人生を楽にするケアしケアされる関係性をいかにつくるかということは大事ですね[2025年09月26日(Fri)]
JBpress2025年5月23日付け「今の能力主義社会では勝者も敗者も共倒れする、人生を楽にするケアしケアされる関係性をいかにつくるか」から、私たちはメリトクラシー(能力主義)社会の中で生きている。しかし、私たちの能力は正しく測られているのだろうか。今の能力主義社会の先に、希望ある未来が待っているのだろうか。『能力主義をケアでほぐす』(晶文社)を上梓した兵庫県立大学環境人間学部教授(専門は福祉社会学)の竹端寛氏に聞いた。
本書で問題にされている「能力主義」とはどのようなものですか?
竹端寛氏(以下、竹端):「東大、京大に行けば一流である」や「Fランク大学では意味がない」といった感覚で、能力を偏差値という物差しで評価するのが能力主義の最たるものです。
そのような典型的な学歴思考は少しずつ減ってきていると言われますが、実際には就職活動で有名大学の卒業生は早期選考から採用が決まります。学校の勉強という一元的に評価できるものでその人の評価を決めてしまうことを、この本の中で能力主義と呼んでいます。
学校の5科目の勉強とテストが評価のすべてなのです。しかしそれは、社会が第三次産業化されているから、そのような評価になっているだけのことなのです。
コミュ力がなくても樹木の心が読める木こりや田んぼを上手に管理できる農家、腕利きの船乗り、そのような人たちも本当はたくさんいるはずなのに、そうした能力は測定不能とされて評価されません。
あくまで学校の勉強という、極めて矮小化されたところで評価を与え、優劣を付ける議論をしている。能力の測り方があまりにも限定的なのです。
なぜそうした限定的な評価の方法になったのだと思われますか?
竹端:これは、学校教育やテストがどのように始まったのかという部分に関わります。寺小屋で学んでいた江戸時代までは、読み書きそろばんが主要な学びの内容でした。
江戸時代の鎖国が終わった後、日本は欧米と競い、欧米の植民地にされないように、最低限の知識を詰め込むための学校というシステムを作りました。その中で、能力を評価する基準が教科ごとのテストでした。結果を測りやすい指標で評価すれば、生徒に序列を付けることができますから。
学力とは違い、さまざまなことに気がついて配慮ができる能力や、さりげなく人助けができるという能力は評価することが難しい。その点「国語は何点、算数は何点」という評価は測りやすい。測りやすいものを測るのが能力主義の原点だと思います。
情報処理能力が高い。上手に話ができる。そういう能力は羨ましがられがちですが、それとは違う領域や場面で発揮される能力も無数にあります。ごはんを美味しく作ることができる、洗濯物が上手に畳める、泣いている人の隣に来てすっとハンカチを渡すことができる。そういうことも、本来は能力として評価されるべきだと思います。
本書では、アメリカの政治学者マイケル・サンデル氏の能力と運に関する議論を参照しています。
サンデル氏の議論を通して気づいたこと
竹端:サンデル氏の本を読むまでは、「自分がのし上がることができたのは自分の能力だ」と思っていた節が私にもありました。確かに、自分が努力してきた部分はありますが、その努力をなぜ自分ができたのかと考えてみると、そこにはさまざまな人や環境の中の関係性によって育まれた運があります。
「運だけ」という言い方は心許ないですが、「関係性が豊かで、いろいろな方に支えてもらった結果、実力を発揮できる環境が与えられた」という言い方がより正確だと思います。
私は福祉社会学を専門としているので、ヤングケアラーや精神障害の問題についてあれこれ考えてきました。
自分の母親が精神疾患を患っていて、毎日ほとんど寝ていて、親の代わりに自分が家事をしなければならないという状況で夜中まで勉強ができたかといえば、恐らく無理ですよね。あるいは、家庭が困窮していて、学生時代からずっと働かなければならなかったら、大学入試にエネルギーを注ぐことはできなかったと思います。
「努力ができるのは能力が高いから」と考えられがちですが、その努力を発揮できる環境が持てたのは運なのだと気づいたときに、自分はとても不遜な考え方をしてきたのだと気づかされました。
SNSなどでよく見かける「親ガチャ」という言葉については、どうお考えですか?
竹端:確かにどこの親のもとに生まれるかは選べません。ただ、この議論は多くの場合、経済的に豊かな家庭に生まれるかどうかという話になりがちです。
でも、お金持ちの家に生まれても、夫婦関係が冷え切っていて、父は家に帰らず抑圧的で、母は過剰な教育ママになっていて、子どもに勉強しろと怒鳴り散らすような環境よりは、貧困に近い経済状態でも、家族が仲良くわいわい暮らしているほうがよほど幸せかもしれません。経済状況の問題だけで親ガチャ論は語れないというのが前提です。
1億総中流と言われた昭和後期の時代は、子どもは勉強して自分の人生をより良いものにできる状況が続いてきました。努力によって状況を良くしていけるのは、能力主義社会のポジティブな側面です。ただ、この部分がだいぶ崩れてきています。
現在では、一流大学に行く子どもの親の平均収入は相対的にかなり高いという時代にますますなってきました。どこの家庭に生まれるかで、子どものパフォーマンスに大きな差が出るのは問題です。
能力を伸ばす環境をいかに確保するかには無数の課題がありますね。
自分の居場所はどのように見つければいい?
竹端:本書の中で、教育社会学者の桜井智恵子氏が議論してきた「関係論的能力主義」を取り上げています。桜井氏の論ずる重要なポイントは、良い関係性が育まれれば、その中で能力が伸びていくということです。
家族の中で良い関係に恵まれなくても、たとえば学校で良い関係に恵まれたら能力を発揮できます。家でも、塾でも、ユースセンターでも、どこかで自分を承認してもらえて、「自分がここにいてもいい」と感じることのできる居場所の中で自己肯定感が育まれれば能力を発揮できるようになります。
私は、能力主義そのものは否定できないものだと思いますし、何らかの形で能力に関する評価は常にあると思います。ただ、評価軸が1つに限定されるのは良くない。加えて、ここでは活躍できなくても、別の場所に行ったら活躍できるという多様な場があったほうがいいと思います。
しばしば「あいつは使えない」「仕事ができない」という声を耳にしますが、それは、その場所でその人が上手く能力を発揮できないということに過ぎません。別の部署や別の仕事など、異なる関係性があれば、その人の魅力はより発揮されやすい。能力にふさわしい場に移ることができるマルチレイヤー化が求められていると思います。
自分の居場所はどのように見つけたらいいのでしょうか?
竹端:本書でも引用しましたが、かつてヤングケアラーだったある方が「家族制度なんて実質崩壊しているのに、みんな家族にケアを任せようとしている」と言っています。これはとても重要なポイントです。
日本の家族制度は、ぎりぎりまで家族に丸抱えさせておいて、限界を超えたら今度は施設に丸投げというシステムです。このような家族でなんとかするというシステムは、すでにかなり限界を迎えています。
近所の人が自分のやることを見張っていたり、陰口を言ったりするような煩わしさが嫌で、地方から出てきた人たちが大都市に移り住んだのが団塊の世代です。その子どもである私たちからすると、共同体というものが崩壊しているところから始まっています。
家族丸抱えの時代に戻るのは難しいにもかかわらず、家族以外のつながりをいかに豊かに構築するかという部分では、現代はまだ知恵を出しきれていません。それをこれからどうしていくかが、とても問われていると思います。
大学で1年生向けの福祉の授業をやっていますが、この分野は学生の間であまり人気がありません。理由は多くの生徒が「福祉やケアは自分には関係のないこと」だと思っているからです。実際は、オシメを変えてもらい、食事を作ってもらうことから始まって、彼女ら彼らは膨大なケアを受けて18歳になっているのに。
「福祉」というと、「他人の世話をする」というイメージに限定されていますが、人はケアをしたりされたりして共に生きています。「どの授業が楽か教えて」という大学での情報交換や、「授業サボるから、後からノート貸してね」というやり取りも、実はケアの関係です。
職場やバイト先、習い事など、さまざまなところで出会う人と、少し踏み込んだケアしケアされる仲を作っていくことが支え合う共同体を作るためには重要です。1カ所に頼るとお互いにしんどいので、依存先を増やしながら関係を構築していくことが大切です。
子育てをしていると、あちこちにママ友・パパ友の関係ができます。その中では「こういう時はどうする?」という情報交換がたくさん起こります。そういうケアし合う関係を作っていくことが、シングル家庭であろうが、同性愛者であろうが、親の介護をしている方であろうが、大事だと思います。
「生きるということはままならぬものに巻き込まれること」
竹端さんが考える「ケア」というのはどのようなものでしょうか?
竹端:自己完結しない世界のことです。遅くまで頑張って勉強したからテストでいい点数が取れたというように、能力主義的なものは自己完結できますが、ケアはその真逆です。自分が仕事を必死にやっていても、目の前で子どもが鼻血を出したら、その対応をしなければならなくなります。
子どもが吐いたら、出勤の直前でも、どんなに忙しくても、掃除をしたり病院に連れていったりしなければなりません。ですから、ケアをするということは、計画性や能動性とは真逆で、偶然性に左右される受動的なものです。
そのような環境や状況を否定することが、能力主義的で一元的な価値観を重んじて、それ以外を軽んじているということなのです。
本当はすべての人が「ままならぬもの」に巻き込まれているはずなのに、あたかもそれがないかのように、あるいは、それを外部化して誰かに任せたり押し付けたり、お金を払ってサービスの中で処理できるなどという幻想の中で生きているから、「ままならぬものに巻き込まれたくない」と考えるようになるのです。
夫婦関係もままならぬものですが、ままならぬものを除外しようとしたら、夫婦関係を終えるしかなくなる。生きるということはままならぬものに巻き込まれるものなのだと、子育てをしながらつくづく感じています。
なぜ「ままならぬもの」に巻き込まれているという自覚が抜け落ちてしまうのでしょうか。 竹端:冷たい言い方をすると、カネにならないからです。ままならないものは外部に預けて、コントロール可能なものに集中することで利益の最大化を目指すのが、とくに新自由主義的な価値観の前提にあります。
効率的で合理的に仕事だけをしようと思ったら、ままならぬものを切り捨てることが、最もコスパがいい。でも、それは子どもや老人など、ケアが必要な人たちを切り捨てる論理であり、あなたや私も含めたすべての人が持つ「弱さ」を切り捨てる論理です。それは実に息苦しい論理です。
そのようにして切り捨てがちな「弱さ」と向き合う価値をどう再発見できるかが、今問われています。それが、ケアしケアされる関係性を豊かにする上での鍵だと、私は思っています。
今の能力主義社会の先に、希望ある未来が待っているのだろうか。私も疑問に思います。「東大、京大に行けば一流である」や「Fランク大学では意味がない」といった感覚で、能力を偏差値という物差しで評価するのが能力主義の最たるものです。そのような典型的な学歴思考は少しずつ減ってきていると言われますが、実際には就職活動で有名大学の卒業生は早期選考から採用が決まります。学校の勉強という一元的に評価できるものでその人の評価を決めてしまうことを、この本の中で能力主義と呼んでいます。学校の5科目の勉強とテストが評価のすべてなのです。しかしそれは、社会が第三次産業化されているから、そのような評価になっているだけのことなのです。コミュ力がなくても樹木の心が読める木こりや田んぼを上手に管理できる農家、腕利きの船乗り、そのような人たちも本当はたくさんいるはずなのに、そうした能力は測定不能とされて評価されません。あくまで学校の勉強という、極めて矮小化されたところで評価を与え、優劣を付ける議論をしている。能力の測り方があまりにも限定的なのです。学歴と結びついた能力主義のあり方がどうなのか考える必要があるでしょう。「運だけ」という言い方は心許ないですが、「関係性が豊かで、いろいろな方に支えてもらった結果、実力を発揮できる環境が与えられた」という言い方がより正確だと思います。「努力ができるのは能力が高いから」と考えられがちですが、その努力を発揮できる環境が持てたのは運なのだと気づいたときに、自分はとても不遜な考え方をしてきたのだと気づかされました。確かにそうですね。家でも、塾でも、ユースセンターでも、どこかで自分を承認してもらえて、「自分がここにいてもいい」と感じることのできる居場所の中で自己肯定感が育まれれば能力を発揮できるようになります。能力主義そのものは否定できないものだと思いますし、何らかの形で能力に関する評価は常にあると思います。ただ、評価軸が1つに限定されるのは良くない。加えて、ここでは活躍できなくても、別の場所に行ったら活躍できるという多様な場があったほうがいいと思います。しばしば「あいつは使えない」「仕事ができない」という声を耳にしますが、それは、その場所でその人が上手く能力を発揮できないということに過ぎません。別の部署や別の仕事など、異なる関係性があれば、その人の魅力はより発揮されやすい。能力にふさわしい場に移ることができるマルチレイヤー化が求められていると思います。その通りですね。職場やバイト先、習い事など、さまざまなところで出会う人と、少し踏み込んだケアしケアされる仲を作っていくことが支え合う共同体を作るためには重要です。1カ所に頼るとお互いにしんどいので、依存先を増やしながら関係を構築していくことが大切です。効率的で合理的に仕事だけをしようと思ったら、ままならぬものを切り捨てることが、最もコスパがいい。でも、それは子どもや老人など、ケアが必要な人たちを切り捨てる論理であり、あなたや私も含めたすべての人が持つ「弱さ」を切り捨てる論理です。それは実に息苦しい論理です。そのようにして切り捨てがちな「弱さ」と向き合う価値をどう再発見できるかが、今問われています。それが、ケアしケアされる関係性を豊かにする上での鍵だ。確かに一人ひとりが生き易い社会とはケアしケアされる関係性を豊かにすることですね。
本書で問題にされている「能力主義」とはどのようなものですか?
竹端寛氏(以下、竹端):「東大、京大に行けば一流である」や「Fランク大学では意味がない」といった感覚で、能力を偏差値という物差しで評価するのが能力主義の最たるものです。
そのような典型的な学歴思考は少しずつ減ってきていると言われますが、実際には就職活動で有名大学の卒業生は早期選考から採用が決まります。学校の勉強という一元的に評価できるものでその人の評価を決めてしまうことを、この本の中で能力主義と呼んでいます。
学校の5科目の勉強とテストが評価のすべてなのです。しかしそれは、社会が第三次産業化されているから、そのような評価になっているだけのことなのです。
コミュ力がなくても樹木の心が読める木こりや田んぼを上手に管理できる農家、腕利きの船乗り、そのような人たちも本当はたくさんいるはずなのに、そうした能力は測定不能とされて評価されません。
あくまで学校の勉強という、極めて矮小化されたところで評価を与え、優劣を付ける議論をしている。能力の測り方があまりにも限定的なのです。
なぜそうした限定的な評価の方法になったのだと思われますか?
竹端:これは、学校教育やテストがどのように始まったのかという部分に関わります。寺小屋で学んでいた江戸時代までは、読み書きそろばんが主要な学びの内容でした。
江戸時代の鎖国が終わった後、日本は欧米と競い、欧米の植民地にされないように、最低限の知識を詰め込むための学校というシステムを作りました。その中で、能力を評価する基準が教科ごとのテストでした。結果を測りやすい指標で評価すれば、生徒に序列を付けることができますから。
学力とは違い、さまざまなことに気がついて配慮ができる能力や、さりげなく人助けができるという能力は評価することが難しい。その点「国語は何点、算数は何点」という評価は測りやすい。測りやすいものを測るのが能力主義の原点だと思います。
情報処理能力が高い。上手に話ができる。そういう能力は羨ましがられがちですが、それとは違う領域や場面で発揮される能力も無数にあります。ごはんを美味しく作ることができる、洗濯物が上手に畳める、泣いている人の隣に来てすっとハンカチを渡すことができる。そういうことも、本来は能力として評価されるべきだと思います。
本書では、アメリカの政治学者マイケル・サンデル氏の能力と運に関する議論を参照しています。
サンデル氏の議論を通して気づいたこと
竹端:サンデル氏の本を読むまでは、「自分がのし上がることができたのは自分の能力だ」と思っていた節が私にもありました。確かに、自分が努力してきた部分はありますが、その努力をなぜ自分ができたのかと考えてみると、そこにはさまざまな人や環境の中の関係性によって育まれた運があります。
「運だけ」という言い方は心許ないですが、「関係性が豊かで、いろいろな方に支えてもらった結果、実力を発揮できる環境が与えられた」という言い方がより正確だと思います。
私は福祉社会学を専門としているので、ヤングケアラーや精神障害の問題についてあれこれ考えてきました。
自分の母親が精神疾患を患っていて、毎日ほとんど寝ていて、親の代わりに自分が家事をしなければならないという状況で夜中まで勉強ができたかといえば、恐らく無理ですよね。あるいは、家庭が困窮していて、学生時代からずっと働かなければならなかったら、大学入試にエネルギーを注ぐことはできなかったと思います。
「努力ができるのは能力が高いから」と考えられがちですが、その努力を発揮できる環境が持てたのは運なのだと気づいたときに、自分はとても不遜な考え方をしてきたのだと気づかされました。
SNSなどでよく見かける「親ガチャ」という言葉については、どうお考えですか?
竹端:確かにどこの親のもとに生まれるかは選べません。ただ、この議論は多くの場合、経済的に豊かな家庭に生まれるかどうかという話になりがちです。
でも、お金持ちの家に生まれても、夫婦関係が冷え切っていて、父は家に帰らず抑圧的で、母は過剰な教育ママになっていて、子どもに勉強しろと怒鳴り散らすような環境よりは、貧困に近い経済状態でも、家族が仲良くわいわい暮らしているほうがよほど幸せかもしれません。経済状況の問題だけで親ガチャ論は語れないというのが前提です。
1億総中流と言われた昭和後期の時代は、子どもは勉強して自分の人生をより良いものにできる状況が続いてきました。努力によって状況を良くしていけるのは、能力主義社会のポジティブな側面です。ただ、この部分がだいぶ崩れてきています。
現在では、一流大学に行く子どもの親の平均収入は相対的にかなり高いという時代にますますなってきました。どこの家庭に生まれるかで、子どものパフォーマンスに大きな差が出るのは問題です。
能力を伸ばす環境をいかに確保するかには無数の課題がありますね。
自分の居場所はどのように見つければいい?
竹端:本書の中で、教育社会学者の桜井智恵子氏が議論してきた「関係論的能力主義」を取り上げています。桜井氏の論ずる重要なポイントは、良い関係性が育まれれば、その中で能力が伸びていくということです。
家族の中で良い関係に恵まれなくても、たとえば学校で良い関係に恵まれたら能力を発揮できます。家でも、塾でも、ユースセンターでも、どこかで自分を承認してもらえて、「自分がここにいてもいい」と感じることのできる居場所の中で自己肯定感が育まれれば能力を発揮できるようになります。
私は、能力主義そのものは否定できないものだと思いますし、何らかの形で能力に関する評価は常にあると思います。ただ、評価軸が1つに限定されるのは良くない。加えて、ここでは活躍できなくても、別の場所に行ったら活躍できるという多様な場があったほうがいいと思います。
しばしば「あいつは使えない」「仕事ができない」という声を耳にしますが、それは、その場所でその人が上手く能力を発揮できないということに過ぎません。別の部署や別の仕事など、異なる関係性があれば、その人の魅力はより発揮されやすい。能力にふさわしい場に移ることができるマルチレイヤー化が求められていると思います。
自分の居場所はどのように見つけたらいいのでしょうか?
竹端:本書でも引用しましたが、かつてヤングケアラーだったある方が「家族制度なんて実質崩壊しているのに、みんな家族にケアを任せようとしている」と言っています。これはとても重要なポイントです。
日本の家族制度は、ぎりぎりまで家族に丸抱えさせておいて、限界を超えたら今度は施設に丸投げというシステムです。このような家族でなんとかするというシステムは、すでにかなり限界を迎えています。
近所の人が自分のやることを見張っていたり、陰口を言ったりするような煩わしさが嫌で、地方から出てきた人たちが大都市に移り住んだのが団塊の世代です。その子どもである私たちからすると、共同体というものが崩壊しているところから始まっています。
家族丸抱えの時代に戻るのは難しいにもかかわらず、家族以外のつながりをいかに豊かに構築するかという部分では、現代はまだ知恵を出しきれていません。それをこれからどうしていくかが、とても問われていると思います。
大学で1年生向けの福祉の授業をやっていますが、この分野は学生の間であまり人気がありません。理由は多くの生徒が「福祉やケアは自分には関係のないこと」だと思っているからです。実際は、オシメを変えてもらい、食事を作ってもらうことから始まって、彼女ら彼らは膨大なケアを受けて18歳になっているのに。
「福祉」というと、「他人の世話をする」というイメージに限定されていますが、人はケアをしたりされたりして共に生きています。「どの授業が楽か教えて」という大学での情報交換や、「授業サボるから、後からノート貸してね」というやり取りも、実はケアの関係です。
職場やバイト先、習い事など、さまざまなところで出会う人と、少し踏み込んだケアしケアされる仲を作っていくことが支え合う共同体を作るためには重要です。1カ所に頼るとお互いにしんどいので、依存先を増やしながら関係を構築していくことが大切です。
子育てをしていると、あちこちにママ友・パパ友の関係ができます。その中では「こういう時はどうする?」という情報交換がたくさん起こります。そういうケアし合う関係を作っていくことが、シングル家庭であろうが、同性愛者であろうが、親の介護をしている方であろうが、大事だと思います。
「生きるということはままならぬものに巻き込まれること」
竹端さんが考える「ケア」というのはどのようなものでしょうか?
竹端:自己完結しない世界のことです。遅くまで頑張って勉強したからテストでいい点数が取れたというように、能力主義的なものは自己完結できますが、ケアはその真逆です。自分が仕事を必死にやっていても、目の前で子どもが鼻血を出したら、その対応をしなければならなくなります。
子どもが吐いたら、出勤の直前でも、どんなに忙しくても、掃除をしたり病院に連れていったりしなければなりません。ですから、ケアをするということは、計画性や能動性とは真逆で、偶然性に左右される受動的なものです。
そのような環境や状況を否定することが、能力主義的で一元的な価値観を重んじて、それ以外を軽んじているということなのです。
本当はすべての人が「ままならぬもの」に巻き込まれているはずなのに、あたかもそれがないかのように、あるいは、それを外部化して誰かに任せたり押し付けたり、お金を払ってサービスの中で処理できるなどという幻想の中で生きているから、「ままならぬものに巻き込まれたくない」と考えるようになるのです。
夫婦関係もままならぬものですが、ままならぬものを除外しようとしたら、夫婦関係を終えるしかなくなる。生きるということはままならぬものに巻き込まれるものなのだと、子育てをしながらつくづく感じています。
なぜ「ままならぬもの」に巻き込まれているという自覚が抜け落ちてしまうのでしょうか。 竹端:冷たい言い方をすると、カネにならないからです。ままならないものは外部に預けて、コントロール可能なものに集中することで利益の最大化を目指すのが、とくに新自由主義的な価値観の前提にあります。
効率的で合理的に仕事だけをしようと思ったら、ままならぬものを切り捨てることが、最もコスパがいい。でも、それは子どもや老人など、ケアが必要な人たちを切り捨てる論理であり、あなたや私も含めたすべての人が持つ「弱さ」を切り捨てる論理です。それは実に息苦しい論理です。
そのようにして切り捨てがちな「弱さ」と向き合う価値をどう再発見できるかが、今問われています。それが、ケアしケアされる関係性を豊かにする上での鍵だと、私は思っています。
今の能力主義社会の先に、希望ある未来が待っているのだろうか。私も疑問に思います。「東大、京大に行けば一流である」や「Fランク大学では意味がない」といった感覚で、能力を偏差値という物差しで評価するのが能力主義の最たるものです。そのような典型的な学歴思考は少しずつ減ってきていると言われますが、実際には就職活動で有名大学の卒業生は早期選考から採用が決まります。学校の勉強という一元的に評価できるものでその人の評価を決めてしまうことを、この本の中で能力主義と呼んでいます。学校の5科目の勉強とテストが評価のすべてなのです。しかしそれは、社会が第三次産業化されているから、そのような評価になっているだけのことなのです。コミュ力がなくても樹木の心が読める木こりや田んぼを上手に管理できる農家、腕利きの船乗り、そのような人たちも本当はたくさんいるはずなのに、そうした能力は測定不能とされて評価されません。あくまで学校の勉強という、極めて矮小化されたところで評価を与え、優劣を付ける議論をしている。能力の測り方があまりにも限定的なのです。学歴と結びついた能力主義のあり方がどうなのか考える必要があるでしょう。「運だけ」という言い方は心許ないですが、「関係性が豊かで、いろいろな方に支えてもらった結果、実力を発揮できる環境が与えられた」という言い方がより正確だと思います。「努力ができるのは能力が高いから」と考えられがちですが、その努力を発揮できる環境が持てたのは運なのだと気づいたときに、自分はとても不遜な考え方をしてきたのだと気づかされました。確かにそうですね。家でも、塾でも、ユースセンターでも、どこかで自分を承認してもらえて、「自分がここにいてもいい」と感じることのできる居場所の中で自己肯定感が育まれれば能力を発揮できるようになります。能力主義そのものは否定できないものだと思いますし、何らかの形で能力に関する評価は常にあると思います。ただ、評価軸が1つに限定されるのは良くない。加えて、ここでは活躍できなくても、別の場所に行ったら活躍できるという多様な場があったほうがいいと思います。しばしば「あいつは使えない」「仕事ができない」という声を耳にしますが、それは、その場所でその人が上手く能力を発揮できないということに過ぎません。別の部署や別の仕事など、異なる関係性があれば、その人の魅力はより発揮されやすい。能力にふさわしい場に移ることができるマルチレイヤー化が求められていると思います。その通りですね。職場やバイト先、習い事など、さまざまなところで出会う人と、少し踏み込んだケアしケアされる仲を作っていくことが支え合う共同体を作るためには重要です。1カ所に頼るとお互いにしんどいので、依存先を増やしながら関係を構築していくことが大切です。効率的で合理的に仕事だけをしようと思ったら、ままならぬものを切り捨てることが、最もコスパがいい。でも、それは子どもや老人など、ケアが必要な人たちを切り捨てる論理であり、あなたや私も含めたすべての人が持つ「弱さ」を切り捨てる論理です。それは実に息苦しい論理です。そのようにして切り捨てがちな「弱さ」と向き合う価値をどう再発見できるかが、今問われています。それが、ケアしケアされる関係性を豊かにする上での鍵だ。確かに一人ひとりが生き易い社会とはケアしケアされる関係性を豊かにすることですね。



