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『#核兵器反対』『#戦争反対』を訴え続ける信念[2026年01月18日(Sun)]
 文春オンライン2025年8月9日付け「16歳で被爆→78歳で長崎から“家出”して娘と2人暮らし→90歳でX開設…「戦争反対」を訴え続ける森田富美子さん(96)の歯に衣着せぬ人生「私が今一番嬉しいなと思うのは…」」から、〈「絶対に話さない」と決めていた“原爆で家族5人を失った日” 長崎生まれの森田富美子さん(96)が手で作った“30cm”の壮絶すぎる意味とは…〉 から続く
2007年、森田富美子さんは78歳で人生最大の決断を下した。
「今から東京に行く」  
突然の宣言とともに長崎から東京に住む娘・京子さんのもとへ“家出”を果たした。富美子さんは、70歳でパソコンを始め、90歳で「言いたいことを言わせていただく」とプロフィールに書いた『(アカウント名)わたくし90歳』をTwitter(現X)に開設した。96歳の今も実体験に基づく“戦争反対”の発信で注目され続けている。
「これからの人生でそれが一番いい道じゃないかと思った」
「私が東京に出てきたのは、これからの人生でそれが一番いい道じゃないかと思ったから」と富美子さんは振り返る。  
長崎には息子たちもいたが、「一緒にいて一番楽しく、どっちかというと一番頼りになる」京子さんのところに行った。京子さんは小さい頃にアトピーや喘息で眠れない夜が多く、富美子さんが抱いて寝かせていた。
「この人(京子さん)がスキンシップが一番あったんですよ。ちっちゃい頃から、肩揉んだりも一番やってくれてましたから」  
東京に来て富美子さんの生活は一変した。  
「完全に変わったでしょうね。楽しくて楽しくて。東京に来たばかりの頃は毎日1人で歩き回りました。1日2万歩以上歩く日もありました」  
富美子さんが上京したのは、京子さんがヘアメイクの仕事の傍ら大学を受験し、青山学院大学に通い始めた年だった。富美子さんの家出は、「何をいつ始めてもいい」という京子さんの影響もあるのだろうと富美子さんは言う。  
青学大が家族のための無料公開講座をすると聞くと、富美子さんは、すぐに申込み、通い始めた。
タブレット、スマホを使いこなし「スマホ依存症」と笑われたことも
 次の転機は90歳の時だった。新型コロナウイルス蔓延による特別定額給付金の10万円で購入したiPadが、富美子さんの人生を変えることになる。  
富美子さんのデジタル機器への適応力は驚異的だ。70歳のとき、京子さんから送られてきたノートパソコンは京子さんが図入りで書いた説明書だけで、次の日にはメールを送信して京子さんを驚かせた。  
今では、タブレット、スマホを使いこなし、「スマホのアプリで買い物をし、血圧、体温、血糖値、排便、歩数、スケジュールなど全て管理している」。京子さんから「スマホ依存症」と笑われた頃もあった。
さらに2019年6月「言いたいことを言わせていただく」と開設したXアカウントは、当初「わたくし90歳」から始まり、年齢とともに更新されて現在は「わたくし96歳」として8万5000人を超えるフォロワーを持つまでに成長した。  
富美子さんのポストは容赦がない。2021年の自民党総裁選の開票日前日には「誰が選ばれようと、好きなスイーツは何だとかいう報道はいらない。バカバカしいご祝儀支持率をもっともらしく報道するのもやめて欲しい」と斬りつけた。  
長崎にいるかつての同級生も富美子さんのポストを見ている。
「『あのバカたれどもが』とか書いたときは、『あまり過激なこと書いちゃダメよ』と電話の向こうで大笑いしています」  
なぜこれほど率直に発言できるのかと聞くと、富美子さんは若い頃から「そういう気質」だったという。  
戦争が終わったとき、女学校4年生だった富美子さんは、ろくに勉強もしないまま、あと半年で女学校生活を終わらせることはできないと思った。ひとりで校長室に行き「1年延長して下さい」と直談判した。すると、それが聞き入れられ、戦後の混乱期に、勉強を続けたいという強い意志を貫いた行動力が今に続いている。
「一番は武蔵のこと」
 91歳のツイートを機にこれまで戦争体験について何度も取材を受け、話してきた富美子さんだが、あるフラストレーションを溜めていたという。
「一番は武蔵のこと」  
戦時中、長崎の富美子さんの家には戦艦武蔵の乗組員5人が寝泊まりしていた。武蔵が長崎から離れる日、玄関先に並んだ彼らは富美子さんの母に向かい「お母さん、ありがとうございました!」と敬礼した。  
母もきちんと敬礼を返したが、すぐに崩れるようにしゃがみ込み、ずっと顔を上げられずにいたことを今でも思い出すと言う。戦艦武蔵は長崎を発った後、1944年10月24日、レイテ沖海戦で沈没した。
「私が東京に来て何年か経った頃(2015年)、武蔵が沈んでいるところがテレビで映ったんですよ。そのとき、武蔵が沈んだところにきれいなお魚が泳いでいくのを見て、『あれは兵曹だ、水兵だ、〇〇さんだ、△△さんだ』と声に出して言ったら、涙が出てどうしようもなくて」  
富美子さんが取材を受けるようになり、その横で戦争体験を聞くようになった京子さんは、武蔵の乗組員が富美子さんの家で、武蔵出港前に心和む時間があったことを遺族に伝えたいと思い、連絡先を探した。Twitterのアカウント「軍艦武蔵会」からホームページへと辿り、何度かメールをしたが、返信はなかった。
家族を探しに家に戻る道中に出会った14歳の少女
 また、長崎に原爆が投下された後、家族を探しに家に戻る道中、富美子さんは、家から近かったマルハ工場で一緒だった14歳の少女と出会った。その子は富美子さんを「お姉さん」と呼びとめ、「鹿児島に帰りたい」と言った。自分のことで精一杯だった富美子さんは浦上駅と長崎駅の方を指さし、「駅に行ってみたら」としか言えなかった。あの少女はその後、無事に家に帰れたのか……。そのことがずっと頭の中にあった。  
京子さんは、鹿児島県庁や奄美の市役所に電話で問い合わせ、少女の行方も探ろうとしたが、名簿は戦犯になることを恐れた関係者によって焼かれていた。「せめてあと5年早く話してくれれば、まだ生き残った人たちがいたはず」と悔しさを滲ませる京子さんだが、富美子さんが胸の内に秘めた思いをようやく話せたのがその時だったことは誰にも責められない。  
そんな信頼しあう母娘の共著 『わたくし96歳 #戦争反対』 は、企画の話があってから書き終えるまでわずか4か月という短期間でほぼ完成した。その理由は京子さんが“記録魔”だったからだという。
「取材のたび、メモったり、家に帰ってから覚えてることを全部打ち込んだりしていました。それが結構たまってて、本のお話をいただいたときは、タブレットにもスマホにも、そして手書きのメモやノートもかなりの量になっていたんですよね」(京子さん)  
そして、それらをもとに本の執筆が始まった。京子さんのメモや記録は、本のために、よりリアルな描写が加えられた。  
話すと決意はしていても、富美子さんにとって戦争の記憶をよみがえらせることはやはり苦しい。しかし京子さんは無理強いせず、母が話せるタイミングを粘り強く待ったという。
「いろいろ聞かれて、もう嫌っていうようなことはあります。ですから、その時はこの人(京子さん)は絶対そのままにしてくれました」(富美子さん)  
富美子さんの京子さんに対する信頼は絶対的だ。
「私はこの人(京子さん)、ものすごく頭がいいと思ってます。子どもにいろいろ教わっている。私が今日まで頑張って、いろいろな方と会ったりいろいろなことができたのは、この人が本当に一生懸命やってくれているから。ですからやっぱり東京に出てきてよかったなとほとんど毎日のように思ってます」
「こんな可愛い服を弟たちに着せたかったと思い、つい買ってしまいました」
 富美子さんのファッションはいつも若々しい。楽しいキャラクターのTシャツにパーカーやジャンパー。これらのファッションには、富美子さんの“ある思い”が込められているという。  
富美子さんが着用するキャラクターの服や帽子は、「初めて見た時、こんな可愛い服を弟たちに着せたかったと思い、つい買ってしまいました」。それが始まりで「今では自分自身気に入って、こんなのばかり着ています」と富美子さんは笑う。  
最近、取材のたびに聞かれる「これからしたいことは?」の質問に「南の島で泳ぎたいですね」と答えているそうだ。横から京子さんが笑いながら「実は南の島移住計画を立ててます」と言い、2人で笑い始めた。
「この方は、泳ぎが得意なもんですから、私たちきょうだいがまだ小さい頃も、浅いところで遊んでいる私たちを置いてじゃあ行ってくるって大きい麦わら帽子を被って小さくなるぐらいまで泳いで行って、沖でぷかぷかしてたんですよ」(京子さん)  
富美子さんは現在の政治情勢に対しても、歯に衣着せぬ発言を続ける。
「私は仕事先で母のポストをチェックしてはときどきヒヤヒヤしてます。最近はユーモアまじりでも、誰かを刺激してしまうかもしれない投稿は控えた方がいいですから」(京子さん)  
しかし富美子さんの発信は確実に広がっている。
「私が今一番嬉しいなと思うのは、私のツイート(ポスト)に応えて下さる方がいらっしゃること。私は朝晩のツイートに必ず『#核兵器反対』『#戦争反対』とハッシュタグをつけているんですが、それに応えてくださる方が同じタグをつけてくださって、本当に嬉しいな、大事だなと」(富美子さん)  
96歳の被爆者が発する言葉には重みがある。戦争を実際に体験し、家族を失った当事者の声だからだ。  
年齢を重ねても新しいことにチャレンジし続ける富美子さんと、それを支え続ける京子さん。戦争の記憶を語り継ぐという重要な使命を担って、96歳の冒険はまだまだ続いていく。DSC00788.JPG

 突然の宣言とともに長崎から東京に住む娘・京子さんのもとへ“家出”を果たした。富美子さんは、70歳でパソコンを始め、90歳で「言いたいことを言わせていただく」とプロフィールに書いた『(アカウント名)わたくし90歳』をTwitter(現X)に開設した。96歳の今も実体験に基づく“戦争反対”の発信で注目され続けている。強い信念ですね。次の転機は90歳の時だった。新型コロナウイルス蔓延による特別定額給付金の10万円で購入したiPadが、富美子さんの人生を変えることになる。富美子さんのデジタル機器への適応力は驚異的だ。70歳のとき、京子さんから送られてきたノートパソコンは京子さんが図入りで書いた説明書だけで、次の日にはメールを送信して京子さんを驚かせた。今では、タブレット、スマホを使いこなし、「スマホのアプリで買い物をし、血圧、体温、血糖値、排便、歩数、スケジュールなど全て管理している」。京子さんから「スマホ依存症」と笑われた頃もあった。さらに2019年6月「言いたいことを言わせていただく」と開設したXアカウントは、当初「わたくし90歳」から始まり、年齢とともに更新されて現在は「わたくし96歳」として8万5000人を超えるフォロワーを持つまでに成長した。やりたいことをやり続けるのが最高かもしれません。「私が今一番嬉しいなと思うのは、私のツイート(ポスト)に応えて下さる方がいらっしゃること。私は朝晩のツイートに必ず『#核兵器反対』『#戦争反対』とハッシュタグをつけているんですが、それに応えてくださる方が同じタグをつけてくださって、本当に嬉しいな、大事だなと」96歳の被爆者が発する言葉には重みがある。戦争を実際に体験し、家族を失った当事者の声だからだ。年齢を重ねても新しいことにチャレンジし続ける富美子さんと、それを支え続ける京子さん。戦争の記憶を語り継ぐという重要な使命を担って、96歳の冒険はまだまだ続いていく。核兵器は根絶するのは容易ではないし、戦争も無責任なリーダーが存在する限りなくなることはないでしょうが、核兵器反対、戦争反対は声を上げ続けなければならないでしょう。何歳になっても信念を持ってやり続ける姿勢に共感します。DSC00787.JPG
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