。高校では映画鑑賞部に入り、3年生のとき、友だちとお金を出し合ってカメラを買って映画を撮り始めました。将来は映像関係の仕事につきたいと考えるようになり、大阪芸術大学映像学科に進みました。「大学に行きたい」と思えたことで一歩を踏み出すことができ、実際に進学し、自信にもなりました。自信になることを自分の手で見つけることができれば力になりますね。高校に入学した頃は「自分はダメなやつだ」と思っていました。それが、高校で先生や友人にありのままの自分を受け入れてもらって、前に進むことができたんだな、と改めて感謝しました。もっと、学校に行っている子も行っていない子も、フラットな目で見られる社会になってほしいと感じます。そんな社会なら、少なくとも中学生の自分はあんなに苦しまなくてすんだんじゃないかな。中学には行かなかったけど、いまの自分は映画を作っているし、生活もできている。そして、結果的に不登校の経験が仕事につながっています。いま、悩んでいる子には「自分に自信を持って」と伝えたいです。一人ひとりが認められ寛容な社会であれば安心して生活できるでしょう。DSC00718.JPG
たたきやすい人たちだけをたたく社会はどうなるのでしょうか[2026年02月25日(Wed)]
 47NEWS2025年8月26日付け「「外国人に生活保護」はなぜバッシングされる?誤った知識や思い込みで「現実とかけ離れた」イメージに、識者2人はどう見る」から、SNS上で、外国人の生活保護受給へのバッシングが続いている。7月の参院選では、外国人への生活保護支給停止を訴えている参政党が大幅に議席を伸ばした。しかし、選挙期間中に叫ばれた主張の中には、誤った知識や思い込みに基づくものも多かった。外国人が日本の社会保障制度を使うことに対し、「悪用される」、「日本人がないがしろにされる」というイメージや不安を抱く人が多いのはなぜだろうか。社会保障法に詳しい奥貫妃文昭和女子大教授と、外国人支援を続ける「つくろい東京ファンド」の事務局長大澤優真さんに、生活保護と外国人を巡る現状や考えを聞いた。
奥貫教授はまず、外国人に生活保護が支給されるまでの歴史的経緯を教えてくれた。  
差別の中で  
終戦後1946年に成立した旧生活保護法は、対象を「生活の保護を要する状態にある者」としていました。その後1950年に現行法が施行され、「生活に困窮するすべての国民」と「国民」という言葉が入りました。「国籍条項」と呼ばれるもので、保護は国民に限定されました。
戦後間もない頃の日本には、かつて植民地支配していた朝鮮半島や台湾から来た人たちがいました。日本臣民という形で日本人にさせられ、1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本国籍を剥奪された人たちです。すでに生活基盤は日本にあったり、朝鮮戦争が勃発したりして祖国に帰ることができず、多くの人が日本に残りました。激しい差別を受け、仕事に就くこともできず、一部の地域に集まって暮らし、目に見える形で貧困がありました。  そのような状況に、支配していた側の日本としては「知りません」という態度を貫くことができなかったのでしょう。そこで1954年、旧厚生省社会局長通知を発出し、日本人に準じる形で、行政措置として外国人にも生活保護の支給を始めました。この通知による運用が現在まで続いています。  
在留資格が限定  
通知には支給対象となる在留資格は書いてありませんでした。実際の受給者は在日韓国・朝鮮の人が多かったのですが、自治体の裁量で保護費が支給されていました。
それがバブル期、国は労働力を確保するため日系人の受け入れを拡大させました。これに伴い、生活保護申請者が急増することを懸念し、旧厚生省が1990年、 (1)永住者(特別永住者を含む) (2)定住者 (3)日本人の配偶者 (4)永住者の配偶者 (5)認定難民 という五つの在留資格や身分の人にのみ生活保護を支給できるという係長の口頭指示を出しました。こんな重大な変更を口頭指示ですること自体、法治国家としてはあるまじきことですが、そこから現在まで在留資格が限定されることとなりました。  
「外国人に保護は違法」は誤り  
SNS上には「外国人への生活保護は違法」などの投稿がありますが、誤りです。2014年の最高裁判決で、「外国人は生活保護法に基づく受給権を持たない」との判断が示されましたが、「行政措置による事実上の保護の対象となり得るにとどまる」とも言及しており、通知による保護の支給を否定していません。
厚労省は、外国人への生活保護支給は違法でも何でもなく、国が昔から今に至るまで行ってきたということを、丁寧に説明すべきです。  
今のバッシングは、判決の、雑で不確かな解釈に基づいて行われています。確かに判決内容と通知の運用は専門家でないと分かりにくいですが、それを正しく理解しているはずの政治家が、悪意をもって不正確な解釈を広めていることに憤りを感じています。  
複雑な話は、時間や精神的な余裕がないとなかなか聞いてもらえません。日本の経済状況が大きく影響し、人々に余裕がなくなっていることを感じます。実際に日々の生活の中で外国人が増えたと感じる人がいる中、「自分たちの国なのになんで出しゃばっているんだ」という感情が出てきているのではないでしょうか。排外的なことを言う政治家に磁石のように引き寄せられる人がいることに対して、私自身何ができるのか、日々突きつけられ、考えさせられています。  
制度の「担い手」
日本は1979年に国際人権規約を批准し、1981年には難民条約に加入しました。難民条約では、社会保障には国籍や人種で差異をもうけてはならないとされており、年金や健康保険は国籍条項が撤廃されました。しかし、生活保護については1954年の通知ですでに外国人に保護が支給されているとして、国籍条項が撤廃されませんでした。  
たとえば日本生まれ、日本育ちの永住者でも、保護を受ける権利はないと言われるのはどう考えてもおかしいと思います。通知と国籍条項をなくし、外国人にも日本人と同様に法的権利として生活保護の適用を認めるべきです。でもまずは経過措置として、滞在期間の要件をつけるところから国民の理解を得ていくのが現実的な方法かもしれません。  
日本は歩みが遅いながらも、戦後80年、国際協調主義の道を進んできました。外国人への保護停止などの主張は、それを真っ向から否定する動きです。政治家が歴史を知らない恐ろしさを感じています。外国人を労働力として呼び寄せておきながら、病気になるなどさまざまな事情で生活できなくなったら、「知らない」という国でいいのでしょうか。
外国人のこととなると、国民健康保険や生活保護など社会保障制度の「使い手」の側面ばかりが強調され、「担い手」である側面は消えてしまいます。しかし、外国人も税金や社会保険料を支払っている制度の担い手です。少子高齢化が深刻化する中、年金や健康保険制度などの維持のためにも、外国人が老後まで過ごしたいと思える体制を整えることが重要です。ヒューマニズムだけでなく、リアリズムの視点からも、外国人が安心して住める制度にしていくべきではないでしょうか。  
奥貫妃文(おくぬき・ひふみ) 昭和女子大福祉社会学科教授。共著に「生きのびるための社会保障入門」、「移民政策とは何か」など。  
次に大澤優真さんだ。生活保護制度の研究者でもある大澤さんのもとには、困窮する外国人からの相談がひっきりなしにやってくる。役所の窓口や病院に同行することも多いが、在留資格の有無や種類によって、何の支援も受けられない人が大半だ。彼らをどう救えるのか日々頭を抱え、奔走する。SNS上で語られる外国人のイメージが現実とかけ離れていると指摘する。  
「保護でぜいたく」あり得ない
まず、生活保護の利用申請ができる永住や定住といった在留資格の人は、日本に在留する外国人の半数以下です。技能実習や留学などの在留資格を持つ半数以上の外国人は、生活が困窮しても使える制度がほぼありません。日本で暮らしていくには親族やコミュニティーの支援に頼る以外、手段がないのが現状です。私が主に支援している在留資格のない仮放免の人たちは、本当にどうすることもできず、ホームレスになったり、病気になっても病院に行けなかったり、命の危険にさらされています。  
生活保護が利用できる在留資格の人でも、出入国在留管理庁が資格の更新をしなかったり、在留期間を短縮したりするのではないかと恐れ、申請しないケースが多くあります。入管の在留資格変更に関するガイドラインに、日常生活において公共の負担となっていないかを考慮するとの記載があるためです。また日本人以上にスティグマを感じ、申請をためらう人もいます。  
SNS上には、日本にぱっと来て、すぐに生活保護を受給してぜいたくな暮らしをしている外国人が多数存在するかのような投稿がありますが、現場から見てありえません。それが本当なら私の仕事は暇になっているはずですが、全くその逆です。
間違いだらけのイメージ  
「外国人に保護を支給すると、保護目当ての外国人がたくさん日本にやってくる」という投稿も見かけますが、統計上そうなっていません。日本に働きに来る外国人は、働いて少しでも多くの収入を得たい人が多いように感じています。一般的な生活保護費は暮らしている場所にもよりますが、1人暮らしの場合月約10万円前後で、家賃や生活費を払ったら、ほとんど手元に残りません。生活保護を受給するより働きたいんですという訴えもよく受けます。そもそもの外国人のイメージが間違っています。  
外国人への生活保護が日本財政を逼迫させているとの主張もありますが、23年度の受給世帯は165万478世帯で、うち世帯主が外国人のケースは4万7317世帯と全体の2・9%で、生活保護財政に与える影響は小さなものです。  
外国人は受給者の国籍別でみると、韓国・朝鮮、フィリピンの割合が高くなりますが、それは在日韓国・朝鮮の人が植民地主義政策のもとで差別され、公的年金制度からも排除されてきたからです。フィリピンの人は日本人配偶者と離婚した母子家庭が多いなどの特徴があり、歴史的、構造的な貧困が背景にあります。
「たたきやすい人」  
外国人の生活保護を巡っては2010年代初めに、「在日特権」であるというデマが流され、バッシングに利用されました。2020年のコロナ禍以降、再びバッシングが強くなった印象です。参院選では外国人政策が主要な論点となりましたが、外国人は人口比率でみても3%弱です。日本社会全体の社会保障や税金の使い道のほうが、もっと大きな論点だったのではないでしょうか。政治家が流行にのって、票を取りたいために「外国人優遇」などとはちゃめちゃなことを言っていると感じます。  
生活保護が停止されれば、現在利用している約6万5千人が、次の日には生活できなくなるということです。国際的な人権保護ルールである国際人権規約などを批准している日本がしていいことなのでしょうか。2007年に北九州市で生活保護を打ち切られた男性が、「おにぎりが食べたい」と書き残して亡くなっているのが見つかりましたが、同様の事件がまた起きてしまうのではないかと危惧しています。現場のリアリティーを政治家たちが理解していません。
 日本の経済・社会状況が不安定で先が見えない中、有権者でもなく声を上げられない、なされるがままの弱い立場の外国人をたたいているのでしょう。たたきやすい人を攻撃しているだけで、この先他のマイノリティーや高齢者にその矛先が向かうのではないでしょうか。  
外国人が日本からいなくなれば、人手不足で成り立たない産業がたくさんあります。外国人を生活保護から排除して、日本人は助かったり、豊かになったりするのでしょうか。議論するのはいいのですが、正しいデータや情報に基づくべきで、デマや不確かなことを広めるのはやめてもらいたいです。一度立ち止まり、冷静に事実関係や数字を見てほしいと思います。DSC00721.JPG

 戦後間もない頃の日本には、かつて植民地支配していた朝鮮半島や台湾から来た人たちがいました。日本臣民という形で日本人にさせられ、1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本国籍を剥奪された人たちです。すでに生活基盤は日本にあったり、朝鮮戦争が勃発したりして祖国に帰ることができず、多くの人が日本に残りました。激しい差別を受け、仕事に就くこともできず、一部の地域に集まって暮らし、目に見える形で貧困がありました。  そのような状況に、支配していた側の日本としては「知りません」という態度を貫くことができなかったのでしょう。そこで1954年、旧厚生省社会局長通知を発出し、日本人に準じる形で、行政措置として外国人にも生活保護の支給を始めました。この通知による運用が現在まで続いています。通知には支給対象となる在留資格は書いてありませんでした。実際の受給者は在日韓国・朝鮮の人が多かったのですが、自治体の裁量で保護費が支給されていました。それがバブル期、国は労働力を確保するため日系人の受け入れを拡大させました。これに伴い、生活保護申請者が急増することを懸念し、旧厚生省が1990年、 (1)永住者(特別永住者を含む) (2)定住者 (3)日本人の配偶者 (4)永住者の配偶者 (5)認定難民 という五つの在留資格や身分の人にのみ生活保護を支給できるという係長の口頭指示を出しました。こんな重大な変更を口頭指示ですること自体、法治国家としてはあるまじきことですが、そこから現在まで在留資格が限定されることとなりました。2014年の最高裁判決で、「外国人は生活保護法に基づく受給権を持たない」との判断が示されましたが、「行政措置による事実上の保護の対象となり得るにとどまる」とも言及しており、通知による保護の支給を否定していません。まずはしっかり事実関係を知らなければなりません。厚労省は、外国人への生活保護支給は違法でも何でもなく、国が昔から今に至るまで行ってきたということを、丁寧に説明すべきです。日本は1979年に国際人権規約を批准し、1981年には難民条約に加入しました。難民条約では、社会保障には国籍や人種で差異をもうけてはならないとされており、年金や健康保険は国籍条項が撤廃されました。しかし、生活保護については1954年の通知ですでに外国人に保護が支給されているとして、国籍条項が撤廃されませんでした。国はなぜ丁寧に説明しないのでしょう。日本は歩みが遅いながらも、戦後80年、国際協調主義の道を進んできました。外国人への保護停止などの主張は、それを真っ向から否定する動きです。政治家が歴史を知らない恐ろしさを感じています。外国人を労働力として呼び寄せておきながら、病気になるなどさまざまな事情で生活できなくなったら、「知らない」という国でいいのでしょうか。いいはずがないでしょう。外国人のこととなると、国民健康保険や生活保護など社会保障制度の「使い手」の側面ばかりが強調され、「担い手」である側面は消えてしまいます。しかし、外国人も税金や社会保険料を支払っている制度の担い手です。少子高齢化が深刻化する中、年金や健康保険制度などの維持のためにも、外国人が老後まで過ごしたいと思える体制を整えることが重要です。ヒューマニズムだけでなく、リアリズムの視点からも、外国人が安心して住める制度にしていくべきではないでしょうか。外国人と共生できる社会でなければこれから働く人が不足するだけでなく社会の活力が失われ大変な事態に陥っていく可能性があるでしょう。外国人への生活保護が日本財政を逼迫させているとの主張もありますが、23年度の受給世帯は165万478世帯で、うち世帯主が外国人のケースは4万7317世帯と全体の2・9%で、生活保護財政に与える影響は小さなものです。外国人は受給者の国籍別でみると、韓国・朝鮮、フィリピンの割合が高くなりますが、それは在日韓国・朝鮮の人が植民地主義政策のもとで差別され、公的年金制度からも排除されてきたからです。フィリピンの人は日本人配偶者と離婚した母子家庭が多いなどの特徴があり、歴史的、構造的な貧困が背景にあります。生活保護が停止されれば、現在利用している約6万5千人が、次の日には生活できなくなるということです。国際的な人権保護ルールである国際人権規約などを批准している日本がしていいことなのでしょうか。日本の経済・社会状況が不安定で先が見えない中、有権者でもなく声を上げられない、なされるがままの弱い立場の外国人をたたいているのでしょう。たたきやすい人を攻撃しているだけで、この先他のマイノリティーや高齢者にその矛先が向かうのではないでしょうか。外国人が日本からいなくなれば、人手不足で成り立たない産業がたくさんあります。外国人を生活保護から排除して、日本人は助かったり、豊かになったりするのでしょうか。議論するのはいいのですが、正しいデータや情報に基づくべきで、デマや不確かなことを広めるのはやめてもらいたいです。一度立ち止まり、冷静に事実関係や数字を見てほしいと思います。外国人に優しくない国は国民一人ひとりに対して優しい国とはならないでしょう。日本に住む外国人を含めて一人ひとりが安心して生活できる社会を創り上げていくことが大事でしょう。DSC00720.JPG
腸内細菌のありようにも長寿のかぎ[2026年02月24日(Tue)]
 Re.ライフ.net2025年8月25日付け「百寿者が多い京丹後市から、最新の老化研究を発信 「第1回世界長寿サミット」腸内細菌のありようにも長寿のかぎ」から、百寿者(100歳以上の人)の割合が、全国平均の約3倍という京丹後市。同市の京都府丹後文化会館で、「第1回世界長寿サミット」が6月16日〜19日まで開催されました。期間中の18日には市民公開講座も開かれ、大阪観光局と全国11の自治体でつくる「健康・美・長寿推進協議会」のシンポジウム、健康長寿のための医師の講演などが行われました。  
7月9日には、東京都内で、京都府立医科大学大学院教授の内藤裕二さんらが勉強会を開き、4日間にわたるサミットの概要を記者らに報告。「老化は病気で、治療もできるのではないか」とする世界的な研究の流れや「生物学的年齢」などについて解説しました。
「生物学的年齢」の観点から老化対策にアプローチ 内藤裕二教授が世界的な研究の流れを解説
記者らを集めて都内で開かれた勉強会では、京都府立医科大学大学院教授の内藤さんが「第1回世界長寿サミットを終えて〜サミット宣言を解説する〜」をテーマに、4日間の議論の概要を紹介しながら、最新の研究成果などについて話しました。  
まず、「老化は病気で、治療もできるのではないか」とする、ここ数年の老化の概念変化が世界的に広まっていることを紹介。老化の指標については以前は9つが示されていましたが、2023年以降はディスバイオーシス(腸内細菌叢が乱れた状態)や慢性炎症などが加わって12項目となり、「統合的に老化を解決していく時代になっている」と説明しました。
ここ数年、生まれてからの実際の年齢である「暦年齢」ではなく、生物としてどれくらい加齢が生じているかの「生物学的年齢」に注目が集まっています。暦年齢は同じ50歳でも、見た目や体の機能は70歳の人もいれば40歳の人もいる。生物学的年齢は違うわけです。
これについて内藤さんは「生物学的年齢がわかれば、特定の介入をすることで若返ることも可能ではないか、という時代が来ている」と説明。例えば、砂糖を1g取ると生物学的には0.02歳老けること示すデータがあり、糖類を控えめにした食生活にすることで、生物学的年齢が若くなるかもしれない、としました。  
今、世界中で、心臓や腎臓など各臓器の生物学的年齢を、血しょうのプロテオーム解析で解明しようという流れがある、とも指摘。「臓器特異的なタンパク質を特定し、そのタンパク質を追いかけることで、例えば『あなたの心臓の老化が進んでいます』というようなことが見えてくる可能性がある」と臓器別の老化評価をめざす研究のことも報告しました。
長寿者多い京丹後地方の住民の研究にも言及
 今回の「長寿サミット」では、市民公開講座も開かれ、健康長寿の取り組みを地域活性化につなげている自治体の首長らが参加しました。内藤さんは「このサミットは、いろいろな面で複雑な長寿対策を議論する場となった」と振り返ります。  
この公開講座では、京丹後地方の人たちを研究対象とする「京丹後長寿コホート研究」に関わっている医師の講演もありました。この研究は、百寿者の割合が全国平均の約3倍という京丹後市の住民の健康データを集め、長寿と生活習慣の関係を明らかにするもので、2017年から始まっています。  
これまでの研究から、京丹後の高齢者は全国平均よりも血管年齢が若く、運動習慣を持つ人が多く、腸内でいい働きをする酪酸をつくる「酪酸産生菌」も多いことがわかっています。  
内藤さんは「フレイル(虚弱)の予防のためには、酪酸産生菌や、酪酸産生菌をサポートする食物繊維の摂取が重要。酪酸産生菌は免疫にも重要な役割をしていると考えられ、この菌が少ない人ほど、感染症による入院や死亡率が高いことを示すデータもある」と説明しました。  
この他に、長寿に関与する因子として注目されているのが、持続的幸福度(フラーリッシュ)です。例えば、病気で治療をしていても幸せな人生が大事という考え方です。  
内藤さんは、2025年に学術誌に発表された「グローバル幸福度調査」で22カ国中、日本が最下位だったことに触れ「長寿の目的も、幸せをキーワードにする必要があるのではないかと思う」と話しました。  
内藤さんが概要を説明した市民公開講座の内容については、この記事の後半で詳しく紹介します。
世界長寿サミット宣言 
コミュニケーション、食物繊維、運動、生きがいの大切さを柱に
内藤さんは最後に、サミットで骨格を決定して現在具体的な文案を作成中の「世界長寿サミット宣言」の4つの柱を紹介しました。  
「Kizuna」と「Ikigai」は、京丹後の人たちが特に大事にしている要素で、日本語のまま英語で表記されています。
Kizuna:絆を育み、コミュニケーションを絶やさないこと。
Dietary fiber:植物性たんぱく質や食物繊維の豊富な食事を、仲間と共に楽しむこと。 Physical activity:規則正しい生活と運動習慣を日々の暮らしに取り入れること。
Ikigai:感謝の心をもち、生きがいを感じる毎日を大切にすること。
ビフィズス菌の健康長寿サポートを説明
 続いて、森永乳業株式会社研究本部フェローの阿部文明さんが「健康長寿社会を目指すビフィズス菌の役割」と題してレクチャーをしました。  
世界では、老化の速度を指す「ペースオブエイジング」という概念が注目されているとし、人によって1年で0.4歳しか年を取らない人もいれば、2.4歳も進む人もいて約6倍も違う、という研究を紹介しました。  
先に内藤さんは老化の12の指標として腸内菌叢の不均衡などを挙げましたが、阿部さんはこの12の指標のうち、ビフィズス菌によって改善の可能性がある項目が多くあると強調しました。
近年、脳と腸が迷走神経などで結ばれ互いに影響を与え合う「脳腸相関」も注目されています。  
阿部さんは森永乳業による軽度認知障害(MCI)の人を対象にしたビフィズス菌の臨床試験で、認知機能スコアに改善が認められたことを報告。「ビフィズス菌を使ってペースオブエイジングをゆるやかにし、健康に貢献していきたい」と締めくくりました。
長寿サミット市民公開講座詳報 〜京丹後市地方の長寿の理由を多角的に分析
 内藤さんが「勉強会」で概要を語った6月16日〜19日の「第1回世界長寿サミット」では、18日に市民公開講座(https://glm-p.com/wls2025/doc/shimin.pdf)が開かれました。「健康・美・長寿推進協議会」のシンポジウム、百寿者が多い京丹後市の、高齢者の日常生活における生活活動、食生活、腸内細菌の特長をスライドで示した医師らの講演などの様子を紹介します。
「健康・美・長寿推進協議会」のシンポジウムでは、ゲスト講演として、厚生労働省健康・生活衛生局総務課長の吉田一生さんが「人生100年時代 健康寿命の延伸に向けて」と題して講演しました。健康寿命とは、健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間のことです。  
この健康寿命と平均寿命の差を縮めることが課題、という吉田さん。健康寿命を延ばすためには「栄養摂取や運動とともに、老人クラブ、ボランティア、町内会、スポーツなどの社会参加が大事。就労することも、身体的活動不足や社会的孤立を防げる」と指摘したうえで、後期高齢者が野菜栽培の仕事に取り組み、要介護認定率が低い地域の事例なども紹介しました。
全国11の自治体が連携し“幸福長寿”をめざす
 「健康・美・長寿推進協議会」は、「心身ともにより健康で美しく。そして、長寿に、幸福寿命を延ばそう!」の理念のもと、2024年8月に発足。健康長寿の魅力を観光振興や地域経済の活性化につなげることをめざし、現在、11の自治体が参加しています(参加自治体:福島県田村市、長野県山ノ内町、京都府京丹後市、三重県多伎町、大阪府泉大津市、大阪府泉南市、広島県神石高原町、大田県竹田市、大分県由布市、鹿児島県伊仙町、沖縄県北中城村)。   
今回のシンポジウムでは、このうち8つの自治体の首長らが、地域の強みを生かした健康長寿に関する取り組みを紹介しました。  
同協議会の会長で京丹後市長の中山泰さんは、京都府立医科大学と連携して健康長寿の秘訣を探る疫学調査「京丹後長寿コホート研究」を実施し、検査を受けた市民が1000人を超えたことに触れ、この研究が世界長寿サミット開催につながったと話しました。  
「本市は百寿率が高く、さらに男性の世界最高齢(116歳)でギネス記録を持つ木村次郎右衛門さんが生まれ育ったところ。長寿社会を喜び感謝し、いくつになっても元気でいろいろな活動ができる社会づくりをしていきたい」といい、協議会の自治体と連携して健康長寿のロールモデルとなるような取り組みをしていく考えを示しました。  
長野県山ノ内町長の平澤岳さんは、人口約1万1000人の町に100歳以上の人が22人いることを紹介。「山ノ内町は標高が高く、温泉やスキー、果樹とキノコ栽培が盛ん。果物やキノコをよく食べるのが長寿の秘訣だと思う」と話し、80歳を過ぎても自宅を兼ねた宿泊施設を運営したり、農業に従事したりして働く人が多いことを伝えました。
またシンポジウムの最後には、京丹後市長の中山さんが第1回健康・美・長寿シンポジウム「京丹後宣言」を発表しました。
京丹後宣言は、 1.「健康・美・長寿」を、日本と地域のブランドとして確立し、“世界のウェルネス・幸福長寿”の発展に貢献しよう 2.「健康・美・長寿」により、健康長寿とともに“幸福長寿”を推進し、住民の笑顔と喜びあふれるウェルビーイング豊かなまちづくりを発展させよう 3.全人類の願いである「健康・美・長寿」の体験ニーズの高まりに多彩に応え、大阪・関西万博を活用し、観光と交流のまちづくりにより、日本と世界に貢献しよう 4.本協議会のつながりを強固なものとし、活動を促進させよう の4つから構成されています。  
2026年には、次回のシンポジウムが長野県山ノ内町で開催される予定です。
医師が長寿研究の成果をアドバイス 「社会的なつながりや感謝の気持ち」「口の健康を保つ」
 市民公開講座では、続いて、「京丹後長寿コホート研究」に関わった京都府立医科大学の4人の医師が講演しました。  
同大学大学院教授(精神医学)の成本迅さんは「こころと脳を守る暮らし方:認知症とうつの予防のために」との題で話しました。  
認知症の予防には、発症の予防、進行を遅らせる、日常生活への影響をできる限り減らすという3つがあることを説明。社会的なつながりや人に感謝する気持ちを持つ頻度が高い人ほど、認知症やうつになるリスクが低いことがわかっているといいます。  
「京丹後市の人たちは、畑に出て近所の人と話したり、近所の家に順番に集まってお喋りしたりする文化が根づいている。このような社会的接触を保つことはうつを予防し、結果として認知症の予防にもつながる」と強調しました。  
京都府立医科大学大学院講師<病院准教授>(歯科口腔科学)の山本俊郎さんの講演テーマは「ハミガキとだ液のチカラで健口に!」。  
唾液には、食べ物を分解したり虫歯を予防したりするなどの働きがありますが、加齢によって唾液の量が減り、成分が劣化していきます。そのため、「歯間ブラシと歯ブラシを使った歯磨きや、唾液腺のマッサージなどで唾液量を増やすことをまずしていただきたい」と口を健やかに保つ方法を伝えました。
「生活活動でよく動き、座っている時間を減らす」
次に登壇した京都府立医科大学大学院客員講師(リハビリテーション医学)の新庄浩成さんは「歩く、動く、元気になる〜京丹後の調査からわかった長寿のヒント〜」と題して講演しました。  
最近は、体を動かす「身体活動」を増やし、座ってじっとしている「座位行動」を減らすことが、健康寿命を延ばすのに重要と考えられています。  
「京丹後長寿コホート研究」に参加した727人に小型の測定機器を1週間装着してもらったところ、京丹後の人は東京、福岡の人と比べて男女とも座位行動の時間が少なく、低強度身体活動(草木の水やり、ゆっくり歩くなど少しだけ体を動かす活動)と、中高強度身体活動(やや早歩き、畑仕事などしっかり体を動かす活動)が多いことが認められました。
京丹後の人と他の地域の高齢者で握力と最大歩行速度を比べた場合でも、京丹後の人の方が優れているという結果も得られました。  
また、これまでに行なった100歳以上のアンケート調査では、長寿の秘訣を「食事や体を動かすこと」と答えた人たちが、88歳の時に行なっていた身体活動の多くが、畑仕事や散歩だったこともわかっています。  
こうした調査を踏まえて、「京丹後の人は、生活活動の中でよく体を動かし、中高強度身体活動が多く、筋肉がしっかり維持できている。サルコペニア(加齢による筋力の低下、筋肉量の減少)や糖尿病などの代謝性疾患などの予防につながり、健康長寿者が多いと考えられる」と新庄さんは報告しました。
「食物繊維を積極的に摂り、腸内細菌を育む」
最後は、京都府立医科大学大学院准教授(医療フロンティア展開学・消化器内科学)の木智久さんが「腸内細菌・食から考える健康長寿」との題で講演しました。  
京丹後市と京都市内の65歳以上の腸内細菌の様子(腸内細菌叢)を比較したところ、京丹後市の住民で増え、京都市内の住民にはあまり見られない菌があることがわかりました。  ファーミキューテス門ラクノスピラ科という菌で、食物繊維から体の健康を守るのに重要な短鎖脂肪酸を作ります。食事について調べると、京丹後市の人は、野菜、海藻、全粒穀類、果物からの食物繊維の摂取が日常的に多い特長がありました。
「私たち人間は食物繊維を分解して利用する酵素を持っておらず、その働きをするのが腸内細菌。京丹後市の皆さんは、食物繊維をうまく活用できる腸内細菌が多い。腸内細菌に食物繊維を食べさせ、腸内細菌を育むことが長寿の秘訣と考える。世界保健機関(WHO)が推奨する、1日25グラム以上の食物繊維を摂取してほしい」と強調しました。なかでも、日本人に不足している穀類や淡色野菜、豆類を積極的に摂ることを勧めました。DSC00723.JPG

 「老化は病気で、治療もできるのではないか」とする、ここ数年の老化の概念変化が世界的に広まっていることを紹介。老化の指標については以前は9つが示されていましたが、2023年以降はディスバイオーシス(腸内細菌叢が乱れた状態)や慢性炎症などが加わって12項目となり、「統合的に老化を解決していく時代になっている」と説明しました。ここ数年、生まれてからの実際の年齢である「暦年齢」ではなく、生物としてどれくらい加齢が生じているかの「生物学的年齢」に注目が集まっています。暦年齢は同じ50歳でも、見た目や体の機能は70歳の人もいれば40歳の人もいる。生物学的年齢は違うわけです。「フレイル(虚弱)の予防のためには、酪酸産生菌や、酪酸産生菌をサポートする食物繊維の摂取が重要。酪酸産生菌は免疫にも重要な役割をしていると考えられ、この菌が少ない人ほど、感染症による入院や死亡率が高いことを示すデータもある」コミュニケーション、食物繊維、運動、生きがいの大切さを柱に、内藤さんは最後に、サミットで骨格を決定して現在具体的な文案を作成中の「世界長寿サミット宣言」の4つの柱を紹介しました。「Kizuna」と「Ikigai」は、京丹後の人たちが特に大事にしている要素で、日本語のまま英語で表記されています。Kizuna:絆を育み、コミュニケーションを絶やさないこと。Dietary fiber:植物性たんぱく質や食物繊維の豊富な食事を、仲間と共に楽しむこと。 Physical activity:規則正しい生活と運動習慣を日々の暮らしに取り入れること。Ikigai:感謝の心をもち、生きがいを感じる毎日を大切にすること。長寿の方法を理解して実践すれば長生きできるのでしょうか。脳と腸が迷走神経などで結ばれ互いに影響を与え合う「脳腸相関」も注目されています。健康寿命を延ばすためには「栄養摂取や運動とともに、老人クラブ、ボランティア、町内会、スポーツなどの社会参加が大事。就労することも、身体的活動不足や社会的孤立を防げる」と指摘したうえで、後期高齢者が野菜栽培の仕事に取り組み、要介護認定率が低い地域の事例なども紹介しました。「山ノ内町は標高が高く、温泉やスキー、果樹とキノコ栽培が盛ん。果物やキノコをよく食べるのが長寿の秘訣だと思う」京丹後宣言は、 1.「健康・美・長寿」を、日本と地域のブランドとして確立し、“世界のウェルネス・幸福長寿”の発展に貢献しよう 2.「健康・美・長寿」により、健康長寿とともに“幸福長寿”を推進し、住民の笑顔と喜びあふれるウェルビーイング豊かなまちづくりを発展させよう 3.全人類の願いである「健康・美・長寿」の体験ニーズの高まりに多彩に応え、大阪・関西万博を活用し、観光と交流のまちづくりにより、日本と世界に貢献しよう 4.本協議会のつながりを強固なものとし、活動を促進させよう の4つから構成されています。認知症の予防には、発症の予防、進行を遅らせる、日常生活への影響をできる限り減らすという3つがあることを説明。社会的なつながりや人に感謝する気持ちを持つ頻度が高い人ほど、認知症やうつになるリスクが低いことがわかっているといいます。「京丹後市の人たちは、畑に出て近所の人と話したり、近所の家に順番に集まってお喋りしたりする文化が根づいている。このような社会的接触を保つことはうつを予防し、結果として認知症の予防にもつながる」と強調しました。京丹後市と京都市内の65歳以上の腸内細菌の様子(腸内細菌叢)を比較したところ、京丹後市の住民で増え、京都市内の住民にはあまり見られない菌があることがわかりました。  ファーミキューテス門ラクノスピラ科という菌で、食物繊維から体の健康を守るのに重要な短鎖脂肪酸を作ります。食事について調べると、京丹後市の人は、野菜、海藻、全粒穀類、果物からの食物繊維の摂取が日常的に多い特長がありました。腸内細菌に食物繊維を食べさせ、腸内細菌を育むことが長寿の秘訣と考える。世界保健機関(WHO)が推奨する、1日25グラム以上の食物繊維を摂取してほしい」と強調しました。なかでも、日本人に不足している穀類や淡色野菜、豆類を積極的に摂ることを勧めました。いろいろな地域での健康づくりの取り組みが広まっていけば健康に長生きができる人が増えるのではないでしょうか。DSC00722.JPG
地球温暖化の中で可能性を追い求めなければならないのでは[2026年02月23日(Mon)]
 婦人公論.JP2025年8月25日付け「「地球沸騰の時代」コシヒカリの高温障害、リンゴやミカンの栽培適地が北上…。一方で、栽培が難しかった<熱帯果樹>が普及する可能性も」から、農林水産省によると、令和6年の基幹的農業従事者の平均年齢は69.2歳で、高齢化が進行しています。そのようななか、ジャーナリストの山口亮子さんは「すでに始まっている『大量離農』により、農業地図が大きく塗り替わろうとしている」と話します。そこで今回は、山口さんの著書『農業ビジネス』から、農業現場の実情と最新事例を一部ご紹介します。
「一等米」比率が過去最低に 2023年の猛暑の影響で、米どころの新潟や東北を中心に米粒が白く濁ったり割れたりする高温障害が起きました。新米で最も等級の高い「一等米」の比率は、過去最低を記録し、関係者に衝撃を与えました。
その一因となったと考えられるのが、ブランド米の代表格であるコシヒカリが猛暑に弱いことです。コシヒカリは、もっちりした粘りと甘味、粒のつや感などに優れ、おいしい一方、病気にかかりやすくて倒れやすいといった欠点も多い品種です。全国で生産されるコメの作付面積の3分の1を占めます。
日本経済新聞によると、23年の猛暑を受けて17県が「コシヒカリ」の栽培を減らす意向を示しました(「『コシヒカリ離れ』猛暑で進む 24年は17県で減産意向」24年3月10日)。 JA全農にいがたはコシヒカリをやや減らし、代わりに高温に強い品種「新之助」を増産する方針を24年3月に公表しています。
とはいえ、高温に強い耐性品種が全国の作付面積に占める割合は、16.2%(2024年)に留まり、動きはまだ鈍いです。
地球沸騰の時代 23年7月は世界の平均気温が最高を更新し、「史上最も暑い月」になりました。これを受けて国連のグテーレス事務総長は、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰の時代が到来した」と警告を発しました。
世界の平均気温は、今後も上がり続けると予想されています。産業革命前と比べてすでに1.1度上昇しており、2030年代に1.5度の上昇、21世紀末には3.2度の上昇に達する可能性が高い。「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が23年3月に出した最新の報告書は、こう指摘しています。 気象庁はIPCCの気温上昇のシナリオを踏まえ、21世紀末の日本の姿を次のように予測しています。
平均気温は上がり、多くの地域で猛暑日や熱帯夜が増え、冬日が減少。大雨や短時間強雨、いわゆるゲリラ豪雨の発生頻度や強さは増し、猛烈な台風が増える−−というのです。
北上するリンゴとミカン
温暖化による影響では水稲のほかに、高温によるリンゴやブドウの着色不良も深刻です。病虫害の発生する地域が広がる可能性もあります。コメや果樹などさまざまな作物で、高温に耐えられる品種の開発と普及が急がれています。
猛暑で2年連続で供給量が減り、値上がりが続くリンゴについては、標高の高い地帯で果樹園の整備を進める国の方針もあります。
農研機構は2002年という早い時期に「地球温暖化によるリンゴ及びウンシュウミカン栽培適地の移動予測」という研究成果を出しています。気温の上昇により栽培適地が徐々に北上し、2060年代には今の主要な産地の多くが気候の面で栽培に向かなくなるかもしれない。そんな衝撃的な予測内容でした。
ウンシュウミカンを例にとると、現在は栽培適地である四国や九州の低地は2060年代には適地より高温になってしまうとの予測結果が出ています。逆に適地ではなかった北関東や南東北が適地になると予測されています。
熱帯果樹が普及するか 既存の農産物の生産適地が北上する一方、国内で栽培が難しいと考えられてきた作物が普及する可能性も出てきました。やはり農研機構が25年3月に発表した成果に「温暖化に対応したミカンとアボカドの適地予測マップ」があります。これによると、現在はごく一部に限られるアボカドの適地が今世紀末には北日本を除く沿岸部に拡大しそうです。
愛媛県の松山市は、アボカドを新たな名物にしようと、全国に先駆けてアボカドの産地づくりをしてきました。
同県八幡浜市で柑橘類を生産する株式会社柑高地の梶谷光弘さんは、オーストラリア原産の熱帯果樹「キャビアライム」(フィンガーライム)の栽培を始めました。輪切りにすると、プチプチとした中身が現れ、まるでキャビアのようです。柑橘類ですが山椒のような清涼感が味わえるのが特徴で、料理のアクセントや、炭酸水やカクテルに粒を浮かべるなどして使えます。
今後も珍しい野菜や果物が次々日本産として登場し、私たちの食卓を賑わせてくれるのかもしれません。DSC00726.JPG

 地球温暖化を肯定する訳ではありませんが、当たり前になってしまった異常気象を受け入れて生活しなければならないとすれば、地球温暖化の影響を受けた状況を受け止めいろいろな分野で可能性を模索していかなければならないのではないでしょうか。高温に強い耐性品種が全国の作付面積に占める割合は、16.2%(2024年)に留まり、動きはまだ鈍いです。地球沸騰の時代 23年7月は世界の平均気温が最高を更新し、「史上最も暑い月」になりました。これを受けて国連のグテーレス事務総長は、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰の時代が到来した」と警告を発しました。世界の平均気温は、今後も上がり続けると予想されています。産業革命前と比べてすでに1.1度上昇しており、2030年代に1.5度の上昇、21世紀末には3.2度の上昇に達する可能性が高い。「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が23年3月に出した最新の報告書は、こう指摘しています。気象庁はIPCCの気温上昇のシナリオを踏まえ、21世紀末の日本の姿を次のように予測しています。平均気温は上がり、多くの地域で猛暑日や熱帯夜が増え、冬日が減少。大雨や短時間強雨、いわゆるゲリラ豪雨の発生頻度や強さは増し、猛烈な台風が増えるというのです。覚悟を決めて発想の転換を図りプラス思考で可能性を信じて前に着き進むしかないでしょう。ウンシュウミカンを例にとると、現在は栽培適地である四国や九州の低地は2060年代には適地より高温になってしまうとの予測結果が出ています。逆に適地ではなかった北関東や南東北が適地になると予測されています。熱帯果樹が普及するか 既存の農産物の生産適地が北上する一方、国内で栽培が難しいと考えられてきた作物が普及する可能性も出てきました。やはり農研機構が25年3月に発表した成果に「温暖化に対応したミカンとアボカドの適地予測マップ」があります。これによると、現在はごく一部に限られるアボカドの適地が今世紀末には北日本を除く沿岸部に拡大しそうです。愛媛県の松山市は、アボカドを新たな名物にしようと、全国に先駆けてアボカドの産地づくりをしてきました。同県八幡浜市で柑橘類を生産する株式会社柑高地の梶谷光弘さんは、オーストラリア原産の熱帯果樹「キャビアライム」(フィンガーライム)の栽培を始めました。輪切りにすると、プチプチとした中身が現れ、まるでキャビアのようです。柑橘類ですが山椒のような清涼感が味わえるのが特徴で、料理のアクセントや、炭酸水やカクテルに粒を浮かべるなどして使えます。今後も珍しい野菜や果物が次々日本産として登場し、私たちの食卓を賑わせてくれるのかもしれません。逆境を乗り越え農業が盛り上がっていくように知恵とアイデアを出し合って前進することが大事でしょう。DSC00725.JPG
アフリカへの投資を増やすことが大事では[2026年02月22日(Sun)]
 Science Portal2025年8月25日付け「日本の小麦をもとにスーダンで品種改良―内戦・コロナ禍を乗り越えて、辻本壽さん」から、横浜市で開催されていた第9回アフリカ開発会議(TICAD9)が22日閉幕した。近年のアフリカでは中国など諸外国からの投資が盛んな一方で、日本は相対的な存在感低下が指摘される。政府開発援助(ODA)の全体予算もピーク時の半分まで落ち込んでいるが、TICADの成果文書「横浜宣言」ではAIや医薬品分野などで日本がアフリカの発展へ貢献する意欲が示された。  
そこで今回、これまでにアフリカで大きな貢献を果たしてきた研究事例を取材した。気候変動や紛争などにより世界中で小麦生産が大きな危機に直面する中、スーダンで日本の小麦をもとにした品種改良が進んでいる。食糧危機は政情不安へとつながる恐れもあり、この研究は平和にも貢献するものだ。これまでの歩みを伺うため、プロジェクトを率いた辻本壽さん(鳥取大学乾燥地研究センター特任教授)のもとを訪ねた。
世界的な功績を学び、45年にわたり研究
鳥取大学にある乾燥地研究センターは、日本で唯一の乾燥地研究の拠点だ。乾燥地とは、降雨量より蒸発する水の量が多い乾燥した土地のことで、世界の陸地面積の4割を占め、世界人口の35%が暮らす。日本はアフリカを含む世界中の乾燥地から多くの食糧やエネルギーを輸入する。つまり気候変動に伴う乾燥地の砂漠化や干ばつは、日本にも影響が及びかねない。そこで乾燥地研究センターでは、乾燥地の持続可能な開発に向けた研究を行っている。
 ここで小麦の品種改良に取り組むのが辻本さんだ。約45年にわたり小麦の研究に携わっている。小麦は世界の主要穀物の一つであり、乾燥地で栽培される代表的な作物だ。小麦の研究において日本は、著名な遺伝学者だった故木原均博士が祖先種を発見するなど、実は世界的な功績を残してきた。大学で育種学を学んでいた辻本さんは、指導教官から木原博士の教えを学んだことがきっかけで小麦研究の道を選んだ。
2015年に現地で実証実験を開始
卒業後は横浜市立大学木原生物学研究所で小麦のDNA解析などの研究を進めていたが、2002年に鳥取大学農学部の教授に就任したことがターニングポイントとなった。100年の歴史を持つ同大農学部は、伝統的に麦類の研究が盛んなことで知られている。2011年からは、長年海外の研究施設と連携する乾燥地研究センターへと移り「国際的な観点から小麦研究の重要さを肌で感じた」という。  
ちょうどその頃、米国などの干ばつの影響で小麦価格が高騰し、パンを主食とする北アフリカや中近東の国々では価格の高騰で暴動が起こり、特にチュニジアでは大規模な反政府デモ「アラブの春」にも至った。「自分の研究をもっと役立てたい。もっと行動を起こさなくてはいけない。そう駆り立てられました」と振り返る。
乾燥地研究センターでは、1990年代からスーダン共和国農業研究機構と小麦の品種改良について共同で研究を続けていた。スーダンでは気候変動が進むと同時に、人口増加や都市化の影響で小麦の需要が拡大。より乾燥や暑さに強い小麦の品種改良が喫緊の課題だった。辻本さんらは2015年にスーダンでの実証実験を開始した。  
2019年には国際協力機構(JICA)と科学技術振興機構(JST)が連携し、ODAの一環として実施されている国際共同研究プログラム「地球規模課題対応国際科学技術協力プログラム(SATREPS)」に採択され、研究を加速することができた。
村に出向いて丁寧に説明、収量は3割増加
辻本さんが交配を重ねて作り出した約1万種類の小麦の種の中から暑さと乾燥に強い性質を持つ1000種類を選び、スーダンで試験栽培すると、6種類がスーダンの環境に適しているとわかった。その種を用い、乾燥地研究センター内の農地やスーダンの気候を再現したアリドドームなどで交配や分析を繰り返し、暑さや乾燥への耐性などに関する実験を重ねた。
一方で新しい品種の開発には長い年月がかかるため、並行してスーダンの実用品種の改良や種子の増産にも取り組んだ。内戦の勃発やコロナ禍など困難な状況に直面しながらも、「目に見えて収量が低下する切実な状況をなんとかしなければ」と、村々へ直接出向き、新しい技術を押し売りするのではなく丁寧な説明を重ねた辻本さん。改良した種を用いることで収量は約3割増加した。
ゲリラが施設を破壊するも共同研究は続く
新しい品種を生み出すための材料となる遺伝資源の開発にも成功し、スーダンの実用品種と交配を重ね、次の一歩を踏み出そうとした矢先、スーダンで再び内戦が勃発した。  「スーダンで新たに小麦の研究施設を設置し、サブ・サハラ地域全体で研究成果を共有できるようにしていきたいと考えていましたが、建設途中の建物や既存の研究所がゲリラによって破壊され、私が長年交配してきたスーダンの小麦の種も失ってしまったのです」  
そう語るのは、SATREPSのプロジェクトでスーダン側の研究代表者を務めた、スーダン共和国農業研究機構教授のイザット・タヘルさんだ。内戦で母国に戻ることができず、現在は鳥取大学で研究を続けている。
「もともと私は、パンを求めて長蛇の列に並ぶスーダンの人々の苦しみを目の当たりにし、小麦の研究を始めました。これまでも多くの困難を乗り越えてきました。だから内戦が勃発しても希望を失うことはありません」というイザットさん。幸いにも自ら交配して作り出した種は、鳥取大学で保管されていた。その種を再びスーダンに送り返そうと、現在クラウドファンディングでの協力を呼び掛けている。  
「国際共同研究で最も重要なのは人間関係です。スーダンの小麦をどうにかしたいという情熱を持つイザットさんをはじめ、スーダン側の研究者とは毎週オンラインで協議するなど綿密なコミュニケーションがあったからこそ、成果を上げることができました」と辻本さんは述べる。SATREPSのプロジェクトは今年3月に終了したが、この先も新しい品種の開発に向けた共同研究は続いていく。
日本は創意工夫と自立的維持・発展の支援を
今回の成果は、日本が積み重ねてきた農業技術が基盤にあったからこそ得られたものだ。一方で辻本さんは「世界に誇る技術を海外で生かそうとする動きがあまりなく、もったいない」と指摘する。山積する農業課題の解決に貢献することは、日本の国際的なプレゼンス向上にも役立つ。グローバル化が進んだ今、研究も近視眼的な考えに陥るのではなく「世界とのつながりを意識することが必要だ」と辻本さんは強調する。
最後に日本の技術を世界、とりわけアフリカで生かすために必要な考え方を尋ねてみた。  「日本人の哲学には、『自然を征服する』のではなく『自然の中で生かされている』という謙虚さがあります。自然の恵みに感謝し、自然と競合しないよう創意工夫する精神です。ところが技術を押し売りのような形でアフリカへ持ち込むと、生活の礎である自然に負の影響をもたらしかねません。日本人の哲学に立ち返り、長期目線での継続性と現地の事情にも配慮すべきでしょう。そのためにはニーズをよく聞きながら信頼関係を築き、人材育成や施設整備などを通じて自立的な維持・発展までを支援していくことが重要だと考えます」(辻本さん)  
辻本さんも気候変動に対応した小麦品種の開発に取り組む中で、イザットさんらとともに育種から普及、生産、加工、消費までバリューチェーンをつなぎ、現地の人々が自ら手掛けることのできる仕組みを模索してきた。自然への感謝、相手国の長期的な発展を念頭に置いた支援―日本ならではの哲学を背景にした辻本さんの挑戦には、日本の技術を世界でより輝かせるためのヒントがたくさん詰まっていた。DSC00729.JPG

 気候変動や紛争などにより世界中で小麦生産が大きな危機に直面する中、スーダンで日本の小麦をもとにした品種改良が進んでいる。食糧危機は政情不安へとつながる恐れもあり、この研究は平和にも貢献するものだ。これまでの歩みを伺うため、プロジェクトを率いた辻本壽さん(鳥取大学乾燥地研究センター特任教授)のもとを訪ねた。鳥取大学にある乾燥地研究センターは、日本で唯一の乾燥地研究の拠点だ。乾燥地とは、降雨量より蒸発する水の量が多い乾燥した土地のことで、世界の陸地面積の4割を占め、世界人口の35%が暮らす。日本はアフリカを含む世界中の乾燥地から多くの食糧やエネルギーを輸入する。つまり気候変動に伴う乾燥地の砂漠化や干ばつは、日本にも影響が及びかねない。そこで乾燥地研究センターでは、乾燥地の持続可能な開発に向けた研究を行っている。乾燥地研究センターでは、1990年代からスーダン共和国農業研究機構と小麦の品種改良について共同で研究を続けていた。スーダンでは気候変動が進むと同時に、人口増加や都市化の影響で小麦の需要が拡大。より乾燥や暑さに強い小麦の品種改良が喫緊の課題だった。辻本さんらは2015年にスーダンでの実証実験を開始した。2019年には国際協力機構(JICA)と科学技術振興機構(JST)が連携し、ODAの一環として実施されている国際共同研究プログラム「地球規模課題対応国際科学技術協力プログラム(SATREPS)」に採択され、研究を加速することができた。「もともと私は、パンを求めて長蛇の列に並ぶスーダンの人々の苦しみを目の当たりにし、小麦の研究を始めました。これまでも多くの困難を乗り越えてきました。だから内戦が勃発しても希望を失うことはありません」というイザットさん。幸いにも自ら交配して作り出した種は、鳥取大学で保管されていた。その種を再びスーダンに送り返そうと、現在クラウドファンディングでの協力を呼び掛けている。「国際共同研究で最も重要なのは人間関係です。スーダンの小麦をどうにかしたいという情熱を持つイザットさんをはじめ、スーダン側の研究者とは毎週オンラインで協議するなど綿密なコミュニケーションがあったからこそ、成果を上げることができました」と辻本さんは述べる。SATREPSのプロジェクトは今年3月に終了したが、この先も新しい品種の開発に向けた共同研究は続いていく。今回の成果は、日本が積み重ねてきた農業技術が基盤にあったからこそ得られたものだ。一方で辻本さんは「世界に誇る技術を海外で生かそうとする動きがあまりなく、もったいない」と指摘する。山積する農業課題の解決に貢献することは、日本の国際的なプレゼンス向上にも役立つ。グローバル化が進んだ今、研究も近視眼的な考えに陥るのではなく「世界とのつながりを意識することが必要だ」と辻本さんは強調する。最後に日本の技術を世界、とりわけアフリカで生かすために必要な考え方を尋ねてみた。「日本人の哲学には、『自然を征服する』のではなく『自然の中で生かされている』という謙虚さがあります。自然の恵みに感謝し、自然と競合しないよう創意工夫する精神です。ところが技術を押し売りのような形でアフリカへ持ち込むと、生活の礎である自然に負の影響をもたらしかねません。日本人の哲学に立ち返り、長期目線での継続性と現地の事情にも配慮すべきでしょう。そのためにはニーズをよく聞きながら信頼関係を築き、人材育成や施設整備などを通じて自立的な維持・発展までを支援していくことが重要だと考えます」辻本さんも気候変動に対応した小麦品種の開発に取り組む中で、イザットさんらとともに育種から普及、生産、加工、消費までバリューチェーンをつなぎ、現地の人々が自ら手掛けることのできる仕組みを模索してきた。自然への感謝、相手国の長期的な発展を念頭に置いた支援―日本ならではの哲学を背景にした辻本さんの挑戦には、日本の技術を世界でより輝かせるためのヒントがたくさん詰まっていた。地道な日本人のアフリカでの貢献は評価されているでしょうが、このような貢献活動を通してアフリカの人たちとつながってさらには世界中の人たちとつながりよりより生活をくれるようになればいいですね。DSC00728.JPG
空き家を活用するよりも農地に転用する方がいいのでは[2026年02月21日(Sat)]
 LIFULL HOMES PRESS2025年8月24日付け「長崎の急斜面・木密エリアの土地を農園化。空き家跡地をまちの未来に繋げる「さかのうえん」の活動とは」から、坂のまち、長崎が生まれたのは戦後
日本では多くの都市が山に囲まれた盆地や海から近い土地などの限られた平地にあるが、そのうちでも平地が少なく、斜面地が多いのが長崎県長崎市だ。
長崎市は深く入り込んだ長崎港の周辺を埋め立てることで形成され、その後、戦後復興期に山腹を駆け上るように市街地化が進んだ。
 市では標高20m以上か、平均傾斜度5度以上を斜面市街地と定義しているが、現在ではそれが既成市街地の7割を占める。市のホームページでは「住宅建設一般の経済的限界と言われている15度以上のところまで、市街地が形成」されているとも。言葉通り、坂のまちなのだ。
 しかも、戦後、区域区分が行われる前にもともと斜面にあった棚田や農地などを潰して無計画かつ急速に開発されたため、あまり質のよろしくない住宅が密集。本格的な車社会到来前夜だったため、幅員が狭く、階段もある道路が作られており、車の入れない市街地が広範に存在することになった。
近年ではそこに住民と住宅の高齢化が安全面の不安に拍車をかける。
木造で燃えやすい、密集しているので延焼の懸念がある、斜面だと上部に燃え広がる、震災の時には土砂災害のみならず、老朽化した住宅、ブロック塀などの倒壊で道路が閉塞、より避難を難しくするなど挙げ始めればいくつもある。実際、火災も度々発生している。
それをなんとかしようと市では国、他自治体に先駆けて先進的な空き家対策を行ってきた。それが2006 年度から行っている公費解体型事業である「老朽危険空き家対策事業」。2011 年度からは補助金型事業の「老朽危険空き家除却費補助金」も行われている。
公費解体は一定の要件の元で空き家を寄付してもらい、行政が更地化。以降は地元の自治会等で維持管理に当たるというもの。空き家がそのままで放置されないのが良いところだが問題もある。維持・管理である。草刈りひとつも大変なのだ。
自治会の空き家跡地管理を肩代わり、農園にした「さかのうえん」
そんな自治会管理の空き家跡の土地を借りて斜面地で農園を始めた人がいる。長崎都市・景観研究所(null)の平山広孝さんだ。
平山さんは学生だった2010年に「長崎市若者のまちづくり施策提案制度」を利用、斜面都市のリ・デザインをテーマに1年間行ったフィールドワークなどの成果をまとめて当時の長崎市長に現在の「さかのうえん」のアイディアをプレゼンした。
「元々長崎市出身ですが、一度県外に出て、そこでたまたまバイト先で知り合った友人と意気投合、長崎で何かしたい、斜面地を変えようと始めたのがこの活動。まち登山、斜面でアート、そしてさかのうえんと3つのアイディアが出たうち、さかのうえんを市長にプレゼンしました。さかのうえんは坂+農園という意味です」
市長は「おもしろいね〜」とアイディアを賞賛してくれたが、その時はそれだけ。それが実現したのは10年後、2020年のことである。現在活動している中新町東部の自治会長から自治会で管理している土地を使わないかと声がかかった。
中新町エリアは長崎の重要伝統的建造物保存地区である東山手エリアに隣接する住宅地で、細い路地、階段の周囲に小規模な住宅が密集する典型的な長崎の斜面地。中心地のひとつ、新地中華街あたりからなら15分くらいだろうか、十分歩ける距離だが、資産性はあまり高くはなく、空き家も2〜3割くらいに及ぶ。歩いているとところどころに朽ち始めた住宅を見かけるエリアだ。その中にぽつんぽつんと更地になった土地があり、平山さんが自治会に替わって管理を始めたのはそんな土地のひとつ。
「こうした空き地自体は他にもありますが、活動に理解がないと使わせてもらえない。ところが、中新町東部の自治会に続き、中新町南部の自治会にも活動的なスーパー自治会長がいらっしゃり、そのおかげで以降年に1ヶ所くらいのペースで農園が増えてきました」
空き家の活用より「農園にするほうが良い」という理由
自治会としてはそれまで自分たちで草刈りをするなど労力を要していた土地を貸すことでそれが農地として使われ、人が来るようになる。手間が省けて賑わいが生まれるならうれしい話だ。
「区画を区切って貸す、農園全体を貸すなど農園ごとに使い方は違いますが、土日は主に若い人が作業をしに来て、それだけでは不足する草刈りなどを地元の高齢者が補ってくれるなどでやり取りが生まれています。
 農園の面白いところは誰の眼にも生育状況が見えること。会話のきっかけになりやすいのです。それに農園には草むしりなど誰にでもできる、やることがあり、誰がいても不審に思われることのない場所。しかも、草むしりをしたら感謝される。ある種の居場所にもなり得るのです。
 時には農園利用者以外の人が集まるイベントなどもやっており、子ども達が集まることも。地元の人達には賑やかになったと喜ばれています」
建物の中での作業と違い、誰が来ているのかが見えているところも地域の人には安心。普通は夜間に作業することはなく、うるさい思いをすることもない。逆に昼間忙しかった農園利用者が仕方なく夜間に収穫に来たところ、周囲の人に咎められたという笑い話もあった。近所の人たちにとって農園は守ってあげたいと思う、関心のある土地になっているのだ。
空き家問題では建物を残して活用しようというやり方が多いが、こうした経験から平山さんは畑にするほうがメリットがあると考えている。
 建物があるとリノベーションはもちろん、維持管理にお金がかかる。だが、畑であれば維持管理コストは安く、農産物を売ればお金を生む。教育や福祉の場として使うこともできる。実際、平山さんはさかのうえんでそうした活動も始めている。
「さかのうえん」の取組みは、福祉、教育と連携、国から管理委託も
「昨年の秋から福祉事業者と連携、農作業をしてもらい、できた野菜を販売するようになりました。事業所に来ている人の中には屋外で作業をするのが好きな人も多く、その人達が唐人菜、辻田白菜などながさき伝統野菜等を栽培、収穫物を乾燥ミックス野菜に加工、販売するという流れです。乾燥させておけば長く販売できるからです。
 また、隣接する海星高校の授業や部活でさかのうえんを活用、収穫体験、試食会、国産小麦の栽培などといった教育活動も展開しています」
さかのうえん開始から5年目。活動は確実に広がっており、5ヶ所目の農園は自治会からではなく、国から土地の管理委託を受けた。
「2025年に新たに整備した『さかのうえん中新町ザ・ビュー』は国が所有している土地の管理を市民団体として引き受けたもの。相続後に所有者にワケがあって国が所有することになった土地は売却が基本ですが、接道がないなどで建物が建てられない土地は売れません。その土地は財務省が管理することになりますが、それが増えていくと管理コストが嵩む。そこで市民団体に管理委託できるようにする制度が生まれ、この農園はその制度を利用して生まれました」
国では所有者不明土地の発生を防ぐため、2023年から相続した土地を国庫に引き渡すことができる相続土地国庫帰属制度をスタートさせている。これまでの物納制度に加え、新たな制度ができたことで国が引き受けることになる土地は増えていくはず。加えて、それらの多くが細切れの、使いにくい土地であることは想像できる。
となれば、コストをかけずに管理、かつ地元のためにもなるという使い方が必要とされる。さかのうえんはそれにも寄与する仕組みということになる。
長崎の斜面地を選択肢のある場所に変える
さらに平山さんはその先を考えている。
斜面地、空閑地の利用法として農園はこれまでもあったやり方で、特に目新しいものではない。だが、平山さんが農園を選んだのは農園がやりたいからではなく、長崎の斜面地を選択肢のある場所に変えていくために有効だからだ。
「長崎の斜面地の問題点は細い路地に小さな区画、古い木造の住宅が密集していることにあります。でも、それが少しずつ間引かれて家が更地になり、農地になっていったら風景は大きく変わります。家が点在、その周りに広い農地あるいは庭が広がるようになったら眺望、採光、風通しもよくなり、火災などの危険も減ります。住む場所として考えても魅力的になるはずです。
 長崎は平地が少ないため、中心部近くのマンションは4,000〜5,000万円と高額でしかも50〜60m2とコンパクト。利便性は高いけれども、広さ、居住環境、価格などの面から選びにくいと思う人もいるはずで、今後、斜面地が密集市街地でなくなっていったら、それに代わる住まいの選択肢になり得るのではないかと思うのです」
住宅にするという選択肢以外にもやり方はあり得る。宿にしたり、キャンプ場にしたり、点在する空き地を使ってパターゴルフ場もいいし、小さな土地なら小屋を建てる、トレーラーハウスを置くという手もある。お荷物だった斜面地が新しい長崎の魅力、財産になるかもしれないのだ。
「長崎は山も海もあってまちにもいろんな表情がある。コンパクトだけれど密度が高く、利便性も高い。のんびりした雰囲気、人の優しさなどさまざまな魅力がありますが、そこに住まい、暮らしの選択肢が加われば。最近では市内の別の場所でも斜面地の活用を研究しています。斜面地を魅力的にできれば長崎は変わります」
最後に連れていっていただいた国から管理を委託されている『さかのうえん中新町ザ・ビュー』は長崎港一望、遮るもののない開放的な場所だった。住宅が間引かれ整理されていけば、斜面地は変わる。斜面の魅力を活かした住まい、施設などが生まれてくれば、このまちはもっとおもしろくなる。過去のマイナスをプラスに転じようとするやり方にわくわくする。DSC00731.JPG

 2006 年度から行っている公費解体型事業である「老朽危険空き家対策事業」。2011 年度からは補助金型事業の「老朽危険空き家除却費補助金」も行われている。公費解体は一定の要件の元で空き家を寄付してもらい、行政が更地化。以降は地元の自治会等で維持管理に当たるというもの。空き家がそのままで放置されないのが良いところだが問題もある。維持・管理である。草刈りひとつも大変なのだ。興味深い制度設計ですね。中新町エリアは長崎の重要伝統的建造物保存地区である東山手エリアに隣接する住宅地で、細い路地、階段の周囲に小規模な住宅が密集する典型的な長崎の斜面地。中心地のひとつ、新地中華街あたりからなら15分くらいだろうか、十分歩ける距離だが、資産性はあまり高くはなく、空き家も2〜3割くらいに及ぶ。歩いているとところどころに朽ち始めた住宅を見かけるエリアだ。その中にぽつんぽつんと更地になった土地があり、平山さんが自治会に替わって管理を始めたのはそんな土地のひとつ。「こうした空き地自体は他にもありますが、活動に理解がないと使わせてもらえない。ところが、中新町東部の自治会に続き、中新町南部の自治会にも活動的なスーパー自治会長がいらっしゃり、そのおかげで以降年に1ヶ所くらいのペースで農園が増えてきました」空き地の農地利用はいいアイデアですね。自治会としてはそれまで自分たちで草刈りをするなど労力を要していた土地を貸すことでそれが農地として使われ、人が来るようになる。手間が省けて賑わいが生まれるならうれしい話だ。「区画を区切って貸す、農園全体を貸すなど農園ごとに使い方は違いますが、土日は主に若い人が作業をしに来て、それだけでは不足する草刈りなどを地元の高齢者が補ってくれるなどでやり取りが生まれています。農園の面白いところは誰の眼にも生育状況が見えること。会話のきっかけになりやすいのです。それに農園には草むしりなど誰にでもできる、やることがあり、誰がいても不審に思われることのない場所。しかも、草むしりをしたら感謝される。ある種の居場所にもなり得るのです。時には農園利用者以外の人が集まるイベントなどもやっており、子ども達が集まることも。地元の人達には賑やかになったと喜ばれています」建物の中での作業と違い、誰が来ているのかが見えているところも地域の人には安心。普通は夜間に作業することはなく、うるさい思いをすることもない。逆に昼間忙しかった農園利用者が仕方なく夜間に収穫に来たところ、周囲の人に咎められたという笑い話もあった。近所の人たちにとって農園は守ってあげたいと思う、関心のある土地になっているのだ。無理をしないで緩い活動がいいですね。空き家問題では建物を残して活用しようというやり方が多いが、こうした経験から平山さんは畑にするほうがメリットがあると考えている。建物があるとリノベーションはもちろん、維持管理にお金がかかる。だが、畑であれば維持管理コストは安く、農産物を売ればお金を生む。教育や福祉の場として使うこともできる。畑は維持管理のコストが安く済みますね。「長崎の斜面地の問題点は細い路地に小さな区画、古い木造の住宅が密集していることにあります。でも、それが少しずつ間引かれて家が更地になり、農地になっていったら風景は大きく変わります。家が点在、その周りに広い農地あるいは庭が広がるようになったら眺望、採光、風通しもよくなり、火災などの危険も減ります。住む場所として考えても魅力的になるはずです。住宅にするという選択肢以外にもやり方はあり得る。宿にしたり、キャンプ場にしたり、点在する空き地を使ってパターゴルフ場もいいし、小さな土地なら小屋を建てる、トレーラーハウスを置くという手もある。お荷物だった斜面地が新しい長崎の魅力、財産になるかもしれないのだ。住宅が間引かれ整理されていけば、斜面地は変わる。斜面の魅力を活かした住まい、施設などが生まれてくれば、このまちはもっとおもしろくなる。過去のマイナスをプラスに転じようとするやり方にわくわくする。素晴らしい取り組みですね。このような夢と希望のある実践が広まっていかないでしょうか。DSC00730.JPG

自己責任論を脱し、政治を語るべき[2026年02月20日(Fri)]
 AERA DIGITAL2025年8月23日付け「自己責任論を脱し、政治を語るべき。平野啓一郎が見つめる社会の現在地」から、小説家・平野啓一郎が新著「あなたが政治について語る時」(岩波書店)を上梓した。  
文学・芸術を論じた「文学は何の役に立つのか?」(岩波書店)に続く本作は、政治・社会を論じたエッセイ集。政治への期待感の低下や、政治を語り合うこと自体が避けられがちな現代において、「社会の居心地を良くするためには、政治を通して、ルールや仕組みを変えるしかない」という平野さんの言葉には大きなヒントが含まれている。
自己責任論は政治のサボタージュ
「あなたが政治について語る時」は、政治・社会に対する時事評論をまとめた作品。タイトルに“政治”という言葉を使ったのはどうしてですか?  
我々がこの世界に居心地の悪さを感じたときに、何ができるかを考えると、やはりルールや仕組みを変えるしかないと思いますし、それは結局、政治に関わるしかないんですよね。
政治は遠いものと感じている方もいらっしゃるでしょうが、自己責任論から脱し、問題を解決するのが政治の本来の役割なので。私自身もいわゆるロスジェネ世代で、「自分たちの責任にされるのはたまったもんじゃない」という思いが根強くあるんです。自己責任論は政治のサボタージュ。責任を個人に押し付けることで、やるべきことをやっていないという批判を避けようとしているんだとしか思えない。政治に対する失望や諦めによって、投票率が上がらなかったり、政治の話をしたくないという雰囲気もありますが、今回の本を通して「政治で自分の状況は変えられる」ということを言いたかったんです。
「主権者教育なき日本」の章では、日本においては、自分たちの手で社会のルールを作っていく経験が乏しいことを指摘されています。  
60年代、70年代の学生運動の取り締まりの影響だと思うんですが、私が中学、高校の頃も学生の自治が許されず、とても厳しく管理されていました。生徒の側から校則を変えることもできず、学級委員や生徒会も学校のガバナンスの一部になっていて。そういう10代を過ごさせておいて、「さあ、投票しろ」と言われても、投票所に行くはずがないですね。  
本にも事例として書きましたが、先進的な主権者教育で知られるオランダでは、中高生の代表からなる「全国生徒協議会(LAKS)」という組織があり、教育関連の法律が制定・改正される際には、このLAKSの意見を無視することはできないんです。この組織の運営費用は、全額、教育文化科学省が賄っており、代表者には国会で演説をする機会も与えられている。こうした経験があれば、自治体の在り方にも積極に参加できる。そういうプロセスがまったくない状態で、若者の政治的無関心を嘆くのはとても奇妙だと思います。
政治を語ることへの萎縮 
考える力の喪失
さらに政治の話がしづらい風潮もあります。  
それは日本だけではなく、世界的な傾向でしょうね。強権的な政権の影響もあり、「社会的・政治的な発言することが将来の自分にどういう影響をもたらすかわからない」となれば、どうしても萎縮してしまう。ただ、批判は未来のリスクを回避するためのものです。「このまま黙っていると、未来の社会に非常に大きなリスクがある」という時に批判をしないと、将来的に、そのリスクは必ずのしかかってくる。アベノミクスの失敗がいい教訓です。次々にいろんな問題が起きて、しばらくすると忘れてしまうのも大きな問題ですよね。  
朝日新聞のインタビューでも言いましたが、今の日本は、考えることに不真面目になっている。「失われた30年」と言われ、あらゆる経済指標が日本の凋落を示していて。それは少子化、産業構造の停滞、DXやAIの遅れなどさまざまな問題が絡み合って起きているわけですが、一つひとつを真面目に考えて解決しようという雰囲気になかなかならない。それどころか、金融緩和さえ進めればいいとか外国人が優遇されているからだなどと、非常に短絡的な思考に陥り、結果的に停滞を長引かせています。
そういう状況のなか平野さんは、SNSでも社会的な発言を積極的に行っています。  
そうした僕の姿勢に対する批判もありますが、たとえばサイン会で「SNSもフォローしてます」と言われることも多いですし、僕の発言に共感して、小説を読んでみたという方もいます。海外の作家と接する機会もありますが、同じように自分の政治的スタンスを表明している人は多いです。まあ、基本的にはリベラルで、海外の文学シンポジウムに参加している作家やアーティストと話をすると、「多様性が大事だ」とか「弱者が搾取される社会は良くない」と、非常に意見は近いのですが、それは文学を読んできた結果ですし、そういう意味では作家同士の連帯感もあると思っています。あとは僕自身も――意識的にそうしたわけではないですが――共感した作家たちは政治に深く関わった人が多かったんです。三島由紀夫、ドストエフスキーもそうですが、社会について深く考えていった結果、政治に行き着いていた。必ずしも彼らの政治的な立場に賛同しているわけではないですが。
確かに三島由紀夫の政治的な信条と、現在の平野さんのスタンスは真逆かもしれないですね。  
そうなんですが、現実の社会に批判的であることは共通しています。三島も当時の社会の中で居心地の悪さを抱えていたし、同時にきわめてニヒリスティックだった。僕はそういう三島に惹かれたわけですが、「では、どうするか?」となったときに天皇のことが出てくると、自分の考えとはかなり距離があります。しかし、だからこそ「どうしてそうなったのか?」と考えたくなりますね。
分人主義で探る、分断を超える対話
今の社会に話を戻すと、考えが違う人たちとどう対話するか?も大きな課題なのかなと。  90年代から2000年代の初めの頃は、僕自身、対話に懐疑的な時期がありました。ヨーロッパの啓蒙主義の延長で語られる対話の大切さは、価値観が大きく違う人たちとの議論においては無力じゃないか?と。9.11(アメリカ同時多発テロ事件)が起きた後はさらにその思いが強くなりましたが、今は一周回って、やはり対話するしかないのかなと思っていますし、分断を乗り越えるアプローチの一つに“分人主義”(※)を据えています。(※分人=平野啓一郎が提唱する、対人関係ごと、環境ごとに分化した異なる人格のこと。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉える考え方)  
僕自身は政治的には中道左派ぐらいの立場だと思うんですが、一方で音楽が好きで、二児の父親で……といろいろな属性がある。そのなかで政治的な立場が違う人たちとも、どこかに共感できる接点があるかもしれないし、その結びつきを通して、分断を克服するのが現実的ではないかと思っています。実際、X(旧Twitter)でも音楽の話や「これが美味しかった」みたいなことも投稿していますが、「平野の意見は気に食わないけど、音楽の趣味は近い」という人もいます。そうやって共感してもらえることが対話のきっかけになることに可能性を見出したいです。
急速なテクノロジーの変化と文学の迷走
「あなたが政治について語る時」に収録されているテキストが書かれた時期は、AIを主題にした小説「本心」の執筆時期とも重なっています。社会的、政治的な変化、テクノロジーの進化は作品にも影響しているのでは?  
テクノロジーの進歩をフォローしていないと、世の中の出来事について考えられない、発信できないのは確かだと思いますし、作家としても、ダイナミックな社会の変化を捉えないといけないという思いはありますね。それを踏まえて言いますと、現代文学はちょっと迷走していると思います。模索と言うべきかもしれませんが。第三次AIブームによって、ChatGPTとの会話に依存する人が出始めたり、いろいろな仕事が失われる可能性が指摘されるなど、とても大きな社会の変化が到来していますが、その変化があまりにも早くて、数カ月から数年がかりで1冊を仕上げる小説執筆のテンポとはどうしても相性が悪い。
書いているうちに世の中がどんどん変わってしまう。  
リアルタイムの技術的な進歩を小説のなかで取り扱うのは難しいです。なので世界的にも、歴史モノや古典のパロディ、寓話的な手法の作品が増えているのではないか。ただ、僕自身は一読者として、そういう小説に今はあまり惹かれないんです。たとえ完成度が落ちるとしても、あるいは書いているうちに古くなる部分があっても、テクノロジーの進歩や社会の変化を見据えながら、人間の世界がどう変わっていくかを書きたいと思っています。小説は総合芸術なので、論理的な思考から些末な出来事、社会全体のことまでを統合しながら書けるところが利点です。
小説という表現形態は、まだまだ可能性がある。  
そう思っています。やはり物語がないと、現実に起きていることを理解したり、うまく納得するのが難しいでしょう。小説にはいろいろな価値観の人物が登場するし、人間のうさん臭さも含まれるので、そういうものに対する警戒心も養われるんじゃないかなと思いますね。DSC00733.JPG

 政治への期待感の低下や、政治を語り合うこと自体が避けられがちな現代において、「社会の居心地を良くするためには、政治を通して、ルールや仕組みを変えるしかない」なぜ日本人は政治について語り合わないのでしょう。我々がこの世界に居心地の悪さを感じたときに、何ができるかを考えると、やはりルールや仕組みを変えるしかないと思いますし、それは結局、政治に関わるしかないんですよね。政治は遠いものと感じている方もいらっしゃるでしょうが、自己責任論から脱し、問題を解決するのが政治の本来の役割なので。私自身もいわゆるロスジェネ世代で、「自分たちの責任にされるのはたまったもんじゃない」という思いが根強くあるんです。自己責任論は政治のサボタージュ。責任を個人に押し付けることで、やるべきことをやっていないという批判を避けようとしているんだとしか思えない。政治に対する失望や諦めによって、投票率が上がらなかったり、政治の話をしたくないという雰囲気もありますが、「政治で自分の状況は変えられる」ということを言いたかったんです。政治を変えて状況を変えなければならないでしょう。日本だけではなく、世界的な傾向でしょうね。強権的な政権の影響もあり、「社会的・政治的な発言することが将来の自分にどういう影響をもたらすかわからない」となれば、どうしても萎縮してしまう。ただ、批判は未来のリスクを回避するためのものです。「このまま黙っていると、未来の社会に非常に大きなリスクがある」という時に批判をしないと、将来的に、そのリスクは必ずのしかかってくる。アベノミクスの失敗がいい教訓です。次々にいろんな問題が起きて、しばらくすると忘れてしまうのも大きな問題ですよね。批判を避けて通ると将来的なリスクを背負うことになるのは理解できます。日本人が避けてしまっている政治としっかり向き合い政治について語り合ったり、議論することは大事でしょう。DSC00732.JPG
異色「FC今治高校」自由を手に入れた生徒たちのリアルとは[2026年02月19日(Thu)]
 東洋経済education×ICT2025年8月23日付け「サッカー日本代表・元監督の岡田武史氏が学園長、異色「FC今治高校」自由を手に入れた生徒たちのリアル 「エラー・アンド・ラーン」大切にするワケ」から、どんな学校になるのか? 
サッカー日本代表の元監督・岡田武史氏が立ち上げる学校ということで開校前から話題となったFC今治高等学校 里山校。授業や学習スタイルが柔軟でテストもない、午後は芸術・探究・野外活動の時間と、自由でありながら自主性が求められるカリキュラムになっている。7月に開催されたオープンスクールに教育ジャーナリスト 中曽根陽子氏が参加した。開校から1年半経過した生徒たちのリアルをお届けする。
サッカー日本代表の元監督・岡田武史氏が学園長を務めるFC今治高等学校 里山校(愛媛県今治市)。2024年4月の開校時には、募集定員に届かないまま34人でスタートしましたが、2年目の今年は定員を上回る応募があり、2期生は定員を上回る85人でスタートしました。
この結果に貢献したのが、1期生が行ったオープンスクールでした。企画から運営まで生徒に任せたものの、開催当日までまったく相談なし。学校側は内容もわからないまま当日を迎えたそうですが、ふたを開けてみたら、学校に対する思いを生徒自身の言葉で語ったり、来場者との対話の場を作ったり、岡田氏も驚くすばらしい内容だったそうです。
早くも、生徒の主体性に任せる教育が形となった瞬間でした。そんな生徒の姿を見て、「ここで自分も学びたい」と入学者数が倍増したのです。
順調な滑り出しとはいえ、「まだまだ未完成。チャレンジが続いている」(岡田氏)というFC今治里山校(以下、FCI)で、2期生による2回目のオープンスクールが行われると聞き、現地に行ってきました。
Goodは自由、Badは自由と自分勝手
あちこちで案内に立つ生徒の元気なかけ声に迎えられて会場に入ると、金髪の生徒たちが舞台に腰掛けてフリートークで場を温めていました。また、会場を回って、徐々に集まってくる参加者に積極的に声をかける生徒も……。それぞれの役割を一生懸命果たそうとしている2期生たちの姿が見られました。
開始時間には、会場は親子連れで満席になっていました。アイスブレイクを兼ねて隣同士で自己紹介を促される参加者たちからは、愛媛県内だけでなく九州・関西・関東から来たという声が聞こえてきて、この学校への関心の高さがうかがえます。
オープンスクールは、まずFCIのリアルというパートから始まり、1期生のアンケート結果から作られたテキストマイニングによるFCIのGoodとBadが紹介されました。興味深かったのは、その両方に自由があったこと。
「この学校には、何でも挑戦できる自由があるけど、自由は自分勝手と隣り合わせ」 「自由ということは、何でも自分たちで考えなくてはいけない不自由がある。でも、自由だから個性を発揮できるし、何にでも挑戦できる。挑戦すれば失敗もするけれど、それがこの学校が大事にするエラー・アンド・ラーンだ。できるかどうかわからないことに挑戦するからワクワクするし、成長もする」
生徒たちのアンケート結果には、自由を手に入れて葛藤する姿が浮かび上がっていました。入学から4カ月。2期生たちは、自由な環境の中でたくさんぶつかり、葛藤し、迷いながらチャレンジもして、その中で少しずつ自分たちを可視化しているようでした。
手になじむ「学び方」を選べる個別最適な授業スタイル
FCIでは、午前中が座学。午後が学校の外に出て探究活動をしますが、座学も先生による一方通行の授業はありません。
実際、一つの教室の中で、前の方で先生の講義を聞くグループ、友達同士で学び合うグループ、はたまた自分でスタディサプリを使って学習するなど、さまざまな学習スタイルが混在しているのです。
ついこれまでの常識に当てはめると、「それで授業が成り立つのか」と思ってしまいますが、生徒の1人は「数学は得意ではないのでコーチ(FCIでは先生をコーチと呼ぶ)の講義を聞いて学ぶけれど、ほかの科目では自学をして、わからないところを友人やコーチに聞いている」と話していました。
教科や習熟の度合いに応じて、試行錯誤しながら自分にとって最適な学習方法を探りながら、学んでいるようです。とはいえ、自分にはどの学習スタイルが合っているのかを見つけるまでには時間がかかるでしょうし、自分を律して集中しないと何もしないで流されてしまうこともあるでしょう。
ましてや、やりたいことを見つけていくのは簡単ではないのでは。アンケート結果にも、「何をしていいかわからない」「学ぶ姿勢の差」というワードが大きくなっていました。「やりたいことがある」生徒にとっては、これ以上ない環境があるけれど、「この学校に来れば楽ができる」と考えていたら、手にできるものも大きく差が出るのではと感じました。
そんな状況の中で、どこまで生徒を信じて寄り添えるのか、教員の胆力が試されます。
そこで、会場の後ろでオープンスクールの様子を見守る岡田氏に、今のFCIについて話を聞きました。
「1期生は何もないところに覚悟を持って入ってきたし、われわれもよくわからない中で、1人ひとりと向き合いながら必死にやってきた1年でした。2期生は、まだ自由になったことにはしゃいでいる段階のものもいる。中には『テストもないし、自由で楽しそう』と思って入学してきた生徒もいて、当然トラブルもあります。
ただ、人はそれぞれ違うということを前提にしながら、相手の立場になって考え、最後はよい学校にしていくという共通の目的に向かって、生徒自身が自己決定していくことが大切です。人数が増えた分、1人ひとりと向き合うのには時間がかかっていますが、どこまで黙って見守っていくのか。われわれもエラー・アンド・ラーンで日々を送っています」(岡田氏)
「今日のオープンスクールは2回目ですが、1回目は準備不足で満足いく内容ではなかったので、その反省から、今回はいろいろ考えて準備をしてきたのだと思います」という岡田氏の言葉通り、かなり生徒たちの気合いを感じるイベントでした。FCIでは、学校にとっては大事な生徒募集の機会であるオープンスクールさえも、生徒のエラー・アンド・ラーンの機会にしているのです。
「これまでの教育はできるだけ失敗をさせない教育だったのでは」と疑問を投げかける岡田氏。長くサッカー指導を続ける中で、日本人選手の「主体性の欠如」に課題を感じてきた岡田氏は、この経験から、教育の現場でも主体性を育むことの重要性を認識し、学校教育を通じて社会に貢献できる人材の育成を目指そうと起こした学校がFCIです。
そこには、「法律に触れることはしない」「命に関わることをしない」「人の成長を邪魔しない」の3つ以外に生徒を縛る校則はありません。学び方の自由はあるけれど、人の学びを邪魔する自由はない。この大きな原則の中で、「エラー・アンド・ラーン」を合言葉に、FCIの教育は行われているのです。
日本一出会いの多い高校を目指して
午前中の座学の授業を終えると、午後は芸術・探究・野外活動の時間。基礎学力の習得とやりたいことの両立を目指すカリキュラムになっています。
また、日本一出会いの多い高校を目指して、トヨタ自動車会長の豊田章男さんをはじめ、社会の第一線で活躍しているゲスト講師に直接話を聞く機会もたくさんあります。何かを成し遂げた人から発せられる言葉に心を震わせる瞬間もあるでしょう。
しかし、出会いはゲスト講師だけではありません。「日本一出会いの多い学校にしようと思っていますが、今治の町に出て地元の人たちとの継続的な活動をすることにも重きを置いています」と校長の辻正太氏。それが、地域の企業とコラボして事業課題や地域の課題にアプローチする探究ゼミ活動です。
サッカーのFC今治を中心に町おこしに成功しているとはいえ、地方都市はどこもそうですが、今治市も人口減少やシャッター商店街などの課題を抱えています。生徒たちは町に出てそれらの課題に向き合い、自分には何ができるのかを考えていきます。
自分が見つけた課題に向き合い、ことを起こす生徒たち
探究活動をする中で、自主的に自分たちのプロジェクトを立ち上げる生徒もいます。そんな取り組みのいくつかが紹介されました。
「地域のみんな食堂」計画を立てたある生徒は、子ども食堂を立ち上げた人の本を読んで感動し、自分も世代間交流ができる場所を作って田舎を活性化したいと夢を語ります。
また、FCIから飛び出し、今治市内の他校の生徒を含めた6人で学生団体「たねからゼミ」を立ち上げた生徒は、子どもが夢を持つきっかけとなるイベントの企画と、商店街に拠点を設けて、高校生が作る多様な人が集まる「たねからベース」を今治商店街の空き家に作ろうとしていました。この活動を立ち上げるきっかけになったのが、日本財団「18歳意識調査」での日本人の意欲や課題解決への意識の低さだったと語ります。
ほかにも、プロバスケット選手を夢見ていた生徒は、自らの決断でFCIを選び、探究活動の中で、地域で働く外国人労働者の存在を知り、彼らの国技であるバスケットクラブを作って地元とのつながりを作ろうと地元企業と交渉しているそうです。
「世界は分断し民主主義はポピュリズムに陥っている。地球環境が激変し、生命の危機が迫っている。この行き詰まった現実に対応する方法など誰も知らないのだから、これからは、自分で目的を見つけ、失敗しながらやってみる以外に方法はない」という岡田氏の熱い思いに応えるように、実際に社会に出て見えた課題を解決しようともがきながら、でも熱意を持って取り組んでいる姿が垣間見えました。
もちろん全員が何かを見つけているわけではないでしょう。実際、「自分はまだ何がしたいかを見つけられていない」という生徒もいました。ただ、その生徒は、「この学校に来たことで人と関わるようになり、周囲から刺激を受けて、自分は何をしたいかを探し始めた」と話してくれました。この夏にはさらに世界を広げるために、海外短期留学に出るそうです。
岡田氏は「遺伝子にスイッチを入れる」経験をさせると言っていますが、これは、未知のことに挑戦する中で新しい自分を覚醒させるという意味。生徒たちは、お遍路や探究ゼミなど未知の体験をしながら、遺伝子にスイッチを入れる途上にいるようです。
2期生は入学してまだ4カ月。その彼らに全部を託して行われたオープンスクールでしたが、学校のことだけでなく、今の自分たちの姿を伝えたいという生徒たちの思いがあふれていました。
そんなFCIの入試は学科試験を行わないマッチング入試。ここで何かをしたいという人に来てほしいから、推薦書2通(保護者から1通と学校関係者に限らないその他の推薦者から1通)、志望理由と将来の夢をまとめたエッセイ、自己PR動画の提出が求められます。書類選考を通過すると、面接とワークショップでのパフォーマンス選考が行われます。
会場で話した参加者の中には、今あまり学校に行けていないという人もいましたが、互いにミスマッチがないように、学校もありのままの姿を見せているのだと思いました。
FCIの壮大なるチャレンジは始まったばかり。このチャレンジの答えは生徒たち1人ひとりが出してくれるはずです。美しい瀬戸内海の景色を眺めながら、子どもたちの未来に思いをはせる1日になりました。DSC00735.JPG

 1期生が行ったオープンスクールでした。企画から運営まで生徒に任せたものの、開催当日までまったく相談なし。学校側は内容もわからないまま当日を迎えたそうですが、ふたを開けてみたら、学校に対する思いを生徒自身の言葉で語ったり、来場者との対話の場を作ったり、岡田氏も驚くすばらしい内容だったそうです。早くも、生徒の主体性に任せる教育が形となった瞬間でした。そんな生徒の姿を見て、「ここで自分も学びたい」と入学者数が倍増したのです。生徒たちの自主性を尊重して育てる教育は大事ですね。「この学校には、何でも挑戦できる自由があるけど、自由は自分勝手と隣り合わせ」「自由ということは、何でも自分たちで考えなくてはいけない不自由がある。でも、自由だから個性を発揮できるし、何にでも挑戦できる。挑戦すれば失敗もするけれど、それがこの学校が大事にするエラー・アンド・ラーンだ。できるかどうかわからないことに挑戦するからワクワクするし、成長もする」自由だから個性を生かして挑戦できるというのは納得ですね。一つの教室の中で、前の方で先生の講義を聞くグループ、友達同士で学び合うグループ、はたまた自分でスタディサプリを使って学習するなど、さまざまな学習スタイルが混在しているのです。ついこれまでの常識に当てはめると、「それで授業が成り立つのか」と思ってしまいますが、生徒の1人は「数学は得意ではないのでコーチ(FCIでは先生をコーチと呼ぶ)の講義を聞いて学ぶけれど、ほかの科目では自学をして、わからないところを友人やコーチに聞いている」教科や習熟の度合いに応じて、試行錯誤しながら自分にとって最適な学習方法を探りながら、学んでいるようです。とはいえ、自分にはどの学習スタイルが合っているのかを見つけるまでには時間がかかるでしょうし、自分を律して集中しないと何もしないで流されてしまうこともあるでしょう。ましてや、やりたいことを見つけていくのは簡単ではないのでは。「何をしていいかわからない」「学ぶ姿勢の差」というワードが大きくなっていました。「やりたいことがある」生徒にとっては、これ以上ない環境があるけれど、「この学校に来れば楽ができる」と考えていたら、手にできるものも大きく差が出るのではと感じました。これこそが求められている学びの姿ですね。「これまでの教育はできるだけ失敗をさせない教育だったのでは」と疑問を投げかける岡田氏。長くサッカー指導を続ける中で、日本人選手の「主体性の欠如」に課題を感じてきた岡田氏は、この経験から、教育の現場でも主体性を育むことの重要性を認識し、学校教育を通じて社会に貢献できる人材の育成を目指そうと起こした学校がFCIです。そこには、「法律に触れることはしない」「命に関わることをしない」「人の成長を邪魔しない」の3つ以外に生徒を縛る校則はありません。学び方の自由はあるけれど、人の学びを邪魔する自由はない。この大きな原則の中で、「エラー・アンド・ラーン」を合言葉に、FCIの教育は行われているのです。共感できますね。教育に対して強い想いがある人が子どもたちの教育のあり方を真剣に考えて実践されている学校ですね。日本一出会いの多い高校を目指して、トヨタ自動車会長の豊田章男さんをはじめ、社会の第一線で活躍しているゲスト講師に直接話を聞く機会もたくさんあります。何かを成し遂げた人から発せられる言葉に心を震わせる瞬間もあるでしょう。しかし、出会いはゲスト講師だけではありません。「日本一出会いの多い学校にしようと思っていますが、今治の町に出て地元の人たちとの継続的な活動をすることにも重きを置いています」と校長の辻正太氏。それが、地域の企業とコラボして事業課題や地域の課題にアプローチする探究ゼミ活動です。サッカーのFC今治を中心に町おこしに成功しているとはいえ、地方都市はどこもそうですが、今治市も人口減少やシャッター商店街などの課題を抱えています。生徒たちは町に出てそれらの課題に向き合い、自分には何ができるのかを考えていきます。「地域のみんな食堂」計画を立てたある生徒は、子ども食堂を立ち上げた人の本を読んで感動し、自分も世代間交流ができる場所を作って田舎を活性化したいと夢を語ります。また、FCIから飛び出し、今治市内の他校の生徒を含めた6人で学生団体「たねからゼミ」を立ち上げた生徒は、子どもが夢を持つきっかけとなるイベントの企画と、商店街に拠点を設けて、高校生が作る多様な人が集まる「たねからベース」を今治商店街の空き家に作ろうとしていました。この活動を立ち上げるきっかけになったのが、日本財団「18歳意識調査」での日本人の意欲や課題解決への意識の低さだったと語ります。「世界は分断し民主主義はポピュリズムに陥っている。地球環境が激変し、生命の危機が迫っている。この行き詰まった現実に対応する方法など誰も知らないのだから、これからは、自分で目的を見つけ、失敗しながらやってみる以外に方法はない」という岡田氏の熱い思いに応えるように、実際に社会に出て見えた課題を解決しようともがきながら、でも熱意を持って取り組んでいる姿が垣間見えました。教育者が求めていることを子どもたちが自分たちで考え実践していることが多いですね。FCIの入試は学科試験を行わないマッチング入試。ここで何かをしたいという人に来てほしいから、推薦書2通(保護者から1通と学校関係者に限らないその他の推薦者から1通)、志望理由と将来の夢をまとめたエッセイ、自己PR動画の提出が求められます。書類選考を通過すると、面接とワークショップでのパフォーマンス選考が行われます。理想的な学校の1つですね。このような学校が増え続ければ日本も変わっていくでしょう。DSC00734.JPG
| 次へ
プロフィール

元気さんさんの画像
リンク集
https://blog.canpan.info/genkijuku/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/genkijuku/index2_0.xml
お問合せは下記よりお願いします。返信にはお時間をいただく事がございます。