憲法が保障する表現の自由を守るべきでは[2020年06月07日(Sun)]
朝日新聞2019年12月25日付け「表現の自由のいま」愛知県知事・大村秀章さんから、あいちトリエンナーレの不交付が助成事実になったら日本にはどのような影響が残ると考えられるかというと、表現の内容が気に入らないから補助金を出さない、ということにつながる恐れがあります。国がいいといったものでなければ補助金が出ない。みんな委縮して、この国の表現に自由は大きなダメージを受けるでしょう。
僕は法律上、公権力の立場にあります。行政権限を持ち、公的な美術館の責任者でもある。その僕が「この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ」と言うのは、表現の自由を保障した憲法21条に照らして、決してやってはいけないことなのです。検閲そのものにもなりかねません。
公的な芸術祭であるからこそ逆に、憲法21条がしっかり守られなければいけないのです。公権力者が「この内容は展示しても良いが、この内容はダメだ」と決めることは許されていません。
税金はありとあらゆる立場の人かが払っているのです。政治家の「税金が不快な表現や政治的に偏った表現のために使われてよいのか」という声を聞くと「税金は権力者のためのものだろうか」と疑問を感じます。税金の私物化につながっていないでしょうか。
表現の自由は、憲法が保障する基本的人権の中でも特に重いもの、人が人であるゆえんのものでしょう。人間が百人いたら、百人それぞれに異なる考えがある。違いを認めないとなったら独裁です。
「日本は成熟した民主主義国家だよ」と思ってきました。けれど今回の件で初めて、日本は危険な国、危険な社会になりつつあると感じます。
田舎の農家です。今で言う貧農家庭だったけど、それでも僕を含めた兄弟3人が大学を出させてもらえた。経済成長という時代に恵まれたからだと思います。なので僕には、生まれた時代のせいで人生の可能性が左右されてはいけないという意識があります。
日本だけではなく世界各地で、分断を煽る政治が台頭しています。こうした分断社会は日本が目指すべき社会ではありません。分断ではなく社会の「統合」に役立つ政治育てていく必要があります。こおとなる立場の人たちが互いを否定せず共存できる、懐の深い市民社会を目指すべきです。
表現の内容が気に入らないから補助金を出さないというのは、国が自分たちの考えに沿わない展示に対しては補助金を出さないということであれば、それぞれの芸術に対して政治が介入することになってしまうのでしょうか。大村知事の指摘のように、表現の自由は、憲法が保障する基本的人権の中でも特に重いもの、人が人であるゆえんのものでしょう。人間が百人いたら、百人それぞれに異なる考えがある。違いを認めないとなったら独裁になってしまうのではないでしょうか。なぜこのような方向に進んできているのでしょうか。公的な芸術祭であるからこそ、公権力者が「この内容は展示しても良いが、この内容はダメだ」と決めることは許されないでしょう。表現の自由が失われてしまう社会は息苦しくなるばかりではないでしょうか。このような政治の流れが続くと、指摘の通り、日本は危険な国、危険な社会になりつつあるのではないでしょうか。アメリカ社会の分断からわかるように世界各地で、分断を煽る政治が台頭しています。指摘の通り、こうした分断社会は日本が目指すべき社会ではありません。分断ではなく社会の「統合」に役立つ政治育てていく必要があります。こおとなる立場の人たちが互いを否定せず共存できる、懐の深い市民社会を目指すべきです。日本は海外からの移住してくる人たちも対等に受け入れ、分断とはまったく異なる共生社会を構築すべきではないでしょうか。日本の政治が国民の望んでいるのと違う方向に進んでいかないように国民が関心をもって見守り、おかしいと思う時には大きな声を上げる必要があるのではないでしょうか。
僕は法律上、公権力の立場にあります。行政権限を持ち、公的な美術館の責任者でもある。その僕が「この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ」と言うのは、表現の自由を保障した憲法21条に照らして、決してやってはいけないことなのです。検閲そのものにもなりかねません。
公的な芸術祭であるからこそ逆に、憲法21条がしっかり守られなければいけないのです。公権力者が「この内容は展示しても良いが、この内容はダメだ」と決めることは許されていません。
税金はありとあらゆる立場の人かが払っているのです。政治家の「税金が不快な表現や政治的に偏った表現のために使われてよいのか」という声を聞くと「税金は権力者のためのものだろうか」と疑問を感じます。税金の私物化につながっていないでしょうか。
表現の自由は、憲法が保障する基本的人権の中でも特に重いもの、人が人であるゆえんのものでしょう。人間が百人いたら、百人それぞれに異なる考えがある。違いを認めないとなったら独裁です。
「日本は成熟した民主主義国家だよ」と思ってきました。けれど今回の件で初めて、日本は危険な国、危険な社会になりつつあると感じます。
田舎の農家です。今で言う貧農家庭だったけど、それでも僕を含めた兄弟3人が大学を出させてもらえた。経済成長という時代に恵まれたからだと思います。なので僕には、生まれた時代のせいで人生の可能性が左右されてはいけないという意識があります。
日本だけではなく世界各地で、分断を煽る政治が台頭しています。こうした分断社会は日本が目指すべき社会ではありません。分断ではなく社会の「統合」に役立つ政治育てていく必要があります。こおとなる立場の人たちが互いを否定せず共存できる、懐の深い市民社会を目指すべきです。
表現の内容が気に入らないから補助金を出さないというのは、国が自分たちの考えに沿わない展示に対しては補助金を出さないということであれば、それぞれの芸術に対して政治が介入することになってしまうのでしょうか。大村知事の指摘のように、表現の自由は、憲法が保障する基本的人権の中でも特に重いもの、人が人であるゆえんのものでしょう。人間が百人いたら、百人それぞれに異なる考えがある。違いを認めないとなったら独裁になってしまうのではないでしょうか。なぜこのような方向に進んできているのでしょうか。公的な芸術祭であるからこそ、公権力者が「この内容は展示しても良いが、この内容はダメだ」と決めることは許されないでしょう。表現の自由が失われてしまう社会は息苦しくなるばかりではないでしょうか。このような政治の流れが続くと、指摘の通り、日本は危険な国、危険な社会になりつつあるのではないでしょうか。アメリカ社会の分断からわかるように世界各地で、分断を煽る政治が台頭しています。指摘の通り、こうした分断社会は日本が目指すべき社会ではありません。分断ではなく社会の「統合」に役立つ政治育てていく必要があります。こおとなる立場の人たちが互いを否定せず共存できる、懐の深い市民社会を目指すべきです。日本は海外からの移住してくる人たちも対等に受け入れ、分断とはまったく異なる共生社会を構築すべきではないでしょうか。日本の政治が国民の望んでいるのと違う方向に進んでいかないように国民が関心をもって見守り、おかしいと思う時には大きな声を上げる必要があるのではないでしょうか。