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日本社会はチャレンジするしかない[2026年01月21日(Wed)]
 週プレNEWS2025年8月11日付け「【モーリー・ロバートソンの考察】「日本人ファースト」が人々の心に響く。そんな社会状況はなぜ生まれたか?」から、『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、東京都議選や参院選ですっかり広まった「日本人ファースト」というフレーズが人々の心に響いた理由を考察する。
この夏、「日本人ファースト」というメッセージが賛否両論を伴って日本を席巻しました。
マナーが悪い、不動産を買収している、福祉制度を悪用している......。それぞれ個別の問題は確かに存在するのでしょう。また、残念ながらここ最近、外国人による凶悪な事件が連続的に報道されています。
ただ、個々のケースを「線」で結べるか、日本人のみを母数にした場合と比べて頻度や凶悪さが有意に異なるかは、詳細な検証を待つ必要があるでしょう。
一部のトラブルを、民族あるいはその国籍を持つ人全体、それどころか「日本人ではない人」全体の問題に簡単にすり替えてしまう――そこには、日本社会の外国人に対する理解不足があります。
テレビでよく目にする「外国人トラブル」の報道でも、モザイク越しにWマナー違反Wの場面が映され、それに困惑する地域住民の声が紹介されます。それを見て多くの視聴者は「また外国人が問題を起こしている」と認識するでしょうが、問題の本質はディスコミュニケーションです。
多様な文化的背景を持つ人々が、日本社会では「常識」とされること(そして多くの国・地域ではそうではないこと)を知らないまま日本にやって来て、不幸にも誤解や相互不信が生じ、やがて「郷に従えない人間は日本に来るな」という排除の論理につながってしまっているのです。
最終的な責任はやはり政府にあると思います。移民制度とは決して言わないものの事実上それに準じた「制度」や、積極的なインバウンド奨励策で、政府が日本への外国人流入を後押ししていることは明らかです。
取りあえず経済的な恩恵は欲しい、しかし社会との意識の擦り合わせなどソフト面の対応は後回し――そんな姿勢こそが、「日本人ファースト」というフレーズが人々の心に響いてしまう状況を生んだのではないでしょうか。
少子高齢化が進む日本が構造的に抱える経済問題の出口は見えていません。衆参両院で過半数を割った与党に劇的な成長戦略を打ち出す余力はなく、トランプからの要求を「あまり損をせず軟着陸させる」ぐらいが関の山です。
このままプアーミドル層、貧困層が増えていくならば、ますます「外国人」に不満の矛先が向きやすい状況が生まれていくかもしれません。
今、最も必要なのは、経済成長のための構造改革にすぐにでも着手することでしょう。@男女の完全パリティ(家事・育児・介護の分担50%ずつ、賃金格差ゼロ)、A包括的・包摂的な移民政策、B農政の本質的な改革、C教育制度のアップデート(特に英語および理系)と大学などへの国家的な投資......。
こうした点が変われば、日本には明らかにまだまだ成長余地があります。問題は、仮に今から手をつけたとしても、先行投資や改革が目に見える効果を生み始めるまでに最低5年から10年はかかることです。
恩恵が体感できないうちに「外国人が優遇されている」「日本の食料安保を損ねている」「男性に家事や育児、介護を任せるのは無責任」などの反発が出て、世論が延々とこじれ続け、極右ポピュリズムが急成長する――そんなシナリオも想像に難くありません。
しかし、それでも日本社会はチャレンジするしかないと私は思います。皆さんはいかがでしょうか?DSC00782.JPG

 一部のトラブルを、民族あるいはその国籍を持つ人全体、それどころか「日本人ではない人」全体の問題に簡単にすり替えてしまう――そこには、日本社会の外国人に対する理解不足があります。テレビでよく目にする「外国人トラブル」の報道でも、モザイク越しにWマナー違反Wの場面が映され、それに困惑する地域住民の声が紹介されます。それを見て多くの視聴者は「また外国人が問題を起こしている」と認識するでしょうが、問題の本質はディスコミュニケーションです。多様な文化的背景を持つ人々が、日本社会では「常識」とされること(そして多くの国・地域ではそうではないこと)を知らないまま日本にやって来て、不幸にも誤解や相互不信が生じ、やがて「郷に従えない人間は日本に来るな」という排除の論理につながってしまっているのです。日本人の中には安易に外国人を悪者にしてしまうところがあるかもしれません。最終的な責任はやはり政府にあると思います。移民制度とは決して言わないものの事実上それに準じた「制度」や、積極的なインバウンド奨励策で、政府が日本への外国人流入を後押ししていることは明らかです。取りあえず経済的な恩恵は欲しい、しかし社会との意識の擦り合わせなどソフト面の対応は後回し――そんな姿勢こそが、「日本人ファースト」というフレーズが人々の心に響いてしまう状況を生んだのではないでしょうか。安価な労働力を欲しさに外国人を呼び込んでいるだけではないでしょう。政府が外国人との共生社会を構築するための政策が十分でないのでしょう。日本語教育は国がやるべきでしょう。最も必要なのは、経済成長のための構造改革にすぐにでも着手することでしょう。@男女の完全パリティ(家事・育児・介護の分担50%ずつ、賃金格差ゼロ)、A包括的・包摂的な移民政策、B農政の本質的な改革、C教育制度のアップデート(特に英語および理系)と大学などへの国家的な投資。今の政治は必要な政策を実現できる状況にないのかもしれません。恩恵が体感できないうちに「外国人が優遇されている」「日本の食料安保を損ねている」「男性に家事や育児、介護を任せるのは無責任」などの反発が出て、世論が延々とこじれ続け、極右ポピュリズムが急成長する――そんなシナリオも想像に難くありません。海外のポピュリズムの流れに乗って同じような陥ってしまっていいのでしょうか。政治に任せるだけではダメでしょう。国民がこの国をどうしたいのか話し合い動き出し声を上げる必要があるでしょう。DSC00781.JPG
日本のマスコミのMJL日本選手の扱い方はどうでしょうか[2026年01月20日(Tue)]
 スポーツ報知2025年8月9日付け「菅野智之、チーム最多9勝目 日本人ルーキー10人目の2ケタ勝利王手…2か月ぶりの7回で5安打1失点」から、オリオールズ・菅野智之投手(35)が8日(日本時間9日)、本拠地・アスレチックス戦に先発し、7回5安打1失点の好投で9勝目。メジャー1年目の日本人投手では10人目の2桁勝利に王手をかけた。7イニングを投げたのは6月3日(同4日)の敵地・マリナーズ戦以来、約2か月ぶりだった。4奪三振3四死球で球数91球、防御率4・24に良化した。  
中5日でのマウンド。初回はわずか2球で2アウトを奪うと、7月にルーキー史上初の1試合4本塁打を記録した3番・カーツを見逃し三振。その裏には女房役のラッチマンの先制2ランなど2発でいきなり3点の援護をもらった。3回は先頭のウルシェラに初安打となる左前打を浴びるなど無死一、二塁とされたが、1番・コルテスを二ゴロ併殺。その後2死一、三塁となるも、カーツには内角低めに85・9マイル(約138・2`)スイーパーを制球して2打席連続の見逃し三振に斬った。  
3点リードの5回には中犠飛で1点を失ったが、6回2死一、二塁でハネズを遊ゴロに打ち取るなどピンチでも冷静さが光った。7回2死一塁から1番・コルテスを迎えた場面では、マウンドに向かった投手コーチと言葉を交わした後、コルテスを二ゴロに仕留めて無失点。菅野は相棒・ラッチマンと互いの健闘をたたえ合った。この日は最速94・4マイル(約151・9`)を計測した。  
これでチーム最多の9勝目。ア・リーグ東地区最下位のオ軍の中でエース級の働きを見せ、メジャー挑戦1年目での2桁勝利を視界に捉えた。7月31日(同8月1日)のトレード期限が過ぎ、放出候補に挙げられながらも残留が決まった菅野はスポーツ報知の取材に応じ「流れのままに過ごしているという感じです」「これまで通り、ローテーションを守ってチームに勝ちがつくよう、最後まで投げ切りたい」などと心境を明かしている。DSC00784.JPG

 菅野投手はア・リーグ東地区最下位のチームの中で9勝の勝ち頭です。それでも日本のマスコミは扱ってくれません。ドジャースの大谷選手、山本投手が中心でカブスの鈴木選手もホームラン、打点で注目を浴びているし、パドレスのダルビッシュ投手は日米200勝以上を上げているので取り扱ってくれるのでしょう。しかし、35歳とベテランで今年1年目ながら9勝上げているというのは評価が高いのではないでしょうか。確かに多くの国民が大谷選手、山本選手の活躍を見たいと思っているかもしれません。マスコミは編集方針があるのでまわりから注文を付けるのははばかるところですが、報道の仕方が偏っていると言われて仕方ないのではないでしょうか。本当に一生懸命プレーをして活躍している選手を公平に扱うことを望んでいる人も少なくないのではないでしょうか。日本のプロ野球でもマスコミがこぞってジャイアンツを中心に取り上げていないでしょうか。そのような報道のあり方を国民は喜んでいるのでしょうか。報道各社が偏った見方になっていないのか検討する必要があるのではないでしょうか。DSC00783.JPG
世界で増える戦禍に危機感 #戦争の記憶[2026年01月19日(Mon)]
 AERA DIGTAL2025年8月9日付け「倍賞千恵子(84)さんが語る戦後 「私たちは『平和』に怠惰になっている」 世界で増える戦禍に危機感 #戦争の記憶」から、「戦争や平和について考えるようになったのは、芸能界に入ってからです」。そう語るのは倍賞千恵子さん。きっかけは「いい作品」との出合いだった。倍賞さんが伝えたいこととは。
私は1941年6月、東京・西巣鴨の生まれです。同年の12月には太平洋戦争が始まり、戦況が悪化したので東京を離れ、茨城県の母の故郷の村に疎開したんだと思います。  
疎開先では子どもらしい、伸び伸びとした生活でした。食べ物は不足していましたが、麦ご飯にさつま芋を入れて食べたり、おかずが足りないときは「千恵子、キノコ採っておいで」と言われて、弟を背負い、犬も連れて山にキノコを採りに行き、それが晩御飯のおかずになったり。そんなことを覚えています。  
召集で満州に送られていた父のことを「戦争に行っているんだな」と理解はしていましたが、それ以外は「戦争」というものを感じることのない、楽しい日々でした。4歳で終戦を迎えましたが、玉音放送のこともまったく記憶にないんです。
戦争では何も残せず  
疎開先から東京に戻った後、母から東京の空襲の様子を聞かされたことはあります。米軍機から焼夷弾が落ちると油が家屋の壁に張りつき、そこから炎が出たこと。B29が飛んでくると操縦席にいる人の姿が見えたこと。でも、戦禍のイメージというと子どもの頃はそれくらいしかなかった。戦争や平和について考えるようになったのは、芸能界に入ってからです。いい作品との出合いが、そのきっかけだったように思います。  
たとえば原爆白内障の女性を演じたテレビドラマ「夏の光に…」(80年)や、広島市の平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんの母親役を演じた映画「千羽づる」(89年)。中でも大きな出合いが、谷川俊太郎さん作詞、武満徹さん作曲の「死んだ男の残したものは」です。  
ベトナム戦争最中の65年に作られ、「戦争では何も残せず、みんな死んだ」という歌。これに出合った90年頃から、戦争と平和についてより深く、考えるようになりました。ずっと大切に歌い続けなければと思っている曲です。  
2011年の福島原発事故も、私にとって大きな出来事でした。それまで、いつも戦争や平和の大切さを考えながら仕事をしつつ、大上段に構えて発言することはありませんでした。 
13歳で歌手デビュー、20歳で映画デビューしてずっと、目の前に来る仕事を自分の中で受け止め、演じたり歌ったりに明け暮れる日々。自分の思想を前に出して何かをするところまでいかなかったんでしょうね、きっと。
原発事故の後は、「自分にできることをやろう」と考えが変わりました。被災地に行き、コンサートや朗読もしました。ひとつ思うのは、「原発事故を考えること」と「戦争と平和を考えること」はつながっているということです。  
人が人を殺すということがどんなに悲しく、許されないことかを理解しない人間がいま、核を持ち、兵器を使おうとしている。いったん核を持てば、人間はどこかで使おうとするでしょう。一方で原発事故による被災者の傷もまた、長い年月を経て続くもの。原発は「絶対に安全なもの」とは言えないでしょう。
人間は本当に愚か  
戦争と原発。共通して考えるべきことは、「核」は持ってはいけないということです。そのことが平和につながるということを、すべての人間が真剣に考えないといけないと、私は思います。  
一方で、「平和」という言葉の使われ方に少し違和感を持つこともあります。「平和について考えよう」「平和じゃなきゃいけないよね」などと、「平和」という言葉をある意味でカジュアルに使いすぎることで、私たちのこの言葉に対する姿勢がどこか怠惰になってしまっている。そんな面もあるのではないでしょうか。  
人が人を殺す「戦争」という巨大なものがいったん始まれば、ひとりの人間なんてひとたまりもない。いまも世界中で戦争が起きています。「平和」というものが軽々しく扱われているこの世界だからこそ、一人ひとりが「平和」という言葉をもっと大切に発しなければいけないのではないか。そんな気もします。  
戦争はしちゃいけない、絶対に。でもいまだに世界では戦禍がやまず、減るどころか増えていっている。人間は本当に愚かですね。私も含めてですけど。戦後80年がたち、体験を語ることのできる世代もどんどん少なくなっています。でも、私は希望を持ち続けます。希望がなきゃ生きていけませんから。いま、84歳。残りの人生で何ができるかと言えば、たいしたことはできないかもしれない。でも戦争と平和について考える何らかの機会があれば、少しでも自分のできることをやっていきたい。そう思っています。DSC00786.JPG

 戦争や平和について考えるようになったのは、芸能界に入ってからです。いい作品との出合いが、そのきっかけだったように思います。たとえば原爆白内障の女性を演じたテレビドラマ「夏の光に…」(80年)や、広島市の平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんの母親役を演じた映画「千羽づる」(89年)。中でも大きな出合いが、谷川俊太郎さん作詞、武満徹さん作曲の「死んだ男の残したものは」です。ベトナム戦争最中の65年に作られ、「戦争では何も残せず、みんな死んだ」という歌。これに出合った90年頃から、戦争と平和についてより深く、考えるようになりました。ずっと大切に歌い続けなければと思っている曲です。 2011年の福島原発事故も、私にとって大きな出来事でした。それまで、いつも戦争や平和の大切さを考えながら仕事をしつつ、大上段に構えて発言することはありませんでした。13歳で歌手デビュー、20歳で映画デビューしてずっと、目の前に来る仕事を自分の中で受け止め、演じたり歌ったりに明け暮れる日々。自分の思想を前に出して何かをするところまでいかなかったんでしょうね、きっと。原発事故の後は、「自分にできることをやろう」と考えが変わりました。被災地に行き、コンサートや朗読もしました。ひとつ思うのは、「原発事故を考えること」と「戦争と平和を考えること」はつながっているということです。人が人を殺すということがどんなに悲しく、許されないことかを理解しない人間がいま、核を持ち、兵器を使おうとしている。いったん核を持てば、人間はどこかで使おうとするでしょう。一方で原発事故による被災者の傷もまた、長い年月を経て続くもの。原発は「絶対に安全なもの」とは言えないでしょう。原発は安全性の問題と廃棄物の処理方法が確立されていない状況を考えれば立ち止まって国民が自分たちで是非を判断する必要があるでしょう。原発の大惨事が生じる際には国民が厳しい状況に陥ってしまう可能性が高いでしょう。戦争と原発。共通して考えるべきことは、「核」は持ってはいけないということです。そのことが平和につながるということを、すべての人間が真剣に考えないといけないと、私は思います。人が人を殺す「戦争」という巨大なものがいったん始まれば、ひとりの人間なんてひとたまりもない。いまも世界中で戦争が起きています。「平和」というものが軽々しく扱われているこの世界だからこそ、一人ひとりが「平和」という言葉をもっと大切に発しなければいけないのではないか。そんな気もします。平和は訴えているだけでは実現できないのではないでしょうか。平和を実現するためには世界を巻き込んで行動していかなければならないでしょう。戦争はしちゃいけない、絶対に。でもいまだに世界では戦禍がやまず、減るどころか増えていっている。人間は本当に愚かですね。私も含めてですけど。戦後80年がたち、体験を語ることのできる世代もどんどん少なくなっています。でも、私は希望を持ち続けます。希望がなきゃ生きていけませんから。いま、84歳。残りの人生で何ができるかと言えば、たいしたことはできないかもしれない。でも戦争と平和について考える何らかの機会があれば、少しでも自分のできることをやっていきたい。そう思っています。一人ひとりが自分事と考えできることをやっていかなければならないでしょう。平和な世界で暮らすことができるようにしなければならないでしょう。DSC00785.JPG
『#核兵器反対』『#戦争反対』を訴え続ける信念[2026年01月18日(Sun)]
 文春オンライン2025年8月9日付け「16歳で被爆→78歳で長崎から“家出”して娘と2人暮らし→90歳でX開設…「戦争反対」を訴え続ける森田富美子さん(96)の歯に衣着せぬ人生「私が今一番嬉しいなと思うのは…」」から、〈「絶対に話さない」と決めていた“原爆で家族5人を失った日” 長崎生まれの森田富美子さん(96)が手で作った“30cm”の壮絶すぎる意味とは…〉 から続く
2007年、森田富美子さんは78歳で人生最大の決断を下した。
「今から東京に行く」  
突然の宣言とともに長崎から東京に住む娘・京子さんのもとへ“家出”を果たした。富美子さんは、70歳でパソコンを始め、90歳で「言いたいことを言わせていただく」とプロフィールに書いた『(アカウント名)わたくし90歳』をTwitter(現X)に開設した。96歳の今も実体験に基づく“戦争反対”の発信で注目され続けている。
「これからの人生でそれが一番いい道じゃないかと思った」
「私が東京に出てきたのは、これからの人生でそれが一番いい道じゃないかと思ったから」と富美子さんは振り返る。  
長崎には息子たちもいたが、「一緒にいて一番楽しく、どっちかというと一番頼りになる」京子さんのところに行った。京子さんは小さい頃にアトピーや喘息で眠れない夜が多く、富美子さんが抱いて寝かせていた。
「この人(京子さん)がスキンシップが一番あったんですよ。ちっちゃい頃から、肩揉んだりも一番やってくれてましたから」  
東京に来て富美子さんの生活は一変した。  
「完全に変わったでしょうね。楽しくて楽しくて。東京に来たばかりの頃は毎日1人で歩き回りました。1日2万歩以上歩く日もありました」  
富美子さんが上京したのは、京子さんがヘアメイクの仕事の傍ら大学を受験し、青山学院大学に通い始めた年だった。富美子さんの家出は、「何をいつ始めてもいい」という京子さんの影響もあるのだろうと富美子さんは言う。  
青学大が家族のための無料公開講座をすると聞くと、富美子さんは、すぐに申込み、通い始めた。
タブレット、スマホを使いこなし「スマホ依存症」と笑われたことも
 次の転機は90歳の時だった。新型コロナウイルス蔓延による特別定額給付金の10万円で購入したiPadが、富美子さんの人生を変えることになる。  
富美子さんのデジタル機器への適応力は驚異的だ。70歳のとき、京子さんから送られてきたノートパソコンは京子さんが図入りで書いた説明書だけで、次の日にはメールを送信して京子さんを驚かせた。  
今では、タブレット、スマホを使いこなし、「スマホのアプリで買い物をし、血圧、体温、血糖値、排便、歩数、スケジュールなど全て管理している」。京子さんから「スマホ依存症」と笑われた頃もあった。
さらに2019年6月「言いたいことを言わせていただく」と開設したXアカウントは、当初「わたくし90歳」から始まり、年齢とともに更新されて現在は「わたくし96歳」として8万5000人を超えるフォロワーを持つまでに成長した。  
富美子さんのポストは容赦がない。2021年の自民党総裁選の開票日前日には「誰が選ばれようと、好きなスイーツは何だとかいう報道はいらない。バカバカしいご祝儀支持率をもっともらしく報道するのもやめて欲しい」と斬りつけた。  
長崎にいるかつての同級生も富美子さんのポストを見ている。
「『あのバカたれどもが』とか書いたときは、『あまり過激なこと書いちゃダメよ』と電話の向こうで大笑いしています」  
なぜこれほど率直に発言できるのかと聞くと、富美子さんは若い頃から「そういう気質」だったという。  
戦争が終わったとき、女学校4年生だった富美子さんは、ろくに勉強もしないまま、あと半年で女学校生活を終わらせることはできないと思った。ひとりで校長室に行き「1年延長して下さい」と直談判した。すると、それが聞き入れられ、戦後の混乱期に、勉強を続けたいという強い意志を貫いた行動力が今に続いている。
「一番は武蔵のこと」
 91歳のツイートを機にこれまで戦争体験について何度も取材を受け、話してきた富美子さんだが、あるフラストレーションを溜めていたという。
「一番は武蔵のこと」  
戦時中、長崎の富美子さんの家には戦艦武蔵の乗組員5人が寝泊まりしていた。武蔵が長崎から離れる日、玄関先に並んだ彼らは富美子さんの母に向かい「お母さん、ありがとうございました!」と敬礼した。  
母もきちんと敬礼を返したが、すぐに崩れるようにしゃがみ込み、ずっと顔を上げられずにいたことを今でも思い出すと言う。戦艦武蔵は長崎を発った後、1944年10月24日、レイテ沖海戦で沈没した。
「私が東京に来て何年か経った頃(2015年)、武蔵が沈んでいるところがテレビで映ったんですよ。そのとき、武蔵が沈んだところにきれいなお魚が泳いでいくのを見て、『あれは兵曹だ、水兵だ、〇〇さんだ、△△さんだ』と声に出して言ったら、涙が出てどうしようもなくて」  
富美子さんが取材を受けるようになり、その横で戦争体験を聞くようになった京子さんは、武蔵の乗組員が富美子さんの家で、武蔵出港前に心和む時間があったことを遺族に伝えたいと思い、連絡先を探した。Twitterのアカウント「軍艦武蔵会」からホームページへと辿り、何度かメールをしたが、返信はなかった。
家族を探しに家に戻る道中に出会った14歳の少女
 また、長崎に原爆が投下された後、家族を探しに家に戻る道中、富美子さんは、家から近かったマルハ工場で一緒だった14歳の少女と出会った。その子は富美子さんを「お姉さん」と呼びとめ、「鹿児島に帰りたい」と言った。自分のことで精一杯だった富美子さんは浦上駅と長崎駅の方を指さし、「駅に行ってみたら」としか言えなかった。あの少女はその後、無事に家に帰れたのか……。そのことがずっと頭の中にあった。  
京子さんは、鹿児島県庁や奄美の市役所に電話で問い合わせ、少女の行方も探ろうとしたが、名簿は戦犯になることを恐れた関係者によって焼かれていた。「せめてあと5年早く話してくれれば、まだ生き残った人たちがいたはず」と悔しさを滲ませる京子さんだが、富美子さんが胸の内に秘めた思いをようやく話せたのがその時だったことは誰にも責められない。  
そんな信頼しあう母娘の共著 『わたくし96歳 #戦争反対』 は、企画の話があってから書き終えるまでわずか4か月という短期間でほぼ完成した。その理由は京子さんが“記録魔”だったからだという。
「取材のたび、メモったり、家に帰ってから覚えてることを全部打ち込んだりしていました。それが結構たまってて、本のお話をいただいたときは、タブレットにもスマホにも、そして手書きのメモやノートもかなりの量になっていたんですよね」(京子さん)  
そして、それらをもとに本の執筆が始まった。京子さんのメモや記録は、本のために、よりリアルな描写が加えられた。  
話すと決意はしていても、富美子さんにとって戦争の記憶をよみがえらせることはやはり苦しい。しかし京子さんは無理強いせず、母が話せるタイミングを粘り強く待ったという。
「いろいろ聞かれて、もう嫌っていうようなことはあります。ですから、その時はこの人(京子さん)は絶対そのままにしてくれました」(富美子さん)  
富美子さんの京子さんに対する信頼は絶対的だ。
「私はこの人(京子さん)、ものすごく頭がいいと思ってます。子どもにいろいろ教わっている。私が今日まで頑張って、いろいろな方と会ったりいろいろなことができたのは、この人が本当に一生懸命やってくれているから。ですからやっぱり東京に出てきてよかったなとほとんど毎日のように思ってます」
「こんな可愛い服を弟たちに着せたかったと思い、つい買ってしまいました」
 富美子さんのファッションはいつも若々しい。楽しいキャラクターのTシャツにパーカーやジャンパー。これらのファッションには、富美子さんの“ある思い”が込められているという。  
富美子さんが着用するキャラクターの服や帽子は、「初めて見た時、こんな可愛い服を弟たちに着せたかったと思い、つい買ってしまいました」。それが始まりで「今では自分自身気に入って、こんなのばかり着ています」と富美子さんは笑う。  
最近、取材のたびに聞かれる「これからしたいことは?」の質問に「南の島で泳ぎたいですね」と答えているそうだ。横から京子さんが笑いながら「実は南の島移住計画を立ててます」と言い、2人で笑い始めた。
「この方は、泳ぎが得意なもんですから、私たちきょうだいがまだ小さい頃も、浅いところで遊んでいる私たちを置いてじゃあ行ってくるって大きい麦わら帽子を被って小さくなるぐらいまで泳いで行って、沖でぷかぷかしてたんですよ」(京子さん)  
富美子さんは現在の政治情勢に対しても、歯に衣着せぬ発言を続ける。
「私は仕事先で母のポストをチェックしてはときどきヒヤヒヤしてます。最近はユーモアまじりでも、誰かを刺激してしまうかもしれない投稿は控えた方がいいですから」(京子さん)  
しかし富美子さんの発信は確実に広がっている。
「私が今一番嬉しいなと思うのは、私のツイート(ポスト)に応えて下さる方がいらっしゃること。私は朝晩のツイートに必ず『#核兵器反対』『#戦争反対』とハッシュタグをつけているんですが、それに応えてくださる方が同じタグをつけてくださって、本当に嬉しいな、大事だなと」(富美子さん)  
96歳の被爆者が発する言葉には重みがある。戦争を実際に体験し、家族を失った当事者の声だからだ。  
年齢を重ねても新しいことにチャレンジし続ける富美子さんと、それを支え続ける京子さん。戦争の記憶を語り継ぐという重要な使命を担って、96歳の冒険はまだまだ続いていく。DSC00788.JPG

 突然の宣言とともに長崎から東京に住む娘・京子さんのもとへ“家出”を果たした。富美子さんは、70歳でパソコンを始め、90歳で「言いたいことを言わせていただく」とプロフィールに書いた『(アカウント名)わたくし90歳』をTwitter(現X)に開設した。96歳の今も実体験に基づく“戦争反対”の発信で注目され続けている。強い信念ですね。次の転機は90歳の時だった。新型コロナウイルス蔓延による特別定額給付金の10万円で購入したiPadが、富美子さんの人生を変えることになる。富美子さんのデジタル機器への適応力は驚異的だ。70歳のとき、京子さんから送られてきたノートパソコンは京子さんが図入りで書いた説明書だけで、次の日にはメールを送信して京子さんを驚かせた。今では、タブレット、スマホを使いこなし、「スマホのアプリで買い物をし、血圧、体温、血糖値、排便、歩数、スケジュールなど全て管理している」。京子さんから「スマホ依存症」と笑われた頃もあった。さらに2019年6月「言いたいことを言わせていただく」と開設したXアカウントは、当初「わたくし90歳」から始まり、年齢とともに更新されて現在は「わたくし96歳」として8万5000人を超えるフォロワーを持つまでに成長した。やりたいことをやり続けるのが最高かもしれません。「私が今一番嬉しいなと思うのは、私のツイート(ポスト)に応えて下さる方がいらっしゃること。私は朝晩のツイートに必ず『#核兵器反対』『#戦争反対』とハッシュタグをつけているんですが、それに応えてくださる方が同じタグをつけてくださって、本当に嬉しいな、大事だなと」96歳の被爆者が発する言葉には重みがある。戦争を実際に体験し、家族を失った当事者の声だからだ。年齢を重ねても新しいことにチャレンジし続ける富美子さんと、それを支え続ける京子さん。戦争の記憶を語り継ぐという重要な使命を担って、96歳の冒険はまだまだ続いていく。核兵器は根絶するのは容易ではないし、戦争も無責任なリーダーが存在する限りなくなることはないでしょうが、核兵器反対、戦争反対は声を上げ続けなければならないでしょう。何歳になっても信念を持ってやり続ける姿勢に共感します。DSC00787.JPG
女性たちが夢をあきらめずに得意なこと、好きなことをやれる社会に[2026年01月17日(Sat)]
 信濃毎日新聞デジタル2025年8月9日付け「「子どもは望んでたけど、時間とキャリアがなくなった」夢を諦めかけた母親たち、パン作りを始めて踏み出した一歩 支え合い営む店で見つけた新たな道」から、「少しずつ」…店名に込めた思い
庭の事情で夢を諦めかけた女性たちの店―。長野県長野市三輪に子育て中の母親6人で営むパン店「petit a petit(プチタプチ)」がオープンし、話題となっている。10年前から自宅でパン教室を開いている同市松岡の宮本明子さん(41)が開業。店名はフランス語で「少しずつ」という意味で、「少しずつ自分ができることをやって、夢をかなえる場所にしたい」との思いを込めている。
赤ちゃんをおんぶしたまま開店準備
 「ちょっと授乳するね」「はいよ、ドーナツが焼けたら出しておくね」。焼きたてのパンの香りが漂う店内で、宮本さんらが開店準備を進めていく。赤ちゃんをおんぶしたまま働いたり、小学生の子が一緒に出勤して接客のお手伝いをしたり。お互いに無理のない働き方をしている。
子育ての大変さが分かるからカバーし合える
 こうじを使ったベーグルや、ふわふわの食感と甘さが特長の「赤ちゃんのおしりパン」などが人気。野菜たっぷりのランチは、みんなで試食しながら考案している。営業中に子どもがぐずると誰かがお散歩に連れて行くことも。宮本さんは「みんな子育ての大変さが分かるから、自然とカバーし合える」と話す。
子育てとの両立、描けず離職
 宮本さんは大学卒業後、10年ほど結婚式場のカメラマンとして働いていたが、長男を妊娠したのを機に一線を退いた。好きな仕事だったが、脚立に乗る必要があるなど続けるのは難しかった。出産後しばらくは単発で復帰したが、婚礼は土日に集中することもあり、子育てと両立していく道筋が描けなかった。
たまたま体験したパン作り
 「子を望んでいたし、かわいいけれど、自分の時間とキャリアがなくなった喪失感もあった」。たまたまパン作りを体験したのをきっかけに、育児の合間にパンを作るように。
長男は「よく泣き、よく食べ、全然寝ない子」。まとまって寝てくれる早朝の時間帯だけが「自分の時間」で、寝る間を惜しみ、毎日無心でパン生地をこねた。
長男のおやつがきっかけに
 長男のおやつにしていた「赤ちゃんのおしりパン」をママ友との集まりに持参し、「おいしい」と喜ばれ、作り方を教えてほしいと頼まれた。これがパン教室のきっかけとなり、今では親子連れを中心に、日曜は1年先まで、平日も半年先まで予約で埋まる人気ぶりだ。
スキルも夢もあるけれど…
 一緒に店を始めた5人はもともと教室の生徒たち。調理師や保育士、パン作りや手芸が得意など、スキルも夢もあるけれど、育児や家業の制約があり、一歩踏み出せずにいたといい、「だったら一緒にやろうよ」と声をかけた。
得意なことや好きなことを持ち寄る
 「夢を諦め、自信が持てずにいたママたちが得意なことや好きなことを持ち寄って、お客さんに価値を提供できたらいい」と宮本さん。今後も少しずつ事業を広げ、より多くの母親が夢を実現する場にしたいと思い描いている。DSC00790.JPG

 10年前から自宅でパン教室を開いている同市松岡の宮本明子さん(41)が開業。店名はフランス語で「少しずつ」という意味で、「少しずつ自分ができることをやって、夢をかなえる場所にしたい」との思いを込めている。「ちょっと授乳するね」「はいよ、ドーナツが焼けたら出しておくね」。焼きたてのパンの香りが漂う店内で、宮本さんらが開店準備を進めていく。赤ちゃんをおんぶしたまま働いたり、小学生の子が一緒に出勤して接客のお手伝いをしたり。お互いに無理のない働き方をしている。自然体でいいですね。営業中に子どもがぐずると誰かがお散歩に連れて行くことも。宮本さんは「みんな子育ての大変さが分かるから、自然とカバーし合える」「子を望んでいたし、かわいいけれど、自分の時間とキャリアがなくなった喪失感もあった」。たまたまパン作りを体験したのをきっかけに、育児の合間にパンを作るように。長男は「よく泣き、よく食べ、全然寝ない子」。まとまって寝てくれる早朝の時間帯だけが「自分の時間」で、寝る間を惜しみ、毎日無心でパン生地をこねた。一緒に店を始めた5人はもともと教室の生徒たち。調理師や保育士、パン作りや手芸が得意など、スキルも夢もあるけれど、育児や家業の制約があり、一歩踏み出せずにいたといい、「だったら一緒にやろうよ」と声をかけた。「夢を諦め、自信が持てずにいたママたちが得意なことや好きなことを持ち寄って、お客さんに価値を提供できたらいい」今後も少しずつ事業を広げ、より多くの母親が夢を実現する場にしたいと思い描いている。DSC00789.JPG
「老年を幸福にする4つの要素」とは[2026年01月16日(Fri)]
 婦人公論.jp2025年8月8日付け「作家・曽野綾子が語った「老年を幸福にする4つの要素」自分にとって大切なものは一代限りで捨て、自由になる範囲のお金や心や時間は他人のために使う」から、小説『神の汚れた手』など多数のベストセラーで知られる作家・曽野綾子さんが、2025年2月に逝去されました。曽野さんは小説のほか、近年では老いについてのエッセイも手掛けていました。そこで今回は、老いを充実させる身辺整理の極意についてまとめられた著書『人生の後片づけ: 身軽な生活の楽しみ方』から一部を抜粋し、ご紹介します。
私を幸福にしてくれる要素は四つある 老年に向けての幸福論などというものを改めて必要とするようになったのは、私たちの寿命が長くなったからである。
高齢まで生き延びた人たちが、もしも思考するという能力を残しているなら、それは大きな幸せだが、自分の意志もなしに長寿を与えられているとしたら、それは手放しで喜べることではない。
老年の幸福を、私は敢えて健康を別にして考えたいと思う。なぜなら健康は深酒、暴食、喫煙のような自分に責任のある要素を除くと、素質的な要素が多いから、自分の自由にならないのである。
そして健康という要素を除外しても、私を幸福にしてくれる要素は四つあるだろうという気がする。
写真、記念品、手紙は一代限りで捨てる
第一の単純な条件は、身辺整理ができていることである。まずガラクタを捨て、家の空間を多くする。自分にとって大切なものも、私の死後は、娘や息子にとってさえ要らない場合が多い。ましてや他人には何の価値もない。写真、記念品、トロフィー、手紙、すべて一代限りで今のうちにさっさと捨てる。その捨てるという作業に専念できる日が目下の私にはそれほど多くないので、整理は遅々として進まない。
空間が増えるということは、老年の家事労働が楽になることなのである。拭き掃除も簡単になる。探し物もしなくて済む。腰が痛い人は屈まなくていい。嫌な匂いを家の中に溜めず、いつも風通しのいい状態を保てる。
床もテーブルも物置ではない。ものはその本来の目的のために働けるようにしてやることが大切だ。床は移動のための空間なのだから、何も障害物なしに動ける状態がよく、テーブルは食事のためだけにいつも空けておかなければならない。
冷蔵庫の中のものも、古いものから残さずに使って、必ず別の料理に使う。しかし衣服などいつも古いものばかり着ていると、老人自身が古びているのだからますます見苦しくなる。時々古いものを捨てて新しい衣服を取り入れ、こざっぱりした暮らしをするのが私の理想だ。
他者を愛することが自分を幸せにする
第二の条件は、老年がもうそれほど先のことを考えなくてよくなっていることから始まる。私は自分が死んだ後のことなど考えられないし、またあまり考えて口を出してはいけないような気もしている。だから、自由になる範囲のお金や心や時間は、他人のために使うことが満たされるための条件のような気がしている。
それはこういう理論からである。人間は人に与えられる立場にいるうちはどんなに年を取っても現役なのである。しかし受けることだけを期待するようになると、それは幼児か老人の心境だから、つまりまだ一人前でないか、既に引退した人物かどちらかになるのである。老年になっても、全く自分の利益しか考えなかったら、その老人は孤立して当然だ。
つまり人生を活力で満たすものは「愛」、相手が幸福であることを願う姿勢なのである。他者を愛することが自分を幸せにする、という一見矛盾した真理を認めること、これが第三の条件なのだが、この程度のことは誰でも知っていると思っていると、それがそうでもない。老化は利己主義の方向にどんどん傾くからである。
自分だけの利益や幸福を追求しているうちは、不思議なことに自分一人さえ幸福にならない。これは別に老年だけの特殊事情ではないのだが、若い世代でも、まず自分の利益を守ることが人権というものなのだ、と教わったらしいから、幸福になりようがない。自分のことだけを考える子供のような年寄りになるのは、やはり失敗した老年を迎えたことなのである。
ないものを数えずに、あるものを数える 第四の条件は、適度の諦めである。
この世で思い通りの生を生きた人はいないのだ。それを思えば、日本人の99パーセントまでは、実生活において人間らしくあしらわれている。水道や電気の恩恵に浴し、今晩食べるもののない人も例外的にしかいない。医療機関に到達できずに痛みに耐えている人もいないし、子供を通わす学校がないという人もいない。
それらはすべて、世界中の人が当然受けているものではないのである。世界には常に政治的な難民と呼ばれる人や、日本人と比較しようもないほどの動物のようなみじめさの中で暮らす貧民がいる。彼らと比べると、総じて日本人は人間として最低条件が整った生活をして生きてきた。もって瞑すべし、と私はいつも思う。
ほんとうは社会の不平等や、親子の不仲や、友の裏切りは、人間としての人生の許容範囲の中にある。事故や事件で命を失うことは許容の範囲とは言えないかもしれないが、潜在的可能性の中にはある。「ないものを数えずに、あるもの(受けているもの)を数えなさい」という言葉がある。私はこの姿勢が好きだ。この知恵に満ちた姿勢でてきめん幸せになるからだ。DSC00792.JPG

 第一の単純な条件は、身辺整理ができていることである。まずガラクタを捨て、家の空間を多くする。自分にとって大切なものも、私の死後は、娘や息子にとってさえ要らない場合が多い。ましてや他人には何の価値もない。写真、記念品、トロフィー、手紙、すべて一代限りで今のうちにさっさと捨てる。そう思います同感です。私は自分が死んだ後のことなど考えられないし、またあまり考えて口を出してはいけないような気もしている。だから、自由になる範囲のお金や心や時間は、他人のために使うことが満たされるための条件のような気がしている。確かにそうですね。人生を活力で満たすものは「愛」、相手が幸福であることを願う姿勢なのである。他者を愛することが自分を幸せにする、という一見矛盾した真理を認めること、これが第三の条件なのだが、この程度のことは誰でも知っていると思っていると、それがそうでもない。老化は利己主義の方向にどんどん傾くからである。自分だけの利益や幸福を追求しているうちは、不思議なことに自分一人さえ幸福にならない。これは別に老年だけの特殊事情ではないのだが、若い世代でも、まず自分の利益を守ることが人権というものなのだ、と教わったらしいから、幸福になりようがない。自分のことだけを考える子供のような年寄りになるのは、やはり失敗した老年を迎えたことなのである。ないものを数えずに、あるものを数える 第四の条件は、適度の諦めである。この世で思い通りの生を生きた人はいないのだ。それを思えば、日本人の99パーセントまでは、実生活において人間らしくあしらわれている。水道や電気の恩恵に浴し、今晩食べるもののない人も例外的にしかいない。医療機関に到達できずに痛みに耐えている人もいないし、子供を通わす学校がないという人もいない。適度の諦めが必要ですね。納得です。ほんとうは社会の不平等や、親子の不仲や、友の裏切りは、人間としての人生の許容範囲の中にある。事故や事件で命を失うことは許容の範囲とは言えないかもしれないが、潜在的可能性の中にはある。「ないものを数えずに、あるもの(受けているもの)を数えなさい」という言葉がある。私はこの姿勢が好きだ。この知恵に満ちた姿勢でてきめん幸せになるからだ。「ないものを数えずに、あるもの(受けているもの)を数えなさい」そうですね。大変勉強になりました。これからの残りの人生の教訓にしたいと思います。DSC00791.JPG
ガーナのごみ問題も「自分ごと」にできる人は社会を変えられるのでは[2026年01月15日(Thu)]
 BUSINESS INSIDER2025年8月7日付け「「まず自分が悪いと思え」。ガーナのごみ問題も「自分ごと」にできる人は世界をどう見ている?」から、DEIやエシカル消費、ジェンダー平等……Mashing Upではこれまでも、さまざまな社会課題を伝えてきた。どれも大切なテーマだけれど、心のどこかでこんなふうに思うことがある。
「これって、関心のある人にしか届いていないんじゃないか?」
そんな問いを抱えて、今回のポッドキャスト番組「社会のミカタ──ニュースより身近な、世の中の「なんで?」を考えよう」では、CLOUDY代表・銅冶勇人(どうや・ゆうと)さんをゲストに迎えた。
銅冶さんはアフリカ・ガーナに自ら工場をつくり、現地で人を雇用しながら、アフリカンテキスタイルを使ったバッグや洋服を日本で展開し、現地の子どもたちや女性に教育を提供することを目指している。
なぜ、遠い国のことを“自分ごと”にできるのか。銅冶さんの話を聞きながら、一緒に考えてみた。
この記事は、経済メディア『Business Insider Japan』とDEIメディア&コミュニティ『Mashing Up』によるポッドキャスト番組「社会のミカタ」vol.1、vo.2の内容をまとめたものです。 【音声版はこちら】Spotify、Apple Podcast、Amazon Music、YouTube 
「アフリカ=かわいそう」は伝わらない
CLOUDY(クラウディ)は、ポップでカラフルなデザインが印象的なブランドだ。アフリカの民族柄や伝統的な織物を取り入れたバッグやアパレルを展開している。
実はCLOUDYの製品はアフリカ・ガーナの自社縫製工場でつくられていて、現地で600人以上の女性の雇用を生み出している。店舗やオンラインショップは、一見すると社会課題の解決を前面に押し出しているようには見えない。だが、それはあえて“そうしていない”のだという。
「“貧しい人を助けましょう”という打ち出し方って、正しそうに見えて、人を遠ざけると思うんです。可哀想だから助ける、っていうのは続かないんですよ」
実際、CLOUDYが実施したアンケートでも「“支援”や“貧困”を前面に出している店舗には入りづらい」と答えた人が8割以上にのぼったという。
「義務感が生まれてしまう。“何かしてあげなきゃいけない”っていう空気になるし、商品の魅力が後回しになる。そうじゃなくて、“かわいいから買った”でいいんです。そこから自然と興味が湧いて、背景を知ってもらえればいい」
社会課題に関わるきっかけは、かっこいいとか、素敵とか、ちょっと気になる──そんな感情でいい。その「入り口」をつくることにこそ、銅冶さんは力を注いできた。そこには、彼自身の原体験と習慣、そして揺るがない哲学がある。
「二度と行かない場所」への卒業旅行が、人生を変えた
アフリカとの出会いは、大学の卒業旅行だった。
「就職前の最後の休みに、“二度と行かないような場所に行こう”と思って選んだのが、ケニアのマサイ族の村でした」
そう話す銅冶さんが滞在中に足を運んだのが、ナイロビにあるキベラスラム。200世帯に1つしかトイレがない環境に衝撃を受けたという。
ただ、もっと印象に残ったのは“支援の現場”だった。
「現地のため」と思って行われていたはずの古着の寄付などの社会貢献活動が、必ずしも人々のためになっていない。むしろ、支援のかたちによっては、現地にマイナスの状況を生んでいることもあった。
この時すでに、銅冶さんは外資系金融・ゴールドマンサックスへの就職が決まっていた。多くの人なら「心は動いたけれど、自分にできることはない」と受け止めて終わっていたかもしれない。銅冶さんは、その状況を「どうにかしたい」と思い、実際に動き出した。
その背景には、子どもの頃から家庭で繰り返し言われてきた言葉がある。
「“やってもやらなくても良いことは、まずはやってみなさい”。幼少期からずっと家庭内で言われ続けてきた言葉で……やってみて、その後に判断しようという行動原理が根付いていた」
働きながら、休日や休暇を使ってNPO法人を立ち上げ、ガーナに学校を建てる活動をスタートさせた。けれど、学校を作るだけでは、現地の女性たちの暮らしは変わらなかった。貧困から抜け出すには、教育の先にある“仕事”が必要だった。
「学校に行けなくても、仕事になることってなんだろう」
現地を見渡すと、庭先でミシンを踏んでいる女性の姿があった。縫製作業はすでに日常の中にあり、それが“仕事”になる土壌はあった。そして何より、アフリカには美しく、カラフルなテキスタイルがある。その魅力を、商品として日本に届ける。CLOUDYはこうして生まれた。
現在は原宿の複合施設・ハラカドに実店舗を構え、最近ではハンカチで人気のライフスタイルブランド「フェイラー」とのコラボも話題になるなど、女性を中心に支持を集めている。
「ガーナのカカオの殻」だって、自分ごと
銅冶さんの活動は、アパレルにとどまらない。
社会課題を“自分ごと”として受け取ってもらうために、アウトプットの形を少しずつ変えながら、届け方を広げている。
最近手がけた商品のひとつが、「CHOCOPEN(チョコペン)」プロジェクトだ。原料には、ガーナで大量に廃棄されているカカオの殻を使っている。世界有数のカカオ産地であるガーナ。だが、カカオの実を包む殻は大量に捨てられ、土壌や衛生環境に深刻な影響を及ぼしている。
「カカオ農園の人たちって、チョコレートを食べたことがない人がたくさんいるんですよね。だから、このカカオの殻のゴミって、もしかしたら“僕たちのゴミ”とも言えるのかなと思うんです」
この課題に対して、何かできないか。そう考えて三菱鉛筆とともに始めたのが、カカオの殻を再利用した鉛筆づくりだった。製造はガーナ現地で行い、雇用も生まれている。こうしてできた「CHOCOPEN」は、オンラインショップなどで販売中だ。
「架空の大学」で“つながり”をデザイン
2025年には、新ブランド「THE UNIVERSITY」もスタートした。 10年後には、実際にガーナにこの“大学”を建設する計画を掲げ、その利益の一部が運営資金として積み立てられていくという。今後は「アメフト部」「吹奏楽部」「帰宅部」など、さまざまな“部活”をモチーフにしたプロダクトを展開し、企業や団体とのコラボレーションも予定している。
「真面目すぎないことも大事なんです。楽しんで関わってもらえたら、それがきっと社会を動かす力になると思っています」
社会を変える前に、「自分」に矢印を向ける
遠く離れた地の問題をぎゅっと「自分ごと」にとらえて、その問題解決のために心血を注いでいる銅冶さん。社会課題を“他人ごと”から“自分ごと”にミカタを変えるには?を聞いた。
「『まず、自分が悪いと思え』です」
その理由について、こう説明する。
「(ゴールドマン・サックス時代の)上司から言われた言葉です。何か問題が起きたとき、つい人や周りのせいにしたくなりますよね。でもその前に、自分に何かできたことはなかったか、自分に嘘をついていなかったか。それを問い続けることが大事だと思っています」 社会問題も同じだ、と銅冶さんは言う。
世界の貧困や環境問題を「遠い誰かの問題」として眺めるのではなく、自分の足元にある選択や行動から問い直す。たとえば、今日の買い物。ゴミの捨て方。誰かにかけた言葉。そのすべてに、「社会との接点」がある。
「社会を変える前に、自分をまっすぐ見ているか。それがすべてのスタートなんだと思います。たぶん、社会課題っていうのは、半径2メートル以内に、もうすでに転がってるんですよ」
遠くの国を変えるよりも難しいのは、案外、自分の“見方”を変えることなのかもしれない。
GUEST 認定特定非営利活動法人CLOUDY代表 銅冶勇人さん 2008年慶應義塾大学経済学部卒業後、ゴールドマン・サックス証券に入社。10年にNPO法人CLOUDYを設立しアフリカでの教育支援を開始。15年にDOYAを設立、雇用創出を目的としたアパレルブランド「CLOUDY」を立ち上げ、ガーナに自社工場を設立。非営利と営利を循環させ、ビジネスとクリエイティブで社会課題の解決を目指す。
ポッドキャスト番組『社会のミカタ』 ──ニュースより身近な、世の中の「なんで?」を考えよう 日常の中で感じる「本当にそう?」「これってなんで?」というモヤモヤを入り口に、“社会の見方”をアップデートしていく番組です。ゲストとの対話を通じて、多様な価値観や新しい視点を知ることで、明日から世界が少しだけ違って見える。そんな、やさしい“ミカタ”が増えていく時間をお届けします。DSC00794.JPG

 銅冶さんはアフリカ・ガーナに自ら工場をつくり、現地で人を雇用しながら、アフリカンテキスタイルを使ったバッグや洋服を日本で展開し、現地の子どもたちや女性に教育を提供することを目指している。「“貧しい人を助けましょう”という打ち出し方って、正しそうに見えて、人を遠ざけると思うんです。可哀想だから助ける、っていうのは続かないんですよ」「“支援”や“貧困”を前面に出している店舗には入りづらい」と答えた人が8割以上にのぼったという。「義務感が生まれてしまう。“何かしてあげなきゃいけない”っていう空気になるし、商品の魅力が後回しになる。そうじゃなくて、“かわいいから買った”でいいんです。そこから自然と興味が湧いて、背景を知ってもらえればいい」社会課題に関わるきっかけは、かっこいいとか、素敵とか、ちょっと気になる──そんな感情でいい。その「入り口」をつくることにこそ、銅冶さんは力を注いできた。そこには、彼自身の原体験と習慣、そして揺るがない哲学がある。「“やってもやらなくても良いことは、まずはやってみなさい”。幼少期からずっと家庭内で言われ続けてきた言葉で……やってみて、その後に判断しようという行動原理が根付いていた」働きながら、休日や休暇を使ってNPO法人を立ち上げ、ガーナに学校を建てる活動をスタートさせた。けれど、学校を作るだけでは、現地の女性たちの暮らしは変わらなかった。貧困から抜け出すには、教育の先にある“仕事”が必要だった。「学校に行けなくても、仕事になることってなんだろう」現地を見渡すと、庭先でミシンを踏んでいる女性の姿があった。縫製作業はすでに日常の中にあり、それが“仕事”になる土壌はあった。そして何より、アフリカには美しく、カラフルなテキスタイルがある。その魅力を、商品として日本に届ける。CLOUDYはこうして生まれた。現在は原宿の複合施設・ハラカドに実店舗を構え、最近ではハンカチで人気のライフスタイルブランド「フェイラー」とのコラボも話題になるなど、女性を中心に支持を集めている。社会課題を“自分ごと”として受け取ってもらうために、アウトプットの形を少しずつ変えながら、届け方を広げている。最近手がけた商品のひとつが「CHOCOPEN(チョコペン)」プロジェクトだ。原料には、ガーナで大量に廃棄されているカカオの殻を使っている。世界有数のカカオ産地であるガーナ。だが、カカオの実を包む殻は大量に捨てられ、土壌や衛生環境に深刻な影響を及ぼしている。「カカオ農園の人たちって、チョコレートを食べたことがない人がたくさんいるんですよね。だから、このカカオの殻のゴミって、もしかしたら“僕たちのゴミ”とも言えるのかなと思うんです」 この課題に対して、何かできないか。そう考えて三菱鉛筆とともに始めたのが、カカオの殻を再利用した鉛筆づくりだった。製造はガーナ現地で行い、雇用も生まれている。こうしてできた「CHOCOPEN」は、オンラインショップなどで販売中だ。社会課題の解決をビジネスと結びつけ持続させていることが素晴らしいですね。遠く離れた地の問題をぎゅっと「自分ごと」にとらえて、その問題解決のために心血を注いでいる銅冶さん。社会課題を“他人ごと”から“自分ごと”にミカタを変えるには?を聞いた。なかなかできることではないですね。世界の貧困や環境問題を「遠い誰かの問題」として眺めるのではなく、自分の足元にある選択や行動から問い直す。たとえば、今日の買い物。ゴミの捨て方。誰かにかけた言葉。そのすべてに、「社会との接点」がある。「社会を変える前に、自分をまっすぐ見ているか。それがすべてのスタートなんだと思います。たぶん、社会課題っていうのは、半径2メートル以内に、もうすでに転がってるんですよ」遠くの国を変えるよりも難しいのは、案外、自分の“見方”を変えることなのかもしれない。このように考える人がリーダーになって政治を変えれば多くの人たちが安心して生活できるようになるかもしれません。世界中で真のリーダーを求めていますが、さまざまな難題を自分事として考えることができる人が相応しいのではないでしょうか。DSC00793.JPG
7歳で人生暗転、原爆で両親失い孤児に 飢えに苦しんだ少年が菓子職人に[2026年01月14日(Wed)]
 中国新聞デジタル2025年8月6日付け「7歳で人生暗転、原爆で両親失い孤児に 飢えに苦しんだ少年が菓子職人に 被爆80年目に初めて明かす半生 #戦争の記憶」から、慈しんでくれた父母も、一緒に遊んだきょうだいもあの瞬間まで確かに生きていた。「地獄」の惨禍をくぐり抜けた被爆者は、今なお心身の傷に苦しむ。広島市南区の底押(そこおし)勝さん(87)は、原爆に苦難の戦後を強いられた1人だ。両親と長兄を奪われ、孤児として生きてきた。この夏、新聞3社が取り組んだ全国被爆者アンケートを通じ、初めて記憶の一端を明かした。「節目の年だから」。広島は8月6日、米軍が落としたたった1発の原爆に街も営みも破壊されてから、80年の朝を迎えた。
87歳の菓子職人 今明かす過去
 手書きのポップに昭和の風情が漂う店内。広島市南区の底押製菓は、素朴な味わいのケーキや焼き菓子が人気だ。「うちは昔ながらのもんしかないけどね」。店主の底押さんは照れたように笑う。今なお現役。朝に夕に1人で厨房に立ち、自慢の菓子を次々に焼き上げる。  
ことし7月、創業60年を迎えたばかり。「家族に苦労をかけたが、よう続いた。少しは皆さんにうまいと思うてもらえたんかな」。ただ、その半生を知る人は地元でも少ないだろう。底押さんは、自身の過去を家族以外に話してこなかった。
原爆で両親奪われ 7歳で孤児に
幼い頃の記憶はおぼろげだが、自宅は広島市中心部から南に下った竹屋町(現中区)にあり、父は炭や七輪の販売をなりわいにしていた。底押さんは4人きょうだいの末っ子。すぐ上の兄とも10歳ほど離れていた。「かわいがられとったんでしょう」。両親と3人で、街中の芝居小屋に行った思い出が残る。  
1945年8月6日朝、人生は暗転した。父は問屋街に出かけ、自身は竹屋国民学校(現竹屋小)の校庭にいた。校舎の壁にもたれ、青空を見上げていたら、軍用機が見えた。その行方を目で追っていると突如、強烈な光が走った。気付いた時には、目の前が真っ暗だった。
「校舎の下敷きよね。男の先生に引っ張り出されました」。幸い、かすり傷を負った程度。
火の手を避け、人波を追って西方へ逃げた。「どこをどう走ったか、よう覚えてないんよ。
とにかく、恐ろしかった」  
「まさるちゃん、生きとったんね」。名を呼ばれたのは、爆心地から西の己斐地区(現西区)の橋上だった。人混みの中にすすだらけの義姉の姿を見つけ、思わず抱きついていた。
「橋の上でばったり、出会ったんよね。大泣きしました。会えてなかったら、どうなっとったか…」。長兄の妻に当たるその人と、五日市町(現佐伯区)の七輪工場へ。その夜は外にむしろを敷いて眠り、翌日、鳥取県内の義姉の里へ向かった。  
見知らぬ地。両親の迎えを待ちわびたが、8月半ばに現れたのは姉だった。聞かされたのは家族の絶望的な話だった。次兄は、大やけどを負っていた。何より、父と長兄の行方は分からないまま。そして、母は似島(現南区)で息を引き取ったらしい。7歳で原爆孤児となった。
布団の中で泣いた夜 飢えの苦しみも知る
 底押さんは、今の広島県大崎上島町にいた伯母の元へ預けられ、島の学校に通った。
「ようしてもらったし、食べ物にも苦労せんかった。でも、寂しくてね」。小部屋をあてがわれ、1人で寝起きする毎日。布団の中で隠れて泣いた夜もあった。  
1949年に入って、姉に引き取られた。福島町(現西区)で2人暮らしを始めたが、「食べられんでね。本当に苦しかった」。姉は懸命に働いてくれたが、底押さんはやせ細った。1度、近所の人がサバの煮付けを食べさせてくれたことがある。人目も気にならなかった。「もう、がつがつ食べた。近所で『あの子は死ぬるよ』とうわさされとりました」  
児童相談所を経て、1950年8月に行き着いた先が、五日市町(現佐伯区)にできたばかりの児童養護施設「八幡学園」だった。園に、当時の「児童措置台帖」が残る。黄ばんだノートに確かに刻まれていた。「両親共ニ原爆死 底押勝」。当時12歳。底押さんは18人目の園生となった。  
やっと見つかった居場所。今も思い出す。「お母さん」と呼んだ園長夫人の優しさ。食事に揚げ半(揚げかまぼこ)が出るのが楽しみだったこと。掃除より風呂たきより何より、畑に下肥をまく当番が嫌だったこと…。  
園生は50人ほど。一部屋に7、8人が暮らし、近所の小中学校に通った。朝晩は座敷に全員が集い、仏壇の前に正座した。読経に声を重ね、晩は園長先生の話も聞いた。中には暗い目をした子どももいた。原爆孤児もいたが、互いの境遇はほぼ話さなかった。
姉が見つけた菓子店 住み込みで必死に働いた戦後
やけどに苦しんだ次兄は1950年夏に他界した。戦後に会えたのは、一度だけ。「まさる」と呼んでくれたのに、顔を直視できなかった苦い記憶が残る。「顔半分にケロイドがあってね。あれは見られんかった。悪いことをしました」  
姉は唯一の家族となった弟が気がかりだったのだろう。奉公先を見つけてきてくれた。
1955年春、底押さんは中学卒業と同時に園を出ると、菓子店で住み込みの仕事を始める。
「働き始めた頃の給料は月千円じゃなかったかね」。日中は必死に作業を覚えた。休みが取れると映画館へ。3本立てを選び、館内で終日過ごすのが唯一のぜいたくだった。  
10年後に独立。今と同じ場所に店を開く。滑り出しこそ苦しかったが、病院の売店に商品を卸し始めると評判になり、遠方からも注文が入るようになった。結婚し、3人の娘にも恵まれた。
原爆がなければ… 「違った人生があったろうね」
嫌というほど味わった。寂しさも惨めさも、飢えの苦しみも。辛酸をなめ尽くし、たどりついた今。「何とか健康に店を続けてこられた。ありがたい」と受け止める。  
ただ、つい考えてしまうこともある。終戦がもっと早ければ、原爆を落とされていなければ―。「思ってもどうしようもないこと。だけど違った人生があったろうね」とつぶやく。  
だからこそ、願わずにはいられない。
原爆孤児も、飢えにあえぐ子も、もうつくらない世の中を。「私の名も戦争に『勝つ』いう意味を込められたんでしょうが、犠牲になるのはいつも普通の人ばかり。戦争はないがいいです」。心からの想いだ。
取材を終えて
拒まれるのが怖い。顔を見ながらお願いしてみよう―。アンケートを握りしめ、前触れなしにその人を訪ねたら、やはり驚かれた。広島市南区に根付き、60年になる洋菓子店の店主。「取材を受けたことがなくて…」と困り顔だ。その時、店内にツバメが乱入。天井でばたつき始めた。記者がいすの上に立ち、外に出してやると、店主の表情も和らいだ。  
被爆80年の節目に、中国新聞、長崎新聞、朝日新聞の3社合同で試みた「全国被爆者アンケート」には、3564人もの回答が寄せられた。自ら用紙を取り寄せてくれた人や同級生に配ってくれた人、あふれる思いを別紙につづってくれた人もいた。身をもって知る原爆の惨禍を「今、伝えておかねば」という強い思いを感じた。  
冒頭の菓子職人、底押勝さんのようにアンケートに答えるのはもちろん、取材を受けるのは初めて、という人も目立った。明かされた体験はそれぞれ過酷で、原爆の罪深さをあらためて思い知らされた。口にするのもつらいのだろう。時折、顔をゆがめる人もいた。  
そうまでして語っているのに「思いが伝わっている」との手応えを持てずにいる被爆者も多い。アンケート結果からは「継承」に不安を抱く姿も浮かび上がった。  
どうか「遠い話」と思わないでほしい。今、世界は混迷を深め、核の脅威がはびこる。こんな時こそ、立ち返るべきは核の正体を知る被爆者の声だ。想像力を働かせながら、耳を傾けたい。報道の責任も重い。どう書けば、託された思いを受け取ってもらえるか。悩み抜きながら伝えねばと、肝に銘じている。DSC00796.JPG

 手書きのポップに昭和の風情が漂う店内。広島市南区の底押製菓は、素朴な味わいのケーキや焼き菓子が人気だ。「うちは昔ながらのもんしかないけどね」。店主の底押さんは照れたように笑う。今なお現役。朝に夕に1人で厨房に立ち、自慢の菓子を次々に焼き上げる。1945年8月6日朝、人生は暗転した。父は問屋街に出かけ、自身は竹屋国民学校(現竹屋小)の校庭にいた。校舎の壁にもたれ、青空を見上げていたら、軍用機が見えた。その行方を目で追っていると突如、強烈な光が走った。気付いた時には、目の前が真っ暗だった。「校舎の下敷きよね。男の先生に引っ張り出されました」。幸い、かすり傷を負った程度。火の手を避け、人波を追って西方へ逃げた。「どこをどう走ったか、よう覚えてないんよ。とにかく、恐ろしかった」底押さんは、今の広島県大崎上島町にいた伯母の元へ預けられ、島の学校に通った。「ようしてもらったし、食べ物にも苦労せんかった。でも、寂しくてね」。小部屋をあてがわれ、1人で寝起きする毎日。布団の中で隠れて泣いた夜もあった。1949年に入って、姉に引き取られた。福島町(現西区)で2人暮らしを始めたが、「食べられんでね。本当に苦しかった」。姉は懸命に働いてくれたが、底押さんはやせ細った。1度、近所の人がサバの煮付けを食べさせてくれたことがある。人目も気にならなかった。「もう、がつがつ食べた。近所で『あの子は死ぬるよ』とうわさされとりました」姉は唯一の家族となった弟が気がかりだったのだろう。奉公先を見つけてきてくれた。1955年春、底押さんは中学卒業と同時に園を出ると、菓子店で住み込みの仕事を始める。「働き始めた頃の給料は月千円じゃなかったかね」。日中は必死に作業を覚えた。休みが取れると映画館へ。3本立てを選び、館内で終日過ごすのが唯一のぜいたくだった。10年後に独立。今と同じ場所に店を開く。滑り出しこそ苦しかったが、病院の売店に商品を卸し始めると評判になり、遠方からも注文が入るようになった。結婚し、3人の娘にも恵まれた。原爆孤児も、飢えにあえぐ子も、もうつくらない世の中を。「私の名も戦争に『勝つ』いう意味を込められたんでしょうが、犠牲になるのはいつも普通の人ばかり。戦争はないがいいです」。心からの想いだ。犠牲になるのはいつも普通の人ばかり。戦争はないがいい。」誰でも思うことでしょう。戦争をしてはいけないのです。核兵器も根絶以外に解決の方法はないでしょうが、厳しい道のりですね。日本も含めて世界中の政治家が本気にならなければどうにもならないでしょうが、多くの人たちが大きな声を上げることは意味があるでしょう。DSC00795.JPG
山村留学は農山村と都市部をつなぐためには有効では[2026年01月13日(Tue)]
 mrt宮崎放送2025年8月6日付け「「普通に続けているだけ」山村留学がつないだ絆  集落を離れても中之又神楽を守り続ける若者たちの万博舞台」から、大阪・関西万博で宮崎県木城町の中之又神楽が披露されました。
500年以上前から伝わるとされる中之又神楽ですが、その担い手を務めているのは地元の住民だけではなく、集落の外に住んでいる若者たちです。万博という大舞台で神楽を世界へ発信する若者たちの姿を追いました。
参加者の多くは30代の若者たち 大阪・関西万博の会場で先週、開かれた「Resolution of LOCAL JAPAN展」。
全国各地の伝統工芸品や食、それに文化が一堂に会し、訪れた人たちがそれぞれの地域の魅力に触れました。
そのイベントの特設ステージで上演されたのが全国の神楽。
個性豊かな神楽が会場を盛り上げます。
そうした中、厳かな舞で会場を幽玄の世界へ誘ったのが…「米良の神楽」です。西都市、木城町、西米良村の6つの神楽から構成され、国の重要無形民俗文化財に指定されている「米良の神楽」。
この日、上演されたのは、木城町の中之又神楽です。
高齢化で全国の神楽が存続の危機にある中、中之又神楽の参加者の多くは30代の若者たち。 ただ、そのほとんどが中之又集落の出身ではありません。
(大野 宗一郎さん) 「小学4年生の時くらいからですね。そのくらいからずっとやっている。不思議ですけどね、なんでここにいるのか分からない」    
彼らが神楽を舞う原点。
それはかつて中之又の小学校に山村留学していた子ども時代にさかのぼります。
山村留学をきっかけに伝統文化の継承の一翼を担う若者たち。
500年以上前から伝わる中之又神楽を世界へ発信です。
中之又を離れてからも神楽に参加している家族
木城町の北部に位置する人口およそ30人の中之又集落。毎年12月になると神社で神楽が奉納されます。
「米良の神楽」の一つとして万博で上演されることになった中之又神楽。
本番を前に参加者たちが練習にあたっていました。
宮崎市に暮らす崎田さん一家。毎年、家族全員で中之又神楽に参加しています。
(父・崎田 茂樹さん) 「ここをこうやってかぶったらおかしいんだよ」  
(姉・崎田 栞さん) 「そんなニット帽みたいにかぶるもんじゃないよ」 
崎田さん一家が中之又神楽と出会ったのは今から20年以上前。 小学校の教諭だった父、茂樹さんが、中之又小学校に赴任し、神楽に参加したことがきっかけでした。
(当時の茂樹さん) 「達成感と言うんですかね、1回味わったら、この先 何年でもやってみたいと」
中之又を離れてからも毎年、神楽に参加してきた崎田さん一家。
今回、万博の舞台では姉、栞さんと弟、秀磨さんが鬼神地舞という2人の舞に 初めて挑戦することになりました。
地元の人たちも熱心に2人の指導にあたります。
(父・茂樹さん) 「舞立のところだけやって…」        
(弟・秀磨さん) 「なかなか細かい部分とか自信ない部分とかあるんですけど、姉が先頭でやってくれているから安心して舞えている」                    (姉・栞さん) 「お姉ちゃんだから頑張らないといけないと思っているけど、どうかなぁ…」 
神楽の季節になると中之又に帰るのが当たり前            
また、子どものころ、山村留学生として中之又小学校に通っていた6人も 万博の舞台に立つことになりました。
全員、大人になってからも神楽の季節になると中之又に帰るのが当たり前なんだそうです。
(記者)「続ける理由は?」          
(毛良悠介さん) 「よく聞かれる質問だけど、困る質問。普通に続けているだけ、正月なんでやるんですかという質問と多分似たり寄ったりですね」  
本来、神楽は女人禁制ですが、中之又では山村留学生の参加をきっかけに女性の舞手も多くなりました。
(青木望さん) 「いつ戻ってきてもみんなウェルカムで迎えてくれるので、もう一回本気でやってみたいという気持ちになる」
高齢化が進む集落にとって、山村留学生たちは欠かせない存在です。
(中之又神楽保存会・長友敏博会長) 「これは貴重なかけがえのない物と思います。大祭も33番を舞うということが、不可能に近いですもんね、そういう意味では本当にありがたいです」  
そして、本番当日 (姉・栞さん) 「着替えました〜」「大丈夫かなぁと思っているけど、そうやって思って いると足元救われる」              
(弟・秀磨さん) 「かなり緊張しています」            
(カメラマン) 「お姉ちゃん落ち着いているように見える」    
(姉・栞さん) 「緊張してます!」「どきどき、楽しみ。いっぱいお客さんいるので頑張ります」                    
(金丸七海さん) 「頑張ります。練習した分しかできないので」   
(記者)「緊張していますか?」
(大野宗一郎さん) 「いや、きのう(銀鏡)神楽を見てから緊張というか刺激をもらったので、頑張ろうかなと」      
いよいよ、開演の時を迎えました。 大勢の観客の中、まず、崎田兄弟が鬼神地舞を披露しました。
(姉・栞さん) 「間違っちゃた〜!あんなに練習したのに魔物がいる。悔しい〜!」                     (弟・秀磨さん) 「出し切ったと思います。たくさんお客さんもいたので緊張しましたけど」               
(春田遥香さん) 「緊張したんですけど、なんか舞ってみればそんなことも忘れて舞
えたのでよかった」         
(二宮悠さん) 「獅子取り荒神の面をつけるので獅子取り荒神になっている。いつも
の自分がいなくて記憶がない」        
(観客) 「地域に本当に長年根付いている、皆さんで伝えてこられたんだなというの
が感じることができて、いいものを見せていただけて良かったです」 
(中之又神楽保存会・長友敏博会長) 「自然体ですがね、だからそれだけでそれがす
なわち継承につながる。とにかく生活に密着したものが神楽に表現される。そういう感じでやっているので、中之又の地域を発展させるのと同時に神楽も継承していく。そういうふうに結びつけようと思っています」   
500年以上前から地元の人たちが守ってきた中之又神楽。 第二の故郷を思う若者たちに
よって脈々と受け継がれています。DSC00798.JPG

 かつて中之又の小学校に山村留学していた子ども時代にさかのぼります。山村留学をきっかけに伝統文化の継承の一翼を担う若者たち。500年以上前から伝わる中之又神楽を世界へ発信です。子どものころ、山村留学生として中之又小学校に通っていた6人も 万博の舞台に立つことになりました。全員、大人になってからも神楽の季節になると中之又に帰るのが当たり前なんだそうです。本来、神楽は女人禁制ですが、中之又では山村留学生の参加をきっかけに女性の舞手も多くなりました。「いつ戻ってきてもみんなウェルカムで迎えてくれるので、もう一回本気でやってみたいという気持ちになる」高齢化が進む集落にとって、山村留学生たちは欠かせない存在です。「自然体ですがね、だからそれだけでそれがすなわち継承につながる。とにかく生活に密着したものが神楽に表現される。そういう感じでやっているので、中之又の地域を発展させるのと同時に神楽も継承していく。そういうふうに結びつけようと思っています」500年以上前から地元の人たちが守ってきた中之又神楽。 第二の故郷を思う若者たちによって脈々と受け継がれています。人口減少の手段として移住政策を行う自治体が多いでしょうが、山村留学などのようにつながりを大事にして伝統行事を継続できるようにすることは大事でしょう。関係人口が増え小さな農山村が存続できるようになればいいのではないでしょうか。DSC00797.JPG
自分事として考えなければならないのでは[2026年01月12日(Mon)]
 mi-mollet2025年8月6日付け「「何をしてくれるかな」で選ぶ政治の危険性。独裁はいつも通りの風景の中ではじまる【小島慶子エッセイ】から、時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。
もしも総理大臣になれるなら、あなたは何をしたい? 現実の仕組みをちょっと離れて、自由に想像してみよう。もしも日本の総理大臣に強大な権力があって、一切の反対を許さず、あなたの望むことがなんでも実現できるとしたら。外国人を追い出したい? 
若い女性にじゃんじゃん子どもを産ませたい? 
国民全員が総理大臣の言う通りにする素敵な国にしたい? 
徴兵制を導入して若者を鍛えたい? 隣近所の国を思い通りにしたい? 
核兵器を持ちたい? 
利権のために戦争をしたい? あなたは権力を手にしたら、一体どんな日本を作りたいだろうか。
選挙で投票するときにはつい「この候補者や政党は自分に何をしてくれるかな」と考えてしまうけれど、候補者や政党はあなたと同じ受け身ではない。彼らは「もしも自分が権力を握ったら何をしたいか」を考えている。あなたとは行動原理が全く異なるのだ。それを忘れてはならない。
候補者はみんな票が欲しいので「あなたにこんないいことをしてあげます」「あなたの鬱屈がスッキリするようなことをしてあげます」と言う。もしあなたが出馬しても、きっとそうするだろう。だから「何をしてくれるかな」を基準に候補者を選ぶと、一番セールスの上手い人に引っかかることになる。もし「なんか感じがいい」「なんかやってくれそう」と感じる候補者がいたら、それはあなたがまんまとセールスに乗っかっている証拠だ。
もしもあなたが総理大臣なら、「何をしようとしているのですか」「それは正しいことなのですか」といちいち聞かれるのはめんどくさいだろう。「なんかやってくれそうですよね、おまかせします」と言われたら楽ちんだし、やりたい放題できる。選挙でも、候補者は「なんかよさそう」で投票してくれる人が一番ありがたいのだ。だからこぞって笑顔と元気と勇ましさをアピールし、清潔で現代的で親しみの持てる人物を演じる。
そしてときには爽やかな笑顔でこう言ってくれる。「あなたが普段人に言えずに抱えている気持ちは、言ってもいいものなんですよ」と。人生が行き詰まって孤独を感じているとき、幸せそうな人が羨ましいとき、誰にも大事にされず、蔑ろにされ、世の中の不公平に恨みを募らせているとき、あなたは思うかもしれない。「みんな不幸になればいい」と。自分が幸せになることが望めない場所に閉じ込められて生きていたら、誰だってそうなるだろう。そこへ溌剌とした人物が現れる。「いいんだよ、そう言っても。その気持ちは間違っていない。
あなたが不幸なのは、あなたのせいじゃない。あそこにいる連中のせいなんだ!」指差す先には、余所者やはぐれものがいる。権利や自由を求めて声を上げる人がいる。悲しいことに、人は不満が溜まると誰かをいじめたくなる。「あいつをいじめようぜ」とみんなで叫んでいると、なんだか"強者"になれた気がしてしまう。いとも簡単にいじめに加担してしまうのだ。
努力して成果を出さずとも、あなたが日本人であるだけで、あるいは男性であるだけで、性的マジョリティであるだけで、母親であるだけで、若者であるだけで、なんであれ"ありのままの自分"であるだけで認められ、優位に立てるとしたら。そうすれば、人生はもっとうまくいくだろうか。あなたと異なる人々さえいなければ、あなたはもっと大事にされるだろうか。つらい目に遭っても我慢しているあなたには「痛がり、欲しがるやつらを制裁する権利」があるのだろうか。あなたは傷ついているのだから、気に入らない人をいじめても構わないのだろうか。そうだそうだと叫ぶあなたが、胸の内にいるかもしれない。差別や暴力の芽は、誰の中にもある。
だけど、あなたをつらい目に遭わせているのが誰なのかを正確に知らなければ、あなたの苦しみは和らぐことはない。弱い者いじめで憂さ晴らしをしても、あなたは幸せにはならない。なぜならいじめをそそのかす者は、あなたの幸せには全く関心がないからだ。いじめをそそのかす者は、いじめが正当化される社会を望んでいる。あなたがそれに加担することを望んでいる。それで得をするのは、あなたよりも強いいじめっ子だ。あなたが今苦しいのも、あなたより強い誰かにいじめられているからだろう。加害者が誰なのかを見誤ってはいけない。それはあなたを焚き付け、利用する人たちなのだ。
外国人や女性やトランスジェンダーの人や障害者や病気の人や高齢者や、誰であれあなたにとって目障りな者をいじめると、自身の首を絞めることになる。「邪魔者は、いじめていい」が罷り通る世の中では、いじめが蔓延する教室と同じことが起きるからだ。次はいつ自分がやられる番になるのかわからないのだ。人は、誰の邪魔にもならないで生きていくことはできない。そして誰が邪魔者かを決める権利は、あなたにはない。邪魔者認定されたら排除されるだけだ。
たまたまあなたの人生ではなかっただけ。たった80年前に起きたこと
もしもあなたが好き放題できる力を手にした総理大臣なら、あなたは「余所者」を追い出し、「役立たず」を切り捨て、「日本人」の中に自由に線を引き、誰をいじめていいかを決めることができる。あなたの悪口を言う人や、あなたのやり方に賛成しない人を「いじめてもよし!」と言える。自由や権利を言い立てる連中を黙らせて、仕事をしないで子どもを産めとかおとなしくヨメをやれとか死ぬまで働けとか人を殺して死ねとか言ってコントロールすることができる。やってみたいなあ、気持ちいいだろうな、と思っただろうか。もしそうなら、あなたは政治家になってはいけない。あなたによって人々の命が危険にさらされるからだ。
排外主義を叫ぶ政治家やジェンダー平等を否定する政治家は、他にどんなに「感じのいい」政策を謳っていようと、人権という個人にとって最も重要なものを軽視している。人間に優劣をつける者たちが、あなたを大切にすることはない。「この世には大事にしなくてもいい人間がいる。それは国の利益にならない人間だ」と言う政治家には、決して力を与えてはならないのだ。強権を望む者が守るのは、あなたではない。その者たちは、自らが「お国」になることを望んでいる。あなたの自由を守る仲間のような顔をしてあなたを手なづけ、あなたに言うことを聞かせる「お国」そのものになりたいのだ。そしてこう言う。「お国のために産め」「お国のために死んでこい」と。「お国」になりたがる者が守りたいのは、自分だけである。
今年は戦後80年だ。80年余り前にもしもあなたが若者だったら、人を殺して死ねと言われて、万歳万歳と送り出されて、ジャングルの中で誰に顧みられることもなく紙屑みたいに吹き飛ばされ、あるいは病と餓えに苦しんで死んだかもしれない。初めて会った人を出会い頭に殺し、逃げ場のない女性を犯したかもしれない。あなたが兵士でなかったら、毎晩のように死の恐怖に怯え、爆弾で家を焼かれ、家族を焼かれ、体を焼かれ、これが自分の人生だったのかと無念の涙を流す間もなく目鼻もわからぬ黒焦げの死体にされたかもしれない。
お国のために工場や野戦病院で働かされ、戦場に放り出されて死んだかもしれない。山に逃げ込んで敵兵に殺されたかもしれず、味方の兵士に殺されたかもしれない。自ら死を選ぶことを強制され、絶望の中で小さな肉片になったかもしれない。戦地に行ったきり帰らない家族を死ぬまで待ち続けたかもしれない。それはたまたまあなたの人生ではなかっただけで、この日本でたった80年前に実際に人々が経験したことだ。死んだのは、あなたが今見ている山や空を見て、同じ地面を踏んで歩いていた人たちだった。
独裁は、いつも通りの風景の中で、ちょっとの変化が積み重なって出来上がる。曜日が変わるみたいに何気ない、でも取り返しのつかない変化の中で独裁政治は始まってしまう。海の向こうで起きていることを見てほしい。それは本当にあっという間のことなのだ。日本の現行憲法下ではそんなことはできないはずの独裁的な総理大臣のたとえ話も、為政者が憲法を軽視して都合のいい解釈を押し通したり、数に物を言わせて都合のよい改憲を行えば、簡単に実現してしまう。これまでにもそのような志向をもつ政治家はいた。人権を軽視する者に権力を与えてはならない。
あなたを利用する人は、感じが良くて、親しみが持てて、目新しくて素敵で、力強い。でも忘れないで。かつて国家による戦争で数百万人が死んだのちに日本がやっと手にしたのは、あなたも私も誰も国家によって優劣をつけられることなく、侵すことのできない尊厳を持つ人間として尊重されるという大原則なのだ。命には全て名前があり、一度きりの人生を一つきりの思い通りにならない生身で生きている。人はモノではない。あなたも私も見知らぬ誰かも、等価で無二の存在だ。その大原則を否定する為政者は、他にどれほど「良さげな施策」を掲げようとも、善き統治者ではない。そのような為政者は自ら人々に与えた快適な生活や新しい仕組みを、いとも簡単に取り上げるからだ。古今東西、「お国」となった為政者のもとで数多の人々が自由を奪われ、命を落としてきた。かつて日本もそうだった。それをもう一度やるのか。今年をその潮目にしてはならない。DSC00801.JPG

 候補者はみんな票が欲しいので「あなたにこんないいことをしてあげます」「あなたの鬱屈がスッキリするようなことをしてあげます」と言う。もしあなたが出馬しても、きっとそうするだろう。だから「何をしてくれるかな」を基準に候補者を選ぶと、一番セールスの上手い人に引っかかることになる。もし「なんか感じがいい」「なんかやってくれそう」と感じる候補者がいたら、それはあなたがまんまとセールスに乗っかっている証拠だ。そうかもしれませんね。悲しいことに、人は不満が溜まると誰かをいじめたくなる。「あいつをいじめようぜ」とみんなで叫んでいると、なんだか"強者"になれた気がしてしまう。いとも簡単にいじめに加担してしまうのだ。あなたと異なる人々さえいなければ、あなたはもっと大事にされるだろうか。つらい目に遭っても我慢しているあなたには「痛がり、欲しがるやつらを制裁する権利」があるのだろうか。あなたは傷ついているのだから、気に入らない人をいじめても構わないのだろうか。そうだそうだと叫ぶあなたが、胸の内にいるかもしれない。差別や暴力の芽は、誰の中にもある。弱い者いじめで憂さ晴らしをしても、あなたは幸せにはならない。なぜならいじめをそそのかす者は、あなたの幸せには全く関心がないからだ。いじめをそそのかす者は、いじめが正当化される社会を望んでいる。あなたがそれに加担することを望んでいる。それで得をするのは、あなたよりも強いいじめっ子だ。あなたが今苦しいのも、あなたより強い誰かにいじめられているからだろう。加害者が誰なのかを見誤ってはいけない。それはあなたを焚き付け、利用する人たちなのだ。外国人や女性やトランスジェンダーの人や障害者や病気の人や高齢者や、誰であれあなたにとって目障りな者をいじめると、自身の首を絞めることになる。「邪魔者は、いじめていい」が罷り通る世の中では、いじめが蔓延する教室と同じことが起きるからだ。次はいつ自分がやられる番になるのかわからないのだ。人は、誰の邪魔にもならないで生きていくことはできない。そして誰が邪魔者かを決める権利は、あなたにはない。邪魔者認定されたら排除されるだけだ。排外主義を叫ぶ政治家やジェンダー平等を否定する政治家は、他にどんなに「感じのいい」政策を謳っていようと、人権という個人にとって最も重要なものを軽視している。人間に優劣をつける者たちが、あなたを大切にすることはない。「この世には大事にしなくてもいい人間がいる。それは国の利益にならない人間だ」と言う政治家には、決して力を与えてはならないのだ。強権を望む者が守るのは、あなたではない。その者たちは、自らが「お国」になることを望んでいる。あなたの自由を守る仲間のような顔をしてあなたを手なづけ、あなたに言うことを聞かせる「お国」そのものになりたいのだ。そしてこう言う。「お国のために産め」「お国のために死んでこい」と。「お国」になりたがる者が守りたいのは、自分だけである。あなたも私も誰も国家によって優劣をつけられることなく、侵すことのできない尊厳を持つ人間として尊重されるという大原則なのだ。命には全て名前があり、一度きりの人生を一つきりの思い通りにならない生身で生きている。人はモノではない。あなたも私も見知らぬ誰かも、等価で無二の存在だ。その大原則を否定する為政者は、他にどれほど「良さげな施策」を掲げようとも、善き統治者ではない。そのような為政者は自ら人々に与えた快適な生活や新しい仕組みを、いとも簡単に取り上げるからだ。古今東西、「お国」となった為政者のもとで数多の人々が自由を奪われ、命を落としてきた。かつて日本もそうだった。それをもう一度やるのか。今年をその潮目にしてはならない。他人事だから関係ないというのではなく自分事として立ち止まってじっくり考える時期になっているのではないでしょうか。DSC00799.JPG
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