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日本の農業を何とかしなければならないのでは[2025年05月14日(Wed)]
 KYODO2025年3月11日付け「原発事故で農業が途絶えた町に、特産キウイを取り戻したい 福島から千葉へ避難の若き5代目、心動かす味を移住者に伝える#知り続ける」から、フルーツの町として知られた福島県大熊町は、2011年3月の原発事故で変貌した。当時小学5年だった関本元樹さん(24)の一家も、先祖代々育んだナシやキウイフルーツの畑から離れ、避難を余儀なくされた。  
4代目だった父が営農再開の場所に選んだのは、大熊に気候が似ている千葉県香取市。新天地でも「俺が作れば大熊のナシだ」と話していた父は2017年に急逝し、関本さんが5代目に。香取市の畑を守りながら古里を思う日々。そんな中、大熊町でキウイ栽培に挑む若い移住者2人が現れた。師匠役の関本さんは受け継いできたノウハウを伝授する。復興途上の町で、キウイがつないだ20代の熱意が実りつつある。
フルーツの町、原発事故で全員が土地を追われた
2011年3月11日に起きた東日本大震災で、東京電力福島第1原発は外部電源が断たれた上、非常用発電機が津波で浸水して使えず、原子炉を冷却できなくなった。翌12日に1号機原子炉建屋が水素爆発で大破し、政府の避難指示は原発の半径20キロ圏に拡大。人口約1万1500人の大熊町では全員が慣れ親しんだ土地を追われた。  
大熊町は事故前、多くの農園がある果物の町でもあった。あちこちにナシ畑があり、実を収穫しやすいよう木の高さを整えるための「ナシ棚」を活用したキウイ栽培も盛んだった。町によると、キウイを育て販売する農家が2011年2月時点で25軒あった。  
「フルーツガーデン関本」もその一つで、明治時代からナシを、平成になってからキウイも栽培してきた。最適な条件に育んできた畑は、町内で2番目に広い計3ヘクタール。
関本さんは幼い頃から、4代目の父信行さんと3代目の祖父好一さんの「楽しそうな」畑仕事を見てきた。
父が見つけた新天地
しかし、原発事故が起き、大熊町で農業を続けることはできなくなった。福島県最西端の只見町で約2年間避難生活をしながら、両親は栽培を再開できる地を探した。関本さんはこう振り返る。  
「父たちが育てたナシやキウイを食べられなくなって初めて、おいしかったんだな、と思った」
信行さんが選んだ新天地は、気候が比較的大熊町に似ている千葉県香取市。土の性質も気候も異なる地で農業を再開することには想像を絶する苦労があったはずだが、信行さんは大熊で培った技術が千葉で通用するかどうかを楽しんでいるようだった。     
避難先で営農再開したナシ農家は自分たちだけ。「俺が作れば大熊の梨だ」。それが父の常とう句だった。  
そんな信行さんが2017年、病のため55歳で急逝した。関本さんはまだ高校3年。祖父の好一さんは一度引退していたため、漠然と「父の後は自分が継ぐのかな」と思った。でも「農業以外のことも学んで」と家族の助言を受けて、京都府の大学へ進んだ。
新型コロナウイルス禍でオンライン授業になり、帰省して畑作業を手伝う「じいちゃん孝行」の時間が増えた。信行さんが残したキウイの苗を世話する好一さんの姿を目の当たりにして、後を継ぐと決意。現在5代目として「フルーツガーデン関本」の看板を守っている。
キウイ栽培の復活に向けて
 大熊町では2019年4月10日、一部地域の避難指示が解除され、人が住めるようになった。  
町の有志はキウイ栽培の復活に向けて「おおくまキウイ再生クラブ」を結成。千葉県香取市に関本さんを訪ねて育て方を教わりながら、2020年、小規模ながら大熊町で栽培を始めた。  
このクラブの作業会で出会ったのが、大阪府出身の原口拓也さん(24)と神奈川県出身の阿部翔太郎さん(23)だ。2人はその後、大熊町でキウイを栽培する会社を一緒に立ち上げる。だがこの時、関本さんも含めてそんなことは想像していなかった。
心動かす果実の味
和歌山大学でシステム工学を学んでいた原口さん。コロナ禍で授業が休講中、地元のミカン農家をアルバイトとして手伝ううちに就農を考えるようになった。  
そんな折、復興企画コンテストに参加した大熊町を初訪問した。2022年に休学してからは「おおくまキウイ再生クラブ」の活動にも本格的に関わるようになり、月1、2回通う生活が続いた。  
クラブの活動で千葉県香取市の関本さんの果樹園を訪れた時のことだ。そこで振る舞われた独自品種の『ゴール・ド・おおくま』を口にした瞬間、想像を超える甘さが広がった。  「言葉では表せないほどおいしかった。この町の特産品を取り戻して、盛り上げたいと思った」。この感激が、大熊での就農を考える大きなきっかけとなった。
ゼロから農業をする人がいないなら、自分たちがやれば良い
原口さんは最初、キウイで町おこしに取り組む会社を1人で立ち上げようと考えた。それに意気投合したのが、阿部さんだった。  
記者を目指していた阿部さんは慶応大学時代、学生団体で大熊町民などへの聞き書きを冊子や映像作品にまとめる活動をしていた。その中で、原発事故前の町は果物が実る畑が当たり前の風景だったと聞いた。  
町のことをもっと知りたいと、2022年に休学して隣町の浪江町に住みながら大熊へ通った。一方で感じたのが「話を聞くだけだと、一体何が変わるんだろう」ということ。町のためにできることはないか―。そんな問いが頭の中を占めるようになっていた時に、原口さんと知り合った。  
「自分も体を動かして、町の復興に関わりたい」  
「農業が途絶えた町で、ゼロから農業を始める人がいない。それなら、自分たちがやればいい」  
2人はキウイ作りを中心として大熊町の関係人口を増やすという構想を立てた。
一から土作り
この構想が2023年夏、原発事故の被災地域での起業を支援するプロジェクトに採択されて、3年間の補助を受けられることになった。町の果樹産業を本格的に再生させたいとの思いで、在学中ながらこの年の10月、大熊町にReFruits(リフルーツ)という株式会社を設立した。2人とも2024年春までに大熊へ移住した。  
リフルーツが借りた畑は、原発事故で「帰還困難」と指定された区域にある。2022年6月に立ち入りができるようになったが、除染で土の表面が剥ぎ取られており、農業をするためには土作りから始める必要があった。痩せた土を改良するため、堆肥や緑肥を入れるなどして試行錯誤している。
原口さんは今年1月半ば、千葉県香取市の関本さんの果樹園でキウイの栽培技術を教わった。はさみを手に練習したのは、先端の枝を切ることで、脇の枝を伸ばして実をたくさん付けさせる “摘心(てきしん)”の方法だ。  
「摘心は優劣を付けないといけない。こっちやってみて」  
「難しいですね」  
枝を仰ぎ見る原口さんと関本さんの目は輝いていた。
古里で仲間と
大熊町にある関本家の農園は帰還困難区域に含まれていたが、2022年に避難指示が解除されて自由に立ち入りできるようになった。  
「今は大熊に戻るっていうよりは、父が選んだ香取で頑張ることが親孝行になるかな」と話す関本さん。香取で育てたキウイの販売会を大熊の農園で開き、古里とのつながりを大切にしている。毎年秋の販売会には全国の避難先などから多くの町民が買いに訪れ、再生クラブのメンバーも手伝いに駆けつける。
関本さんは香取市で暮らす期間が人生の半分を超えた。避難指示が続いていたころの大熊町には家の掃除や墓参りで訪れる程度だったが、一部で避難解除した今は原口さんら「キウイ仲間」と出会ってから2カ月に1度は車で通うようになった。何より5代にわたって受け継いできた大熊のノウハウが生きていることがうれしい。  
「今、町が原口くんたちを応援していることが答えなんだと思う」  
一方、原口さんと阿部さんの新米農家2人は「不安もあるが、とにかく農業が楽しい」と屈託がない。  
キウイは実がなるまでに約3年かかる。関本家が受け継いできた技術を、移住者が大熊で生かす。その成果は来年秋に初収穫を迎える。DSC00357.JPG

 大熊町は事故前、多くの農園がある果物の町でもあった。あちこちにナシ畑があり、実を収穫しやすいよう木の高さを整えるための「ナシ棚」を活用したキウイ栽培も盛んだった。町によると、キウイを育て販売する農家が2011年2月時点で25軒あった。しかし、原発事故が起き、大熊町で農業を続けることはできなくなった。福島県最西端の只見町で約2年間避難生活をしながら、両親は栽培を再開できる地を探した。関本さんはこう振り返る。「父たちが育てたナシやキウイを食べられなくなって初めて、おいしかったんだな、と思った」信行さんが選んだ新天地は、気候が比較的大熊町に似ている千葉県香取市。土の性質も気候も異なる地で農業を再開することには想像を絶する苦労があったはずだが、信行さんは大熊で培った技術が千葉で通用するかどうかを楽しんでいるようだった。逆境に負けないで楽しみながら農業を行うことができるようになればいいですね。大熊町では2019年4月10日、一部地域の避難指示が解除され、人が住めるようになった。町の有志はキウイ栽培の復活に向けて「おおくまキウイ再生クラブ」を結成。千葉県香取市に関本さんを訪ねて育て方を教わりながら、2020年、小規模ながら大熊町で栽培を始めた。このクラブの作業会で出会ったのが、大阪府出身の原口拓也さん(24)と神奈川県出身の阿部翔太郎さん(23)だ。2人はその後、大熊町でキウイを栽培する会社を一緒に立ち上げる。だがこの時、関本さんも含めてそんなことは想像していなかった。農業を継続するためには若い世代の人たちが関わってもらわなければならないですね。原口さんは最初、キウイで町おこしに取り組む会社を1人で立ち上げようと考えた。それに意気投合したのが、阿部さんだった。記者を目指していた阿部さんは慶応大学時代、学生団体で大熊町民などへの聞き書きを冊子や映像作品にまとめる活動をしていた。その中で、原発事故前の町は果物が実る畑が当たり前の風景だったと聞いた。町のことをもっと知りたいと、2022年に休学して隣町の浪江町に住みながら大熊へ通った。一方で感じたのが「話を聞くだけだと、一体何が変わるんだろう」ということ。町のためにできることはないか。そんな問いが頭の中を占めるようになっていた時に、原口さんと知り合った。「農業が途絶えた町で、ゼロから農業を始める人がいない。それなら、自分たちがやればいい」2人はキウイ作りを中心として大熊町の関係人口を増やすという構想を立てた。ゼロから農業を始めるというのは大変ですが、一人でなく仲間がいればできるね。原口さんと阿部さんの新米農家2人は「不安もあるが、とにかく農業が楽しい」と屈託がない。キウイは実がなるまでに約3年かかる。関本家が受け継いできた技術を、移住者が大熊で生かす。その成果は来年秋に初収穫を迎える。希望の光が見えてきているのでしょうか。農業に挑戦する人が増えなければ日本の農業はどうなるのでしょうか。国民が関心を持つテーマではないでしょうか。クマワナ丸.jpg
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