
選挙報道のあり方を真剣に考えるべきでは[2025年04月11日(Fri)]
47NEWS2025年2月1日付け「選挙報道の在り方見直しを、取材し事実書く原点に戻れ ジャーナリスト・西岡研介さん【不信の向こう側〜既存メディアはなぜ嫌われるのかD】」から、新聞やテレビなど、既存のメディアに対する不信感が高まっている。不信感はなぜ生まれたのか。
その背景に何があるのか。ジャーナリストの西岡研介さんは、昨年の兵庫県知事選で被害者として振る舞った斎藤元彦氏が巧みに支持を広げていった経緯を振り返り、「公正な選挙」を標榜するメディアは選挙報道の在り方を見直すべきだと訴えた。
「つるし上げられた」斎藤氏への共感が反メディア感情と結びついた
今回の兵庫県知事選は、私自身が有権者ということもあって注視していましたが、元尼崎市長の稲村和美氏が敗戦の弁で「何と向かい合っているのかという違和感があった」と述べたことが象徴的です。
斎藤元彦氏は、自身のパワハラなどが告発された文書や公益通報者への対応をめぐって、「知事の資質」を問われ、失職した。そのことが争点だったはずなのに、既得権益とそれに対抗する斎藤氏という図式となりました。
疑惑の内容についてメディアが取材し、批判するのは当然ですし、そうした事態を招いたのは斎藤氏の政治家としての未熟さにあります。しかし、選挙戦では、斎藤氏がメディアから攻撃を受ける被害者として振る舞い、過熱報道に反感を抱く有権者と結びついてしまいました。
斎藤氏が議会で批判され、不信任決議を突き付けられて失職した段階では、斎藤氏の支持は大きくありませんでしたが、知事選の告示後に流れが変わった印象です。組織的ではなく、普通のサラリーマンや主婦、学生が街頭演説に集まり、斎藤氏を「かわいそう」と応援する人たちが、急速に増えて行きました。そこに共通するのは「マスゴミ」と反メディアの姿勢です。
斎藤氏に対するメディアの批判は、テレビのワイドショーが加わったことで過熱状態となり、客観的に見ても「ちょっとやり過ぎでは」と思えるほど、つるし上げのような状態になりました。これが反メディアの感情を高める引き金になったのではないかと思います。
メディアが権力者を批判するのは当たり前のことで、それを変える必要は全くありません。しかし、斎藤氏が巧みだったのは、自分は「県議会やマスコミに負けない」と主張し、そうした勢力と戦っているという図式を描いたことです。そこに交流サイト(SNS)で、斎藤氏に有利な情報が「隠された真実」として流布されました。
「取材を尽くして事実を書く」メディアは原点に戻るべきだ
兵庫県知事選を通じてあらためて思ったのは、メディアは選挙報道の内容を変えるべきということです。メディアは「公正な選挙」を掲げ、選挙期間中に起きているさまざまな問題を報じようとしません。SNSでいくらデマが流されても、メディアがファクトチェックの役割を果たさなければ、誤情報が拡大するだけです。
今回、政治団体「NHKから国民を守る党」党首の立花孝志氏が、斎藤氏を応援する目的で立候補しました。立花氏は選挙期間中、百条委員会の委員長を務める県議の自宅兼事務所まで押しかけ、県議を脅迫するような街頭演説を行いました。またSNSでデマや脅迫行為を受けた別の県議が辞職する事態にもなりました。これらは先人の苦難の末につくられた選挙制度を根底から破壊する、反社会的行為です。
「選挙運動だ」と言えば、何をやってもいいわけではありません。選挙期間中であることを理由に、デマの流布や脅迫といった問題を報じなければ、人々がSNSの内容を信じてしまうのは当然です。選挙期間中の問題を報じないのは、それを問題だと思っていないのと同じことになります。
差別的な主張やデマを垂れ流す個人や団体を、当初は多くのメディアが無視していましたが、結果として各地でヘイトスピーチをまき散らすことを許してしまいました。そうした存在を放っておけば、社会全体に影響を及ぼしかねないのです。
反メディアの世論を変えるには、取材を尽くして事実を書くという原点に、メディアが戻るしかありません。反メディアの考えを持つ人の中にも、こうした旧態依然とした選挙報道の在り方に対しておかしいと思う人が相当程度いるということを、決して忘れてはならないと思います。
日本新聞協会は1966年、選挙報道について「はじめから虚偽のこととか、事実を曲げて報道したり、そうしたものに基づいて評論したものでない限り、政党等の主張や政策、候補者の人物、経歴、政見などを報道したり、これを支持したり反対する論評をすることはなんら制限を受けない」との見解を出しています。この原点に立ち返り、選挙報道の在り方を見直すべきです。
疑惑の内容についてメディアが取材し、批判するのは当然ですし、そうした事態を招いたのは斎藤氏の政治家としての未熟さにあります。しかし、選挙戦では、斎藤氏がメディアから攻撃を受ける被害者として振る舞い、過熱報道に反感を抱く有権者と結びついてしまいました。斎藤氏が議会で批判され、不信任決議を突き付けられて失職した段階では、斎藤氏の支持は大きくありませんでしたが、知事選の告示後に流れが変わった印象です。組織的ではなく、普通のサラリーマンや主婦、学生が街頭演説に集まり、斎藤氏を「かわいそう」と応援する人たちが、急速に増えて行きました。そこに共通するのは「マスゴミ」と反メディアの姿勢です。斎藤氏に対するメディアの批判は、テレビのワイドショーが加わったことで過熱状態となり、客観的に見ても「ちょっとやり過ぎでは」と思えるほど、つるし上げのような状態になりました。これが反メディアの感情を高める引き金になったのではないかと思います。権力を持ったものへの反発が起きたのでしょうか。メディアは選挙報道の内容を変えるべきということです。メディアは「公正な選挙」を掲げ、選挙期間中に起きているさまざまな問題を報じようとしません。SNSでいくらデマが流されても、メディアがファクトチェックの役割を果たさなければ、誤情報が拡大するだけです。今回、政治団体「NHKから国民を守る党」党首の立花孝志氏が、斎藤氏を応援する目的で立候補しました。立花氏は選挙期間中、百条委員会の委員長を務める県議の自宅兼事務所まで押しかけ、県議を脅迫するような街頭演説を行いました。またSNSでデマや脅迫行為を受けた別の県議が辞職する事態にもなりました。これらは先人の苦難の末につくられた選挙制度を根底から破壊する、反社会的行為です。「選挙運動だ」と言えば、何をやってもいいわけではありません。選挙期間中であることを理由に、デマの流布や脅迫といった問題を報じなければ、人々がSNSの内容を信じてしまうのは当然です。選挙期間中の問題を報じないのは、それを問題だと思っていないのと同じことになります。差別的な主張やデマを垂れ流す個人や団体を、当初は多くのメディアが無視していましたが、結果として各地でヘイトスピーチをまき散らすことを許してしまいました。そうした存在を放っておけば、社会全体に影響を及ぼしかねないのです。差別的主張、デマなど不正を放置することは間違いでしょう。反メディアの世論を変えるには、取材を尽くして事実を書くという原点に、メディアが戻るしかありません。反メディアの考えを持つ人の中にも、こうした旧態依然とした選挙報道の在り方に対しておかしいと思う人が相当程度いるということを、決して忘れてはならないと思います。選挙報道の在り方は制度を含めて真剣に考える必要があるでしょう。
その背景に何があるのか。ジャーナリストの西岡研介さんは、昨年の兵庫県知事選で被害者として振る舞った斎藤元彦氏が巧みに支持を広げていった経緯を振り返り、「公正な選挙」を標榜するメディアは選挙報道の在り方を見直すべきだと訴えた。
「つるし上げられた」斎藤氏への共感が反メディア感情と結びついた
今回の兵庫県知事選は、私自身が有権者ということもあって注視していましたが、元尼崎市長の稲村和美氏が敗戦の弁で「何と向かい合っているのかという違和感があった」と述べたことが象徴的です。
斎藤元彦氏は、自身のパワハラなどが告発された文書や公益通報者への対応をめぐって、「知事の資質」を問われ、失職した。そのことが争点だったはずなのに、既得権益とそれに対抗する斎藤氏という図式となりました。
疑惑の内容についてメディアが取材し、批判するのは当然ですし、そうした事態を招いたのは斎藤氏の政治家としての未熟さにあります。しかし、選挙戦では、斎藤氏がメディアから攻撃を受ける被害者として振る舞い、過熱報道に反感を抱く有権者と結びついてしまいました。
斎藤氏が議会で批判され、不信任決議を突き付けられて失職した段階では、斎藤氏の支持は大きくありませんでしたが、知事選の告示後に流れが変わった印象です。組織的ではなく、普通のサラリーマンや主婦、学生が街頭演説に集まり、斎藤氏を「かわいそう」と応援する人たちが、急速に増えて行きました。そこに共通するのは「マスゴミ」と反メディアの姿勢です。
斎藤氏に対するメディアの批判は、テレビのワイドショーが加わったことで過熱状態となり、客観的に見ても「ちょっとやり過ぎでは」と思えるほど、つるし上げのような状態になりました。これが反メディアの感情を高める引き金になったのではないかと思います。
メディアが権力者を批判するのは当たり前のことで、それを変える必要は全くありません。しかし、斎藤氏が巧みだったのは、自分は「県議会やマスコミに負けない」と主張し、そうした勢力と戦っているという図式を描いたことです。そこに交流サイト(SNS)で、斎藤氏に有利な情報が「隠された真実」として流布されました。
「取材を尽くして事実を書く」メディアは原点に戻るべきだ
兵庫県知事選を通じてあらためて思ったのは、メディアは選挙報道の内容を変えるべきということです。メディアは「公正な選挙」を掲げ、選挙期間中に起きているさまざまな問題を報じようとしません。SNSでいくらデマが流されても、メディアがファクトチェックの役割を果たさなければ、誤情報が拡大するだけです。
今回、政治団体「NHKから国民を守る党」党首の立花孝志氏が、斎藤氏を応援する目的で立候補しました。立花氏は選挙期間中、百条委員会の委員長を務める県議の自宅兼事務所まで押しかけ、県議を脅迫するような街頭演説を行いました。またSNSでデマや脅迫行為を受けた別の県議が辞職する事態にもなりました。これらは先人の苦難の末につくられた選挙制度を根底から破壊する、反社会的行為です。
「選挙運動だ」と言えば、何をやってもいいわけではありません。選挙期間中であることを理由に、デマの流布や脅迫といった問題を報じなければ、人々がSNSの内容を信じてしまうのは当然です。選挙期間中の問題を報じないのは、それを問題だと思っていないのと同じことになります。
差別的な主張やデマを垂れ流す個人や団体を、当初は多くのメディアが無視していましたが、結果として各地でヘイトスピーチをまき散らすことを許してしまいました。そうした存在を放っておけば、社会全体に影響を及ぼしかねないのです。
反メディアの世論を変えるには、取材を尽くして事実を書くという原点に、メディアが戻るしかありません。反メディアの考えを持つ人の中にも、こうした旧態依然とした選挙報道の在り方に対しておかしいと思う人が相当程度いるということを、決して忘れてはならないと思います。
日本新聞協会は1966年、選挙報道について「はじめから虚偽のこととか、事実を曲げて報道したり、そうしたものに基づいて評論したものでない限り、政党等の主張や政策、候補者の人物、経歴、政見などを報道したり、これを支持したり反対する論評をすることはなんら制限を受けない」との見解を出しています。この原点に立ち返り、選挙報道の在り方を見直すべきです。

疑惑の内容についてメディアが取材し、批判するのは当然ですし、そうした事態を招いたのは斎藤氏の政治家としての未熟さにあります。しかし、選挙戦では、斎藤氏がメディアから攻撃を受ける被害者として振る舞い、過熱報道に反感を抱く有権者と結びついてしまいました。斎藤氏が議会で批判され、不信任決議を突き付けられて失職した段階では、斎藤氏の支持は大きくありませんでしたが、知事選の告示後に流れが変わった印象です。組織的ではなく、普通のサラリーマンや主婦、学生が街頭演説に集まり、斎藤氏を「かわいそう」と応援する人たちが、急速に増えて行きました。そこに共通するのは「マスゴミ」と反メディアの姿勢です。斎藤氏に対するメディアの批判は、テレビのワイドショーが加わったことで過熱状態となり、客観的に見ても「ちょっとやり過ぎでは」と思えるほど、つるし上げのような状態になりました。これが反メディアの感情を高める引き金になったのではないかと思います。権力を持ったものへの反発が起きたのでしょうか。メディアは選挙報道の内容を変えるべきということです。メディアは「公正な選挙」を掲げ、選挙期間中に起きているさまざまな問題を報じようとしません。SNSでいくらデマが流されても、メディアがファクトチェックの役割を果たさなければ、誤情報が拡大するだけです。今回、政治団体「NHKから国民を守る党」党首の立花孝志氏が、斎藤氏を応援する目的で立候補しました。立花氏は選挙期間中、百条委員会の委員長を務める県議の自宅兼事務所まで押しかけ、県議を脅迫するような街頭演説を行いました。またSNSでデマや脅迫行為を受けた別の県議が辞職する事態にもなりました。これらは先人の苦難の末につくられた選挙制度を根底から破壊する、反社会的行為です。「選挙運動だ」と言えば、何をやってもいいわけではありません。選挙期間中であることを理由に、デマの流布や脅迫といった問題を報じなければ、人々がSNSの内容を信じてしまうのは当然です。選挙期間中の問題を報じないのは、それを問題だと思っていないのと同じことになります。差別的な主張やデマを垂れ流す個人や団体を、当初は多くのメディアが無視していましたが、結果として各地でヘイトスピーチをまき散らすことを許してしまいました。そうした存在を放っておけば、社会全体に影響を及ぼしかねないのです。差別的主張、デマなど不正を放置することは間違いでしょう。反メディアの世論を変えるには、取材を尽くして事実を書くという原点に、メディアが戻るしかありません。反メディアの考えを持つ人の中にも、こうした旧態依然とした選挙報道の在り方に対しておかしいと思う人が相当程度いるということを、決して忘れてはならないと思います。選挙報道の在り方は制度を含めて真剣に考える必要があるでしょう。
