人生の終わりにさしかかる頃人との出会いを思い返す[2026年02月01日(Sun)]
婦人公論jp.2025年8月14日付け「曽野綾子 人生の終わりにさしかかる頃、預金通帳を眺めるよりも人との出会いを思い返す。どうしたら感動的な出会いができるかというと…」から、小説『神の汚れた手』など多数のベストセラーで知られる作家・曽野綾子さんが、2025年2月に逝去されました。曽野さんは小説のほか、近年では老いについてのエッセイも手掛けていました。そこで今回は、老いを充実させる身辺整理の極意についてまとめられた著書『人生の後片づけ: 身軽な生活の楽しみ方』から一部を抜粋し、ご紹介します。
イタリア人がよく口にする言葉 言葉というものは、何語で語っても同じだとは思うのだが、時々外国語で聞くと、何といういい表現かと思うことがある。
「なんて私の生涯は豊かだったのだろう」という言葉の原語を、私は書いておくべきだと思った。
それは「Come stata ricca la miavita(コーメ スタータ リツカ ラ ミイア ヴイータ)」というのだそうである。
イタリア人がよくこの言葉を口にすると聞いて、私はその人に尋ねた。
日々の讃歌 「この中の、riccaという言葉は、多分英語のリッチと同じ語源を持っているのだと思いますが、自分の生涯が豊かだと思う理由には、別荘、骨董、ヨット、宝石、夜ごとのパーティーのような、そういう物質的な豊かさを持ったということも含んでいるんですか」
すると答えは、そうではない、と言うのであった。
もちろんスラムに住んで、その日の食べ物にも困るような人は、自分が豊かだとは言わないだろう。しかし普通の家庭を営める人がこの言葉を口にする時には、自分がすばらしい人に出会え、貴重な体験をしたことを思い出して感動しているのだ、という。
ほんとうにその気持ちはよくわかる。
自分にはどんなすばらしい人との出会いがあったか 人生の終わりに差しかかる頃、銀行の預金通帳を眺めるのが趣味という人もいるだろうけれど、それよりも自分にはどんなすばらしい人との出会いがあったかを思い返すのではないかと私は思う。
人との感動的な、時には小説的なとさえ言いたい出会いがあったことを豊かと言うなら、私の思い出の預金通帳も相当な高額になっていると言ってもいいのである。
どうしたら人と、感動的な出会いができるかと言うと、それは差し出すものが多い場合である。
差し出すものはお金やものではない。自分をさらけ出すことだ。そしてそのためには、わずかでもさらけ出せるほどの自分の内容、いささかの表現力、誠実と勇気もいるかもしれない。
人は誰でもこの姿勢が取れるようになる 年を取って、もはや恐れるべきものも段々と少なくなった時、人は誰でもこの姿勢が取れるようになる。若い時にはまだ世間をはばかり、常識にとらわれ、権威を恐れているから、自分をさらすことなどとてもできない。
人生の終わりはいつ来るかしれない。若い人ならうんと先だという保証もない。
だから私は、平凡なイタリア人が、ほとんど毎日のように「なんて私の生涯は豊かだったのだろう」と言い続ける日々を羨むのである。
日々の讃歌 「この中の、riccaという言葉は、多分英語のリッチと同じ語源を持っているのだと思いますが、自分の生涯が豊かだと思う理由には、別荘、骨董、ヨット、宝石、夜ごとのパーティーのような、そういう物質的な豊かさを持ったということも含んでいるんですか」すると答えは、そうではない、と言うのであった。もちろんスラムに住んで、その日の食べ物にも困るような人は、自分が豊かだとは言わないだろう。しかし普通の家庭を営める人がこの言葉を口にする時には、自分がすばらしい人に出会え、貴重な体験をしたことを思い出して感動しているのだ、という。ほんとうにその気持ちはよくわかる。自分にはどんなすばらしい人との出会いがあったか 人生の終わりに差しかかる頃、銀行の預金通帳を眺めるのが趣味という人もいるだろうけれど、それよりも自分にはどんなすばらしい人との出会いがあったかを思い返すのではないかと私は思う。物質的な豊かさよりもすばらしい出会い、貴重な体験などを思い出して感動できることの方が確かに意味がありますね。どうしたら人と、感動的な出会いができるかと言うと、それは差し出すものが多い場合である。差し出すものはお金やものではない。自分をさらけ出すことだ。そしてそのためには、わずかでもさらけ出せるほどの自分の内容、いささかの表現力、誠実と勇気もいるかもしれない。人生の終わりはいつ来るかしれない。若い人ならうんと先だという保証もない。だから私は、平凡なイタリア人が、ほとんど毎日のように「なんて私の生涯は豊かだったのだろう」と言い続ける日々を羨むのである。確かにそうかも知れません。最後に満足できる人生を迎えることができれば最高ですね。そのような生き方をしたいものですね。
イタリア人がよく口にする言葉 言葉というものは、何語で語っても同じだとは思うのだが、時々外国語で聞くと、何といういい表現かと思うことがある。
「なんて私の生涯は豊かだったのだろう」という言葉の原語を、私は書いておくべきだと思った。
それは「Come stata ricca la miavita(コーメ スタータ リツカ ラ ミイア ヴイータ)」というのだそうである。
イタリア人がよくこの言葉を口にすると聞いて、私はその人に尋ねた。
日々の讃歌 「この中の、riccaという言葉は、多分英語のリッチと同じ語源を持っているのだと思いますが、自分の生涯が豊かだと思う理由には、別荘、骨董、ヨット、宝石、夜ごとのパーティーのような、そういう物質的な豊かさを持ったということも含んでいるんですか」
すると答えは、そうではない、と言うのであった。
もちろんスラムに住んで、その日の食べ物にも困るような人は、自分が豊かだとは言わないだろう。しかし普通の家庭を営める人がこの言葉を口にする時には、自分がすばらしい人に出会え、貴重な体験をしたことを思い出して感動しているのだ、という。
ほんとうにその気持ちはよくわかる。
自分にはどんなすばらしい人との出会いがあったか 人生の終わりに差しかかる頃、銀行の預金通帳を眺めるのが趣味という人もいるだろうけれど、それよりも自分にはどんなすばらしい人との出会いがあったかを思い返すのではないかと私は思う。
人との感動的な、時には小説的なとさえ言いたい出会いがあったことを豊かと言うなら、私の思い出の預金通帳も相当な高額になっていると言ってもいいのである。
どうしたら人と、感動的な出会いができるかと言うと、それは差し出すものが多い場合である。
差し出すものはお金やものではない。自分をさらけ出すことだ。そしてそのためには、わずかでもさらけ出せるほどの自分の内容、いささかの表現力、誠実と勇気もいるかもしれない。
人は誰でもこの姿勢が取れるようになる 年を取って、もはや恐れるべきものも段々と少なくなった時、人は誰でもこの姿勢が取れるようになる。若い時にはまだ世間をはばかり、常識にとらわれ、権威を恐れているから、自分をさらすことなどとてもできない。
人生の終わりはいつ来るかしれない。若い人ならうんと先だという保証もない。
だから私は、平凡なイタリア人が、ほとんど毎日のように「なんて私の生涯は豊かだったのだろう」と言い続ける日々を羨むのである。
日々の讃歌 「この中の、riccaという言葉は、多分英語のリッチと同じ語源を持っているのだと思いますが、自分の生涯が豊かだと思う理由には、別荘、骨董、ヨット、宝石、夜ごとのパーティーのような、そういう物質的な豊かさを持ったということも含んでいるんですか」すると答えは、そうではない、と言うのであった。もちろんスラムに住んで、その日の食べ物にも困るような人は、自分が豊かだとは言わないだろう。しかし普通の家庭を営める人がこの言葉を口にする時には、自分がすばらしい人に出会え、貴重な体験をしたことを思い出して感動しているのだ、という。ほんとうにその気持ちはよくわかる。自分にはどんなすばらしい人との出会いがあったか 人生の終わりに差しかかる頃、銀行の預金通帳を眺めるのが趣味という人もいるだろうけれど、それよりも自分にはどんなすばらしい人との出会いがあったかを思い返すのではないかと私は思う。物質的な豊かさよりもすばらしい出会い、貴重な体験などを思い出して感動できることの方が確かに意味がありますね。どうしたら人と、感動的な出会いができるかと言うと、それは差し出すものが多い場合である。差し出すものはお金やものではない。自分をさらけ出すことだ。そしてそのためには、わずかでもさらけ出せるほどの自分の内容、いささかの表現力、誠実と勇気もいるかもしれない。人生の終わりはいつ来るかしれない。若い人ならうんと先だという保証もない。だから私は、平凡なイタリア人が、ほとんど毎日のように「なんて私の生涯は豊かだったのだろう」と言い続ける日々を羨むのである。確かにそうかも知れません。最後に満足できる人生を迎えることができれば最高ですね。そのような生き方をしたいものですね。



