7歳で人生暗転、原爆で両親失い孤児に 飢えに苦しんだ少年が菓子職人に[2026年01月14日(Wed)]
中国新聞デジタル2025年8月6日付け「7歳で人生暗転、原爆で両親失い孤児に 飢えに苦しんだ少年が菓子職人に 被爆80年目に初めて明かす半生 #戦争の記憶」から、慈しんでくれた父母も、一緒に遊んだきょうだいもあの瞬間まで確かに生きていた。「地獄」の惨禍をくぐり抜けた被爆者は、今なお心身の傷に苦しむ。広島市南区の底押(そこおし)勝さん(87)は、原爆に苦難の戦後を強いられた1人だ。両親と長兄を奪われ、孤児として生きてきた。この夏、新聞3社が取り組んだ全国被爆者アンケートを通じ、初めて記憶の一端を明かした。「節目の年だから」。広島は8月6日、米軍が落としたたった1発の原爆に街も営みも破壊されてから、80年の朝を迎えた。
87歳の菓子職人 今明かす過去
手書きのポップに昭和の風情が漂う店内。広島市南区の底押製菓は、素朴な味わいのケーキや焼き菓子が人気だ。「うちは昔ながらのもんしかないけどね」。店主の底押さんは照れたように笑う。今なお現役。朝に夕に1人で厨房に立ち、自慢の菓子を次々に焼き上げる。
ことし7月、創業60年を迎えたばかり。「家族に苦労をかけたが、よう続いた。少しは皆さんにうまいと思うてもらえたんかな」。ただ、その半生を知る人は地元でも少ないだろう。底押さんは、自身の過去を家族以外に話してこなかった。
原爆で両親奪われ 7歳で孤児に
幼い頃の記憶はおぼろげだが、自宅は広島市中心部から南に下った竹屋町(現中区)にあり、父は炭や七輪の販売をなりわいにしていた。底押さんは4人きょうだいの末っ子。すぐ上の兄とも10歳ほど離れていた。「かわいがられとったんでしょう」。両親と3人で、街中の芝居小屋に行った思い出が残る。
1945年8月6日朝、人生は暗転した。父は問屋街に出かけ、自身は竹屋国民学校(現竹屋小)の校庭にいた。校舎の壁にもたれ、青空を見上げていたら、軍用機が見えた。その行方を目で追っていると突如、強烈な光が走った。気付いた時には、目の前が真っ暗だった。
「校舎の下敷きよね。男の先生に引っ張り出されました」。幸い、かすり傷を負った程度。
火の手を避け、人波を追って西方へ逃げた。「どこをどう走ったか、よう覚えてないんよ。
とにかく、恐ろしかった」
「まさるちゃん、生きとったんね」。名を呼ばれたのは、爆心地から西の己斐地区(現西区)の橋上だった。人混みの中にすすだらけの義姉の姿を見つけ、思わず抱きついていた。
「橋の上でばったり、出会ったんよね。大泣きしました。会えてなかったら、どうなっとったか…」。長兄の妻に当たるその人と、五日市町(現佐伯区)の七輪工場へ。その夜は外にむしろを敷いて眠り、翌日、鳥取県内の義姉の里へ向かった。
見知らぬ地。両親の迎えを待ちわびたが、8月半ばに現れたのは姉だった。聞かされたのは家族の絶望的な話だった。次兄は、大やけどを負っていた。何より、父と長兄の行方は分からないまま。そして、母は似島(現南区)で息を引き取ったらしい。7歳で原爆孤児となった。
布団の中で泣いた夜 飢えの苦しみも知る
底押さんは、今の広島県大崎上島町にいた伯母の元へ預けられ、島の学校に通った。
「ようしてもらったし、食べ物にも苦労せんかった。でも、寂しくてね」。小部屋をあてがわれ、1人で寝起きする毎日。布団の中で隠れて泣いた夜もあった。
1949年に入って、姉に引き取られた。福島町(現西区)で2人暮らしを始めたが、「食べられんでね。本当に苦しかった」。姉は懸命に働いてくれたが、底押さんはやせ細った。1度、近所の人がサバの煮付けを食べさせてくれたことがある。人目も気にならなかった。「もう、がつがつ食べた。近所で『あの子は死ぬるよ』とうわさされとりました」
児童相談所を経て、1950年8月に行き着いた先が、五日市町(現佐伯区)にできたばかりの児童養護施設「八幡学園」だった。園に、当時の「児童措置台帖」が残る。黄ばんだノートに確かに刻まれていた。「両親共ニ原爆死 底押勝」。当時12歳。底押さんは18人目の園生となった。
やっと見つかった居場所。今も思い出す。「お母さん」と呼んだ園長夫人の優しさ。食事に揚げ半(揚げかまぼこ)が出るのが楽しみだったこと。掃除より風呂たきより何より、畑に下肥をまく当番が嫌だったこと…。
園生は50人ほど。一部屋に7、8人が暮らし、近所の小中学校に通った。朝晩は座敷に全員が集い、仏壇の前に正座した。読経に声を重ね、晩は園長先生の話も聞いた。中には暗い目をした子どももいた。原爆孤児もいたが、互いの境遇はほぼ話さなかった。
姉が見つけた菓子店 住み込みで必死に働いた戦後
やけどに苦しんだ次兄は1950年夏に他界した。戦後に会えたのは、一度だけ。「まさる」と呼んでくれたのに、顔を直視できなかった苦い記憶が残る。「顔半分にケロイドがあってね。あれは見られんかった。悪いことをしました」
姉は唯一の家族となった弟が気がかりだったのだろう。奉公先を見つけてきてくれた。
1955年春、底押さんは中学卒業と同時に園を出ると、菓子店で住み込みの仕事を始める。
「働き始めた頃の給料は月千円じゃなかったかね」。日中は必死に作業を覚えた。休みが取れると映画館へ。3本立てを選び、館内で終日過ごすのが唯一のぜいたくだった。
10年後に独立。今と同じ場所に店を開く。滑り出しこそ苦しかったが、病院の売店に商品を卸し始めると評判になり、遠方からも注文が入るようになった。結婚し、3人の娘にも恵まれた。
原爆がなければ… 「違った人生があったろうね」
嫌というほど味わった。寂しさも惨めさも、飢えの苦しみも。辛酸をなめ尽くし、たどりついた今。「何とか健康に店を続けてこられた。ありがたい」と受け止める。
ただ、つい考えてしまうこともある。終戦がもっと早ければ、原爆を落とされていなければ―。「思ってもどうしようもないこと。だけど違った人生があったろうね」とつぶやく。
だからこそ、願わずにはいられない。
原爆孤児も、飢えにあえぐ子も、もうつくらない世の中を。「私の名も戦争に『勝つ』いう意味を込められたんでしょうが、犠牲になるのはいつも普通の人ばかり。戦争はないがいいです」。心からの想いだ。
取材を終えて
拒まれるのが怖い。顔を見ながらお願いしてみよう―。アンケートを握りしめ、前触れなしにその人を訪ねたら、やはり驚かれた。広島市南区に根付き、60年になる洋菓子店の店主。「取材を受けたことがなくて…」と困り顔だ。その時、店内にツバメが乱入。天井でばたつき始めた。記者がいすの上に立ち、外に出してやると、店主の表情も和らいだ。
被爆80年の節目に、中国新聞、長崎新聞、朝日新聞の3社合同で試みた「全国被爆者アンケート」には、3564人もの回答が寄せられた。自ら用紙を取り寄せてくれた人や同級生に配ってくれた人、あふれる思いを別紙につづってくれた人もいた。身をもって知る原爆の惨禍を「今、伝えておかねば」という強い思いを感じた。
冒頭の菓子職人、底押勝さんのようにアンケートに答えるのはもちろん、取材を受けるのは初めて、という人も目立った。明かされた体験はそれぞれ過酷で、原爆の罪深さをあらためて思い知らされた。口にするのもつらいのだろう。時折、顔をゆがめる人もいた。
そうまでして語っているのに「思いが伝わっている」との手応えを持てずにいる被爆者も多い。アンケート結果からは「継承」に不安を抱く姿も浮かび上がった。
どうか「遠い話」と思わないでほしい。今、世界は混迷を深め、核の脅威がはびこる。こんな時こそ、立ち返るべきは核の正体を知る被爆者の声だ。想像力を働かせながら、耳を傾けたい。報道の責任も重い。どう書けば、託された思いを受け取ってもらえるか。悩み抜きながら伝えねばと、肝に銘じている。
手書きのポップに昭和の風情が漂う店内。広島市南区の底押製菓は、素朴な味わいのケーキや焼き菓子が人気だ。「うちは昔ながらのもんしかないけどね」。店主の底押さんは照れたように笑う。今なお現役。朝に夕に1人で厨房に立ち、自慢の菓子を次々に焼き上げる。1945年8月6日朝、人生は暗転した。父は問屋街に出かけ、自身は竹屋国民学校(現竹屋小)の校庭にいた。校舎の壁にもたれ、青空を見上げていたら、軍用機が見えた。その行方を目で追っていると突如、強烈な光が走った。気付いた時には、目の前が真っ暗だった。「校舎の下敷きよね。男の先生に引っ張り出されました」。幸い、かすり傷を負った程度。火の手を避け、人波を追って西方へ逃げた。「どこをどう走ったか、よう覚えてないんよ。とにかく、恐ろしかった」底押さんは、今の広島県大崎上島町にいた伯母の元へ預けられ、島の学校に通った。「ようしてもらったし、食べ物にも苦労せんかった。でも、寂しくてね」。小部屋をあてがわれ、1人で寝起きする毎日。布団の中で隠れて泣いた夜もあった。1949年に入って、姉に引き取られた。福島町(現西区)で2人暮らしを始めたが、「食べられんでね。本当に苦しかった」。姉は懸命に働いてくれたが、底押さんはやせ細った。1度、近所の人がサバの煮付けを食べさせてくれたことがある。人目も気にならなかった。「もう、がつがつ食べた。近所で『あの子は死ぬるよ』とうわさされとりました」姉は唯一の家族となった弟が気がかりだったのだろう。奉公先を見つけてきてくれた。1955年春、底押さんは中学卒業と同時に園を出ると、菓子店で住み込みの仕事を始める。「働き始めた頃の給料は月千円じゃなかったかね」。日中は必死に作業を覚えた。休みが取れると映画館へ。3本立てを選び、館内で終日過ごすのが唯一のぜいたくだった。10年後に独立。今と同じ場所に店を開く。滑り出しこそ苦しかったが、病院の売店に商品を卸し始めると評判になり、遠方からも注文が入るようになった。結婚し、3人の娘にも恵まれた。原爆孤児も、飢えにあえぐ子も、もうつくらない世の中を。「私の名も戦争に『勝つ』いう意味を込められたんでしょうが、犠牲になるのはいつも普通の人ばかり。戦争はないがいいです」。心からの想いだ。犠牲になるのはいつも普通の人ばかり。戦争はないがいい。」誰でも思うことでしょう。戦争をしてはいけないのです。核兵器も根絶以外に解決の方法はないでしょうが、厳しい道のりですね。日本も含めて世界中の政治家が本気にならなければどうにもならないでしょうが、多くの人たちが大きな声を上げることは意味があるでしょう。
87歳の菓子職人 今明かす過去
手書きのポップに昭和の風情が漂う店内。広島市南区の底押製菓は、素朴な味わいのケーキや焼き菓子が人気だ。「うちは昔ながらのもんしかないけどね」。店主の底押さんは照れたように笑う。今なお現役。朝に夕に1人で厨房に立ち、自慢の菓子を次々に焼き上げる。
ことし7月、創業60年を迎えたばかり。「家族に苦労をかけたが、よう続いた。少しは皆さんにうまいと思うてもらえたんかな」。ただ、その半生を知る人は地元でも少ないだろう。底押さんは、自身の過去を家族以外に話してこなかった。
原爆で両親奪われ 7歳で孤児に
幼い頃の記憶はおぼろげだが、自宅は広島市中心部から南に下った竹屋町(現中区)にあり、父は炭や七輪の販売をなりわいにしていた。底押さんは4人きょうだいの末っ子。すぐ上の兄とも10歳ほど離れていた。「かわいがられとったんでしょう」。両親と3人で、街中の芝居小屋に行った思い出が残る。
1945年8月6日朝、人生は暗転した。父は問屋街に出かけ、自身は竹屋国民学校(現竹屋小)の校庭にいた。校舎の壁にもたれ、青空を見上げていたら、軍用機が見えた。その行方を目で追っていると突如、強烈な光が走った。気付いた時には、目の前が真っ暗だった。
「校舎の下敷きよね。男の先生に引っ張り出されました」。幸い、かすり傷を負った程度。
火の手を避け、人波を追って西方へ逃げた。「どこをどう走ったか、よう覚えてないんよ。
とにかく、恐ろしかった」
「まさるちゃん、生きとったんね」。名を呼ばれたのは、爆心地から西の己斐地区(現西区)の橋上だった。人混みの中にすすだらけの義姉の姿を見つけ、思わず抱きついていた。
「橋の上でばったり、出会ったんよね。大泣きしました。会えてなかったら、どうなっとったか…」。長兄の妻に当たるその人と、五日市町(現佐伯区)の七輪工場へ。その夜は外にむしろを敷いて眠り、翌日、鳥取県内の義姉の里へ向かった。
見知らぬ地。両親の迎えを待ちわびたが、8月半ばに現れたのは姉だった。聞かされたのは家族の絶望的な話だった。次兄は、大やけどを負っていた。何より、父と長兄の行方は分からないまま。そして、母は似島(現南区)で息を引き取ったらしい。7歳で原爆孤児となった。
布団の中で泣いた夜 飢えの苦しみも知る
底押さんは、今の広島県大崎上島町にいた伯母の元へ預けられ、島の学校に通った。
「ようしてもらったし、食べ物にも苦労せんかった。でも、寂しくてね」。小部屋をあてがわれ、1人で寝起きする毎日。布団の中で隠れて泣いた夜もあった。
1949年に入って、姉に引き取られた。福島町(現西区)で2人暮らしを始めたが、「食べられんでね。本当に苦しかった」。姉は懸命に働いてくれたが、底押さんはやせ細った。1度、近所の人がサバの煮付けを食べさせてくれたことがある。人目も気にならなかった。「もう、がつがつ食べた。近所で『あの子は死ぬるよ』とうわさされとりました」
児童相談所を経て、1950年8月に行き着いた先が、五日市町(現佐伯区)にできたばかりの児童養護施設「八幡学園」だった。園に、当時の「児童措置台帖」が残る。黄ばんだノートに確かに刻まれていた。「両親共ニ原爆死 底押勝」。当時12歳。底押さんは18人目の園生となった。
やっと見つかった居場所。今も思い出す。「お母さん」と呼んだ園長夫人の優しさ。食事に揚げ半(揚げかまぼこ)が出るのが楽しみだったこと。掃除より風呂たきより何より、畑に下肥をまく当番が嫌だったこと…。
園生は50人ほど。一部屋に7、8人が暮らし、近所の小中学校に通った。朝晩は座敷に全員が集い、仏壇の前に正座した。読経に声を重ね、晩は園長先生の話も聞いた。中には暗い目をした子どももいた。原爆孤児もいたが、互いの境遇はほぼ話さなかった。
姉が見つけた菓子店 住み込みで必死に働いた戦後
やけどに苦しんだ次兄は1950年夏に他界した。戦後に会えたのは、一度だけ。「まさる」と呼んでくれたのに、顔を直視できなかった苦い記憶が残る。「顔半分にケロイドがあってね。あれは見られんかった。悪いことをしました」
姉は唯一の家族となった弟が気がかりだったのだろう。奉公先を見つけてきてくれた。
1955年春、底押さんは中学卒業と同時に園を出ると、菓子店で住み込みの仕事を始める。
「働き始めた頃の給料は月千円じゃなかったかね」。日中は必死に作業を覚えた。休みが取れると映画館へ。3本立てを選び、館内で終日過ごすのが唯一のぜいたくだった。
10年後に独立。今と同じ場所に店を開く。滑り出しこそ苦しかったが、病院の売店に商品を卸し始めると評判になり、遠方からも注文が入るようになった。結婚し、3人の娘にも恵まれた。
原爆がなければ… 「違った人生があったろうね」
嫌というほど味わった。寂しさも惨めさも、飢えの苦しみも。辛酸をなめ尽くし、たどりついた今。「何とか健康に店を続けてこられた。ありがたい」と受け止める。
ただ、つい考えてしまうこともある。終戦がもっと早ければ、原爆を落とされていなければ―。「思ってもどうしようもないこと。だけど違った人生があったろうね」とつぶやく。
だからこそ、願わずにはいられない。
原爆孤児も、飢えにあえぐ子も、もうつくらない世の中を。「私の名も戦争に『勝つ』いう意味を込められたんでしょうが、犠牲になるのはいつも普通の人ばかり。戦争はないがいいです」。心からの想いだ。
取材を終えて
拒まれるのが怖い。顔を見ながらお願いしてみよう―。アンケートを握りしめ、前触れなしにその人を訪ねたら、やはり驚かれた。広島市南区に根付き、60年になる洋菓子店の店主。「取材を受けたことがなくて…」と困り顔だ。その時、店内にツバメが乱入。天井でばたつき始めた。記者がいすの上に立ち、外に出してやると、店主の表情も和らいだ。
被爆80年の節目に、中国新聞、長崎新聞、朝日新聞の3社合同で試みた「全国被爆者アンケート」には、3564人もの回答が寄せられた。自ら用紙を取り寄せてくれた人や同級生に配ってくれた人、あふれる思いを別紙につづってくれた人もいた。身をもって知る原爆の惨禍を「今、伝えておかねば」という強い思いを感じた。
冒頭の菓子職人、底押勝さんのようにアンケートに答えるのはもちろん、取材を受けるのは初めて、という人も目立った。明かされた体験はそれぞれ過酷で、原爆の罪深さをあらためて思い知らされた。口にするのもつらいのだろう。時折、顔をゆがめる人もいた。
そうまでして語っているのに「思いが伝わっている」との手応えを持てずにいる被爆者も多い。アンケート結果からは「継承」に不安を抱く姿も浮かび上がった。
どうか「遠い話」と思わないでほしい。今、世界は混迷を深め、核の脅威がはびこる。こんな時こそ、立ち返るべきは核の正体を知る被爆者の声だ。想像力を働かせながら、耳を傾けたい。報道の責任も重い。どう書けば、託された思いを受け取ってもらえるか。悩み抜きながら伝えねばと、肝に銘じている。
手書きのポップに昭和の風情が漂う店内。広島市南区の底押製菓は、素朴な味わいのケーキや焼き菓子が人気だ。「うちは昔ながらのもんしかないけどね」。店主の底押さんは照れたように笑う。今なお現役。朝に夕に1人で厨房に立ち、自慢の菓子を次々に焼き上げる。1945年8月6日朝、人生は暗転した。父は問屋街に出かけ、自身は竹屋国民学校(現竹屋小)の校庭にいた。校舎の壁にもたれ、青空を見上げていたら、軍用機が見えた。その行方を目で追っていると突如、強烈な光が走った。気付いた時には、目の前が真っ暗だった。「校舎の下敷きよね。男の先生に引っ張り出されました」。幸い、かすり傷を負った程度。火の手を避け、人波を追って西方へ逃げた。「どこをどう走ったか、よう覚えてないんよ。とにかく、恐ろしかった」底押さんは、今の広島県大崎上島町にいた伯母の元へ預けられ、島の学校に通った。「ようしてもらったし、食べ物にも苦労せんかった。でも、寂しくてね」。小部屋をあてがわれ、1人で寝起きする毎日。布団の中で隠れて泣いた夜もあった。1949年に入って、姉に引き取られた。福島町(現西区)で2人暮らしを始めたが、「食べられんでね。本当に苦しかった」。姉は懸命に働いてくれたが、底押さんはやせ細った。1度、近所の人がサバの煮付けを食べさせてくれたことがある。人目も気にならなかった。「もう、がつがつ食べた。近所で『あの子は死ぬるよ』とうわさされとりました」姉は唯一の家族となった弟が気がかりだったのだろう。奉公先を見つけてきてくれた。1955年春、底押さんは中学卒業と同時に園を出ると、菓子店で住み込みの仕事を始める。「働き始めた頃の給料は月千円じゃなかったかね」。日中は必死に作業を覚えた。休みが取れると映画館へ。3本立てを選び、館内で終日過ごすのが唯一のぜいたくだった。10年後に独立。今と同じ場所に店を開く。滑り出しこそ苦しかったが、病院の売店に商品を卸し始めると評判になり、遠方からも注文が入るようになった。結婚し、3人の娘にも恵まれた。原爆孤児も、飢えにあえぐ子も、もうつくらない世の中を。「私の名も戦争に『勝つ』いう意味を込められたんでしょうが、犠牲になるのはいつも普通の人ばかり。戦争はないがいいです」。心からの想いだ。犠牲になるのはいつも普通の人ばかり。戦争はないがいい。」誰でも思うことでしょう。戦争をしてはいけないのです。核兵器も根絶以外に解決の方法はないでしょうが、厳しい道のりですね。日本も含めて世界中の政治家が本気にならなければどうにもならないでしょうが、多くの人たちが大きな声を上げることは意味があるでしょう。



