• もっと見る
« 2025年03月 | Main
<< 2025年04月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
月別アーカイブ
最新記事
最新コメント
Tomoko
虹の懸け橋 (10/05)
大館市A
東北地方太平洋地震 (03/13)
藤原 克己
NPO法人の活動資金 (02/28)
モヤコ
買ってもらえる民芸品 (02/19)
健康的な高齢者が増える方策を考える必要があるのでは[2025年04月27日(Sun)]
 現代ビジネス2025年2月18日付け「この国は本当に大丈夫なのか…「高齢化した高齢者」が急増するという「不可避で厳しい未来」」から、高齢者向け住宅や福祉施設を街の中心に
2042年まで高齢者数が増えるということは、令和時代の「大人たち」の最大のミッションは高齢者対策になるということだ。
今後は「高齢化した高齢者」が増える。80歳以上の人口は、2018年の1104万人が、2040年には1576万人となるのだ。それは国民の7人に1人が該当するということである。しかも、社人研の「日本の世帯数の将来推計(都道府県別推計)」(2019年)によれば、ひとり暮らしの高齢者が激増し、2040年には75歳以上のひとり暮らしだけ取り上げても、512万2000人に及ぶ。
80代ともなれば身体能力も判断力も衰えてくるが、ひとり暮らしであるがゆえに、買い物や通院のために外出せざるを得ない場面が増える。そのサポートを家族がせざるを得ない状況に追い込まれたのでは、働き手世代は仕事に専念することが難しくなり、日本経済が鈍化するだけでなく、社会全体が機能しなくなる。
高齢者の自立を促すためには、第4の視点でも触れたが、「王国」の中で最も「賑わい」が残っている立地条件のよい場所に、高齢者向けの住宅や施設を構えることである。
これが難しいのであれば、発想を逆転させ、既存の病院や福祉施設を核として、その周辺に高齢者用の住宅を整備し「賑わい」を作るのでもよい。大切なのは、高齢者が自ら歩くことですべての用事を完結できるようにすることである。少しでも、家族の手を借りずに暮らせるようにすることは、結果として社会保障費の縮減にもつながり、何よりも家族が自分の仕事に専念できるので勤労者世代の激減対策ともなる。
高齢者が市街地に集まり住むようになれば、介護スタッフも確保しやすくなり、少ない人数で多くの人にサービスを提供することも可能になる。さらには、運転手不足によるバスなどの公共交通機関の減便や撤退があっても暮らしへの影響は少ない。免許を返上しても困らなくなるので、高齢ドライバーによる悲しい事故も減るだろう。
「丸亀町商店街」の成功
これは国内にお手本とすべき成功例がある。香川県高松市の中心に位置する「丸亀町商店街」だ。
第3セクターのまちづくり会社がデベロッパーとなって再開発ビルを経営するというユニークな再開発スタイルが商店街活性化策の成功事例として有名になったが、重要なのはここではない。注目すべきは「人が住める町」に生まれ変わらせた点である。
商店街の業種の偏りを是正し、飲食店から日用雑貨や生鮮食品を扱う店舗、診療所まで暮らしを支える機能を充実させたのである。買い物から各種サービスの利用まで日常生活で必要となることの大半を商店街の中で済ませることができるような環境が整えられた。
しかも、商店街の上部を居住スペースにしたのだ。消費者ではなく生活者の呼び込みを優先した“住むことのできる商店街”の実現である。
バブル経済期の地価高騰を受けて、居住物件の価格を高齢者にも配慮して抑制した結果、郊外に移り住んだ“かつての住民”などが戻り、商店街にも活気が戻ったのである。私も何度か足を運んだが、大きなアーケードの下で雨の日も手軽に買い物ができるのは魅力的だ。すべてが計画通りにいっているわけではないが、日中や休日には学生アルバイトや若い買い物客も目立ち、世代を超えた交流が広がっている。
「丸亀町商店街」のようにストリート型の商店街でなくとも、既存の施設でぴったりな建物がある。大型ショッピングモールだ。 そもそも「〇〇タウン」などと名乗っているのだから、まさに建物自体が街であり「王国」づくりにおあつらえ向きである。生鮮食品から衣類、雑貨、医療機関やスポーツ施設まで整っており、そこに足りないのは「住民」だけだろう。
現在は大型駐車場を完備しているが、高齢社会においてはマイカーを運転するのが難しくなる人が増える。しかも商圏として当て込んでいるエリアの人口は激減していく。移動販売に力を入れるよりも、大型ショッピングモールそのものを住宅と一体化してしまったほうが、はるかに効率的に集客できよう。
居住スペースはショッピングモールの上層階か、隣接地に作り、地域住民が集まり住めるようにするのである。建物はすでに完全バリアフリーになっているわけであるし、ここの住民は傘を差さずに街に出ることができるということだ。ショッピングモール側にしても、住民は顧客としてだけでなくパート社員ともなってくれるので人材も確保しやすい。
ショッピングモールの周辺には、他業種の店舗が寄り添うように立地しているケースが少なくない。こうしたところも巻き込みながら街づくりを進めるのでもよい。大型ショッピングモールや大型商店街だけでなく、国道沿線の商業施設集積地なども「王国」づくりの環境として恵まれている。DSC00409.JPG

 政治家、官僚は目先の短期的な政策ばかりでなく中長期的な視点に立って国と国民のことを真剣に考えたビジョンを描いていかなければならないでしょう。高齢者向け住宅や福祉施設を街の中心に2042年まで高齢者数が増えるということは、令和時代の「大人たち」の最大のミッションは高齢者対策になるということだ。高齢者対策がすべてということはないでしょうが、重点政策の柱の1つになるでしょう。今後は「高齢化した高齢者」が増える。80歳以上の人口は、2018年の1104万人が、2040年には1576万人となるのだ。それは国民の7人に1人が該当するということである。ひとり暮らしの高齢者が激増し、2040年には75歳以上のひとり暮らしだけ取り上げても、512万2000人に及ぶ。80代ともなれば身体能力も判断力も衰えてくるが、ひとり暮らしであるがゆえに、買い物や通院のために外出せざるを得ない場面が増える。そのサポートを家族がせざるを得ない状況に追い込まれたのでは、働き手世代は仕事に専念することが難しくなり、日本経済が鈍化するだけでなく、社会全体が機能しなくなる。世界の中で高齢者数がダントツになってしまう社会をどのように設計するのでしょうか。高齢者の自立を促すためには、最も「賑わい」が残っている立地条件のよい場所に、高齢者向けの住宅や施設を構えることである。これが難しいのであれば、発想を逆転させ、既存の病院や福祉施設を核として、その周辺に高齢者用の住宅を整備し「賑わい」を作るのでもよい。大切なのは、高齢者が自ら歩くことですべての用事を完結できるようにすることである。少しでも、家族の手を借りずに暮らせるようにすることは、結果として社会保障費の縮減にもつながり、何よりも家族が自分の仕事に専念できるので勤労者世代の激減対策ともなる。高齢者が市街地に集まり住むようになれば、介護スタッフも確保しやすくなり、少ない人数で多くの人にサービスを提供することも可能になる。さらには、運転手不足によるバスなどの公共交通機関の減便や撤退があっても暮らしへの影響は少ない。免許を返上しても困らなくなるので、高齢ドライバーによる悲しい事故も減るだろう。確かにその通りかもしれませんね。商店街の業種の偏りを是正し、飲食店から日用雑貨や生鮮食品を扱う店舗、診療所まで暮らしを支える機能を充実させたのである。買い物から各種サービスの利用まで日常生活で必要となることの大半を商店街の中で済ませることができるような環境が整えられた。しかも、商店街の上部を居住スペースにしたのだ。消費者ではなく生活者の呼び込みを優先した“住むことのできる商店街”の実現である。住む商店街という発想は素晴らしいですね。居住スペースはショッピングモールの上層階か、隣接地に作り、地域住民が集まり住めるようにするのである。建物はすでに完全バリアフリーになっているわけであるし、ここの住民は傘を差さずに街に出ることができるということだ。ショッピングモール側にしても、住民は顧客としてだけでなくパート社員ともなってくれるので人材も確保しやすい。ショッピングモールの周辺には、他業種の店舗が寄り添うように立地しているケースが少なくない。こうしたところも巻き込みながら街づくりを進めるのでもよい。大型ショッピングモールや大型商店街だけでなく、国道沿線の商業施設集積地なども「王国」づくりの環境として恵まれている。素晴らしい考えでありアイデアですね。このような環境づくりが多くの地域で進めばいいですね。DSC00408.JPG
「停滞なる安定」、低成長だが社会は崩壊しない道を暗黙のうちに選択して[2025年04月26日(Sat)]
 東洋経済ONLINE2025年2月17日付け「勤勉な日本人が「低い生産性」に甘んじてきた必然 『ホワイトカラー消滅』冨山和彦氏に聞く・後編」から、産業構造の変化やデジタル化の進展が加速する日本で、ホワイトカラーは「人余り」の時代に突入する一方、地域経済を支えるエッセンシャルワーカーや観光産業には新たなチャンスも生まれている。冨山和彦氏の著書『ホワイトカラー消滅』の内容を基に、新時代の日本の稼ぎ方について掘り下げた。
よき人生の定義を「多元化」せよ  
日本はこれまで「停滞なる安定」、低成長だが社会は崩壊しない道を暗黙のうちに選択してきたと指摘されています。  
今のアメリカは経済成長して、株価も絶好調だけど、サンフランシスコなんて危なくて歩けない。ちょっと異様な感じだ。普通はあれだけ経済指標がよかったらウハウハのはず。日本がアメリカのようにならなかったことが本当に悪いことなのかはわからない。  
「両利きの国を目指す」、すなわちローカルは豊かでグローバルが強い国を目指すという提案をされていますが、それには何が必要ですか。
 まずは成功の仕方、よき人生の定義を多元化することが必要だ。大谷翔平選手や五輪金メダリストのように世界の頂点を目指す人生はつらい。人の何十倍も努力して、怪我もして、それを克服してという方向で頑張る人生を全員が目指す必要はない。自分の住む地域でエッセンシャルな仕事をして、目の前にいる人たちの役に立っていく人生もいいものだ。  
人それぞれの幸せの尺度、役立ち方を皆が認め合える社会にしていかないとまずい。若い人の空気感は変わってきているように感じる。今、スタートアップが最も多いのは東大だ。若い人たちは1つの軸で見るのはもう「無理ゲー」だと思っているんじゃないか。
国を組み替えていく過程で「付加価値労働生産性」が重要だという話をしています。
付加価値労働生産性というのはわれわれが1時間当たりどれだけの付加価値を稼げるかを示す指標だ。GDPは付加価値の総計だから、付加価値労働生産性に総労働時間をかけたものということになる。  
経済は循環系。生産、投資、消費が循環する。それが拡大再生産することが経済成長だ。ということは、循環のどこかに問題があると、それによって全体が規定されてしまう。今、日本における最大のリスク要因は労働供給にある。生産面の問題だ。
 需給ギャップという発想は古い。今は、500室あるホテルが300室しか稼働していないとき、原因は人手不足である場合が多い。起きているのは完全に労働供給による制約なわけだから、付加価値労働生産性を上げ経済を伸ばすことは、皆を幸福にする。  
とにかく、貧すれば鈍する。なんだかんだ言って、給料が安いとしんどい。やりがいだけで頑張れというのはやりがい搾取だ。皆が年収1億円を目指す必要はないし、それは無理だが、それぞれの人なりに自分の仕事に対する幸福感、充実感があって、給料からもそれなりに幸福感を満たせるようになっていないと、世の中全体としてうまくいかない。そういう脈絡で、今、経済指標でいちばん大事なのは付加価値労働生産性だ。
 最低賃金の議論を聞いていると、まだ人手が余っているという発想から抜け切れていない。「最低賃金を上げると雇用に響くから反対」というが、実際には響かない。マクロ的に労働受給は逼迫しているのだから。
「デフレと人手余り」から頭が切り替わっていない  
「中小企業が潰れたら、地域の社会インフラ機能がなくなって地域がもたなくなる」という主張もあります。  
われわれ自身が過疎地でバス事業をやっているのでわかるが、路線バスの廃線は会社が潰れて起きているわけではない。運転手がいなくなって起きているのだ。なぜ運転手がいなくなるかというと、給料が安いから。順番が逆だ。
デフレと人手余りで30年間やってきたから、頭の中がまだ切り替えられていない。経営者も平成脳のままだ。「最低賃金を上げられちゃうと、うちの会社はもちません」というが、それはつまり、経営が苦しいときには低賃金雇用とコストダウンで生き残れると思い込んでいるということ。でも今は、そんな平成モデルでは生き残れない。  
賃金の下方圧力には、グローバル産業が国際競争に劣後するから下げなければいけないという思い込みがあったと思います。今は日本のグローバル産業が競争力を持たなくなっていますが、これはなぜでしょうか? 
 ハードウェアの大量生産が求められていないからだ。実際、テレビを買うときにプレミアムのものを買うかというとそうではない。単なるディスプレーと見る人が多いだろう。  テレビ自体よりも、むしろAmazonプライムやYouTubeのプレミアムに入っちゃおうかなという感覚で、お金を払う対象が変わった。もうテレビの製造を歯を食いしばって頑張ったって報われない。ハードからソフトへ。30年前に始まった新たなゲームが今後も続くだろう。
 ゲームが変わったときにはその企業にとって必要な働き手も変わるから、終身雇用、年功制は厳しい。例えば、プレーする競技が野球からサッカーに変わるときに、チームに野球選手しかいなかったら負ける。  
でも、これまでの日本企業は、今いるメンバーで、野球選手の力でサッカーに挑んでしまった。だから、グローバルなIT産業で惨敗した。違うゲームなのだから最初から無理があった。  
例えて言うなら、「ソフトバンクホークスサッカー部」や「読売巨人軍サッカー部」を作り、若くて運動神経のいい野球選手にサッカーをやらせてきたようなものだ。ITはグローバル産業だから、いきなり欧州チャンピオンズリーグに行けというのと同じ。ピッチの向こうにはメッシがいる。バットとグローブは持たせてもらえない。
日本型経営はいったん99%否定したほうがいい  
日本型経営はかつて成功したものの、その成功の呪いから脱却するには時間がかかりそうですね。  
長い時をかけていろんな仕組みが制度化されており、猛烈な経路依存性がある。教育、個人の生き方、社会保障制度、年金、退職の仕組みなど、全部経路ができてしまっている。野球だけでなくサッカーもブレイキンもやることになりましたと急に言われても、転換するのは相当大変だ。
 アメリカでも、古い会社はほとんどIT革命に適応できなかった。スタートアップとM&Aでそれをカバーしたのだ。本来はそういうダイナミズムが必要だ。日本型経営は、申し訳ないけれど、いったん99%否定したほうがいいと思う。それでも半分ぐらいの企業は残るだろう。  
グローバル産業はそういうふうに変わっていくとして、本書には、今後ローカル産業が日本経済のある種の柱となっていくとあります。ローカル産業が新たな形で分厚い中間層を再建していくということですね。
 「日本は大量生産、つまり巨大設備産業が得意だから鉄鋼で勝ったのか、電機で勝ったのか?」をよくよく考えると、答えはノーだ。  
資本力ならアメリカが上だった。なぜ日本企業が強かったかというと、複雑性のある業務のデリバリー能力が高かったから。ややこしい組み立てでも再現性を持って何度も何度も繰り返しできる、かつそれを改善改良できる。これがある時期、ハードウェアの大量生産にバチっとハマった。  
実は、われわれの社会の組織能力の本質は大量生産ではなかった。複雑なオペレーションをデリバリーする組織のすごさが日本の強みだ。そう考えると、観光産業はまさにその本質に合致する。
 お客さんが空港に来る、入国する、宿泊地に移動する。その過程でいろんな交通機関を使うが、日本の電車は時間どおりに来る。これはすごいことだ。インバウンド医療が盛り上がっているが、医療もまさに複雑系だ。日本の社会的なコアコンピタンスは、観光も含めエッセンシャルワーク的なところで発揮される。
「次世代の基幹産業」の条件  
それに見合う付加価値を主張していく必要があると。  
そう。割安と思われてるからインバウンドが来すぎちゃう。「この人たちこのサービスになんでこれだけの値段しかつけないんだろう?」と思われているわけだ。
そうすれば観光産業も基幹産業になりうる。  
絶対チャンスだから。日本の製造業の1人当たりGDPや労働生産性が今でも高いのは、自動車産業が頑張れているからだが、それに代わる、大量の雇用を吸収できる高付加価値産業の可能性が製造業にないのは明らかだ。  
半導体は伸びているが、あまり雇用を生まない。工場に行ってみたらわかるが、半導体は装置産業だ。熊本には工場を作るために人が集まったが、実際に回りだしたら人はいらなくなる。データセンターもそう。
 基幹産業は、外貨が稼げることと多くの雇用が生まれることが2つの条件。いま製造業に力を注ぐのは明らかに間違いだ。  
観光産業を基幹産業に育てるため、今後必要なことは?   
観光経営人材の育成だ。日本の観光地はすでにオーバーツーリズム状態なので、はっきり言うと、安いツアーは来てもらわなくていい。限られた人数に高い付加価値を提供することをやっていかないと、観光産業自体が成り立たなくなっていく。  
観光産業の高付加価値化に、必要なのが経営者の力だ。観光業はどちらかというと分散的で、巨大産業に収斂しないので、相当数の優秀な経営者が各所で頑張らなければいけない。
 国策的に高付加価値産業を目指してるのはヨーロッパで、その典型がスイス。高付加価値観光をやって、来てくれた人にロレックスのような高い時計を買ってもらう。アメリカだと、ネバダ州ラスベガスとか。こういうところには必ず世界有数の観光専門ビジネススクールがある。アジアでもマカオなどにある。  
日本は学部レベルで立教大学に観光学部があり、いま非常に人気がある。これをもっと高度化して、グローバル標準の観光MBAを作るべきだ。だからやる気のある若者はホワイトカラーを漫然と目指してる場合じゃない。絶対観光業に行ったほうがいい。
 観光分野の教育を充実させることに加え、DMO(Destination Management Organization:観光物件、自然、食、芸術・芸能、風習、風俗など当該地域にある観光資源に精通し、地域と協同して観光地域作りを行う法人)の役割も重要だ。  
観光は、実は単独の旅館の勝負ではない。エリア一帯にどう誘客し、その中でどう楽しんでもらいお金を払ってもらうか。その中心になるのがDMOだ。欧米ではDMOがしっかりしている。日本でも一応DMOを作ったが、うまく機能しているところより、そうでないところのほうが多い。
その理由ははっきりしている。欧米のDMOはだいたい観光税や宿泊税から収入を得ており、頑張ると収入が増える。一方、今のところ日本のDMOの多くは、やりがい搾取型だ。これを変えていけばいいのだから、伸びしろ満載だ。
押さえつけていた生産性を開放する  
『ホワイトカラー消滅』では、今の日本にはマラソンでいうと5時間ぐらいで走ってる人が多いが、これをサブスリー(フルマラソンで3時間を切ること)に持っていけると。
 今、日本の時間当たりの付加価値労働生産性は世界30位だ。後ろを振り返ると、先進国はいない。それはおかしいだろう。正しい走り方を覚えて、トレーニングして、AIのようなテクノロジーを導入すればいい。そうすれば、生産性は単純計算で1.5倍。GDPが50%増える。  
日本人は教育水準が高く勤勉で規律正しい。それなのになぜ付加価値労働生産性がこんなに低いのかを考えると、暗黙のうちに生産性を押し下げてきたからだ。雇用を守らなきゃいけないというので抑制した。
 自発的なワークシェアリングが行われたということですね。  
そう。大企業は雇用を守る代わりに賃金を上げられませんといって頑張ってきた。当然、下請けもそうなる。そこからあふれ出た人はサービス産業に行くから、そこも低賃金。そういう経済が30年間続いた。高い代償を払って安定を保ってきた部分がある。  
安定のためには、むしろ労働生産性は低いほうがいい。雇用数が増えるから。そうやって「停滞なる安定」を選んできたのが、これまでの30年だった。そんなふうに無理やり押さえつけていた生産性を開放してあげればいい。DSC00412.JPG

 日本はこれまで「停滞なる安定」、低成長だが社会は崩壊しない道を暗黙のうちに選択してきた。確かにその通りでしょう。まずは成功の仕方、よき人生の定義を多元化することが必要だ。大谷翔平選手や五輪金メダリストのように世界の頂点を目指す人生はつらい。人の何十倍も努力して、怪我もして、それを克服してという方向で頑張る人生を全員が目指す必要はない。自分の住む地域でエッセンシャルな仕事をして、目の前にいる人たちの役に立っていく人生もいいものだ。人それぞれの幸せの尺度、役立ち方を皆が認め合える社会にしていかないとまずい。若い人の空気感は変わってきているように感じる。今、スタートアップが最も多いのは東大だ。若い人たちは1つの軸で見るのはもう「無理ゲー」だと思っているんじゃないか。時代が変われば考え方、価値観が変わるのは当たり前でしょう。それでも大事なのは人それぞれを認め合うことでしょう。デフレと人手余りで30年間やってきたから、頭の中がまだ切り替えられていない。経営者も平成脳のままだ。「最低賃金を上げられちゃうと、うちの会社はもちません」というが、それはつまり、経営が苦しいときには低賃金雇用とコストダウンで生き残れると思い込んでいるということ。でも今は、そんな平成モデルでは生き残れない。賃金の下方圧力には、グローバル産業が国際競争に劣後するから下げなければいけないという思い込みがあったと思います。今は日本のグローバル産業が競争力を持たなくなっています。日本型経営はかつて成功したものの、その成功の呪いから脱却するには時間がかかりそうですね。長い時をかけていろんな仕組みが制度化されており、猛烈な経路依存性がある。教育、個人の生き方、社会保障制度、年金、退職の仕組みなど、全部経路ができてしまっている。野球だけでなくサッカーもブレイキンもやることになりましたと急に言われても、転換するのは相当大変だ。固定観念に捉われているのでしょうか。われわれの社会の組織能力の本質は大量生産ではなかった。複雑なオペレーションをデリバリーする組織のすごさが日本の強みだ。そう考えると、観光産業はまさにその本質に合致する。お客さんが空港に来る、入国する、宿泊地に移動する。その過程でいろんな交通機関を使うが、日本の電車は時間どおりに来る。これはすごいことだ。インバウンド医療が盛り上がっているが、医療もまさに複雑系だ。日本の社会的なコアコンピタンスは、観光も含めエッセンシャルワーク的なところで発揮される。確かにそうですね。観光は、実は単独の旅館の勝負ではない。エリア一帯にどう誘客し、その中でどう楽しんでもらいお金を払ってもらうか。その中心になるのがDMOだ。欧米ではDMOがしっかりしている。日本でも一応DMOを作ったが、うまく機能しているところより、そうでないところのほうが多い。その理由ははっきりしている。欧米のDMOはだいたい観光税や宿泊税から収入を得ており、頑張ると収入が増える。一方、今のところ日本のDMOの多くは、やりがい搾取型だ。これを変えていけばいいのだから、伸びしろ満載だ。上手に変えていけば観光は日本にとっては飛躍できる分野でしょう。安定のためには、むしろ労働生産性は低いほうがいい。雇用数が増えるから。そうやって「停滞なる安定」を選んできたのが、これまでの30年だった。そんなふうに無理やり押さえつけていた生産性を開放してあげればいい。考え方、発想の転換が必要なのですね。DSC00411.JPG
成熟社会のあり方を示す取り組みが求められるのでは[2025年04月25日(Fri)]
 現代ビジネス2025年2月17日付け「80代以上が激増していく日本は本当に大丈夫なのか「厳しすぎる現実」」から、「在宅医療・介護」から転換する
第4の視点は、「在宅医療・介護」からの転換だ。令和は高齢者の中でも80代以上が増えていく時代となる。
家族介護から社会全体で負担を分かち合うという理念のもとに、介護保険制度は2000年にスタートした。ところが、高齢化に伴う利用者の増大によって、介護費用は爆発的な伸びを続けており、政府は方針を転換し、「『病院や介護施設』から『自宅を含む住み慣れた地域』へ」というスローガンのもとに在宅シフトを推進している。
“介護難民”の増加が懸念されている中で、社会的入院の必要性や要介護度の高くない人が入る特別養護老人ホームを減らすことで、真に必要とする人のベッドを確保するとともに、社会保障費の抑制につなげたいというのが狙いである。
「2025年問題」が迫る中で、慢性疾患を抱えて自宅で暮らせない高齢者も少なくないわけだが、厚労省は長期入院の受け皿となってきた「療養病床」の患者の受け入れ先として、医療や介護が必要な高齢者向けに看取りにも対応する「介護医療院」を新設した。いわば看板の掛け替えのような存在だが、これは広がりを欠いている。
「住まい」としての機能を重視するあまり、「療養病床」よりも広いスペースの確保やレクリエーション室の設置を求められたためだ。将来、建物の建て替えを迫られる病院側には様子見を決め込んでいるところが少なくないことに加え、介護保険で負担するため財源の増加を不安視する市区町村の後押しが十分ではないという事情もある。とても、多くの人が気軽に使える状況にはない。
今後、高齢者が激増していく。介護医療院の普及に時間がかかるとなれば、結局、大半の人は「在宅」を推進するにあたって考え出された地域包括ケアシステムに頼らざるを得なくなっていく。これは、医師や看護師、介護スタッフだけでなく、地域住民の協力なども得ながら高齢者が地域で最期の時を迎えられるようにしようというものだ。
元気なうちから高齢者は集まり住んでおく
ところが、この地域包括ケアシステムは、熱心な医師がいる地域などでは先駆的な取り組み事例も見られるが、こちらもあまり定着していないのが実情だ。というのも、少子高齢化や人口減少問題は、家族や地域に支え手となる年代がいないことが課題だからである。
在宅での介護は医療や介護の専門職だけでは成り立たない。買い物や洗濯、掃除など、患者や要介護者の日常生活の多くは、家族や地域住民のサポートを当て込んでいる。
そこで、肝心の家族や地域住民がいなくなってきていることが問題なのである。都会では近所づきあいが乏しく、住民同士の助け合いが期待できない地区も少なくない。とても受け皿とはなり得ない。
これは、介護離職を余儀なくされる人の増大を招く。総務省の「就業構造基本調査」(2017年)によれば、2016年10月~2017年9月の1年間に離職した人は約9万9000人に上り、5年前の前回調査(約10万1000人)からほとんど減らず、高止まりしていることが明らかになった。若い世代が減っていく現状を考えると、決して小さくない数字だ。介護離職者を減らすことは、人手不足の悪化を防ぐことにもなる。
介護を担う年代は40~50代であり、各職場のリーダー的存在である。こうした人々が突如として抜けてしまったのでは企業は大打撃であり、生産性向上にもブレーキをかけることとなろう。
社会の支え手不足を考えれば、むしろ少ない医療・介護スタッフの人数で患者や要介護者に効率よく対応できる態勢を組むことである。社会保障費の抑制ペースが落ちたとしても、トータルでは歳出削減が進むことだろう。
このためには、元気なうちから高齢者が集まり住んでおくことだ。交通の便利な中心市街地に高齢者向けの居住スペースを建設するか、あるいはこうした建物の周辺に第1の視点にある「王国」を作ることだ。
こうすれば、元気なうちは自律的な暮らしを続けることができるし、大病を患って重度の要介護状態になったときには医療や介護のスタッフは効率よく患者宅を回ることができる。いつでも家族や友人が顔を見に行けるので、介護離職も減らせるだろう。
仕事と親の介護の両立が求められる令和時代にあって、「高齢者の高齢化」が進む前の政治決断が求められている。DSC00415.JPG

 家族介護から社会全体で負担を分かち合うという理念のもとに、介護保険制度は2000年にスタートした。ところが、高齢化に伴う利用者の増大によって、介護費用は爆発的な伸びを続けており、政府は方針を転換し、「『病院や介護施設』から『自宅を含む住み慣れた地域』へ」というスローガンのもとに在宅シフトを推進している。家族介護から社会全体で負担する発想は国民のために考えた素晴らしい制度でしょう。今後、高齢者が激増していく。介護医療院の普及に時間がかかるとなれば、結局、大半の人は「在宅」を推進するにあたって考え出された地域包括ケアシステムに頼らざるを得なくなっていく。これは、医師や看護師、介護スタッフだけでなく、地域住民の協力なども得ながら高齢者が地域で最期の時を迎えられるようにしようというものだ。そうですね。苦肉の策ですね。在宅での介護は医療や介護の専門職だけでは成り立たない。買い物や洗濯、掃除など、患者や要介護者の日常生活の多くは、家族や地域住民のサポートを当て込んでいる。そこで、肝心の家族や地域住民がいなくなってきていることが問題なのである。都会では近所づきあいが乏しく、住民同士の助け合いが期待できない地区も少なくない。とても受け皿とはなり得ない。人口減少、人手不足という大きな問題など厳しい現実が立ちはだかっていますね。社会の支え手不足を考えれば、むしろ少ない医療・介護スタッフの人数で患者や要介護者に効率よく対応できる態勢を組むことである。社会保障費の抑制ペースが落ちたとしても、トータルでは歳出削減が進むことだろう。このためには、元気なうちから高齢者が集まり住んでおくことだ。交通の便利な中心市街地に高齢者向けの居住スペースを建設するか、あるいはこうした建物の周辺に第1の視点にある「王国」を作ることだ。こうすれば、元気なうちは自律的な暮らしを続けることができるし、大病を患って重度の要介護状態になったときには医療や介護のスタッフは効率よく患者宅を回ることができる。いつでも家族や友人が顔を見に行けるので、介護離職も減らせるだろう。仕事と親の介護の両立が求められる令和時代にあって、「高齢者の高齢化」が進む前の政治決断が求められている。確かに待ったなしです。政治は国民を守って安心して生活できるように重大な決断をして実行に移していく必要があるでしょう。DSC00414.JPG
巨額の資金力で権力が集中する怖れがないのでしょうか[2025年04月24日(Thu)]
 Reuters2025年2月11日付け「マスク氏がオープンAI買収を提案と報道、アルトマン氏即座に拒否」から、米実業家イーロン・マスク氏率いる投資家連合が、米オープンAIの非営利部門を974億jで買収すると提案した。米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が10日報じた。
この報道に対し、オープンAIのサム・アルトマン最高経営責任者(CEO)は「買収は必要ない。希望なら(マスク氏の傘下にある)Xを買収する」とXに直ちに投稿した。
WSJ紙によると、マスク氏の弁護士が10日にオープンAIの取締役会に同案を提示。マスク氏は弁護士を通して発表した声明で「オープンAIはかつてのようにオープンソースで安全性を重視する組織に戻るときが来た」とし「われわれはそれを実現させる」と表明したと報じている。
買収提案にはマスク氏率いる人工知能(AI)スタートアップ「xAI」が関与しており、買収が成立すればxAIとオープンAIが合併する可能性があるという。
マスク氏は2015年にアルトマン氏と共にオープンAIを設立。オープンAIが飛躍する前に離脱し、23年に競合するxAIを設立した。
オープンAIは非営利組織(NPO)として発足したが、AIモデル開発に必要な資金を確保するため営利組織への移行を試みている。DSC00440.JPG

 買収提案にはマスク氏率いる人工知能(AI)スタートアップ「xAI」が関与しており、買収が成立すればxAIとオープンAIが合併する可能性があるという。マスク氏は2015年にアルトマン氏と共にオープンAIを設立。オープンAIが飛躍する前に離脱し、23年に競合するxAIを設立した。オープンAIは非営利組織(NPO)として発足したが、AIモデル開発に必要な資金を確保するため営利組織への移行を試みている。巨大営利企業の経営者が政府の要職に就いていることが問題ではないのでしょうか。自分の企業のために国の予算を有利に扱うことはないのでしょうか。さらに非営利のオープンAIを営利組織にすることは問題なのではないでしょうか。ヨーロッパの国の内政に影響力を与えていることは大丈夫なのでしょうか。巨額の資金力を利用して1人の経営者に権力が集中していくことは大丈夫なのでしょうか。DSC00415.JPG
「死から目を背けないことで、自分の寿命を楽しみ尽くせる」[2025年04月23日(Wed)]
 婦人公論.jp2025年2月10日付け「「コロナは怖い」で要介護高齢者が急増。「どうせいつかは死ぬんだから」と考える。和田秀樹「死から目を背けないことで、自分の寿命を楽しみ尽くせる」」から、「60歳の壁を超えると、女性は元気になり、男性は萎んでいく」。女80歳、もう年だからと自分を抑えるのではなく「あれもしたい、これもしたい」と積極的に生きてみませんか。
人は皆/いつかかならず/死ぬものぞ 後悔せずに生きるために、私がとても大事だと思っていることがあります。それは「どうせいつかは死ぬんだから」と思いながら生きる、ということです。
なんてことを言うんだ!とおしかりが来そうですね(笑)。でも残念ながら、死なない人はいません。
死ぬ確率は100%です。それなのに多くの人は、自分は死なないと思っています。いや「どうせいつかは死ぬ」と頭ではわかっているのに、考えないようにしているのです。
結果、死を恐れ、「**してはいけない」と自分を縛って生きています。それが如実に表れたのが、コロナ禍のときでした。 テレビには専門家が次々と登場し「コロナは怖いですよ。高齢者はとくに注意が必要です」と吹聴したため、元気な幸齢女子たちまでもが、すっかり怖気づいてしまいました。
行きたい旅行や外食、女子会も我慢し、ご近所との井戸端会議も自粛し、子や孫に「会いにこないで」と涙ながらに断る始末です。もはや悲劇です。
その結果、どうなったか?「要介護高齢者」が増えたのです。
足腰が弱って歩けなくなったり、転倒して入院生活を送ったりする人が増加しました。家に閉じこもって会話もせず、不安ばかり募つのらせれば、要介護状態になるのは当然です。
筋肉や脳は、使わないと衰えますからね。「フレイル」と呼ばれる心身の虚弱状態を招いてしまうのです。
フレイルの状態では、心と体の活力が低下し、病気にかかりやすくなります。ストレスにも弱くなる。考え方も消極的になり、心配性にもなります。
もったいないと思いませんか?だからこそ「どうせいつかは死ぬんだから」という発想が大事になると思うのです。
医者の言うことを聞いて、やりたいことを我慢して弱っていくのか?「どうせ死ぬんだから」と、好きなことをやって寿命を使い切るのか? さて、あなたは、どちらがいいですか?
名医とて/人の寿命は/処置できぬ 落語の小噺のような小ネタを紹介します。ドイツで働いていた知人の話です。
ある日、子供が高熱を出して病院に駆け込んだら、医師に言われたそうです。「ああ、ただの風邪ですね。放っておいたら治りますよ」と。
でも、熱は下がらない。治りそうな気配もない。再び病院に行きました。熱が下がりません。ちゃんと治療してください。死んだらどうするんですか!」ドクターに詰め寄ったわけです。
すると、医師は平然と言いました。「ああ、それは神の思(おぼ)し召しです」大したオチではないのですが(笑)。
「人の病気をネタにするとはけしからん」とおしかりもきそうですね。でも、この話をしたのには理由があります。
死生観について話したかったのです。ドイツの人は、日本人では考えられないような死生観を持っています。
でも、欧米では珍しくありません。信仰している宗教が大きく影響しているのです。 「風邪ぐらいで死ぬ人は、どうやっても生きられない人間だ」という発想が、どこかにあるのだと思います。
これに対し、日本の場合は、生命力があろうがなかろうが「とにかく生かす」という発想です。
でも、それは1970年代以降のことです。いまでは「風邪をひいたら病院に行く」というのが当たり前ですが、それ以前は、風邪をひいたくらいでは病院にはかかりませんでした。
つまり、死生観が変わったのです。 欧米と日本、どちらの死生観がいいのか?という話はここではしません。なぜなら、死生観なるものは、人それぞれだからです。議論をするだけムダです。
でもひとつだけ、日本人には、大事な視点が抜け落ちているように思います。
「(男女問わず)人はどうせ、いつかは死ぬ」という視点です。私はここに大きな問題があると思っているのです。
死神が/来ても「またね」と/追い返す 人はどうせ、いつかは死ぬ。医者の私がこんなことを言うと、非難する人がいます。患者を見殺しにするのか!と。
でも、そんなことは微塵も思っていません。むしろ逆です。人はどうせ、いつかは死ぬ。だからこそ、生きている間は輝いて生きる。
そして、最後まで元気で寿命をまっとうする。生命をとことん使い切ってほしいと思っているのです。
スウェーデンの例を紹介しましょう。じつは、スウェーデンには「寝たきり老人」がいないと言われています。
なぜなら、幸齢者が少しでも歩けるように、つまり寝たきりにならないように、国家を挙げて取り組んでいるからです。
さすが福祉国家ですね。でも反対に、次のような一面もあります。 例えば、スプーンで食べ物を口元に持っていったときに、食べようとしなければ、もはやこれは「神の思し召しだ」として、点滴もしない。
つまり、「生きる意志がない」と考えるわけです。その後は基本的に延命治療をしません。そういう社会的合意ができているのです。これも、寝たきり老人がいない一因です。
日本とは大きく違うのがおわかりでしょう。何が違うのか?根本にあるのは、死生観の違いです。
「人は、いつかは死ぬのだから」という、当たり前の事実を、しっかり受け入れているか、受け入れずに目を背そむけているか。 日本では、死について触れるのはタブーとばかりに、「生きること」だけにスポットが当てられてきました。
このため「無駄な延命治療はしない」という社会的合意がないどころか、医学界でも延命治療について十分な議論もされませんでした。
その結果「医師たるもの、患者を生かす方法があるならなるべく生かす」という考え方が確立してしまったのです。幸齢者に対しても、基本的に同じ考え方をします。
でも、本当にそれで幸せなのでしょうか?それこそ、人それぞれの死生観の問題なので、私がとやかく言うことではありません。
しかし、生きる希望を持てないまま、寝たきりになっている幸齢者が多いのは事実です。 問題の根底には「人はどうせ、いつかは死ぬ」という視点が抜け落ちているのではないか、と私は思っています。DSC00436.JPG

 女80歳、もう年だからと自分を抑えるのではなく「あれもしたい、これもしたい」と積極的に生きてみませんか。人は皆/いつかかならず/死ぬものぞ 後悔せずに生きるために、私がとても大事だと思っていることがあります。それは「どうせいつかは死ぬんだから」と思いながら生きる、ということです。このような前向きな生き方をすることができれば後悔することはないかもしれません。足腰が弱って歩けなくなったり、転倒して入院生活を送ったりする人が増加しました。家に閉じこもって会話もせず、不安ばかり募つのらせれば、要介護状態になるのは当然です。筋肉や脳は、使わないと衰えますからね。「フレイル」と呼ばれる心身の虚弱状態を招いてしまうのです。フレイルの状態では、心と体の活力が低下し、病気にかかりやすくなります。ストレスにも弱くなる。考え方も消極的になり、心配性にもなります。もったいないと思いませんか?だからこそ「どうせいつかは死ぬんだから」という発想が大事になると思うのです。プラス思考の発想の転換が必要なのでしょう。日本人には、大事な視点が抜け落ちているように思います。「(男女問わず)人はどうせ、いつかは死ぬ」という視点です。私はここに大きな問題があると思っているのです。最後まで元気で寿命をまっとうする。生命をとことん使い切ってほしいと思っているのです。その通りですね。「人は、いつかは死ぬのだから」という、当たり前の事実を、しっかり受け入れているか、受け入れずに目を背そむけているか。 日本では、死について触れるのはタブーとばかりに、「生きること」だけにスポットが当てられてきました。このため「無駄な延命治療はしない」という社会的合意がないどころか、医学界でも延命治療について十分な議論もされませんでした。その結果「医師たるもの、患者を生かす方法があるならなるべく生かす」という考え方が確立してしまったのです。幸齢者に対しても、基本的に同じ考え方をします。生きる希望を持てないまま、寝たきりになっている幸齢者が多いのは事実です。問題の根底には「人はどうせ、いつかは死ぬ」という視点が抜け落ちているのではないか。死ぬんだから死ぬまで全うに行きて後悔しないことが大事なのでしょう。DSC00437.JPG
東京をも襲う「人口激減の波」の厳しい現実をどう受け止めるか[2025年04月22日(Tue)]
 現代ビジネス2025年2月10日付け「5年で1割以上の人口が減る…東京をも襲う「人口激減の波」の厳しい現実」から、5年で1割以上も人口が減る奥多摩町
市区町村単位で見ると、人口減少の進み具合にさらなる差を見つけられる。日本全体としての人口予測に比べて、人の動きが激しい大都市の人口予測は難しい。まさに“専門家泣かせ”ではあるが、まずは東京圏の「未来の地図帳」を描くことにしよう。
私は第1部において、東京圏のことを人口減少日本の中において全く違う歩みを辿る「外国」と位置づけた。
2018年は東京圏が13万9868人を上回る転入超過となっており、東京一極集中は相変わらず続いている。東京都は2045年になっても、2015年より人口が多い状態をキープしていることも紹介した通りだ。
ところが、東京圏の市区町村をピックアップすると、2020年時点で人口が減っているところが少なくない。それは、東京23区も例外ではない。足立(1.8%減)、葛飾(0.9%減)、江戸川(0.6%減)の3区は僅かとはいえ、減っている。
東京都全体は2030年に人口の頂点を迎えるが、多摩地区だけに限れば、2020年の422万1719人をピークとして、それ以降減り始める。多摩地区も地域によって減り方が異なる。多摩ニュータウンの広がる多摩市は1.2%減となる。都心のオフィス街から遠く離れた青梅市(2.4%減)、昭島市(1.4%減)、東村山市(2.8%減)、瑞穂町(1.7%減)、日の出町(2.4%減)でも減少が確認できる。福生市(6.3%減)や羽村市(3.3%減)は減少幅が大きくなり始めている。 山梨県に近い山間部に位置する檜原村は13.4%減、奥多摩町も14.2%減と、わずか5年で1割以上も人口が減る見通しだ。
郊外から都心部へ住み替える選択
一方で、人口減少日本にあっても人口が1割以上も伸びるのが、千代田区(11.3%増)、中央区(10.4%増)、港区(11.0%増)の都心3区だ。江東区(5.6%増)、文京区(5.1%増)、台東区(4.6%増)、品川区(4.5%増)なども、4~5%の高い伸びを示している。
地方から東京都に引っ越してきた人がすべて、地価の高い都心部に位置するこれらの区に移り住んでいるわけではない。これらの地域の人口を押し上げているのは、東京圏に長年住み続けてきた人と考えるのが素直だろう。電車やバスを乗り継いでいた人々の、郊外から都心部への住み替えである。
団塊世代が一斉に持ち家を求めた時代、住宅価格はつり上がった。
しかも「夫婦と子供2人」というのが標準的な世帯モデルだったので、多くのサラリーマン層は電車やバスを乗り継いででも、地価の安い郊外で部屋数の多い物件を求めざるを得なかった。こうしたニーズに応えるため、住宅企業も政府も郊外へと宅地開発を進めていった。
ところが、現在では未婚者や高齢者のひとり暮らしが増加している。それは小さな住居でも支障のない人が増えてきたということに他ならない。
若い世代はオフィス街や繁華街近くのエリアに、狭くても低価格の物件を探す傾向にある。中高年は定年退職などを機に、年配者は連れ合いを亡くした途端、郊外の不便な立地のマイホームにひとりで住み続けるよりも、買い物などの日常生活に便利な駅周辺へ移り住みたいと考える人が増えてきた。
タワーマンションが増え、都心部に住宅が大量に提供されるようになって、物件を求めやすくなったこともある。かつてのような3LDKだけではなく、専有面積が狭くて値段が手頃なマンションが増え、買い換えたり、借りたりできる選択肢も増えてきたのである。 経済環境の変化も後押ししている。就業者人口が減り始めてオフィス需要の減退が見込まれ、しかもインターネット通信販売の普及で実店舗の利用が減ってきたため、都心部において住宅向けのスペースを確保しやすくなっているのだ。総務省の「住宅・土地統計調査」(2018年)によれば、2003年から2018年までの15年間で、「15階建以上」の共同住宅(マンション)は東京都に17万戸も増えている。
こうした都心部マンションの価格が上昇しない限り、都心回帰の流れは続くだろう。都心部に移り住む人々がもともと住んでいた郊外や鉄道駅から遠い地域では、本来ならばもっと人口が減ってもおかしくなかったところだが、地方からの転入者が穴埋めする形で流入しており、場所によっては微増しているということだ。DSC00434.JPG

 東京への一極集中だけでなく東京都内でも中心部へ集中する傾向が強まりそうですが、日本はどうなるのでしょうか。2018年は東京圏が13万9868人を上回る転入超過となっており、東京一極集中は相変わらず続いている。東京都は2045年になっても、2015年より人口が多い状態をキープしていることも紹介した通りだ。ところが、東京圏の市区町村をピックアップすると、2020年時点で人口が減っているところが少なくない。それは、東京23区も例外ではない。足立(1.8%減)、葛飾(0.9%減)、江戸川(0.6%減)の3区は僅かとはいえ、減っている。東京都全体は2030年に人口の頂点を迎えるが、多摩地区だけに限れば、2020年の422万1719人をピークとして、それ以降減り始める。多摩地区も地域によって減り方が異なる。多摩ニュータウンの広がる多摩市は1.2%減となる。都心のオフィス街から遠く離れた青梅市(2.4%減)、昭島市(1.4%減)、東村山市(2.8%減)、瑞穂町(1.7%減)、日の出町(2.4%減)でも減少が確認できる。福生市(6.3%減)や羽村市(3.3%減)は減少幅が大きくなり始めている。 山梨県に近い山間部に位置する檜原村は13.4%減、奥多摩町も14.2%減と、わずか5年で1割以上も人口が減る見通しだ。一方で、人口減少日本にあっても人口が1割以上も伸びるのが、千代田区(11.3%増)、中央区(10.4%増)、港区(11.0%増)の都心3区だ。江東区(5.6%増)、文京区(5.1%増)、台東区(4.6%増)、品川区(4.5%増)なども、4~5%の高い伸びを示している。こうした都心部マンションの価格が上昇しない限り、都心回帰の流れは続くだろう。都心部に移り住む人々がもともと住んでいた郊外や鉄道駅から遠い地域では、本来ならばもっと人口が減ってもおかしくなかったところだが、地方からの転入者が穴埋めする形で流入しており、場所によっては微増しているということだ。日本はどうなるのでしょうか。東京だけを見ていても結論を導き出すことはできないでしょうが、真剣に受け止め国民的議論を展開して解決策を模索しなければならないでしょう。DSC00435.JPG
2035年、本当の人口激減が「東北エリア」を襲ってくる[2025年04月21日(Mon)]
 現代ビジネス2025年2月10日付け「2035年、本当の人口激減が「東北エリア」を襲ってくる」から、人口減少日本で何が起こるのか。意外なことに、多くの人がこの問題について、本当の意味で理解していない。どう変わればいいのか、明確な答えを持っていない。
「限界自治体」が秋田で12市町村も
2035年、早くから人口減少に転じていた県では、状況が大きく悪化し始める。最も深刻なのは秋田県の27.3%減で、現在の4分の3以下の規模になる。秋田県以外で2割以上減るのは青森県24.0%減、高知県20.9%減、山形県20.2%減だ。続く福島県、岩手県も2割近い減少となる見込みで、東北各県での減少が際立つ。
秋田県の場合、藤里町の46.5%減、上小阿仁村46.0%減、男鹿市45.4%減など、人口が3割以上減る自治体が18に上る。住民の過半数が65歳以上という「限界自治体」も能代市を含め12市町村となる。
2035年になると、人口が6500人に満たない自治体が453を数える(2015年は323)。国土交通省の「国土のグランドデザイン2050」(2014年)が、三大都市圏を除いた地域において、主なサービスごとに立地に必要な需要規模を計算している。
これによると、人口6500人を下回る人口規模になると、銀行や通所介護事業所まで経営が厳しくなる。一般病院だけでなく、遊戯施設、音楽教室、喫茶店といった住民の「楽しみ」を提供してきたサービスもポツポツと姿を消し始めるだろう。
鳥取県は44万人、山梨県は59万人に
いまから四半世紀後にあたる2045年になると、日本の総人口は2015年に比べて2067万人ほど減る。それまで増え続けていた65歳以上人口も2042年をピークに減り始めるため、2040年代に入ると日本全体でも毎年95万人ほど人口が減っていく。
2045年時点で、減少率が最も大きいのは、41.2%も下落する秋田県であると述べたが、青森県も37.0%減、山形県と高知県が31.6%減、福島県31.3%減、岩手県30.9%減と、高知県を除き東北地方に3割以上の激減県が並ぶようになる。
わずか30年で3割も4割も人口が減ったのでは、地域社会の混乱は避けられまい。都道府県の名前を社名に冠した金融機関や新聞社など県外での事業展開がしづらい企業は、根本から経営基盤の見直しを迫られるだろう。
自治体の業務も困難になる。税収が減ることに伴い、福祉や教育も縮小を迫られ、ゴミ収集や道路の補修といった公共サービスの維持すら懸念されるところが出てくる。こうなると、ますます住民の流出が加速し、人口減少に拍車が掛かる。
人口が大きく減らない東京都も順風満帆とはいかない。東京都の場合、2045年になっても2015年比プラス0.7%と全国で唯一増えるかのように語られることが多いが、決してそうではない。2030年代後半以降の東京は人口減少社会に突入しているのだ。
「2045年時点では2015年の水準までは下がっていない」と解釈するほうが正しい。 人口の減り方こそ緩やかだが、高齢化が進むため、東京都がいまの「東京」のまま発展し続けるわけではない。後ほど詳述するが、ビジネス中心、若者の中心の街として発展してきただけに、高齢者の激増対策は困難を極めよう。
2045年の都道府県の人口を実数で見ると、最も小さい県となるのが鳥取県で、44万8529人。高知県も50万人割れし、60万人に届かないのが、島根県(52万8988人)、徳島県(53万5370人)、山梨県(59万8935人)の3県だ。この年の松山市は43万9316人、宇都宮市が48万1029人だから、県庁所在地1つ分ぐらいの規模になる。
秋田県は下落率こそ最も激しいが、2045年時点でも実数としては60万1649人である。2番目に下落率の大きい青森県も82万3610人だ。山形県は76万8490人、岩手県は88万4518人で、福島県は131万4903人と100万人台を維持する。
鳥取県は2015年に比べて21.8%減、島根県は23.8%減、徳島県29.2%減、山梨県28.3%減と秋田県や青森県に比べて減少率こそ小さいが、もともとの人口が多い東北各県と比べると、実数が極端に少なくなるのである。
それにしても、人口が60万人にも満たなくなる県と、1360万人を超える東京都や831万人の神奈川県とを横並びにして「47都道府県」と位置付けるのには、無理がある。鳥取県と東京都の人口差は、実に30倍以上に開くのだ。
しかも同一県内での人口偏在も激しくなる。
2045年を待つことなく、国政選挙における一票の格差は解消困難となり、都道府県単位で進められる地域医療構想なども行き詰まりを見せるだろう。もっと早い段階で都道府県の在り方を見直さざるを得ないという声が強まるに違いない。DSC00427.JPG

 2035年、早くから人口減少に転じていた県では、状況が大きく悪化し始める。最も深刻なのは秋田県の27.3%減で、現在の4分の3以下の規模になる。秋田県以外で2割以上減るのは青森県24.0%減、高知県20.9%減、山形県20.2%減だ。続く福島県、岩手県も2割近い減少となる見込みで、東北各県での減少が際立つ。秋田県の場合、藤里町の46.5%減、上小阿仁村46.0%減、男鹿市45.4%減など、人口が3割以上減る自治体が18に上る。住民の過半数が65歳以上という「限界自治体」も能代市を含め12市町村となる。人口6500人を下回る人口規模になると、銀行や通所介護事業所まで経営が厳しくなる。一般病院だけでなく、遊戯施設、音楽教室、喫茶店といった住民の「楽しみ」を提供してきたサービスもポツポツと姿を消し始めるだろう。東北は深刻な状況に陥ってしまいますね。その中でも秋田県は危機的な状況になるのでしょうか。2045年時点で、減少率が最も大きいのは、41.2%も下落する秋田県であると述べたが、青森県も37.0%減、山形県と高知県が31.6%減、福島県31.3%減、岩手県30.9%減と、高知県を除き東北地方に3割以上の激減県が並ぶようになる。わずか30年で3割も4割も人口が減ったのでは、地域社会の混乱は避けられまい。都道府県の名前を社名に冠した金融機関や新聞社など県外での事業展開がしづらい企業は、根本から経営基盤の見直しを迫られるだろう。自治体の業務も困難になる。税収が減ることに伴い、福祉や教育も縮小を迫られ、ゴミ収集や道路の補修といった公共サービスの維持すら懸念されるところが出てくる。こうなると、ますます住民の流出が加速し、人口減少に拍車が掛かる。人口が60万人にも満たなくなる県と、1360万人を超える東京都や831万人の神奈川県とを横並びにして「47都道府県」と位置付けるのには、無理がある。鳥取県と東京都の人口差は、実に30倍以上に開くのだ。しかも同一県内での人口偏在も激しくなる。2045年を待つことなく、国政選挙における一票の格差は解消困難となり、都道府県単位で進められる地域医療構想なども行き詰まりを見せるだろう。もっと早い段階で都道府県の在り方を見直さざるを得ないという声が強まるに違いない。東北地方の人口減少問題を考える、冬期間の豪雪と厳しい生活、デジタル化の遅れも影響しているかもしれません。と日本などのような将来設計を描くのでしょうか。立ち行かなくなってからでは遅いでしょう。DSC00433.JPG
30歳前後の高卒男性4%はニートの高齢化と深刻な社会問題を何とかできないか[2025年04月20日(Sun)]
 DIAMOND Online2025年2月9日付け「30歳前後の高卒男性4%はニート?高齢化が懸念されるニートと深刻な社会問題」から、一時期、大きな社会問題となった「ニート」。かつてほどメディアで取り上げられなくなったものの、現在でも一定数の割合でニートはいる。彼らが将来的に社会にどのような影響を与えるのかなどを予測した。
ニートの割合は学歴に よって大きく異なる  
まず、「労働力調査」を使ってニートの割合を見ていこう。ニートとは、もともとはNot in Education,Employment or Trainingの略で、「学校にも職業訓練にも通っていない無業の若者」を指すイギリス由来の言葉である。イギリスではNEETは、通常は10代の若者に限定して使われる。しかし日本では「就業も求職もしておらず、学校にも通っていない未婚の若者」を指し、年齢層も30代まで含むことが多く、若干ニュアンスが異なる。  
「労働力調査」や「就業構造基本調査」などに基づいてニートの数を集計する際には、非労働力(就業も求職もしていない人)から、主な活動として通学や家事をあげていない未婚者を、15〜34歳あるいは39歳などと年齢を区切って集計することが多い。ここでは卒業年を基準に世代を分ける都合上、年齢の代わりに卒業後の年数で区切るが、それ以外はこの定義に従う。  
図4-4に、世代・卒業後の年数・男女別に、人口に占めるニートの比率を示す。ニートの存在が日本社会に認識された当初より指摘されてきたことだが(玄田有史・曲沼美恵『ニート─フリーターでもなく失業者でもなく』2004年、幻冬舎など)、学歴によってニートの割合は大きく異なり、高校卒や中卒・高校中退のほうが、短大・高専卒や大卒よりも、ニートの割合がはるかに大きい。このため、高校卒と短大・高専卒以上に分けて集計し、グラフの軸の単位も変えてある。  
図4-4の上段、高校卒のグラフを見ると、若い世代ほどニートの割合が高くなっている。また、いちばん若いポスト氷河期世代の最初の5年間が突出して多いのを除くと、卒業後の年数がたっても、ニートの割合が減っているわけではない。
ニートは若者特有の現象ではなく 男女の割合に大きな違いもない  
「労働力調査」は同一個人を追跡したパネルデータではないので、卒業後すぐにニートになった人が何年もずっとニートのままなのか、それとも一部はニートから脱するものの、同じくらいの人数が新たにニートになるために、全体としての割合が減っていかないのかはわからない。しかしとにかく、ニートは若者特有の現象ではなく、年齢を重ねても自然に減ってはいかないことは確かだ。  
高校卒の男性の場合、卒業後11〜15年目、すなわち30歳前後になっても、約4%がニート状態にある。男女を比べると女性のほうがニートの割合が少ないが、主な活動として家事をあげている、いわゆる「家事手伝い」を足すと女性のほうが多くなる。女性のほうが家事手伝いを自称しやすいことを考えると、実質的には男女で大きな違いはないと見てよいだろう。  
短大卒以上の学歴について同様にしてグラフを作ったのが、図4-4の下段だ。人口に占めるニートの割合は高校卒の4分の1くらいにまで減るが、若い世代ほどニートの割合が高くなり、年齢を重ねてもニートが減っていくわけではない点は変わらない。家事手伝いを含まない定義だと女性が少ないが、家事手伝いを加えると女性のほうが多くなる点も同じである。  
充分なサンプルサイズが確保できる高校卒については、学校卒業年1年単位での集計も試した。グラフそのものは割愛するが、氷河期後期世代までは、学校卒業時の失業率が上がるにつれてニートの割合も増えていく傾向が見られたが、学校卒業時の失業率が下がっていたポスト氷河期世代でもニートの比率は下がっていなかった。年収や正規雇用比率などについても、ポスト氷河期世代と氷河期世代の差があまりなかったが、ニートの割合についても同じであった。しかも就業率や正規雇用比率と異なり、年齢が上がっても氷河期以降の世代とそれより上の世代の間の差は縮小しない。
若い世代ほどニートは増加傾向 いずれ高齢ニートが深刻な社会問題に  
ちなみに、若い世代ほど高校卒の割合が小さくなる。このことは、人口全体に占めるニートの割合を下げる方向に寄与するが、同じ学歴の中でのニート割合の増加のほうが大きいため、学歴で区切らない人口全体に占めるニート割合は若い世代ほど大きくなっている。
仮にニートの多くが親に経済的に依存しているならば、高齢になるにつれて親が亡くなったり病気になったりして頼れなくなり、生活に困窮するケースが増えてくることが懸念される。もしもこのまま50代や60代になっても高校卒の4%程度がニートのままだとすると、深刻な社会不安が危惧される。  
より直接的に、「現在親に経済的に依存しており将来の生活不安がある人」がどのくらいいるのかも見てみよう。下田裕介(『就職氷河期世代の行く先』2020年、日経プレミア)は将来親の介護が必要になった時に生活が困窮するリスクの高い「生活不安定者」として、いくつかの公刊統計を組み合わせて、「未婚で親と同居する非就業者・非正規雇用者数」を算出したものに、世論調査で「老後の生活を心配している」と答えた親の割合を掛け合わせてその数を試算している。下田の試算では、2015年時点で41〜45歳である団塊ジュニア世代(おおむね氷河期前期世代に該当)には、生活不安定者が33万人含まれる。  
下田の定義に倣い、「労働力調査」を用いて、「未婚で親と同居する非就業者・非正規雇用者」が世代人口に占める割合を集計した。年齢層を35〜39歳に絞り、男女・学歴別に、横軸に生年を取ってグラフにしたのが図4-5である。
学歴が低い人の方が 生活不安定者になりやすい  
なお、30代後半はまだこれから結婚する人も少なからずいる年齢である。そのため、ここで参考にした下田裕介(『就職氷河期世代の行く先』2020年、日経プレミア)による試算も41〜45歳時点の数値であった。しかし、氷河期後期世代に相当する1970年代後半生まれまでカバーするためにはこれ以上年齢を上げることができないため、やむをえず35〜39歳の数値を用いる。また、下田が用いていた「老後の生活を心配する親の割合」は、金融広報中央委員会「家計の金融行動に関する世論調査」(令和3年調査)の回答から親世代の77%に相当すると考えられるので、厳密には図4-5のグラフに0.77をかけたものが下田の定義する「生活不安定者」となる。
図4-5に戻ると、図4-4で示したニートほどではないにせよ、学歴間で差があり、学歴が低いほうが相対的に生活不安定者になりやすいことがわかる。これは主に、不安定雇用や非就業の割合の学歴差に起因している。また、男女で傾向が異なっている。男性ではすべての学歴で、若い世代ほど増えている。1970年代後半生まれの高卒男性では1割を超えており、大卒でも5%程度いる。一方、女性は高卒のみ増加が続いているものの、短大高専卒や大卒では1960年代後半生まれから5%程度でおおむね横ばいとなっており、男女の傾向の違いが目立つ。  
ちなみに、親と同居していない、単身世帯の未婚の不安定雇用・非就業者の人口に占める割合は増えていない。男女ともに晩婚化が進み未婚者の割合が増えていることから、単身者の割合自体は増えているのだが、不安定雇用や低年収の単身者は増えていない。  
30代後半だと親もまだ50〜60代であることが多く、生活に困るとまず親を頼って同居することが多いのだろう。しかし、このまま本人が40代、50代となり、高齢となった親が亡くなったり介護が必要になったりすると非常に苦しい状況に置かれることが懸念される。DSC00417.JPG

 ニートとは、もともとは「学校にも職業訓練にも通っていない無業の若者」を指すイギリス由来の言葉である。イギリスではNEETは、通常は10代の若者に限定して使われる。しかし日本では「就業も求職もしておらず、学校にも通っていない未婚の若者」を指し、年齢層も30代まで含むことが多く、若干ニュアンスが異なる。学歴によってニートの割合は大きく異なり、高校卒や中卒・高校中退のほうが、短大・高専卒や大卒よりも、ニートの割合がはるかに大きい。高校卒の男性の場合、卒業後11〜15年目、すなわち30歳前後になっても、約4%がニート状態にある。男女を比べると女性のほうがニートの割合が少ないが、主な活動として家事をあげている、いわゆる「家事手伝い」を足すと女性のほうが多くなる。女性のほうが家事手伝いを自称しやすいことを考えると、実質的には男女で大きな違いはないと見てよいだろう。仮にニートの多くが親に経済的に依存しているならば、高齢になるにつれて親が亡くなったり病気になったりして頼れなくなり、生活に困窮するケースが増えてくることが懸念される。もしもこのまま50代や60代になっても高校卒の4%程度がニートのままだとすると、深刻な社会不安が危惧される。高齢化してからの問題は大きいでしょう。国は対策を講じる必要があるでしょう。学歴間で差があり、学歴が低いほうが相対的に生活不安定者になりやすいことがわかる。これは主に、不安定雇用や非就業の割合の学歴差に起因している。また、男女で傾向が異なっている。男性ではすべての学歴で、若い世代ほど増えている。1970年代後半生まれの高卒男性では1割を超えており、大卒でも5%程度いる。一方、女性は高卒のみ増加が続いているものの、短大高専卒や大卒では1960年代後半生まれから5%程度でおおむね横ばいとなっており、男女の傾向の違いが目立つ。学歴の違いで片付けてしまうのは簡単ですが、何とかならないのでしょうか。30代後半だと親もまだ50〜60代であることが多く、生活に困るとまず親を頼って同居することが多いのだろう。しかし、このまま本人が40代、50代となり、高齢となった親が亡くなったり介護が必要になったりすると非常に苦しい状況に置かれることが懸念される。まだって指をくわえて待っている訳にはいかないでしょう。政治家を中心に真剣に受け止め考えなければならないことでしょう。DSC00418.JPG
アメリカのZ世代で「メンタルヘルスの悪化」を訴えるようになったのか[2025年04月19日(Sat)]
 現代ビジネス2025年2月9日付け「なぜアメリカのZ世代はここへきて「メンタルヘルスの悪化」を訴えるようになったのか…? そこには意外すぎる理由があった」から、問題が多すぎる
 日本でも世界でも、若い人たちの価値観は激変していると言われる。彼ら・彼女らはどんな現実に直面し、なにを考えているのか。
世界がこれから向かう先を示す「最新の価値観の変化」についておしえてくれるのが、竹田ダニエル氏による『世界と私のAtoZ』という本だ。
原著は2022年に刊行、2024年12月に文庫化されている。刊行時にそこで紹介されている「新しい価値観」が読者に衝撃を与えたのはもちろん、文庫化されてからも大きな話題を呼びつづけている。
同書はたとえば、アメリカの若い層ではメンタルヘルスへの関心が高まり、とくにその悪化を訴える人々が数多くいると解説している。『世界と私のAtoZ』の〈第1章 私にとってのセルフケア・セルフラブ〉より一部抜粋する(読みやすさのため、改行などを編集しています)。
日本では言及されることがまだまだ少ないが、アメリカでは「メンタルヘルス(精神面における健康)」がZ世代に甚大な影響を及ぼしているとして、メディアや教育、カルチャー等において非常に重要なテーマとして取り扱われている。
鬱や不安症など、ストレスに由来するメンタルヘルスの悪化を訴えるZ世代が多いのは、環境問題や経済不安、頻繁に発生し続けている銃乱射事件、新型コロナウィルスなど、若い頃からスケールの大きな問題と対峙しなければいけないことから生まれる絶望感が大きな原因の一つとして挙げられる。
しかし、Z世代、そして少し上のミレニアル世代が起こした大きな変化の一つとして、「弱くても良い」という意識をポップカルチャーやメディアを通して普及させたことが挙げられる。
以前はアメリカでも、精神の病に対する社会的なスティグマによって、メンタルヘルスの問題は話題にしづらい風潮があった。でも、徐々に若い世代の意識が変わったことによって、タブー視されていたメンタルヘルスの話題についてオープンに共有しあったり、議論を交わしたりすることで、一人で抱え込む必要性が薄れていったのだ。
だから、セラピーを受けるために自ら受診に出向いたり、専門的知識を用いて精神面の苦しみを治療しようという積極性を、自然と身につけることになった。実際、メンタルヘルスの専門家から治療やセラピーを受けたことがあると報告する割合は、Z世代の37%にのぼる。ミレニアル世代の35%と並び、X世代の26%、ベビーブーマーの22%、高齢者の15%と比較して非常に高くなっている。
私はセラピーやサイコロジーのプロではないが、2019年6月から執筆業を始めたり、インディーズのアーティストたちと密接に制作やコーチングで関わったりするようになり、メンタルヘルスについて率先して学んだり、まずはセルフケアをしていかないと、継続して「誰かを助ける」ことが難しいことをこの数年間を通して実感した。
コロナによる大きな変化の中で、人間関係や経済、社会全体について考えていくうちに「大切なもの」と「非本質的なもの」が浮かび上がってきた。そのことから、資本主義との本質的なズレや世代間の価値観の違いについても多く気付かされたのだ。DSC00426.JPG

 アメリカでは「メンタルヘルス(精神面における健康)」がZ世代に甚大な影響を及ぼしているとして、メディアや教育、カルチャー等において非常に重要なテーマとして取り扱われている。鬱や不安症など、ストレスに由来するメンタルヘルスの悪化を訴えるZ世代が多いのは、環境問題や経済不安、頻繁に発生し続けている銃乱射事件、新型コロナウィルスなど、若い頃からスケールの大きな問題と対峙しなければいけないことから生まれる絶望感が大きな原因の一つとして挙げられる。アメリカ社会の分断、不安定化ということも要因なのでしょうか。それにしても重大な課題であることは間違いないでしょう。以前はアメリカでも、精神の病に対する社会的なスティグマによって、メンタルヘルスの問題は話題にしづらい風潮があった。でも、徐々に若い世代の意識が変わったことによって、タブー視されていたメンタルヘルスの話題についてオープンに共有しあったり、議論を交わしたりすることで、一人で抱え込む必要性が薄れていったのだ。タブー視されていたことが解きほぐされてくることはいいのではないでしょうか。それをどのように解決するかということでしょう。コロナによる大きな変化の中で、人間関係や経済、社会全体について考えていくうちに「大切なもの」と「非本質的なもの」が浮かび上がってきた。そのことから、資本主義との本質的なズレや世代間の価値観の違いについても多く気付かされたのだ。社会に埋もれていた大切なもの、非本質的なものが浮かび上がってくることはいいことでしょう。隠されたり、隠蔽されるよりは見える化できるようになることは明るい兆候かもしれません。DSC00416.JPG
就職氷河期世代の憂鬱と、彼らが「今思うこと」をくみ取っているのか[2025年04月18日(Fri)]
 All Abou2025年2月9日付け「相次ぐ40代無職男性の凶悪犯罪……背景にある就職氷河期世代の憂鬱と、彼らが「今思うこと」」から、2024年12月に北九州のマクドナルドで起きた中学生2人への殺傷事件、そして先日、1月22日に長野駅前で発生した男女3人殺傷事件、いずれも犯人は40代無職男性だった。長野駅前の件はいまだ動機が明らかになっていないが、もし無差別だとすると就職氷河期世代の鬱憤(うっぷん)がもたらしたのかもしれないという危惧が湧いても不思議はない。
就職氷河期世代とは
無差別殺人の多くは「社会への恨み」を抱えていることが多い。そして就職氷河期と言われる世代には、そういった理不尽な思いがあるのだ。
 就職氷河期とは、主に1993年から2005年に高卒もしくは大卒で社会に出た世代。高卒なら1975年から1985年ごろ、大卒なら1970年から1980年に生まれた人たちで、団塊ジュニアとも若干かぶる。
 1991年にバブルは崩壊したが、それでも1994年までは就職率は70%を超えていた。それが1995年に60%台に落ち、2003年に55.1%となる。大卒者における超氷河期は2000年であり、同年の有効求人倍率は0.59%だったという。
 2000年に大学を卒業となると、1978年前後に生まれた人たち。今、まさに40代半ばから後半にさしかかる世代だ。
 「本当に泡のように消えた」バブル期の日常
この世代は、バブル崩壊で「親が悲惨な目にあっていた」ことを覚えている。
「うちの親は首都圏で不動産業をしていました。祖父の代から地道に地元向けの仕事をしていたのに、オヤジはバブルに踊らされた。一時期は土地の売買でものすごく儲かったんでしょうね。僕が小学生のころは外車を買ったり別荘を買ったりしていました。
 オヤジは毎晩、飲み歩くような生活をしていた。母親はどこか不安そうだったけど、あるときオヤジに大きなダイヤの指輪をプレゼントされて喜んでいた」
 そんな生活はバブル崩壊とともに、本当に泡のように消えたとサトシさん(46歳)は言う。その後は不正があったのか脱税があったのか、子どもにはよく分からなかったが、父が警察に引っ張られていったこともある。
 それでも夜逃げするほどのことにはならず、父はまた地元向けの不動産業に戻ったが、1度広げた生活は元には戻らず、結局、会社は倒産。両親は離婚して、彼は母とともに母の実家で暮らした。
 「2歳下の妹は、子どものいない母の姉の家に引き取られました。行き来はあったけど、兄妹が別々に暮らすようになり、その後は具合が悪くなった祖父母の面倒を見させられ、寂しくてつらい思い出しかありません」
 国立大学卒だが「今でも非正規、独身です」
こうなったら勉強で頑張るしかないと一念発起、国立大学に入学したが、彼が卒業したのがちょうど2000年。国立大学卒業でも、就職先は「なかった」という。
 「友人たちは企業の名前にこだわっていられないと、中堅企業を回っていました。でも僕は、なぜかプライドが邪魔して名前のある大手企業ばかり狙って失敗しましたね。あの時、中堅企業に行った人たちの中には、時代の流れに乗って勤務先に日の目が当たり、いいポジションについたヤツもいる。僕には見る目がなかったんですね」
 結局、非正規雇用という形で大手企業の下請け業者で働き始めたが、社内の人間関係が殺伐としていていたたまれず3年足らずで退職。就職率も少しはよくなったので、なんとか正社員になれないかと探したが、新卒の就職率が回復しかけただけで既卒の彼には行き場がなかった。
 「就職氷河期世代の憂鬱はよく分かります。僕自身、今でも非正規で独身ですから。しかもこれから母親の介護問題が出てきそうな気配があるので、そうなったらどうやって生きていけばいいのかすら分からない。楽しそうな家族連れを見ると、時々わけもわからず怒りが湧くことはあります」
それでも誰かを傷つけるのは間違っている
それでも……と彼は言う。社会が悪かったのは確かなことだけど、それを恨んで誰かを傷つけるのは間違っている、と。
 「一時期、ネットで知り合った同世代の人たちとオフ会で盛り上がったりしたんです。だけど何度か会っているうちに、毎回、同じような愚痴を垂れ流していることに気づいて。そうやっていても何も進まないと気づいて、そこは抜けました」
 今は非正規の仕事をこなしながら、週末はアルバイトをし、さらにとある国家資格を受けるために勉強を始めたという。
 「もしかしたら人生を無駄に過ごしているかもしれないと思ったんです。目覚めるのが遅いけど(笑)。趣味を通じて知り合った50代後半の方から、『あなたはまだ若い。何か始めてみたらどうかな』と言われて。やるだけやったら、何も手にできなくても満足感は残るはずだという言葉に、妙に説得力があったんですよね」
 やるだけやった、と言えるものがなかった。だから始めてみたと彼は言う。始めてみることに意義があるのかもしれない。
 「家庭を持ちたいとも思ってないし、持てるとも思ってないけど、せめて自分の人生、一度くらいがんばって、『やるだけのことはやった』と言いたい」
 何もいいことがなかった氷河期世代。彼らが抱える憂鬱と理不尽なことへの潜在的な怒りは、この時代、誰もが感じている閉塞感につながっているのかもしれない。DSC00443.JPG

 政治家は就職氷河期世代の人たちの厳しい現実に向き合って寄り添り真剣に考え政策を講じようとしているのでしょうか。2024年12月に北九州のマクドナルドで起きた中学生2人への殺傷事件、そして先日、1月22日に長野駅前で発生した男女3人殺傷事件、いずれも犯人は40代無職男性だった。長野駅前の件はいまだ動機が明らかになっていないが、もし無差別だとすると就職氷河期世代の鬱憤(うっぷん)がもたらしたのかもしれないという危惧が湧いても不思議はない。無差別殺人の多くは「社会への恨み」を抱えていることが多い。そして就職氷河期と言われる世代には、そういった理不尽な思いがあるのだ。1991年にバブルは崩壊したが、それでも1994年までは就職率は70%を超えていた。それが1995年に60%台に落ち、2003年に55.1%となる。大卒者における超氷河期は2000年であり、同年の有効求人倍率は0.59%だったという。就職氷河期世代の人たちの責任ではないでしょう。勉強で頑張るしかないと一念発起、国立大学に入学したが、彼が卒業したのがちょうど2000年。国立大学卒業でも、就職先は「なかった」という。「友人たちは企業の名前にこだわっていられないと、中堅企業を回っていました。でも僕は、なぜかプライドが邪魔して名前のある大手企業ばかり狙って失敗しましたね。あの時、中堅企業に行った人たちの中には、時代の流れに乗って勤務先に日の目が当たり、いいポジションについたヤツもいる。僕には見る目がなかったんですね」結局、非正規雇用という形で大手企業の下請け業者で働き始めたが、社内の人間関係が殺伐としていていたたまれず3年足らずで退職。就職率も少しはよくなったので、なんとか正社員になれないかと探したが、新卒の就職率が回復しかけただけで既卒の彼には行き場がなかった。「就職氷河期世代の憂鬱はよく分かります。僕自身、今でも非正規で独身ですから。しかもこれから母親の介護問題が出てきそうな気配があるので、そうなったらどうやって生きていけばいいのかすら分からない。楽しそうな家族連れを見ると、時々わけもわからず怒りが湧くことはあります」自己責任と簡単に片付けているのではないでしょうか。「家庭を持ちたいとも思ってないし、持てるとも思ってないけど、せめて自分の人生、一度くらいがんばって、『やるだけのことはやった』と言いたい」何もいいことがなかった氷河期世代。彼らが抱える憂鬱と理不尽なことへの潜在的な怒りは、この時代、誰もが感じている閉塞感につながっているのかもしれない。明るい光が差し込むような政策を実現できないものでしょうか。自助、自己責任で片付けて済ませることはできないでしょう。DSC00442.JPG
| 次へ
プロフィール

元気さんさんの画像
リンク集
https://blog.canpan.info/genkijuku/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/genkijuku/index2_0.xml
お問合せは下記よりお願いします。返信にはお時間をいただく事がございます。