自由が大切だからといって、銃を持つ人の自由を許すのはどうでしょうか[2025年09月19日(Fri)]
東洋経済オンライン2025年5月21日付け「「自由が大切だからといって、銃を持つ人の自由を許すとどうなるのか?」ノーベル賞経済学者スティグリッツが問い直す」から、自由は人間にとって大切なものだ。しかし、たとえば「銃を持つ人の自由」のせいで失われる命もある。経済活動においても、自由を追求することで、環境汚染などの負の外部性が問題となっている。 ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ジョセフ・E・スティグリッツ氏は、新著『スティグリッツ 資本主義と自由』の中で、アイザイア・バーリンが表現した「オオカミの自由は、往々にしてヒツジにとっての死を意味する」を引用している。果たして自由とは誰のための自由なのか?
束縛のない自由な市場がもたらすものは何なのか?
銃乱射事件は氷山の一角
アメリカでは、大量殺人のニュースが毎日報じられている。2020年が始まってからは1日にほぼ2回の割合である。こうした銃乱射事件は確かに悲惨だが、それによる死亡者数は、毎年銃で死ぬ人の1パーセント余りでしかない。
アメリカには、子どもが学校内に入る際に金属探知機を通り抜けなければならない地域もあれば、学校内で銃乱射事件が発生した場合に備えた訓練を幼稚園のころから始めている地域もある。教会やユダヤ礼拝堂へ行く人々でさえ、射殺されるおそれがないわけではない。アメリカは外国の敵とは交戦状態にないが、国内では激しい戦闘が続いている。
ほかの先進国に比べ、アメリカで銃による死亡者数が多いのには理由がある。銃が多いからだ。人口1人あたりで見ると、アメリカにはイギリスのおよそ30倍もの銃がある。銃による死亡者数はおよそ50倍である。
アメリカではほかのどの国よりもはるかに簡単に、AR15ライフルなどの自動小銃を購入できる。その理由は、最高裁判所が憲法修正第2条の解釈を誤り、憲法は事実上あらゆる拳銃を所有する権利を保障していると判断したからだ。テキサス州など一部の州では、さらに攻撃用武器まで容認している。
最高裁判所の解釈では(テキサス州ではなおさらそうなのだが)、銃を持つ権利が、その結果として殺害されるかもしれない数千もの命より優先されている。銃所有者という一集団の権利が、ほかのほとんどの人々がそれ以上に重要な権利だと見なしている生きる権利の上に置かれている。
アイザイア・バーリンの言葉「オオカミの自由は、往々にしてヒツジにとっての死を意味する」を言い換えれば、こういうことになる。「銃所有者にとっての自由は往々にして、銃乱射事件で殺害される児童や大人にとっての死を意味する」
これは、一部の人々がとる行動がほかの人々にマイナスの影響を与える外部性の一例である。こうした負の外部性がある場合、そのような行動をとる資格を与え、それを権利にまでまつりあげれば、必然的にほかの人々の自由を奪うことになる。
外部性は、私たちの経済や社会に蔓延している。現在ではそれが、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』を執筆した時代よりも、あるいはフリードマンやハイエクが主張していたよりもはるかに重要性を増している。
すでに見てきたように、市場はそれだけでは、外部性が引き起こす経済の歪みを十分に「解決」できない。自由のトレードオフが避けられない以上、どの自由がより重要なのかを反映した原則や実践方法を考え出す必要がある。
至るところに存在する外部性
外部性はどこにでもある。それはこれまでも存在し、重要な役割を果たしてきたのだが、経済や世界の構造に起きつつある変化により、いまではその外部性が中心的な要素になっている。現在の経済政策の重要な問題には、外部性の管理が必ず伴う。それはつまり、有害な(負の)外部性がある場合にはその活動を抑制し、正の外部性がある場合にはその活動を推進する、ということだ。
私たちは、かつてないほど人間が密集した環境で暮らしている。世界の人口は、1950年から2020年までの間に3倍になった。人類史のその短い期間のうちに、世界のGDPはおよそ15倍に増え、人類は地球の限界にまで追い込まれている。
それを示す現象のなかでもっとも重大なのが、人類の存続を脅かす気候変動である。だが、環境外部性はそれだけではない。私たちはみな、大気汚染や水質汚染、有害な廃棄物集積場に悩まされている。
洪水、森林火災、酷暑……このままでいいのか
驚くべきことに人間はいまだに、実際に気候変動が起きているのか、大気中の温室効果ガスが気候変動の主要な原因なのかを議論している。1896年にはすでにスウェーデンの科学者スヴァンテ・アレニウスが、大気中の温室効果ガスが増えれば地球は温暖化するとの予測を発表していたが、そのわずか数十年後には、この偉大な科学的知見が立証された。
私たちは現在、至るところでこの気候変動の影響をまのあたりにしている。
今後数年のうちに、これまで以上にその力を実感することになるのはほぼ間違いない。
気候変動は、地球の温度が数度上がるというだけの話ではない。異常気象が増えるということでもある。旱魃が増え、洪水が増え、ハリケーンが増え、酷暑や厳寒の期間が長くなり、海水面が上昇し、海洋の酸性度が上がり、海の死や森林火災、生命や財産の喪失など、あらゆる悲惨な結果がそれに続く。
注目すべきは、気候変動に関連するコストやリスクがこれだけ明らかであるにもかかわらず、一部の経済学者が、ほとんど何の対処もするべきではないと主張している点である。
ここで最終的な問題となるのが、世代間および世代内の自由(機会集合)のトレードオフである。現世代が環境を汚染するのを制限すれば(それにより石炭会社の利益や自由は縮小する)、その代わりにのちの世代の人々が、大金を費やして気候や海水面の大規模な変化に対応しなくても、居住に適した環境で暮らす自由を拡大できる。
少し考えてみれば、リスクや生命の考え方も状況により大きな違いがあることがわかる。アメリカは、2001年9月11日に世界貿易センターやペンタゴンが攻撃された報復として、戦争を始めた。このテロ攻撃では、3000人弱の人々が死亡した。それに続く戦争では、およそ7000人のアメリカ人、10万人以上の同盟軍兵士、数百万人ものアフガニスタン人やイラク人が死亡し、数兆ドルのコストがかかった。
その一方で、今世紀最初の20年間で、気候変動や大気汚染により毎年500万人が死亡していると推計されている。今後数十年間で、死亡者数はさらに増え、莫大な財産が失われるおそれがある。
それなのに私たちは、これほど莫大な人的・物質的損失を緩和するのに必要な比較的少額な支出にさえ、合意できないでいる。こうして暗黙のうちに、その影響を受ける大勢の人々の自由が失われている。
正の外部性、負の外部性
外部性は、有益(正)にもなれば有害(負)にもなる。社会をうまく機能させるには、正の外部性を伴う活動を推進しながら、負の外部性を伴う活動を抑制する必要がある。
知識経済に移行するにつれて、情報や知識の外部性が第一義的な重要性を帯びてきている。ある企業が知識を向上させれば、その企業の利益になるだけでなく、場合によってはほかの多くの人々の利益にもなる。消費者は価格の低下により利益を受けられるかもしれない。あるイノベーションがほかのイノベーションを誘発することもある。
外部性があるのにそれに気づいていない場合もある。十分に立証されている一例を挙げると、妊婦が道路の料金所のそばに暮らしていると悪影響がある。自動車やトラックの排気ガスのせいだ。環境科学について知っていようがいなかろうが、その汚染が被害を及ぼす。
現代の経済はますます金融化しており、そのせいで巨大な負の外部性が生じる可能性が高まっている。2008年の金融危機は、マクロ経済の外部性が中心的な役割を果たした一例であり、金融化の進展により、その外部性の規模も増したことを示している。
ごく一部の金融問題が世界全体に広がる
アメリカの銀行システムが崩壊した原因は、過剰なリスク負担、つたないリスク管理、不十分な規制にあった。その結果、グローバルな経済が脅威にさらされ、アメリカ政府がおよそ7000億ドルもの資金を費やして銀行システムを救済するはめになった(さらに連邦準備銀行から秘密の助成を受けた)。
デリバティブやそれに関連する無数の複雑な証券が、システム全体のリスクを高め、金融システムのごく一部の金融問題が、金融システム全体あるいはその大部分の破綻へとつながる可能性を高めたのだ。
実際、リーマン・ブラザーズの破綻はすさまじい影響を与えた。これらの金融商品を売買した人のなかに、それらの商品がシステム全体にどんな結果をもたらすことになるのか、その取引に直接かかわっていない人々にどんな影響を及ぼすことになるのかを、わずかでも理解している人はいなかった。
そういう人たちは、自分たちが手に入れる経済的利益のことしか考えていなかった。自分たちやほかの人たちが同様の金融商品を買えば、金融システムが不安定になり、自分たちも社会のほかの人々もみな、ますますリスクにさらされること、少なくとも政府が救済に乗り出さなければそうなることを理解していなかった。
外部性はそれだけにとどまらなかった。銀行システムのこうした行動は、アメリカ経済だけでなく全世界に影響を及ぼした。国境を越える外部性の事例はほかにもたくさんあるが、グローバル化が進展し、あらゆる地域のあらゆる人々がいっそう結びつくようになるにつれ、その力はことのほか強くなっている。
アメリカは外国の敵とは交戦状態にないが、国内では激しい戦闘が続いている。ほかの先進国に比べ、アメリカで銃による死亡者数が多いのには理由がある。銃が多いからだ。人口1人あたりで見ると、アメリカにはイギリスのおよそ30倍もの銃がある。銃による死亡者数はおよそ50倍である。アメリカではほかのどの国よりもはるかに簡単に、AR15ライフルなどの自動小銃を購入できる。その理由は、最高裁判所が憲法修正第2条の解釈を誤り、憲法は事実上あらゆる拳銃を所有する権利を保障していると判断したからだ。テキサス州など一部の州では、さらに攻撃用武器まで容認している。最高裁判所の解釈では(テキサス州ではなおさらそうなのだが)、銃を持つ権利が、その結果として殺害されるかもしれない数千もの命より優先されている。銃所有者という一集団の権利が、ほかのほとんどの人々がそれ以上に重要な権利だと見なしている生きる権利の上に置かれている。一部の人々がとる行動がほかの人々にマイナスの影響を与える外部性の一例である。こうした負の外部性がある場合、そのような行動をとる資格を与え、それを権利にまでまつりあげれば、必然的にほかの人々の自由を奪うことになる。アメリカは分断されていて価値観が違う人たちはお互いを受け入れようとしないのでしょうか。議論して命の方が大事だという考えが受け入れなくなっているのでしょうか。かつてないほど人間が密集した環境で暮らしている。世界の人口は、1950年から2020年までの間に3倍になった。人類史のその短い期間のうちに、世界のGDPはおよそ15倍に増え、人類は地球の限界にまで追い込まれている。それを示す現象のなかでもっとも重大なのが、人類の存続を脅かす気候変動である。だが、環境外部性はそれだけではない。私たちはみな、大気汚染や水質汚染、有害な廃棄物集積場に悩まされている。驚くべきことに人間はいまだに、実際に気候変動が起きているのか、大気中の温室効果ガスが気候変動の主要な原因なのかを議論している。1896年にはすでにスウェーデンの科学者スヴァンテ・アレニウスが、大気中の温室効果ガスが増えれば地球は温暖化するとの予測を発表していたが、そのわずか数十年後には、この偉大な科学的知見が立証された。私たちは現在、至るところでこの気候変動の影響をまのあたりにしている。今後数年のうちに、これまで以上にその力を実感することになるのはほぼ間違いない。気候変動は、地球の温度が数度上がるというだけの話ではない。異常気象が増えるということでもある。旱魃が増え、洪水が増え、ハリケーンが増え、酷暑や厳寒の期間が長くなり、海水面が上昇し、海洋の酸性度が上がり、海の死や森林火災、生命や財産の喪失など、あらゆる悲惨な結果がそれに続く。注目すべきは、気候変動に関連するコストやリスクがこれだけ明らかであるにもかかわらず、一部の経済学者が、ほとんど何の対処もするべきではないと主張している点である。異常とも言える気象変動に対してなにも対処する必要がないと考える経済学者がいるのでしょうか。対処しても仕方がないと考えているのでしょうか。リスクや生命の考え方も状況により大きな違いがあることがわかる。アメリカは、2001年9月11日に世界貿易センターやペンタゴンが攻撃された報復として、戦争を始めた。このテロ攻撃では、3000人弱の人々が死亡した。それに続く戦争では、およそ7000人のアメリカ人、10万人以上の同盟軍兵士、数百万人ものアフガニスタン人やイラク人が死亡し、数兆ドルのコストがかかった。その一方で、今世紀最初の20年間で、気候変動や大気汚染により毎年500万人が死亡していると推計されている。今後数十年間で、死亡者数はさらに増え、莫大な財産が失われるおそれがある。それなのに私たちは、これほど莫大な人的・物質的損失を緩和するのに必要な比較的少額な支出にさえ、合意できないでいる。こうして暗黙のうちに、その影響を受ける大勢の人々の自由が失われている。考え方の違い人たちでも議論し合って合意点を模索することはできないのでしょうか。
束縛のない自由な市場がもたらすものは何なのか?
銃乱射事件は氷山の一角
アメリカでは、大量殺人のニュースが毎日報じられている。2020年が始まってからは1日にほぼ2回の割合である。こうした銃乱射事件は確かに悲惨だが、それによる死亡者数は、毎年銃で死ぬ人の1パーセント余りでしかない。
アメリカには、子どもが学校内に入る際に金属探知機を通り抜けなければならない地域もあれば、学校内で銃乱射事件が発生した場合に備えた訓練を幼稚園のころから始めている地域もある。教会やユダヤ礼拝堂へ行く人々でさえ、射殺されるおそれがないわけではない。アメリカは外国の敵とは交戦状態にないが、国内では激しい戦闘が続いている。
ほかの先進国に比べ、アメリカで銃による死亡者数が多いのには理由がある。銃が多いからだ。人口1人あたりで見ると、アメリカにはイギリスのおよそ30倍もの銃がある。銃による死亡者数はおよそ50倍である。
アメリカではほかのどの国よりもはるかに簡単に、AR15ライフルなどの自動小銃を購入できる。その理由は、最高裁判所が憲法修正第2条の解釈を誤り、憲法は事実上あらゆる拳銃を所有する権利を保障していると判断したからだ。テキサス州など一部の州では、さらに攻撃用武器まで容認している。
最高裁判所の解釈では(テキサス州ではなおさらそうなのだが)、銃を持つ権利が、その結果として殺害されるかもしれない数千もの命より優先されている。銃所有者という一集団の権利が、ほかのほとんどの人々がそれ以上に重要な権利だと見なしている生きる権利の上に置かれている。
アイザイア・バーリンの言葉「オオカミの自由は、往々にしてヒツジにとっての死を意味する」を言い換えれば、こういうことになる。「銃所有者にとっての自由は往々にして、銃乱射事件で殺害される児童や大人にとっての死を意味する」
これは、一部の人々がとる行動がほかの人々にマイナスの影響を与える外部性の一例である。こうした負の外部性がある場合、そのような行動をとる資格を与え、それを権利にまでまつりあげれば、必然的にほかの人々の自由を奪うことになる。
外部性は、私たちの経済や社会に蔓延している。現在ではそれが、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』を執筆した時代よりも、あるいはフリードマンやハイエクが主張していたよりもはるかに重要性を増している。
すでに見てきたように、市場はそれだけでは、外部性が引き起こす経済の歪みを十分に「解決」できない。自由のトレードオフが避けられない以上、どの自由がより重要なのかを反映した原則や実践方法を考え出す必要がある。
至るところに存在する外部性
外部性はどこにでもある。それはこれまでも存在し、重要な役割を果たしてきたのだが、経済や世界の構造に起きつつある変化により、いまではその外部性が中心的な要素になっている。現在の経済政策の重要な問題には、外部性の管理が必ず伴う。それはつまり、有害な(負の)外部性がある場合にはその活動を抑制し、正の外部性がある場合にはその活動を推進する、ということだ。
私たちは、かつてないほど人間が密集した環境で暮らしている。世界の人口は、1950年から2020年までの間に3倍になった。人類史のその短い期間のうちに、世界のGDPはおよそ15倍に増え、人類は地球の限界にまで追い込まれている。
それを示す現象のなかでもっとも重大なのが、人類の存続を脅かす気候変動である。だが、環境外部性はそれだけではない。私たちはみな、大気汚染や水質汚染、有害な廃棄物集積場に悩まされている。
洪水、森林火災、酷暑……このままでいいのか
驚くべきことに人間はいまだに、実際に気候変動が起きているのか、大気中の温室効果ガスが気候変動の主要な原因なのかを議論している。1896年にはすでにスウェーデンの科学者スヴァンテ・アレニウスが、大気中の温室効果ガスが増えれば地球は温暖化するとの予測を発表していたが、そのわずか数十年後には、この偉大な科学的知見が立証された。
私たちは現在、至るところでこの気候変動の影響をまのあたりにしている。
今後数年のうちに、これまで以上にその力を実感することになるのはほぼ間違いない。
気候変動は、地球の温度が数度上がるというだけの話ではない。異常気象が増えるということでもある。旱魃が増え、洪水が増え、ハリケーンが増え、酷暑や厳寒の期間が長くなり、海水面が上昇し、海洋の酸性度が上がり、海の死や森林火災、生命や財産の喪失など、あらゆる悲惨な結果がそれに続く。
注目すべきは、気候変動に関連するコストやリスクがこれだけ明らかであるにもかかわらず、一部の経済学者が、ほとんど何の対処もするべきではないと主張している点である。
ここで最終的な問題となるのが、世代間および世代内の自由(機会集合)のトレードオフである。現世代が環境を汚染するのを制限すれば(それにより石炭会社の利益や自由は縮小する)、その代わりにのちの世代の人々が、大金を費やして気候や海水面の大規模な変化に対応しなくても、居住に適した環境で暮らす自由を拡大できる。
少し考えてみれば、リスクや生命の考え方も状況により大きな違いがあることがわかる。アメリカは、2001年9月11日に世界貿易センターやペンタゴンが攻撃された報復として、戦争を始めた。このテロ攻撃では、3000人弱の人々が死亡した。それに続く戦争では、およそ7000人のアメリカ人、10万人以上の同盟軍兵士、数百万人ものアフガニスタン人やイラク人が死亡し、数兆ドルのコストがかかった。
その一方で、今世紀最初の20年間で、気候変動や大気汚染により毎年500万人が死亡していると推計されている。今後数十年間で、死亡者数はさらに増え、莫大な財産が失われるおそれがある。
それなのに私たちは、これほど莫大な人的・物質的損失を緩和するのに必要な比較的少額な支出にさえ、合意できないでいる。こうして暗黙のうちに、その影響を受ける大勢の人々の自由が失われている。
正の外部性、負の外部性
外部性は、有益(正)にもなれば有害(負)にもなる。社会をうまく機能させるには、正の外部性を伴う活動を推進しながら、負の外部性を伴う活動を抑制する必要がある。
知識経済に移行するにつれて、情報や知識の外部性が第一義的な重要性を帯びてきている。ある企業が知識を向上させれば、その企業の利益になるだけでなく、場合によってはほかの多くの人々の利益にもなる。消費者は価格の低下により利益を受けられるかもしれない。あるイノベーションがほかのイノベーションを誘発することもある。
外部性があるのにそれに気づいていない場合もある。十分に立証されている一例を挙げると、妊婦が道路の料金所のそばに暮らしていると悪影響がある。自動車やトラックの排気ガスのせいだ。環境科学について知っていようがいなかろうが、その汚染が被害を及ぼす。
現代の経済はますます金融化しており、そのせいで巨大な負の外部性が生じる可能性が高まっている。2008年の金融危機は、マクロ経済の外部性が中心的な役割を果たした一例であり、金融化の進展により、その外部性の規模も増したことを示している。
ごく一部の金融問題が世界全体に広がる
アメリカの銀行システムが崩壊した原因は、過剰なリスク負担、つたないリスク管理、不十分な規制にあった。その結果、グローバルな経済が脅威にさらされ、アメリカ政府がおよそ7000億ドルもの資金を費やして銀行システムを救済するはめになった(さらに連邦準備銀行から秘密の助成を受けた)。
デリバティブやそれに関連する無数の複雑な証券が、システム全体のリスクを高め、金融システムのごく一部の金融問題が、金融システム全体あるいはその大部分の破綻へとつながる可能性を高めたのだ。
実際、リーマン・ブラザーズの破綻はすさまじい影響を与えた。これらの金融商品を売買した人のなかに、それらの商品がシステム全体にどんな結果をもたらすことになるのか、その取引に直接かかわっていない人々にどんな影響を及ぼすことになるのかを、わずかでも理解している人はいなかった。
そういう人たちは、自分たちが手に入れる経済的利益のことしか考えていなかった。自分たちやほかの人たちが同様の金融商品を買えば、金融システムが不安定になり、自分たちも社会のほかの人々もみな、ますますリスクにさらされること、少なくとも政府が救済に乗り出さなければそうなることを理解していなかった。
外部性はそれだけにとどまらなかった。銀行システムのこうした行動は、アメリカ経済だけでなく全世界に影響を及ぼした。国境を越える外部性の事例はほかにもたくさんあるが、グローバル化が進展し、あらゆる地域のあらゆる人々がいっそう結びつくようになるにつれ、その力はことのほか強くなっている。
アメリカは外国の敵とは交戦状態にないが、国内では激しい戦闘が続いている。ほかの先進国に比べ、アメリカで銃による死亡者数が多いのには理由がある。銃が多いからだ。人口1人あたりで見ると、アメリカにはイギリスのおよそ30倍もの銃がある。銃による死亡者数はおよそ50倍である。アメリカではほかのどの国よりもはるかに簡単に、AR15ライフルなどの自動小銃を購入できる。その理由は、最高裁判所が憲法修正第2条の解釈を誤り、憲法は事実上あらゆる拳銃を所有する権利を保障していると判断したからだ。テキサス州など一部の州では、さらに攻撃用武器まで容認している。最高裁判所の解釈では(テキサス州ではなおさらそうなのだが)、銃を持つ権利が、その結果として殺害されるかもしれない数千もの命より優先されている。銃所有者という一集団の権利が、ほかのほとんどの人々がそれ以上に重要な権利だと見なしている生きる権利の上に置かれている。一部の人々がとる行動がほかの人々にマイナスの影響を与える外部性の一例である。こうした負の外部性がある場合、そのような行動をとる資格を与え、それを権利にまでまつりあげれば、必然的にほかの人々の自由を奪うことになる。アメリカは分断されていて価値観が違う人たちはお互いを受け入れようとしないのでしょうか。議論して命の方が大事だという考えが受け入れなくなっているのでしょうか。かつてないほど人間が密集した環境で暮らしている。世界の人口は、1950年から2020年までの間に3倍になった。人類史のその短い期間のうちに、世界のGDPはおよそ15倍に増え、人類は地球の限界にまで追い込まれている。それを示す現象のなかでもっとも重大なのが、人類の存続を脅かす気候変動である。だが、環境外部性はそれだけではない。私たちはみな、大気汚染や水質汚染、有害な廃棄物集積場に悩まされている。驚くべきことに人間はいまだに、実際に気候変動が起きているのか、大気中の温室効果ガスが気候変動の主要な原因なのかを議論している。1896年にはすでにスウェーデンの科学者スヴァンテ・アレニウスが、大気中の温室効果ガスが増えれば地球は温暖化するとの予測を発表していたが、そのわずか数十年後には、この偉大な科学的知見が立証された。私たちは現在、至るところでこの気候変動の影響をまのあたりにしている。今後数年のうちに、これまで以上にその力を実感することになるのはほぼ間違いない。気候変動は、地球の温度が数度上がるというだけの話ではない。異常気象が増えるということでもある。旱魃が増え、洪水が増え、ハリケーンが増え、酷暑や厳寒の期間が長くなり、海水面が上昇し、海洋の酸性度が上がり、海の死や森林火災、生命や財産の喪失など、あらゆる悲惨な結果がそれに続く。注目すべきは、気候変動に関連するコストやリスクがこれだけ明らかであるにもかかわらず、一部の経済学者が、ほとんど何の対処もするべきではないと主張している点である。異常とも言える気象変動に対してなにも対処する必要がないと考える経済学者がいるのでしょうか。対処しても仕方がないと考えているのでしょうか。リスクや生命の考え方も状況により大きな違いがあることがわかる。アメリカは、2001年9月11日に世界貿易センターやペンタゴンが攻撃された報復として、戦争を始めた。このテロ攻撃では、3000人弱の人々が死亡した。それに続く戦争では、およそ7000人のアメリカ人、10万人以上の同盟軍兵士、数百万人ものアフガニスタン人やイラク人が死亡し、数兆ドルのコストがかかった。その一方で、今世紀最初の20年間で、気候変動や大気汚染により毎年500万人が死亡していると推計されている。今後数十年間で、死亡者数はさらに増え、莫大な財産が失われるおそれがある。それなのに私たちは、これほど莫大な人的・物質的損失を緩和するのに必要な比較的少額な支出にさえ、合意できないでいる。こうして暗黙のうちに、その影響を受ける大勢の人々の自由が失われている。考え方の違い人たちでも議論し合って合意点を模索することはできないのでしょうか。



