地方の“過疎を消す”方法はあるのでしょうか[2026年01月11日(Sun)]
文春オンライン2025年「ただ老人ホームと保育園をくっつけるのは愚策」元京大総長・山極寿一が語る、地方の“過疎を消す”方法」から、話題書『 老いの思考法 』が版を重ねる、霊長類学者・山極寿一さんが少子高齢社会における、新たな学びの復権を説く。
学校を起点に「関係人口」を増やすユニークな試み
少子高齢化が進んで地方が過疎化する日本において、関係人口をいかに増やすかは喫緊に取り組むべき課題です。
でも具体的にどうやって、関わる人々を地域に迎え入れ、地縁ネットワークに参加してもらうのか?
具体的にイメージしづらい方もいると思うので、一つ参考になる事例からお伝えしましょう。
先日、鹿児島の姶良(あいら)市という場所に3日間行ってきました。そこでは「ふつうの学校をつくる」プロジェクトが立ち上がり、廃校になった小学校をリノベーションして私立の学校をつくる試みが進行しています。
「ふつうの学校ってなんですか?」と関係者に訊いたら、昭和の学校をイメージしていると言います。「学校は、地域という大きな生態系の一部であり、ハブである」という視点から、「学びもその土地ならではの豊かな風土に根付いた、顔の見える小さな関係のなかで紡ぎなおす」ことを掲げています。食材も地元のネットワークを駆使して新鮮なものを使い、豊かな食事を提供します。しかも学校の裏にはホタルが群舞する森もある。
私が子どものころの「ふつうの」小学校のまわりでは、道で遊べて、山や森に行って子どもたちが自由に遊べたものでした。このプロジェクトは2026年の開校を目指しているそうですが、地域と密接に結びついたこうした学びの場を再生する意義は大きいと言えるでしょう。
いまこうした試みが全国各地で起こっていて、私はあちこち見て回っているのですが、学びの場を一次拠点にして、その考えに共感した子育て世代の人たちが集まってくれば、過疎は消えます。子どもがくれば親たちも来て、さまざまな店が開き、協働する活動も生まれ、さまざまな産業も活性化する。
教育の場を一つの資産にしながら、子どもを中心にさまざまな人を巻き込んでいくのです。
高齢者と子どもをかかわらせようと、ただ老人ホームと保育園をくっつけている施設がありますが、だいぶズレている愚かな施策だと思います。異なる世代のあいだをつなぐのは「自然」なんです。自然を媒介にして両者をつながないと、ただ物理的に一緒にして交流会だなんだといってもつながるわけがない。
なぜなら、自然であったり、地域のお祭りであったり、日々変化する複雑なものを媒介にしないと、子どもの知的好奇心の発露としての学びの場は発動することはないし、互いの協働作業も生まれないからです。
予測できない事態にどう対処するか?
それは一体どういうことなのか? ここであらためて学びの本質について考えてみましょう。
人類は、700万年間のほとんどを狩猟採集生活で過ごしてきました。この原初の生活での学びは、大人がこれを教えたいという計画を持っているわけではなく、「予測できない事態にどう対処するか」を実践のなかで教えていくことでした。
子どもたちに自分で何かに対処する機会を与えることが重要で、そもそも自然は(とりわけ熱帯雨林は)、既存の知識がそれほど役に立つわけではない。自然は同じことは決して繰り返さないので、新しい予想もしなかったような変化が目の前で起こったときに適切に対処する力が必要になってくるわけです。
最適解でなくていいから、ちょっと間違えてもいいから、まずは自分が死なないように生き残れる対処をしないといけない。
たとえば、ゾウの機嫌を損ねたらすぐに襲われて絶命しますし、カバなんかもっと凶暴で危ない。水中でワニに嚙まれたらひとたまりもないし、まわりには毒蛇や毒虫だってうようよいる。自然界では、そういう危険なものに思いがけず出会うことが多々あるわけです。
ジャングルのなかは、視界をさえぎるいろいろなものがあって見通しが悪い。奥に隠れているものを察知しながら、その場その場で適切な行動を取っていかなければなりません。あらかじめ計画をたてても無駄になるかもしれず、目まぐるしく移り変わる状況に柔軟に適応する必要があります。
西田幾多郎のいう「見えないものを感じとる力」
絶え間なく変化する存在である自然に適切に対処していくには、「直感力」を磨くことが不可欠です。それこそ学びの場で鍛える必要がある。
京都大学の哲学者・西田幾多郎が「幾千年来我らの祖先をはぐくみ来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云ったようなものが潜んでいる」(『働くものから見るものへ』1927年)と記しています。
日本人は元々森の民でした。あらゆるものが隠されている森のなかでは、見えないものを感じとる能力が必要で、突然目の前に訪れた事態に咄嗟に直感的に対処する力をはぐくんできたのです。
イスラム文化圏のアラブや、キリスト教が生まれたユダヤの地のように草原や砂漠の環境では見通しがいいので、脅威があっても安全な距離を保っていれば何事も起こりません。見えている世界のなかで、相手が次にどう動くのかを推察すれば事前に対処ができる世界と、森は対照的です。
いずれにせよ、生き残るために「直感力」や「想像力」を鍛える学びが、人類の進化の99%を通じて行われてきたわけです。
狩猟採集民的な学びのモデルの復権を
いまの私たちの学びのスタイルは、「あらかじめ決められたこと」を知識として学ぶことが中心です。農耕社会のはじまり以降、計画性や管理の必要性が高まり、近代国家が成立する過程でも、同じ言語で同じ価値観をもつ工業社会に順応した人材を育てることが求められてきました。
でもこれからは、みんなで一斉に同じことを教えられる従来のスタイルでは、知識で対処できることがどんどん少なくなる時代において、あまりためにならないかもしれません。
既存の知のフレームワークにはない未知に対して、適切に対処していく力を身につける―つまり狩猟採集民的な学びのモデルこそ、現代の教育に真に必要なのです。
日々変化する自然や動物を相手に瞬時に適応していく直感力を磨くことが、人間の本来的な学びです。
知識をそのまま伝えるのではなく、経験知を応用可能な「知恵」に変えつつ、まだ見ぬ新しいことを予感しながら、一緒に考えて、一緒に企画し、子どもが自分のできることに目覚めていくような教育のあり方です。
高齢者は経験知を豊富にもっています。たっぷりと時間があって、生産性を求められない自由な身です。だから、子どもたちと一緒に、未知なものに対して、どういう風に対処したらいいのかを考えることができます。
私の幼少期を振り返ってみても、東京郊外の町の自然のなかで虫取りをしたり雑木林を探検しては、夢中になって『十五少年漂流記』や『ロビンソン・クルーソー』の真似事をしていました。親父よりも祖父のほうが気が合ったから、よく遊んでもらっていました。祖父は髪結いの亭主みたいな生活だったので、いつも暇だったんですよ。
だから親父は逆に真面目なサラリーマンになったんだと思います。親父は近郊の山登りによく連れて行ってくれましたね。
祖父をはじめ、近所のおじいちゃんで、大工仕事の経験があるような人たちが、いろんな道具の使い方を教えてくれて、自然のなかで何かを作ったり遊びを発明するやり方を教えてくれたのをよく覚えています。
遊びなんて、あらかじめわかっていることを繰り返してもちっとも面白くありません。
次々と新しい要素が出てきて、そこに向かって自分の身体で対処する。それを一人じゃなくてみんなで遊ぶからこそ、創意工夫や発明ができて面白い。
現代の子どもたちが熱中している遊びは、最初からルールが決まっている遊びです。テレビゲームやオンラインゲームなど、遊び方が決まっていてデジタル機器からの刺激も強く、たしかに面白いんでしょう。
「ルールのない」学びの場で高齢者ができること
でも本来遊びというのは、ルールは見つけていくもの、仲間のなかで自然に立ち上がっていくものなんです。
とくに社会的な遊び、人と人とがやり取りする面白い遊びは、ルールが決まっていません。だから、遊ぶルールのない未知の場所に子どもを連れ出さないといけない。遊園地に連れていっても、遊ぶものも遊び方も決まっています。そうではなく、なんにもない所に行く。
川辺に行くのでも、草原に行くのでもいい。最初はなにをしたらいいのかわからなくて子どもが戸惑うかもしれないし、つまらないと言うかもしれない。だけど、そのうちに遊ぶことを自ら見つけ出しますよ。
昆虫を捕まえたり、石をひっくり返して生き物を見つけたり、草でなにかを作ったり、平たい石で「水切り」遊びをしたりしてね。そういうときに大人はサジェスチョンを与えることができます。
「もっと平らな石を投げたほうが飛ぶぜ」「ここに面白い虫が隠れているかもしれないよ」「一緒に草相撲やってみる?」とか、楽しいほうに導くことができる。
自然はルールがないからこそ面白い。毎回同じ場所に行っても条件が変わってくるし、自然が身体にそのまま働きかけてくるから、それに応じるだけで子どもにとって最高の遊びになるんです。自ら発想して、創造的な作業をしていく面白さを子どもたち自身で発見する機会を作るのです。
そんな学びの場で高齢者が果たせる役割は大きい。自然への対処の仕方を知っていますし、とくに戦後の焼け野原からレジリエンス(回復する力)の精神を発揮して、ゼロから立ち上げて行った世代は、ルールがないところで、どうやって変化に対応し、生き延びたらいいのか本能的な知恵をもっています。想定外のことや困難なことが発生しても、そこで諦めずに動く大切さも身体で知っている。
狩猟採集民的な学び場を地域で立ち上げ、高齢者たちが積極的にかかわっていくことで、関係人口が生まれる起点にしていく―そこにこそ日本の活路があるのではないでしょうか。
「ふつうの学校をつくる」プロジェクトが立ち上がり、廃校になった小学校をリノベーションして私立の学校をつくる試みが進行しています。昭和の学校をイメージしていると言います。「学校は、地域という大きな生態系の一部であり、ハブである」という視点から、「学びもその土地ならではの豊かな風土に根付いた、顔の見える小さな関係のなかで紡ぎなおす」ことを掲げています。食材も地元のネットワークを駆使して新鮮なものを使い、豊かな食事を提供します。しかも学校の裏にはホタルが群舞する森もある。私が子どものころの「ふつうの」小学校のまわりでは、道で遊べて、山や森に行って子どもたちが自由に遊べたものでした。このプロジェクトは2026年の開校を目指しているそうですが、地域と密接に結びついたこうした学びの場を再生する意義は大きいと言えるでしょう。確かに地域と結びついた学びの場の再生は求められていることではないでしょうか。学びの場を一次拠点にして、その考えに共感した子育て世代の人たちが集まってくれば、過疎は消えます。子どもがくれば親たちも来て、さまざまな店が開き、協働する活動も生まれ、さまざまな産業も活性化する。教育の場を一つの資産にしながら、子どもを中心にさまざまな人を巻き込んでいくのです。納得できますね。「予測できない事態にどう対処するか」を実践のなかで教えていくことでした。子どもたちに自分で何かに対処する機会を与えることが重要で、そもそも自然は(とりわけ熱帯雨林は)、既存の知識がそれほど役に立つわけではない。自然は同じことは決して繰り返さないので、新しい予想もしなかったような変化が目の前で起こったときに適切に対処する力が必要になってくるわけです。最適解でなくていいから、ちょっと間違えてもいいから、まずは自分が死なないように生き残れる対処をしないといけない。予測できない事態にどう対処するか、子どもたちに対処する機会を与えることは大変重要でしょう。絶え間なく変化する存在である自然に適切に対処していくには、「直感力」を磨くことが不可欠です。それこそ学びの場で鍛える必要がある。日本人は元々森の民でした。あらゆるものが隠されている森のなかでは、見えないものを感じとる能力が必要で、突然目の前に訪れた事態に咄嗟に直感的に対処する力をはぐくんできたのです。子どもたちにとって自然の中で学ぶことが大事なのですね。みんなで一斉に同じことを教えられる従来のスタイルでは、知識で対処できることがどんどん少なくなる時代において、あまりためにならないかもしれません。既存の知のフレームワークにはない未知に対して、適切に対処していく力を身につける―つまり狩猟採集民的な学びのモデルこそ、現代の教育に真に必要なのです。日々変化する自然や動物を相手に瞬時に適応していく直感力を磨くことが、人間の本来的な学びです。知識をそのまま伝えるのではなく、経験知を応用可能な「知恵」に変えつつ、まだ見ぬ新しいことを予感しながら、一緒に考えて、一緒に企画し、子どもが自分のできることに目覚めていくような教育のあり方です。集団教育から得られることは多くないかもしれません。一緒に考え、一緒に企画して子ども自身が自分のできることに目覚めていくような教育が大事ですね。本来遊びというのは、ルールは見つけていくもの、仲間のなかで自然に立ち上がっていくものなんです。とくに社会的な遊び、人と人とがやり取りする面白い遊びは、ルールが決まっていません。だから、遊ぶルールのない未知の場所に子どもを連れ出さないといけない。遊園地に連れていっても、遊ぶものも遊び方も決まっています。そうではなく、なんにもない所に行く。川辺に行くのでも、草原に行くのでもいい。最初はなにをしたらいいのかわからなくて子どもが戸惑うかもしれないし、つまらないと言うかもしれない。だけど、そのうちに遊ぶことを自ら見つけ出しますよ。昆虫を捕まえたり、石をひっくり返して生き物を見つけたり、草でなにかを作ったり、平たい石で「水切り」遊びをしたりしてね。そういうときに大人はサジェスチョンを与えることができます。「もっと平らな石を投げたほうが飛ぶぜ」「ここに面白い虫が隠れているかもしれないよ」「一緒に草相撲やってみる?」とか、楽しいほうに導くことができる。自然はルールがないからこそ面白い。毎回同じ場所に行っても条件が変わってくるし、自然が身体にそのまま働きかけてくるから、それに応じるだけで子どもにとって最高の遊びになるんです。自ら発想して、創造的な作業をしていく面白さを子どもたち自身で発見する機会を作るのです。その通りではないでしょうか。
学校を起点に「関係人口」を増やすユニークな試み
少子高齢化が進んで地方が過疎化する日本において、関係人口をいかに増やすかは喫緊に取り組むべき課題です。
でも具体的にどうやって、関わる人々を地域に迎え入れ、地縁ネットワークに参加してもらうのか?
具体的にイメージしづらい方もいると思うので、一つ参考になる事例からお伝えしましょう。
先日、鹿児島の姶良(あいら)市という場所に3日間行ってきました。そこでは「ふつうの学校をつくる」プロジェクトが立ち上がり、廃校になった小学校をリノベーションして私立の学校をつくる試みが進行しています。
「ふつうの学校ってなんですか?」と関係者に訊いたら、昭和の学校をイメージしていると言います。「学校は、地域という大きな生態系の一部であり、ハブである」という視点から、「学びもその土地ならではの豊かな風土に根付いた、顔の見える小さな関係のなかで紡ぎなおす」ことを掲げています。食材も地元のネットワークを駆使して新鮮なものを使い、豊かな食事を提供します。しかも学校の裏にはホタルが群舞する森もある。
私が子どものころの「ふつうの」小学校のまわりでは、道で遊べて、山や森に行って子どもたちが自由に遊べたものでした。このプロジェクトは2026年の開校を目指しているそうですが、地域と密接に結びついたこうした学びの場を再生する意義は大きいと言えるでしょう。
いまこうした試みが全国各地で起こっていて、私はあちこち見て回っているのですが、学びの場を一次拠点にして、その考えに共感した子育て世代の人たちが集まってくれば、過疎は消えます。子どもがくれば親たちも来て、さまざまな店が開き、協働する活動も生まれ、さまざまな産業も活性化する。
教育の場を一つの資産にしながら、子どもを中心にさまざまな人を巻き込んでいくのです。
高齢者と子どもをかかわらせようと、ただ老人ホームと保育園をくっつけている施設がありますが、だいぶズレている愚かな施策だと思います。異なる世代のあいだをつなぐのは「自然」なんです。自然を媒介にして両者をつながないと、ただ物理的に一緒にして交流会だなんだといってもつながるわけがない。
なぜなら、自然であったり、地域のお祭りであったり、日々変化する複雑なものを媒介にしないと、子どもの知的好奇心の発露としての学びの場は発動することはないし、互いの協働作業も生まれないからです。
予測できない事態にどう対処するか?
それは一体どういうことなのか? ここであらためて学びの本質について考えてみましょう。
人類は、700万年間のほとんどを狩猟採集生活で過ごしてきました。この原初の生活での学びは、大人がこれを教えたいという計画を持っているわけではなく、「予測できない事態にどう対処するか」を実践のなかで教えていくことでした。
子どもたちに自分で何かに対処する機会を与えることが重要で、そもそも自然は(とりわけ熱帯雨林は)、既存の知識がそれほど役に立つわけではない。自然は同じことは決して繰り返さないので、新しい予想もしなかったような変化が目の前で起こったときに適切に対処する力が必要になってくるわけです。
最適解でなくていいから、ちょっと間違えてもいいから、まずは自分が死なないように生き残れる対処をしないといけない。
たとえば、ゾウの機嫌を損ねたらすぐに襲われて絶命しますし、カバなんかもっと凶暴で危ない。水中でワニに嚙まれたらひとたまりもないし、まわりには毒蛇や毒虫だってうようよいる。自然界では、そういう危険なものに思いがけず出会うことが多々あるわけです。
ジャングルのなかは、視界をさえぎるいろいろなものがあって見通しが悪い。奥に隠れているものを察知しながら、その場その場で適切な行動を取っていかなければなりません。あらかじめ計画をたてても無駄になるかもしれず、目まぐるしく移り変わる状況に柔軟に適応する必要があります。
西田幾多郎のいう「見えないものを感じとる力」
絶え間なく変化する存在である自然に適切に対処していくには、「直感力」を磨くことが不可欠です。それこそ学びの場で鍛える必要がある。
京都大学の哲学者・西田幾多郎が「幾千年来我らの祖先をはぐくみ来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云ったようなものが潜んでいる」(『働くものから見るものへ』1927年)と記しています。
日本人は元々森の民でした。あらゆるものが隠されている森のなかでは、見えないものを感じとる能力が必要で、突然目の前に訪れた事態に咄嗟に直感的に対処する力をはぐくんできたのです。
イスラム文化圏のアラブや、キリスト教が生まれたユダヤの地のように草原や砂漠の環境では見通しがいいので、脅威があっても安全な距離を保っていれば何事も起こりません。見えている世界のなかで、相手が次にどう動くのかを推察すれば事前に対処ができる世界と、森は対照的です。
いずれにせよ、生き残るために「直感力」や「想像力」を鍛える学びが、人類の進化の99%を通じて行われてきたわけです。
狩猟採集民的な学びのモデルの復権を
いまの私たちの学びのスタイルは、「あらかじめ決められたこと」を知識として学ぶことが中心です。農耕社会のはじまり以降、計画性や管理の必要性が高まり、近代国家が成立する過程でも、同じ言語で同じ価値観をもつ工業社会に順応した人材を育てることが求められてきました。
でもこれからは、みんなで一斉に同じことを教えられる従来のスタイルでは、知識で対処できることがどんどん少なくなる時代において、あまりためにならないかもしれません。
既存の知のフレームワークにはない未知に対して、適切に対処していく力を身につける―つまり狩猟採集民的な学びのモデルこそ、現代の教育に真に必要なのです。
日々変化する自然や動物を相手に瞬時に適応していく直感力を磨くことが、人間の本来的な学びです。
知識をそのまま伝えるのではなく、経験知を応用可能な「知恵」に変えつつ、まだ見ぬ新しいことを予感しながら、一緒に考えて、一緒に企画し、子どもが自分のできることに目覚めていくような教育のあり方です。
高齢者は経験知を豊富にもっています。たっぷりと時間があって、生産性を求められない自由な身です。だから、子どもたちと一緒に、未知なものに対して、どういう風に対処したらいいのかを考えることができます。
私の幼少期を振り返ってみても、東京郊外の町の自然のなかで虫取りをしたり雑木林を探検しては、夢中になって『十五少年漂流記』や『ロビンソン・クルーソー』の真似事をしていました。親父よりも祖父のほうが気が合ったから、よく遊んでもらっていました。祖父は髪結いの亭主みたいな生活だったので、いつも暇だったんですよ。
だから親父は逆に真面目なサラリーマンになったんだと思います。親父は近郊の山登りによく連れて行ってくれましたね。
祖父をはじめ、近所のおじいちゃんで、大工仕事の経験があるような人たちが、いろんな道具の使い方を教えてくれて、自然のなかで何かを作ったり遊びを発明するやり方を教えてくれたのをよく覚えています。
遊びなんて、あらかじめわかっていることを繰り返してもちっとも面白くありません。
次々と新しい要素が出てきて、そこに向かって自分の身体で対処する。それを一人じゃなくてみんなで遊ぶからこそ、創意工夫や発明ができて面白い。
現代の子どもたちが熱中している遊びは、最初からルールが決まっている遊びです。テレビゲームやオンラインゲームなど、遊び方が決まっていてデジタル機器からの刺激も強く、たしかに面白いんでしょう。
「ルールのない」学びの場で高齢者ができること
でも本来遊びというのは、ルールは見つけていくもの、仲間のなかで自然に立ち上がっていくものなんです。
とくに社会的な遊び、人と人とがやり取りする面白い遊びは、ルールが決まっていません。だから、遊ぶルールのない未知の場所に子どもを連れ出さないといけない。遊園地に連れていっても、遊ぶものも遊び方も決まっています。そうではなく、なんにもない所に行く。
川辺に行くのでも、草原に行くのでもいい。最初はなにをしたらいいのかわからなくて子どもが戸惑うかもしれないし、つまらないと言うかもしれない。だけど、そのうちに遊ぶことを自ら見つけ出しますよ。
昆虫を捕まえたり、石をひっくり返して生き物を見つけたり、草でなにかを作ったり、平たい石で「水切り」遊びをしたりしてね。そういうときに大人はサジェスチョンを与えることができます。
「もっと平らな石を投げたほうが飛ぶぜ」「ここに面白い虫が隠れているかもしれないよ」「一緒に草相撲やってみる?」とか、楽しいほうに導くことができる。
自然はルールがないからこそ面白い。毎回同じ場所に行っても条件が変わってくるし、自然が身体にそのまま働きかけてくるから、それに応じるだけで子どもにとって最高の遊びになるんです。自ら発想して、創造的な作業をしていく面白さを子どもたち自身で発見する機会を作るのです。
そんな学びの場で高齢者が果たせる役割は大きい。自然への対処の仕方を知っていますし、とくに戦後の焼け野原からレジリエンス(回復する力)の精神を発揮して、ゼロから立ち上げて行った世代は、ルールがないところで、どうやって変化に対応し、生き延びたらいいのか本能的な知恵をもっています。想定外のことや困難なことが発生しても、そこで諦めずに動く大切さも身体で知っている。
狩猟採集民的な学び場を地域で立ち上げ、高齢者たちが積極的にかかわっていくことで、関係人口が生まれる起点にしていく―そこにこそ日本の活路があるのではないでしょうか。
「ふつうの学校をつくる」プロジェクトが立ち上がり、廃校になった小学校をリノベーションして私立の学校をつくる試みが進行しています。昭和の学校をイメージしていると言います。「学校は、地域という大きな生態系の一部であり、ハブである」という視点から、「学びもその土地ならではの豊かな風土に根付いた、顔の見える小さな関係のなかで紡ぎなおす」ことを掲げています。食材も地元のネットワークを駆使して新鮮なものを使い、豊かな食事を提供します。しかも学校の裏にはホタルが群舞する森もある。私が子どものころの「ふつうの」小学校のまわりでは、道で遊べて、山や森に行って子どもたちが自由に遊べたものでした。このプロジェクトは2026年の開校を目指しているそうですが、地域と密接に結びついたこうした学びの場を再生する意義は大きいと言えるでしょう。確かに地域と結びついた学びの場の再生は求められていることではないでしょうか。学びの場を一次拠点にして、その考えに共感した子育て世代の人たちが集まってくれば、過疎は消えます。子どもがくれば親たちも来て、さまざまな店が開き、協働する活動も生まれ、さまざまな産業も活性化する。教育の場を一つの資産にしながら、子どもを中心にさまざまな人を巻き込んでいくのです。納得できますね。「予測できない事態にどう対処するか」を実践のなかで教えていくことでした。子どもたちに自分で何かに対処する機会を与えることが重要で、そもそも自然は(とりわけ熱帯雨林は)、既存の知識がそれほど役に立つわけではない。自然は同じことは決して繰り返さないので、新しい予想もしなかったような変化が目の前で起こったときに適切に対処する力が必要になってくるわけです。最適解でなくていいから、ちょっと間違えてもいいから、まずは自分が死なないように生き残れる対処をしないといけない。予測できない事態にどう対処するか、子どもたちに対処する機会を与えることは大変重要でしょう。絶え間なく変化する存在である自然に適切に対処していくには、「直感力」を磨くことが不可欠です。それこそ学びの場で鍛える必要がある。日本人は元々森の民でした。あらゆるものが隠されている森のなかでは、見えないものを感じとる能力が必要で、突然目の前に訪れた事態に咄嗟に直感的に対処する力をはぐくんできたのです。子どもたちにとって自然の中で学ぶことが大事なのですね。みんなで一斉に同じことを教えられる従来のスタイルでは、知識で対処できることがどんどん少なくなる時代において、あまりためにならないかもしれません。既存の知のフレームワークにはない未知に対して、適切に対処していく力を身につける―つまり狩猟採集民的な学びのモデルこそ、現代の教育に真に必要なのです。日々変化する自然や動物を相手に瞬時に適応していく直感力を磨くことが、人間の本来的な学びです。知識をそのまま伝えるのではなく、経験知を応用可能な「知恵」に変えつつ、まだ見ぬ新しいことを予感しながら、一緒に考えて、一緒に企画し、子どもが自分のできることに目覚めていくような教育のあり方です。集団教育から得られることは多くないかもしれません。一緒に考え、一緒に企画して子ども自身が自分のできることに目覚めていくような教育が大事ですね。本来遊びというのは、ルールは見つけていくもの、仲間のなかで自然に立ち上がっていくものなんです。とくに社会的な遊び、人と人とがやり取りする面白い遊びは、ルールが決まっていません。だから、遊ぶルールのない未知の場所に子どもを連れ出さないといけない。遊園地に連れていっても、遊ぶものも遊び方も決まっています。そうではなく、なんにもない所に行く。川辺に行くのでも、草原に行くのでもいい。最初はなにをしたらいいのかわからなくて子どもが戸惑うかもしれないし、つまらないと言うかもしれない。だけど、そのうちに遊ぶことを自ら見つけ出しますよ。昆虫を捕まえたり、石をひっくり返して生き物を見つけたり、草でなにかを作ったり、平たい石で「水切り」遊びをしたりしてね。そういうときに大人はサジェスチョンを与えることができます。「もっと平らな石を投げたほうが飛ぶぜ」「ここに面白い虫が隠れているかもしれないよ」「一緒に草相撲やってみる?」とか、楽しいほうに導くことができる。自然はルールがないからこそ面白い。毎回同じ場所に行っても条件が変わってくるし、自然が身体にそのまま働きかけてくるから、それに応じるだけで子どもにとって最高の遊びになるんです。自ら発想して、創造的な作業をしていく面白さを子どもたち自身で発見する機会を作るのです。その通りではないでしょうか。



