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国民のための政治について議論を深めるべきでは[2025年05月31日(Sat)]
 選挙ドットコム2025年3月27日付け「立憲民主党・野田佳彦代表が語る!野党が動かす国会と企業献金禁止・夫婦別姓の行方」から、立憲民主党の野田佳彦代表は3月26日に公開された「選挙ドットコムちゃんねる」に出演。「熟議と公開の国会にしよう」と提唱し続け、国会での議論が「一定の結果も出せるようになってきた」と述べました。
従来は、与党が決めて閣議決定すれば、全部が提案通りに法案が通る状況でした。
しかし、今国会は少数与党政権であり、国会の17個の常任委員会の内、委員長が野党だったり、野党の数が多い委員会が15個もあります。
野田氏は「野党が固まれば、予算を修正したり、議員立法を通すことができる可能性や、変えることができるという、ある種ワクワク感のある国会になってきた」と語りました。
先日、立憲民主党は「企業・団体献金禁止法案」を日本維新の会、社会民主党、参政党と有志の会の野党の5党派で提出。日本保守党と日本共産党も賛成の立場をとっているので、7党派が固まりました。
野田氏は「国民民主党に賛同いただければ、30年来の宿題である企業・団体献金の禁止に踏み出すことができる可能性が出てきた。頑張っていきたい」との考えを示しました。
しかし、予算審議では、国民民主党の「年収103万円の壁」や、日本維新の会の「高校授業料の無償化」など、野党が塊となって法案を通すよりも、政権与党プラス野党1党の形が目立ちました。
野田氏は、昨年12月の政策活動費の問題で、野党全体が反対したから廃止に持ち込むことができたことに言及し、「これがやっぱり原点だ」と語ります。
続けて「企業・団体献金禁止では、国民民主が仲間に加わってくれば通すことができる。
選択的夫婦別姓も維新が加わってくれば通すことができる。あと1歩のところまで来てるのが色々ある」と力を込めます。
野田氏は「みんなが固まれば物事を実現できる可能性や、チャンスがある。横糸を通していくのは我々の役割だと思うので、頑張っていきたい」と訴えました。
少数与党政権となり、選択的夫婦別姓や企業・団体献金禁止など、従来は議論の俎上にも上らなかった課題が議論できる環境になりました。
では、「選択的夫婦別姓の実現」には、日本維新の会が慎重な立場をとっていますが、今後どのように働きかけていくのでしょうか?
野田氏は「実現することが大事なので、原点に立ち返り、多くの野党が賛同できる法案を準備している」と語ります。
選択的夫婦別姓は、野党だけではなく、与党の公明党も賛成の立場であり、自民党の中にも賛成の立場の人はいます。また、自民党の支持基盤の経団連や経済同友会は早期実現を要望しています。
「党議拘束を外すなら、多分、絶対通る」と野田氏。「みんなが自由な判断をした時には物事は動くと思っていますので、そういう環境整備をしていきたい」と述べました。
一方、企業・団体献金を禁止した場合、政治に必要な経費はこれからどのように賄っていくのでしょうか?
野田氏は「今、政治に金をかけすぎている」と言及。
経団連の斡旋で企業献金がたくさん集まるから、金で政治を動かすような悪循環が生まれていると指摘します。
政治に一定のコストはかかるので、1つの政党が安定した活動ができるように政党交付金が支給されています。
それが足りないなら「個人献金を集める努力をしなければならない」と野田氏。
野田氏は、お金が必要だったら個人で頭を下げて、お願いをして、活動報告してお金をいただくことが必要だと言及。親の基盤でお金をもらえる仕組みを持っていて、お金で苦労しない世襲の議員ばかりなのが「政治を劣化させた最大の原因だ」との考えを示しました。 野田氏「その意味からも、企業団体献金については廃止の方向で結論を出したいなと思います」IMG_1300.JPG

 従来は、与党が決めて閣議決定すれば、全部が提案通りに法案が通る状況でした。しかし、今国会は少数与党政権であり、国会の17個の常任委員会の内、委員長が野党だったり、野党の数が多い委員会が15個もあります。「野党が固まれば、予算を修正したり、議員立法を通すことができる可能性や、変えることができるという、ある種ワクワク感のある国会になってきた」と語りました。強い政党が好き放題と思われるような政治を行うのは国民のため政治にはならないでしょう。国会の場で議論し合って政策を決定していくことが求められるでしょう。「企業・団体献金禁止では、国民民主が仲間に加わってくれば通すことができる。選択的夫婦別姓も維新が加わってくれば通すことができる。あと1歩のところまで来てるのが色々ある」「みんなが固まれば物事を実現できる可能性や、チャンスがある。横糸を通していくのは我々の役割だと思うので、頑張っていきたい」少数与党政権となり、選択的夫婦別姓や企業・団体献金禁止など、従来は議論の俎上にも上らなかった課題が議論できる環境になりました。今までは通りそうもなかった政策が協力し合うことで実現するとなれば大きな変化でしょう。選択的夫婦別姓は、野党だけではなく、与党の公明党も賛成の立場であり、自民党の中にも賛成の立場の人はいます。また、自民党の支持基盤の経団連や経済同友会は早期実現を要望しています。「党議拘束を外すなら、多分、絶対通る」「みんなが自由な判断をした時には物事は動くと思っていますので、そういう環境整備をしていきたい」一方、企業・団体献金を禁止した場合、政治に必要な経費はこれからどのように賄っていくのでしょうか?政治に一定のコストはかかるので、1つの政党が安定した活動ができるように政党交付金が支給されています。それが足りないなら「個人献金を集める努力をしなければならない」お金が必要だったら個人で頭を下げて、お願いをして、活動報告してお金をいただくことが必要だと言及。親の基盤でお金をもらえる仕組みを持っていて、お金で苦労しない世襲の議員ばかりなのが「政治を劣化させた最大の原因だ」「その意味からも、企業団体献金については廃止の方向で結論を出したいなと思います」国民のための政治を行うならば党議拘束を外して一人ひとりの政治家の意思で判断させることが大事でしょう。お金のかかる政治は国民から反発を受けています。お金が必要ならば頭を下げてお願いするしかないでしょう。夜の会食費のためにお金が必要だとすればなおさら自分のお金で賄うべきでしょう。国会の場で国民のための政治を行うために議論を深めるべきでしょう。20210514_070227.jpg
批判的思考を促す教育が必要では[2025年05月30日(Fri)]
 Newsweek2025年3月27日付け「マスメディアへの信頼度が高い日本は「思想統制」されやすい国?」から、<他国に比べて日本の教育現場で「批判的思考」を促す教育が行われる割合は突出して低い>
現代社会では、新聞やテレビ等のマスメディアが発達している。無数の大衆(マス)に情報を伝達し、国民の世論形成や意思統一にも寄与している。1億2000万人もの人口を擁する巨大国家・日本において、マスメディアは不可欠といってよい。
しかし、メディアを操作する側も人間だ。誤報(扇動)に象徴されるように、誤った(偏った)情報が流されることもしばしばある。マスメディアは重要な機能を果たすが、それに対し無批判に信頼を寄せるのは考えものだ。  
日本人のマスメディアに対する信頼度は高い。2017年から2022年に実施された『第7回・世界価値観調査』によると、日本人の66.6%が「テレビは信頼できる」、71.5%が「報道機関は信頼できる」と答えている。アメリカ人の信頼率(順に22.6%、29.7%)と比べるとかなり高い。
<図1>は、調査対象の66カ国の回答をグラフにしたものだ。横軸に「テレビは信頼できる」、縦軸に「報道機関は信頼できる」の回答割合をとった座標上に、各国のドットを配置している。
<図1> 右上にあるのは、マスメディアへの信頼度が高い国で、アジア諸国が多く位置している。発展途上国や、言論への社会的統制が強く国営メディアが力を持っているような国だ。日本もこのゾーンにあり、メディアへの信頼度が高い部類に入る。左下の欧米諸国と比べて格段に高い。
報道関係者にとっては名誉かもしれないが、一抹の不安も拭えない。マスメディアは無数の人々に情報を瞬時に伝えてくれるが、発信者がチョイスした情報が一方的に伝達されるので、思想統制の手段として使われる危険性がある。
受け手の側に、情報を批判的に吟味する力が備わっていればいいが、こういう資質が日本人にどれほどあるかは疑わしい。学校教育でも、子どもの批判的思考力を促すような教育はあまりされていない。
横軸に「授業中、生徒の批判的思考を促す」と答えた中学校教育の割合、縦軸に「報道機関は信頼できる」と答えた国民の割合をとった座標上に、37の国を配置すると<図2>のようになる。
<図2> 横軸、縦軸双方のデータがある37カ国の配置図だが、日本の位置は他国と大きく離れている。左上の極地だ。批判的思考が育まれない一方で、報道機関への信頼度は高い。言い方がよくないが、最も思想統制されやすい国なのかもしれない。
メディアが一方的に大量伝達する情報によって、思想や心理を簡単に操作される危険がある。内閣府の『少年非行に関する世論調査』(2015年7月)によると、国民の8割近くが「非行は増えていると思う」と答えているが、統計で分かる事実はその逆だ。センセーショナルな少年犯罪報道を鵜呑みにしているのだろう。このように歪められた世論に押されて政策が決まるとしたら恐ろしい。
インターネット上ではフェイクニュースもはびこっているが、北欧のフィンランドでは、こうした偽情報に騙されないメディアリテラシーを鍛える教育が実践されているという。メディアで大量伝達される情報を鵜呑みにせず、自分の頭で考える。情報化・大衆化が進んだ現代社会では、この当たり前のことが重要となる。学校の情報教育では、この面にも重きを置く必要がある。Cピザ.jpg

 日本でもマスメディアの信頼は失われてきていますが、それでも高いのかもしれません。メディアを操作する側も人間だ。誤報(扇動)に象徴されるように、誤った(偏った)情報が流されることもしばしばある。マスメディアは重要な機能を果たすが、それに対し無批判に信頼を寄せるのは考えものだ。日本人のマスメディアに対する信頼度は高い。2017年から2022年に実施された『第7回・世界価値観調査』によると、日本人の66.6%が「テレビは信頼できる」、71.5%が「報道機関は信頼できる」と答えている。アメリカ人の信頼率(順に22.6%、29.7%)と比べるとかなり高い。マスメディアは無数の人々に情報を瞬時に伝えてくれるが、発信者がチョイスした情報が一方的に伝達されるので、思想統制の手段として使われる危険性がある。受け手の側に、情報を批判的に吟味する力が備わっていればいいが、こういう資質が日本人にどれほどあるかは疑わしい。学校教育でも、子どもの批判的思考力を促すような教育はあまりされていない。確かにその通りかもしれません。インターネット上ではフェイクニュースもはびこっているが、北欧のフィンランドでは、こうした偽情報に騙されないメディアリテラシーを鍛える教育が実践されているという。メディアで大量伝達される情報を鵜呑みにせず、自分の頭で考える。情報化・大衆化が進んだ現代社会では、この当たり前のことが重要となる。学校の情報教育では、この面にも重きを置く必要がある。学校教育の場でメディアリテラシーを鍛える教育を実践する人が強く求められているでしょう。教育現場では学習指導要領で決められたことだけを教えるのではなく教師の裁量に任せることも考えるべきではないでしょうか。さらに社会を生き抜くために必要な能力を身に付けることを教える必要があるでしょう。20210725_110014.jpg
地方から都市に人口移動が進行していけばどうなるのか[2025年05月29日(Thu)]
 現代ビジネス2025年3月22日付け「「地方から都市へ」の人口移動で密かに進行している「日本の危機」の正体」から、なぜ日本は停滞からなかなか抜け出せないのか? 
その背景には、日本社会を支配する「暗黙のルール」があった。
人口移動のトレンド
とはいえ、自営業から非正規雇用に転じたとしても、地域社会のなかで生き続けているならば「地元型」のままである。この問題を考えるためには、地方から都市への人口移動のトレンドを検証する必要がある。
地方から都市への人口移動を示したのが図である。人口移動は、「団塊世代」が進学・就職した1960年代がもっとも激しかった。この時期には、三大都市圏や首都圏郊外(千葉・埼玉など)で20%を超える激増がおこり、22の県で人口が減少した。
しかし1973年の石油ショックの前後から、人口移動が一段落した。農山漁村地域では減少が続いたが、県単位では人口減少県が一時ゼロになった。これは公共事業や産業誘致などにより、地方での仕事が増え、県外への移動が小康状態になったことを示唆する。
大企業で「減量経営」が行なわれた1976年には、三大都市圏から地方圏への人口移動のほうが上回る現象もおきた。1979年には「地方の時代」という言葉も流行した。またこの時期は、カルダーが指摘したように、自営業と中小企業が労働力を吸収していた時期でもあった。
その後、1980年代のバブル期にまた地方からの移動がおきた。しかしバブル崩壊とともにそれも止まり、90年代半ばには地方への人口回帰もみられた。ここまでの人口移動は、ほぼ景気の変動に関連していたといえる。
ところが90年代末からは、景気の高揚が必ずしも伴わないのに、都市部への人口移動が定常化した。しかも大阪圏や名古屋圏は増加しておらず、東京圏のみが人口移動を吸収するようになった。95年から2000年には、東京都が高い増加に転じる一方、23の道県が人口減少に転じている。
「異質」な人口移動
数からいえば、現在の移動数は、「民族の大移動」とさえ形容された高度成長期ほどではない。しかしこの時期は、戦争で地方への移動を余儀なくされた人々が一気に都市部に還流したうえ、人数が多い「団塊世代」の進学・就職がおきた時期でもあった。
また高度成長期の移動は、景気変動と連関したものだった。しかし90年代末以降、景気の変動にかかわりなく移動が定常化したことは、従来とは異質な現象といえる。農林・非農林の自営業から非正規雇用への移動がある閾値を超えると、自営業を中心としていた地域コミュニティの安定性そのものが変質し、外部への人口移動が定常化する事態がおきるのかもしれない。
そして90年代は、高卒労働市場の急減、大学進学率の上昇、自営業・零細企業の就業者減少、非正規雇用の増大がおきていった時期でもあった。人口移動の恒常化には、小泉純一郎政権下の「構造改革」で公共事業が削減されたことも影響したろうが、変化はその前からおきていたともいえる。 まとめていおう。正社員数や大卒就職者数はさほど変動がなく、「大企業型」は比較的に安定している。しかし90年代以降、高卒労働市場の急減、自営業セクターから非正規雇用への移動など、「二重構造の下の層」では大きな変動がおき、地方圏から大都市への移動が恒常化している。これらは、「地元型」から「残余型」への移行が生じていることを示唆している。@南白神B.JPG

 人口移動は、「団塊世代」が進学・就職した1960年代がもっとも激しかった。この時期には、三大都市圏や首都圏郊外(千葉・埼玉など)で20%を超える激増がおこり、22の県で人口が減少した。90年代末からは、景気の高揚が必ずしも伴わないのに、都市部への人口移動が定常化した。しかも大阪圏や名古屋圏は増加しておらず、東京圏のみが人口移動を吸収するようになった。95年から2000年には、東京都が高い増加に転じる一方、23の道県が人口減少に転じている。90年代末以降、景気の変動にかかわりなく移動が定常化したことは、従来とは異質な現象といえる。農林・非農林の自営業から非正規雇用への移動がある閾値を超えると、自営業を中心としていた地域コミュニティの安定性そのものが変質し、外部への人口移動が定常化する事態がおきるのかもしれない。90年代は、高卒労働市場の急減、大学進学率の上昇、自営業・零細企業の就業者減少、非正規雇用の増大がおきていった時期でもあった。人口移動の恒常化には、小泉純一郎政権下の「構造改革」で公共事業が削減されたことも影響したろうが、変化はその前からおきていたともいえる。 まとめていおう。正社員数や大卒就職者数はさほど変動がなく、「大企業型」は比較的に安定している。しかし90年代以降、高卒労働市場の急減、自営業セクターから非正規雇用への移動など、「二重構造の下の層」では大きな変動がおき、地方圏から大都市への移動が恒常化している。これらは、「地元型」から「残余型」への移行が生じていることを示唆している。人口移動は今後も継続しそうですね。地方はどうなるのでしょうか。さして非正規者は増えるのでしょうか。危機的な状況に陥らないようにしなければならないのではないでしょうか。IMG_1540.JPG
責任を明確にする必要があるのでは[2025年05月28日(Wed)]
 毎日新聞2025年3月19日付け「「明らかに違法」 百条委より踏み込んだ第三者委 斎藤知事に逆風か」から、「(知事ら)当事者が関与した違法な通報者探索を行い、通報自体を理由に懲戒処分を科した」。19日に公表された兵庫県設置の文書告発問題に関する第三者委員会の報告書は、斎藤元彦知事らの一連の対応について明確に違法性を指摘した。県議会調査特別委員会(百条委)より踏み込んだ厳しい評価も多い。報告書に法的拘束力はないが、斎藤氏への逆風が強まるのは避けられない情勢だ。
報告書の公表を受け、報道陣の取材に応じた斎藤氏は「告発文は誹謗(ひぼう)中傷性が高い」と従来の見解を繰り返した。だが、個別の論点について問われると「報告書の内容を精査したい」とかわした。  
報告書は、告発文を公益通報と扱わず、告発者である元県西播磨県民局長を懲戒処分としたことは「明らかに違法」とし、告発を理由とした処分は無効と評価した。また、斎藤氏のパワーハラスメント疑惑についても告発文などで指摘された16件の行為について検討し、10件をパワハラと認定した。  
パワハラに関しては、職員への厳しい叱責で精神面に悪影響を与えたばかりでなく、伝え聞いた職員を萎縮させて勤務環境を悪化させたとも言及。長期間にわたって夜間、休日のチャットによる叱責や指示が繰り返されていたこともパワハラと認め、これとは別に、記者会見で元局長を「うそ八百」と非難したことも該当するとした。  
第三者委の藤本久俊委員長は会見で、約250ページに及ぶ報告書によるこれらの認定について「厳しい批判ではない。これがスタンダードだ」と語った。  
3月4日に公表された百条委の報告書でも、公益通報者保護法違反の可能性や事実上のパワハラを認定された斎藤氏。百条委の結論を受け、怒りをコントロールする研修の受講や贈答品に関するルール作りの提言は「しっかりやっていきたい」と述べた。その一方で、「(違法の)可能性というからには他の可能性もある」と強弁した。元局長の懲戒処分への「救済・回復措置」については「処分は確定している」と一顧だにしなかった。  
さらに、斎藤氏は元局長の私的情報が含まれる公用パソコンの中身について、情報公開請求の対象とするか検討するとも口にした。実際の公開請求に対して、担当である県人事課は「この情報を公開することで県政の混乱が収束するとは考えられず、公開に公益上の理由はない」として、非公開対象と結論付けている。  
議会の指摘に真摯(しんし)に向き合わないとも取れる斎藤氏に対し、第三者委の報告書は「正面から受け止める姿勢を示していない」と指弾した。  
藤本委員長は「(元局長による)告発文の作成と配布、公益通報は県の組織体制の改善につながった」と評価。斎藤氏が示唆した私的情報の公開を人事課が押しとどめたことについて「自浄力を発揮してホッとした」と述べた。  
第三者委の結論について、最大会派・自民党県議団の北野実幹事長は「客観的で的確な判断だ」と評価。維新の会県議団の門隆志幹事長は「知事はどこが間違っていたのかよく読んで反省し、自分の言葉で県民に説明を」と注文を付けた。斎藤氏を支持する躍動の会の増山誠幹事長は「想定以上に違法性に言及されていた」と驚きを見せた。  
法政大大学院の白鳥浩教授(現代政治分析)は「公益通報者保護法の違反やパワハラが認定された知事が職に居座り続ければ『兵庫県には法の支配が存在しない』と見られかねず、知事は自ら身を引いたほうが潔い」と話した。IMG_1781.JPG

 第三者委員会の報告書は、斎藤元彦知事らの一連の対応について明確に違法性を指摘した。県議会調査特別委員会(百条委)より踏み込んだ厳しい評価も多い。報告書に法的拘束力はないが、斎藤氏への逆風が強まるのは避けられない情勢だ。百条委員会の報告書に対して反論していましたが、第三者委員会はさらに明確に違法性を指摘している以上は責任を明確にする必要があるのではないでしょうか。報告書は、告発文を公益通報と扱わず、告発者である元県西播磨県民局長を懲戒処分としたことは「明らかに違法」とし、告発を理由とした処分は無効と評価した。また、斎藤氏のパワーハラスメント疑惑についても告発文などで指摘された16件の行為について検討し、10件をパワハラと認定した。パワハラに関しては、職員への厳しい叱責で精神面に悪影響を与えたばかりでなく、伝え聞いた職員を萎縮させて勤務環境を悪化させたとも言及。長期間にわたって夜間、休日のチャットによる叱責や指示が繰り返されていたこともパワハラと認め、これとは別に、記者会見で元局長を「うそ八百」と非難したことも該当するとした。第三者委の藤本久俊委員長は会見で、約250ページに及ぶ報告書によるこれらの認定について「厳しい批判ではない。これがスタンダードだ」と語った。議会の指摘に真摯(しんし)に向き合わないとも取れる斎藤氏に対し、第三者委の報告書は「正面から受け止める姿勢を示していない」と指弾した。藤本委員長は「(元局長による)告発文の作成と配布、公益通報は県の組織体制の改善につながった」と評価。斎藤氏が示唆した私的情報の公開を人事課が押しとどめたことについて「自浄力を発揮してホッとした」と述べた。「公益通報者保護法の違反やパワハラが認定された知事が職に居座り続ければ『兵庫県には法の支配が存在しない』と見られかねず、知事は自ら身を引いたほうが潔い」議会に報告に真摯に向き合っていなかった知事としては第三者委員会の報告書を真摯に受け止め責任問題を真剣に考える必要があるのではないでしょうか。IMG_1767.JPG
国連改革を急ぐべきでは[2025年05月27日(Tue)]
 NHK2024年9月25日付け「国連総会 一般討論演説 安全保障理事会の改革求める声相次ぐ」から、ウクライナやガザ地区での戦闘が長期化し、国連の存在意義が問われる中、24日に始まった国連総会の一般討論演説では、各国の首脳から、常任理事国の拒否権で機能不全に陥っている安全保障理事会の改革を求める声が相次ぎました。
ウクライナや中東などの情勢をめぐり、国連安保理では、5か国の常任理事国のうちロシアやアメリカ、中国がたびたび拒否権を行使し、戦闘を止めるために有効な対策を打ち出せていないとして批判の声が高まっています。
 こうした中、ニューヨークの国連本部で24日から始まった、各国の首脳らによる一般討論演説では、常任理事国の拡大や拒否権の制限など安保理改革を求める意見が相次ぎました。
 このうちトルコのエルドアン大統領は「国連はここ数年、設立時の使命を果たせず、機能不全に陥っている」と指摘したうえで「国際的な正義を特権的な5か国の意思に委ねるわけにはいかない。その最たる例がガザ地区で350日間続く戦争だ」と述べ、アメリカなどによる拒否権の行使で戦闘を止められない状況を批判しました。
 また、リトアニアのナウセーダ大統領は、常任理事国でありながらウクライナに侵攻したロシアについて「侵略者が常任理事国の名の下に隠れ、拒否権を無制限に振りかざしている」と批判し、紛争当事国による拒否権の行使は制限されるべきだとの考えを示しました。
 そして、ブラジルのルーラ大統領が「南米とアフリカの国が常任理事国に入っていないのは植民地時代と変わらず受け入れがたい」と批判したほか、シエラレオネのビオ大統領も「安保理は創設から80年近くたつが、その不均衡な構成は不当で現実と相いれない」と述べ、常任理事国を現在の5か国から増やすよう求めました。IMG_1783.JPG

 国連の最も大きな問題は常任理事国の拒否権のあり方ではないでしょうか。各国の首脳から、常任理事国の拒否権で機能不全に陥っている安全保障理事会の改革を求める声が相次ぎました。ウクライナや中東などの情勢をめぐり、国連安保理では、5か国の常任理事国のうちロシアやアメリカ、中国がたびたび拒否権を行使し、戦闘を止めるために有効な対策を打ち出せていないとして批判の声が高まっています。各国の首脳らによる一般討論演説では、常任理事国の拡大や拒否権の制限など安保理改革を求める意見が相次ぎました。他国に自国の領土を拡大するために侵略している国が常任理事国なって拒否権を発動するのはあり得ないのではないでしょうか。自国第一主義を掲げ世界中の国々との協調路線から距離を置いて自国のことしか考えないような国が常任理事国として相応しいのでしょうか。トルコのエルドアン大統領は「国連はここ数年、設立時の使命を果たせず、機能不全に陥っている」と指摘したうえで「国際的な正義を特権的な5か国の意思に委ねるわけにはいかない。その最たる例がガザ地区で350日間続く戦争だ」と述べ、アメリカなどによる拒否権の行使で戦闘を止められない状況を批判しました。リトアニアのナウセーダ大統領は、常任理事国でありながらウクライナに侵攻したロシアについて「侵略者が常任理事国の名の下に隠れ、拒否権を無制限に振りかざしている」と批判し、紛争当事国による拒否権の行使は制限されるべきだとの考えを示しました。そして、ブラジルのルーラ大統領が「南米とアフリカの国が常任理事国に入っていないのは植民地時代と変わらず受け入れがたい」と批判したほか、シエラレオネのビオ大統領も「安保理は創設から80年近くたつが、その不均衡な構成は不当で現実と相いれない」と述べ、常任理事国を現在の5か国から増やすよう求めました。貴重な発言を真剣に受け止め国連が主導して世界の平和を維持するための制度づくりをしなければならないのではないでしょうか。今世界は地球温暖化による気象変動をはじめ大変な危機的状況に陥っているでしょう。世界の英知を集めて解決しなければならないでしょう。IMG_4013.JPG
官庁のより良い改革が必要になっているのでは[2025年05月26日(Mon)]
 マネーポストWEB2025年3月20日付け「元立民代表代行・江田憲司氏が語る“財務省解体論”「“経済警察”である国税庁を独立委員会の下に置く」「予算編成権を“内閣予算局”に移管し、政治主導体制に」」から、かつての大蔵省接待汚職事件や金融危機の時以来の激しい批判だ。当時は国民の声を受けて政治が「大蔵省解体」に動いた。橋本龍太郎内閣が進めた中央省庁再編(橋本行革)で大蔵省から金融監督庁(現在の金融庁)を分離する「財政と金融の分離」が進められ、大蔵省は「財務省」に“格下げ”された。いわば「第一の解体」だ。  
だが、いまや財務省は完全に復権。金融庁長官、内閣府事務次官、環境省事務次官など各省庁のトップに財務官僚を送り込み、霞が関に“植民地”を広げている。そして政治を支配し、国民に負担増を強いている。「今こそ第二の解体が必要ではないか」──立憲民主党元代表代行の江田憲司氏の意見を聞こう。
政治が主導権を握るために国税庁と主計局を分離せよ
 財務省は「予算編成権」から「税制の企画立案」「国税の徴税・査察権」、そして実質的に金融行政まで握っている。こんな強大な権限を持つ官庁は世界のどこにもありません。  
金融接待スキャンダルを受けて、橋本政権時に、私が総理秘書官として手がけた「財政と金融の分離」は、ある意味、その解体でした。自民党は大蔵省と一体となって政権運営してきましたから反対でしたが、「大蔵改革なくして行革なし」と言われた時代、私が強く推しました。  
財務大臣と金融大臣は別にし、金融庁長官に検察庁出身者を起用した。財務省と金融庁間の幹部交流人事も禁止した。権限も人事も完全分離でした。  
ただ、橋本政権後、自民党政権下で財金分離はなし崩しにされ、いつの間にか財務大臣が金融大臣を兼務、人事も財務官僚による植民地支配が復活した。もう一度、財金分離の徹底はもとより、財務省への権限の集中をなくす改革が必要です。
まずは「国税庁の分離」です。橋本行革の時、橋本総理自らが提案しましたが、大蔵省の根回しにより歴代の自民党税調会長が猛反対して一瞬で潰されたのです。当時の自民党幹部が私に「江田君、国税庁なんか分離したら政治の意向が反映できなくなるじゃないか」と言ったのをよく覚えています。  
財務省はよく、国税庁に大臣や本省が指示することはないと言います。しかし、自民党幹事長が10億円単位の政策活動費を使っていても、国税庁は課税対象だと認めながら税務調査すらしない。裏金問題も摘発しない。これこそ財務省と国税庁は一体で、査察権を政治的な思惑で差配している証左でしょう。  
国税庁は査察権を持つ、言わば「経済警察」です。警察庁が国家公安委員会の下にあるように、政治的に中立な独立行政委員会をつくって、その下に国税庁を置く。内閣から独立して査察権を行使できるようにするのです。  
また、(主計局が持つ)予算編成権を財務省から「内閣予算局」に移管する構想は、橋本行革でも検討しましたが、結局、経済財政諮問会議を創設し、予算編成の基本方針は官邸で決め、具体的な個別査定権は財務省に残した。ただ、常に、この会議と財務省との間には予算編成を巡っての主導権争いがあり、今後、あまりに財務省がこの会議まで実質的に支配するようなら、内閣予算局も検討すべきでしょう。  
憲法には予算編成権は内閣にあると書いてある。財務省にはその権限を授権しているにすぎない。組織管理の要諦は「カネと人事を握ること」。内閣人事局と相まって、官邸に内閣予算局を置けば「政治(内閣)主導の体制」が完成するのです。  
財務省の政治支配の姿勢が変わらなければ、将来的にそうした議論が進むことになるでしょう。20210829_064752.jpg

 いまや財務省は完全に復権。金融庁長官、内閣府事務次官、環境省事務次官など各省庁のトップに財務官僚を送り込み、霞が関に“植民地”を広げている。そして政治を支配し、国民に負担増を強いている。「今こそ第二の解体が必要ではないか」財務省は「予算編成権」から「税制の企画立案」「国税の徴税・査察権」、そして実質的に金融行政まで握っている。こんな強大な権限を持つ官庁は世界のどこにもありません。いつの間にか財務大臣が金融大臣を兼務、人事も財務官僚による植民地支配が復活した。もう一度、財金分離の徹底はもとより、財務省への権限の集中をなくす改革が必要です。巨大な権力を有する官庁が存在することの是非を議論して変革が必要となればどのように変革するのか明らかにする必要があるでしょう。「国税庁の分離」です。橋本行革の時、橋本総理自らが提案しましたが、大蔵省の根回しにより歴代の自民党税調会長が猛反対して一瞬で潰されたのです。財務省はよく、国税庁に大臣や本省が指示することはないと言います。しかし、自民党幹事長が10億円単位の政策活動費を使っていても、国税庁は課税対象だと認めながら税務調査すらしない。裏金問題も摘発しない。これこそ財務省と国税庁は一体で、査察権を政治的な思惑で差配している証左でしょう。国税庁は査察権を持つ、言わば「経済警察」です。警察庁が国家公安委員会の下にあるように、政治的に中立な独立行政委員会をつくって、その下に国税庁を置く。内閣から独立して査察権を行使できるようにするのです。予算編成権を財務省から「内閣予算局」に移管する構想は、橋本行革でも検討しましたが、結局、経済財政諮問会議を創設し、予算編成の基本方針は官邸で決め、具体的な個別査定権は財務省に残した。ただ、常に、この会議と財務省との間には予算編成を巡っての主導権争いがあり、今後、あまりに財務省がこの会議まで実質的に支配するようなら、内閣予算局も検討すべきでしょう。憲法には予算編成権は内閣にあると書いてある。財務省にはその権限を授権しているにすぎない。組織管理の要諦は「カネと人事を握ること」。内閣人事局と相まって、官邸に内閣予算局を置けば「政治(内閣)主導の体制」が完成するのです。具体的な案に関して真剣に議論して結論を出す必要があるでしょう。国民にもわかりやすく説明をして国民的な議論を展開することも大事でしょう。IMG_1790.JPG
今までの自民党政治が問われているのでは[2025年05月25日(Sun)]
 時事通信2025年3月19日付け「岸田前首相も商品券配布 菅氏「手土産」認める」から、石破茂首相が自民党衆院議員に商品券10万円を配布していた問題に関連し、岸田文雄前首相も在任中に同党議員に商品券を配っていたことが分かった。
党関係者が19日明らかにした。菅義偉元首相の事務所は「手土産を差し上げたことはある」と文書で答えた。自民内で金品を渡すことが常態化していた可能性があり、野党は追及を強める方針だ。  
岸田氏は2021年10月から3年間、首相を務めた。関係者によると、自民議員は政務官や副大臣に就任すると首相公邸での会合に招かれ、事前に岸田氏の事務所関係者が議員宛てに紙袋を持参。菓子と商品券が入っていたという。  
岸田氏の事務所は取材に対し「会合は法令に従い適正に行っている。それ以上についてコメントは差し控えたい」と文書で回答した。  
菅氏の事務所は「首相在任中はコロナ禍で思うように会合ができない時期だった」と説明。その上で「それ以外の時期においても、手土産を差し上げたことはあるが、法令の範囲内で適正に行っている」と答えた。  
麻生太郎元首相の事務所は、商品券を配布したことは「ない」と明言した。  
また、複数の自民関係者は第2次安倍政権でも商品券が配られていたと証言。中堅議員は「政務官になったときに安倍晋三首相(当時)から公邸での会食に呼ばれて受け取った。10万円だったと思う」と語った。  
石破首相は19日の参院予算委員会で、自身の商品券配布について「政治活動に使ってくださいという意図は毛頭ない」と重ねて違法性を否定。岸田氏の配布に関しては「コメントする立場にない」と述べるにとどめた。立憲民主党の小沼巧氏への答弁。  
立民の野田佳彦代表は記者団に「構造的に根深い問題になってきた」と指摘。国会で首相を追及する考えを示した。公明党の岡本三成政調会長は記者会見で「慣習化されていたら不適切だ。疑念があるなら歴代首相も(説明の)機会を見つけていただくのが望ましい」と訴えた。IMG_6046.jpeg 

 石破茂首相が自民党衆院議員に商品券10万円を配布していた問題に関連し、岸田文雄前首相も在任中に同党議員に商品券を配っていたことが分かった。党関係者が19日明らかにした。菅義偉元首相の事務所は「手土産を差し上げたことはある」と文書で答えた。自民内で金品を渡すことが常態化していた可能性があり、野党は追及を強める方針だ。自民党が政治を行うためにはお金が必要だということでしょうか。複数の自民関係者は第2次安倍政権でも商品券が配られていたと証言。中堅議員は「政務官になったときに安倍晋三首相(当時)から公邸での会食に呼ばれて受け取った。10万円だったと思う」企業、政治献金を含めてお金が入らなくなってしまえば選挙にも勝てなくなってしまうということなのでしょうか。立民の野田佳彦代表は記者団に「構造的に根深い問題になってきた」と指摘。国会で首相を追及する考えを示した。公明党の岡本三成政調会長は記者会見で「慣習化されていたら不適切だ。疑念があるなら歴代首相も(説明の)機会を見つけていただくのが望ましい」と訴えた。自民党の政治のあり方について疑念がある以上は徹底的に説明を求めていく必要があるのでしょう。政治のあり方を考える上でも大事な局面になっているかもしれません。IMG_6035.JPG
包括的な思考をする人は全体を、分析的な人は部分を見るのか[2025年05月24日(Sat)]
 現代ビジネス2025年3月20日付け「なぜ西洋の知的エリートは”アイデンティティの根源”を「他人との違い」や「自身の特別さ」に求めるのか?」から、人種差別、経済格差、ジェンダーの不平等、不適切な発言への社会的制裁…。
世界ではいま、モラルに関する論争が過熱している。「遠い国のかわいそうな人たち」には限りなく優しいのに、ちょっと目立つ身近な他者は徹底的に叩き、モラルに反する著名人を厳しく罰する私たち。
恥か罪か
奇妙な人々の道徳感情もとても独特だ。伝統豊かな社会の多くに「名誉の文化」と呼べるものがある。そこでは、女性あるいは男性として、母あるいは父として、商人として、職人として、あるいは共同体のメンバーとしての名声が、社会的交換における重要な通貨となる。職業における成功、個人の信頼性、性的な行動など、さまざまな要素を通じて名声が決まる。名誉が傷つくと、人は恥を覚える。侮辱され、屈辱を感じ、さらし者になった気になり、穴があったら入りたいと願う。恥とは、他人による社会的評価の急下落を意味する。
ところが、奇妙な人々は恥を知らない。その代わりに罪悪感を覚える。罪悪感と恥はどちらも道徳的な感情で、これらを動機として、私たちは行動を修正する(ほとんどの人はそれを不快に感じるので、罪悪感と恥を避けようとする)。
しかし、恥か罪かによって修正のしかたは異なる。恥の場合、その感情の強さは他人の評価によって変わり、ある行動が人に見られたときと見られなかったときで恥の強さが変わるし、そもそも恥の感情が生じないこともある。一方の罪悪感は、自らが定めた道徳的基準を満たせなかったときに生じる感情だ。ベジタリアンとして生きていこうと心に決めた人が、肉が好きな友人たちに囲まれ、誘惑に負けてついついステーキを頬張ったとき、友人たちはそのことをまったく意に介さないとしても、本人は非常に強い罪悪感を覚えることがある。奇妙な人々はそのような、まわりの人々が引き起こすのではない自発的な罪悪感にさいなまれやすい。
この事実は社会規範を侵害した者に対する制裁方法にも影響する。奇妙な人々は自らの(あるいは家族や親友の)名誉に対する侵害に復讐で反応することは少ないが、代わりに第三者に対して社会的ルールの遵守を強く求める傾向が強い。一方の(奇妙ではない)伝統社会では、自分が属する集団の社会経済的ステータスを潜在的脅威から守ることが最優先される。ほかの人やほかの集団がどんな争いをしていて、どんな規則を破ったかなんて、それが自分と自分の集団に影響をおよぼさない限りはどうだっていい、という態度だ。奇妙な人々は復讐に頼ることは少ない代わりに、一般的な社会ルールに対する侵害を罰する気持ちが強い。
奇妙な人々
奇妙な人々の思考と行動がほかの人々と違う理由として、奇妙な人々は自分自身とそのアイデンティティの源について、ほかとは違う考え方をもっている点を挙げられる。
人類のほとんどは複雑な人間関係や役割から自分という人間を具体的に理解するのだが、奇妙な人々は自らのアイデンティティを個人的ではない抽象的な何かと捉えるのである。その証拠に、奇妙な人々に「私は(……)だ」という文章の空白を埋めるように指示すると、彼らは個性、能力、業績、願望などを列挙する。奇妙な人々はアイデンティティの問題を、自分がどの点で他人とは違うか、特別かを尋ねる問いと理解する。そのような人にとってアイデンティティとは、映画好き、食通、マンチェスター・ユナイテッドのファン、切手収集家、実業家、エクストリームスポーツ好き、チェス愛好家など、個人の特別な好みや能力で決まる。
奇妙ではない人々の場合は、社会的役割や人間関係の密なネットワークのどこに位置しているかが重要視される。奇妙な人々の社会では、個人はさまざまな社会状況とは無関係な、不変の人格を有しているはずだという“気質”中心の考え方が確立しているようだ。一方の奇妙ではない人々の社会では、友人の祖父母の前ではおとなしく、謙虚にふるまう人が、別の場所では声高で、外向的で、横柄になることは珍しくない。奇妙ではない人の圧倒的大多数は、自分のことを家族と宗教集団の一員、人間関係と風習の相続人および維持・管理者とみなす。
誰かが何かをした場合、それが意図的であるか否かで道徳的に違いがあるのだろうか?個人を中心的な倫理単位とみなす考え方は、この問いに対する答えにも表れる。ある行為が意図的に行われたか否かがその行為に対する非難や処罰とどう関係するかを調べるには、さまざまな社会の人々−ロサンゼルスの都会人、アンゴラのヒンバ族の牛飼い、ボリビアのチマネ族の狩人や農民、漁に長けたフィジーのヤサワ島民など−に、まったく同じ結果(たとえば同じ量の被害)がもたらされた場合も、異なる理由で実行された行為のあいだに道徳的な違いがあると思うかどうかを尋ねればいい。
奇妙な人々は、誰かが自分のと間違えて他人の買い物袋を“もっていく”ことは、わざと盗むよりもはるかにましだと考える。奇妙でない人々も、この2つの行為のあいだに違いがあることは理解するが、彼らにとっては行為の意図よりも、それによって引き起こされる結果のほうが重要になる。買い物袋を盗もうとしたのか、窃盗癖があるのか、欲張りだからか、悪意があったのかは、あまり関係ない。
奇妙な人々とそうでない人々の最後の違いは、抽象的な思考と関係している。奇妙な人々は(一般論として)“分析的”に、奇妙でない人々は“包括的”に考える。分析的に考える人は、それぞれが特異な性質を備えた個の集合として世界を理解しようとする。包括的な思考は、個と個のつながりを重視し、関係性や共通項を見つけようとする。包括的に考える人は全体を、分析的な人は部分を見る。IMG_7789.JPG

 世界ではいま、モラルに関する論争が過熱している。「遠い国のかわいそうな人たち」には限りなく優しいのに、ちょっと目立つ身近な他者は徹底的に叩き、モラルに反する著名人を厳しく罰する。殺伐とした時代になっているのでしょうか。奇妙な人々は恥を知らない。その代わりに罪悪感を覚える。罪悪感と恥はどちらも道徳的な感情で、これらを動機として、私たちは行動を修正する。恥か罪かによって修正のしかたは異なる。恥の場合、その感情の強さは他人の評価によって変わり、ある行動が人に見られたときと見られなかったときで恥の強さが変わるし、そもそも恥の感情が生じないこともある。一方の罪悪感は、自らが定めた道徳的基準を満たせなかったときに生じる感情だ。ベジタリアンとして生きていこうと心に決めた人が、肉が好きな友人たちに囲まれ、誘惑に負けてついついステーキを頬張ったとき、友人たちはそのことをまったく意に介さないとしても、本人は非常に強い罪悪感を覚えることがある。奇妙な人々はそのような、まわりの人々が引き起こすのではない自発的な罪悪感にさいなまれやすい。なる程わかるような気がします。奇妙な人々は自らの(あるいは家族や親友の)名誉に対する侵害に復讐で反応することは少ないが、代わりに第三者に対して社会的ルールの遵守を強く求める傾向が強い。一方の(奇妙ではない)伝統社会では、自分が属する集団の社会経済的ステータスを潜在的脅威から守ることが最優先される。ほかの人やほかの集団がどんな争いをしていて、どんな規則を破ったかなんて、それが自分と自分の集団に影響をおよぼさない限りはどうだっていい、という態度だ。奇妙な人々は復讐に頼ることは少ない代わりに、一般的な社会ルールに対する侵害を罰する気持ちが強い。奇妙な人々はアイデンティティの問題を、自分がどの点で他人とは違うか、特別かを尋ねる問いと理解する。そのような人にとってアイデンティティとは、映画好き、食通、マンチェスター・ユナイテッドのファン、切手収集家、実業家、エクストリームスポーツ好き、チェス愛好家など、個人の特別な好みや能力で決まる。奇妙ではない人々の場合は、社会的役割や人間関係の密なネットワークのどこに位置しているかが重要視される。奇妙な人々の社会では、個人はさまざまな社会状況とは無関係な、不変の人格を有しているはずだという“気質”中心の考え方が確立しているようだ。一方の奇妙ではない人々の社会では、友人の祖父母の前ではおとなしく、謙虚にふるまう人が、別の場所では声高で、外向的で、横柄になることは珍しくない。奇妙ではない人の圧倒的大多数は、自分のことを家族と宗教集団の一員、人間関係と風習の相続人および維持・管理者とみなす。奇妙な人々とそうでない人々の最後の違いは、抽象的な思考と関係している。奇妙な人々は(一般論として)“分析的”に、奇妙でない人々は“包括的”に考える。分析的に考える人は、それぞれが特異な性質を備えた個の集合として世界を理解しようとする。包括的な思考は、個と個のつながりを重視し、関係性や共通項を見つけようとする。包括的に考える人は全体を、分析的な人は部分を見る。分析的な見方をする人も必要でしょうが、包括的に全体を考える人が求められている時代なのでしょうか。山上パノラマ後ろ姿.JPG
出世よりも学校運営などを真剣に考え教育を行う必要があるのでしょう[2025年05月23日(Fri)]
 毎日新聞2025年3月19日付け「根底に組織の形骸化と権力化 元名古屋市長が語る教育行政のひずみ」から、名古屋市では昨年、市教育委員会が校長会などから校長推薦名簿や金品を受領していた問題や、校長OBらでつくる任意団体「市教育会」が教職員研修などへの支援名目に保護者から会費を集めていた問題が相次いで発覚。長年続いてきた慣習や組織が廃止に追い込まれる事態となった。教員出身で、市教育長、市長を歴任するなど教育の世界を知り尽くす松原武久氏(88)に、一連の問題について聞いた。
「やった方も受け取った方も『たわけ』(愛知や岐阜で使われる「あほ」「ばか」などを意味する言葉)ですよ」。市教委が金品・推薦名簿を受領していた問題について尋ねると、名古屋に住む松原さんは開口一番、地元の方言を使って厳しく批判した。  
市教委は多数の教員団体から長年、校長、教頭、教務主任の推薦名簿とともに現金や商品券を受け取っていた。問題は昨年2月に発覚。第三者による調査検証チームが同8月に公表した最終報告書によると、教員人事を担当する市教委教職員課が2017〜23年度に教員団体から計1312万円(商品券含む)の金品を受領し、職員の夜食やタクシー代などに充てていた。背景として「教員集団の閉鎖的・排他的な仲間意識、なれ合いの構造があった」と結論づけた。  
調査検証チームは歴代の教育長への聞き取り方針を示し、松原氏も対象となった。昨年7月に当時市長だった河村たかし衆院議員(76)が「本当のことをしゃべってほしい」と、松原氏に異例の呼びかけをした。  
市立中学校長、市教職員課長などを経て1995年から市長に就任する97年まで教育長を務めた松原氏は「教員人事は大激論が夜中まで続く。終電で帰れる日が珍しいぐらいだった」と振り返る。その上で金品の授受に関しては「聴取でも答えたが、私は知らないし、私の頃には少なくともやっていない」と強調した。  
市は、昨年11月に教育長はじめ、市教委の関係者計20人を処分。市教委は25年度の教員人事に関し、校長など「三役」に昇任する選考審査への応募条件となっている校長推薦を廃止し、自ら応募する「自薦方式」に変更した。      
市教育会は市立小中高校などで毎年新学期、「教育会入会のお願い」と書かれたチラシを児童生徒に配布。1口100円の会費を保護者に募り、クラス担任が学校で徴収していた。毎日新聞などが昨年、こうした実態を報じると、河村氏は「学校という閉鎖空間で行われ、事実上強制だ」と会費の徴収方法を問題視した。松原氏も「教室で現金を集めるやり方はよくない」と批判した。  
毎日新聞が入手した市教育会の23年度決算報告書によると、収入2915万8161円のうち会費(2807万5750円)が大半を占め、その会費の8割が保護者から徴収したものだった。支出の3分の1が市教育会事務局員(元学校長を含む3人)の給与に充てられており、松原氏は「教育会の会長というのは校長の中のボス。すごろくの『上がり』みたいなもので天下りポスト」と、組織のあり方に疑問を呈した。  
一方、松原氏は市教育会の予算が教職員の支援にも充てられている点について「教員の育成、キャリアアップに貢献した」と評価する。市教育会は優秀な論文を執筆した教員に「教育研究派遣費」として3万円を支給。毎日新聞の調べでは、23年度に教員108人に計326万円が支払われた。  
松原氏は「教員の研究と修養は教育基本法にも定められているが、研究の予算は決して潤沢ではなかった」と指摘。自身が教育界に身を置いていた当時を振り返り「教育研究では東京教育大(現筑波大)がメッカ。そこで指導を受けるため、教育研究派遣費を(筑波大に行くための)旅費の足しにしていた」と語った。  
市教育会は1946年から市独自の教育助成団体として運営してきた長い歴史を持つ。だが、会費が集まりにくくなり、事業の継続が難しくなったとして、今年3月末での解散が決まった。  
教育行政を揺るがした二つの問題が浮き彫りにしたのは何だったのか。松原氏は言う。「既に機能しなくなったり、世間からずれたりしているのに慣習化してしまうのは、一部の者が力を持ったり、閉鎖的になったりと、組織の形骸化と権力化が根底にあるからだ。今回の問題を機に教育行政を変えなければならない」IMG_7778.JPG

 名古屋市では昨年、市教育委員会が校長会などから校長推薦名簿や金品を受領していた問題や、校長OBらでつくる任意団体「市教育会」が教職員研修などへの支援名目に保護者から会費を集めていた問題が相次いで発覚。長年続いてきた慣習や組織が廃止に追い込まれる事態となった。教育現場ではあってはならないような不祥事でしょう。公務員である以上は出世したいと考える人が多いでしょうが、出世よりも教育のあり方を真剣に考えより良い学校運営を行うべきでしょう。「やった方も受け取った方も『たわけ』(愛知や岐阜で使われる「あほ」「ばか」などを意味する言葉)ですよ」。市教委が金品・推薦名簿を受領していた問題について尋ねると、名古屋に住む松原さんは開口一番、地元の方言を使って厳しく批判した。市教委は多数の教員団体から長年、校長、教頭、教務主任の推薦名簿とともに現金や商品券を受け取っていた。問題は昨年2月に発覚。第三者による調査検証チームが同8月に公表した最終報告書によると、教員人事を担当する市教委教職員課が2017〜23年度に教員団体から計1312万円(商品券含む)の金品を受領し、職員の夜食やタクシー代などに充てていた。背景として「教員集団の閉鎖的・排他的な仲間意識、なれ合いの構造があった」確かに教員集団は閉鎖的で排他的なところがあり、なれ合い構造が強いかもしれません。昨年11月に教育長はじめ、市教委の関係者計20人を処分。市教委は25年度の教員人事に関し、校長など「三役」に昇任する選考審査への応募条件となっている校長推薦を廃止し、自ら応募する「自薦方式」に変更した。市教育会は市立小中高校などで毎年新学期、「教育会入会のお願い」と書かれたチラシを児童生徒に配布。1口100円の会費を保護者に募り、クラス担任が学校で徴収していた。「学校という閉鎖空間で行われ、事実上強制だ」「教室で現金を集めるやり方はよくない」校長推薦というのはよくないでしょう。現金を教室で集めるのも常識的に考えてあり得ないでしょう。「既に機能しなくなったり、世間からずれたりしているのに慣習化してしまうのは、一部の者が力を持ったり、閉鎖的になったりと、組織の形骸化と権力化が根底にあるからだ。今回の問題を機に教育行政を変えなければならない」教育界は比較的保守的なところがあります。保護者、住民から見て透明性があり、オープンで開かれた学校運営を行う必要があるでしょう。IMG_7768.JPG
「敵と味方」の構図に流されず、社会に発信していくべきでは[2025年05月22日(Thu)]
 週プレNEWS2025年3月17日付け「モーリーの考察。「反エリート主義」がはびこる時代にこそ、知識層がやるべきこと」から、国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、世界中で吹き荒れる「反エリート」の嵐に対して、知識層と呼ばれる人々がとるべき行動や考え方について考察する。
第1次世界大戦の敗戦を受けたドイツで革命が起き、国民主権、男女平等の普通選挙など20世紀の民主主義の指針となるワイマール憲法が成立したのは1919年。この波に乗り誕生した美術・建築の学校「Bauhaus(バウハウス)」には、男女関係なくみんなで新しいデザインを作ろうという理念に共感した若い女性たちが殺到、多様な価値観が交差し才能がきらめく場となりました。
しかし、女性の活躍を快(こころよ)く思わない層からの批判が圧力となり、公的な支援の削減が現実味を帯びると、バウハウスは方針を大きく転換。女性が専攻できる科目をごく一部のみに限定してしまいました。自由な創造の場だったはずのバウハウスは、その後ナチスのファシズムが拡大していく中で国家に取り込まれ、「機械的で冷たいデザインの象徴」という評価さえ受けています。
当時はメディアがまだ未発達で、デモクラシーを支える十分な情報が一般市民に流通しておらず、議論もなされないまま「心情」が動かされてファシズムが広がっていった面があります。そう考えると、情報インフラが発達し、開かれた言論の自由がある日本やアメリカの現代社会を Wファシズム前夜Wなどと称するのは、さすがに無理があるでしょう。
現代のアメリカにおけるドナルド・トランプやイーロン・マスクへの熱狂、日本の兵庫県知事選などで見られたポピュリズムの特徴は、W二重基準Wが野放しになっていることです。攻撃対象となった人や組織には徹底的な検証や説明責任を要求する一方、ヒーローにはブラックボックスが許容され、透明性を求めない。
あるいは「日本のメディアはウソと欺瞞ばかり」と決まり文句で非難したり、「財務省解体」を強烈に支持する人々も、特定のヒーロー的な存在こそいませんが、論拠がブラックボックス化しているという点では似た部分があるかもしれません。
メディアの報道に関していえば、確かにスポンサーや特定の政治勢力などにW配慮Wする場面はあります。しかしながら、その一方で記者たちが非常に丁寧な調査報道や、身を削るような取材を続けているケースもあります。つまり、実際のマスメディアの現場はひとつの「大きな力」に基づいて動いているわけではなく、いわばW都度都度Wなのです。
それを「信用できない」とひとまとめに断じる人々の多くは、少なくとも現状ではマスメディアよりもはるかに信用できないような情報源を、自分にとって都合のいいように、気持ちよく受け入れているのです。
反知性主義や反エリート主義の流れは、そう簡単に食い止められるものではないかもしれません。そんな中、あえてナチス前夜のドイツから学ぶべきことを探そうとするなら、「W考える能力Wのある人がサボると、社会全体が崩れる」ということでしょうか。
ややノブレス・オブリージュ的な考え方になりますが、他者や社会へと怒りを向けることで溜飲を下げている人々に対して、知識層が「バカなやつらに何を言っても変わらない」と諦め、自己利益に走ってしまうと、本当にポピュリズムが止まらなくなると思うのです。
エリート批判がはびこる時代だからこそ、知識人たちは「敵と味方」の構図に流されず、社会に発信していくべきではないかと強く感じています。IMG_1402[1].JPG

 メディアがまだ未発達で、デモクラシーを支える十分な情報が一般市民に流通しておらず、議論もなされないまま「心情」が動かされてファシズムが広がっていった面があります。そう考えると、情報インフラが発達し、開かれた言論の自由がある日本やアメリカの現代社会を Wファシズム前夜Wなどと称するのは、さすがに無理があるでしょう。現代のアメリカにおけるドナルド・トランプやイーロン・マスクへの熱狂、日本の兵庫県知事選などで見られたポピュリズムの特徴は、W二重基準Wが野放しになっていることです。攻撃対象となった人や組織には徹底的な検証や説明責任を要求する一方、ヒーローにはブラックボックスが許容され、透明性を求めない。あるいは「日本のメディアはウソと欺瞞ばかり」と決まり文句で非難したり、「財務省解体」を強烈に支持する人々も、特定のヒーロー的な存在こそいませんが、論拠がブラックボックス化しているという点では似た部分があるかもしれません。メディアの報道に関していえば、確かにスポンサーや特定の政治勢力などにW配慮Wする場面はあります。しかしながら、その一方で記者たちが非常に丁寧な調査報道や、身を削るような取材を続けているケースもあります。つまり、実際のマスメディアの現場はひとつの「大きな力」に基づいて動いているわけではなく、いわばW都度都度Wなのです。 それを「信用できない」とひとまとめに断じる人々の多くは、少なくとも現状ではマスメディアよりもはるかに信用できないような情報源を、自分にとって都合のいいように、気持ちよく受け入れているのです。あえてナチス前夜のドイツから学ぶべきことを探そうとするなら、「W考える能力Wのある人がサボると、社会全体が崩れる」ということでしょうか。ややノブレス・オブリージュ的な考え方になりますが、他者や社会へと怒りを向けることで溜飲を下げている人々に対して、知識層が「バカなやつらに何を言っても変わらない」と諦め、自己利益に走ってしまうと、本当にポピュリズムが止まらなくなると思うのです。エリート批判がはびこる時代だからこそ、知識人たちは「敵と味方」の構図に流されず、社会に発信していくべきではないかと強く感じています。声を上げる、ペンの力を信じることが大事ではないでしょうか。世界中を覆ってきているポピュリズムを止めるためには諦めるのではなくメディアは発信し続けて多くの人たちに支持を得る努力をしなければならないでしょう。IMG_1401[1].JPG
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