「老年を幸福にする4つの要素」とは[2026年01月16日(Fri)]
婦人公論.jp2025年8月8日付け「作家・曽野綾子が語った「老年を幸福にする4つの要素」自分にとって大切なものは一代限りで捨て、自由になる範囲のお金や心や時間は他人のために使う」から、小説『神の汚れた手』など多数のベストセラーで知られる作家・曽野綾子さんが、2025年2月に逝去されました。曽野さんは小説のほか、近年では老いについてのエッセイも手掛けていました。そこで今回は、老いを充実させる身辺整理の極意についてまとめられた著書『人生の後片づけ: 身軽な生活の楽しみ方』から一部を抜粋し、ご紹介します。
私を幸福にしてくれる要素は四つある 老年に向けての幸福論などというものを改めて必要とするようになったのは、私たちの寿命が長くなったからである。
高齢まで生き延びた人たちが、もしも思考するという能力を残しているなら、それは大きな幸せだが、自分の意志もなしに長寿を与えられているとしたら、それは手放しで喜べることではない。
老年の幸福を、私は敢えて健康を別にして考えたいと思う。なぜなら健康は深酒、暴食、喫煙のような自分に責任のある要素を除くと、素質的な要素が多いから、自分の自由にならないのである。
そして健康という要素を除外しても、私を幸福にしてくれる要素は四つあるだろうという気がする。
写真、記念品、手紙は一代限りで捨てる
第一の単純な条件は、身辺整理ができていることである。まずガラクタを捨て、家の空間を多くする。自分にとって大切なものも、私の死後は、娘や息子にとってさえ要らない場合が多い。ましてや他人には何の価値もない。写真、記念品、トロフィー、手紙、すべて一代限りで今のうちにさっさと捨てる。その捨てるという作業に専念できる日が目下の私にはそれほど多くないので、整理は遅々として進まない。
空間が増えるということは、老年の家事労働が楽になることなのである。拭き掃除も簡単になる。探し物もしなくて済む。腰が痛い人は屈まなくていい。嫌な匂いを家の中に溜めず、いつも風通しのいい状態を保てる。
床もテーブルも物置ではない。ものはその本来の目的のために働けるようにしてやることが大切だ。床は移動のための空間なのだから、何も障害物なしに動ける状態がよく、テーブルは食事のためだけにいつも空けておかなければならない。
冷蔵庫の中のものも、古いものから残さずに使って、必ず別の料理に使う。しかし衣服などいつも古いものばかり着ていると、老人自身が古びているのだからますます見苦しくなる。時々古いものを捨てて新しい衣服を取り入れ、こざっぱりした暮らしをするのが私の理想だ。
他者を愛することが自分を幸せにする
第二の条件は、老年がもうそれほど先のことを考えなくてよくなっていることから始まる。私は自分が死んだ後のことなど考えられないし、またあまり考えて口を出してはいけないような気もしている。だから、自由になる範囲のお金や心や時間は、他人のために使うことが満たされるための条件のような気がしている。
それはこういう理論からである。人間は人に与えられる立場にいるうちはどんなに年を取っても現役なのである。しかし受けることだけを期待するようになると、それは幼児か老人の心境だから、つまりまだ一人前でないか、既に引退した人物かどちらかになるのである。老年になっても、全く自分の利益しか考えなかったら、その老人は孤立して当然だ。
つまり人生を活力で満たすものは「愛」、相手が幸福であることを願う姿勢なのである。他者を愛することが自分を幸せにする、という一見矛盾した真理を認めること、これが第三の条件なのだが、この程度のことは誰でも知っていると思っていると、それがそうでもない。老化は利己主義の方向にどんどん傾くからである。
自分だけの利益や幸福を追求しているうちは、不思議なことに自分一人さえ幸福にならない。これは別に老年だけの特殊事情ではないのだが、若い世代でも、まず自分の利益を守ることが人権というものなのだ、と教わったらしいから、幸福になりようがない。自分のことだけを考える子供のような年寄りになるのは、やはり失敗した老年を迎えたことなのである。
ないものを数えずに、あるものを数える 第四の条件は、適度の諦めである。
この世で思い通りの生を生きた人はいないのだ。それを思えば、日本人の99パーセントまでは、実生活において人間らしくあしらわれている。水道や電気の恩恵に浴し、今晩食べるもののない人も例外的にしかいない。医療機関に到達できずに痛みに耐えている人もいないし、子供を通わす学校がないという人もいない。
それらはすべて、世界中の人が当然受けているものではないのである。世界には常に政治的な難民と呼ばれる人や、日本人と比較しようもないほどの動物のようなみじめさの中で暮らす貧民がいる。彼らと比べると、総じて日本人は人間として最低条件が整った生活をして生きてきた。もって瞑すべし、と私はいつも思う。
ほんとうは社会の不平等や、親子の不仲や、友の裏切りは、人間としての人生の許容範囲の中にある。事故や事件で命を失うことは許容の範囲とは言えないかもしれないが、潜在的可能性の中にはある。「ないものを数えずに、あるもの(受けているもの)を数えなさい」という言葉がある。私はこの姿勢が好きだ。この知恵に満ちた姿勢でてきめん幸せになるからだ。
第一の単純な条件は、身辺整理ができていることである。まずガラクタを捨て、家の空間を多くする。自分にとって大切なものも、私の死後は、娘や息子にとってさえ要らない場合が多い。ましてや他人には何の価値もない。写真、記念品、トロフィー、手紙、すべて一代限りで今のうちにさっさと捨てる。そう思います同感です。私は自分が死んだ後のことなど考えられないし、またあまり考えて口を出してはいけないような気もしている。だから、自由になる範囲のお金や心や時間は、他人のために使うことが満たされるための条件のような気がしている。確かにそうですね。人生を活力で満たすものは「愛」、相手が幸福であることを願う姿勢なのである。他者を愛することが自分を幸せにする、という一見矛盾した真理を認めること、これが第三の条件なのだが、この程度のことは誰でも知っていると思っていると、それがそうでもない。老化は利己主義の方向にどんどん傾くからである。自分だけの利益や幸福を追求しているうちは、不思議なことに自分一人さえ幸福にならない。これは別に老年だけの特殊事情ではないのだが、若い世代でも、まず自分の利益を守ることが人権というものなのだ、と教わったらしいから、幸福になりようがない。自分のことだけを考える子供のような年寄りになるのは、やはり失敗した老年を迎えたことなのである。ないものを数えずに、あるものを数える 第四の条件は、適度の諦めである。この世で思い通りの生を生きた人はいないのだ。それを思えば、日本人の99パーセントまでは、実生活において人間らしくあしらわれている。水道や電気の恩恵に浴し、今晩食べるもののない人も例外的にしかいない。医療機関に到達できずに痛みに耐えている人もいないし、子供を通わす学校がないという人もいない。適度の諦めが必要ですね。納得です。ほんとうは社会の不平等や、親子の不仲や、友の裏切りは、人間としての人生の許容範囲の中にある。事故や事件で命を失うことは許容の範囲とは言えないかもしれないが、潜在的可能性の中にはある。「ないものを数えずに、あるもの(受けているもの)を数えなさい」という言葉がある。私はこの姿勢が好きだ。この知恵に満ちた姿勢でてきめん幸せになるからだ。「ないものを数えずに、あるもの(受けているもの)を数えなさい」そうですね。大変勉強になりました。これからの残りの人生の教訓にしたいと思います。
私を幸福にしてくれる要素は四つある 老年に向けての幸福論などというものを改めて必要とするようになったのは、私たちの寿命が長くなったからである。
高齢まで生き延びた人たちが、もしも思考するという能力を残しているなら、それは大きな幸せだが、自分の意志もなしに長寿を与えられているとしたら、それは手放しで喜べることではない。
老年の幸福を、私は敢えて健康を別にして考えたいと思う。なぜなら健康は深酒、暴食、喫煙のような自分に責任のある要素を除くと、素質的な要素が多いから、自分の自由にならないのである。
そして健康という要素を除外しても、私を幸福にしてくれる要素は四つあるだろうという気がする。
写真、記念品、手紙は一代限りで捨てる
第一の単純な条件は、身辺整理ができていることである。まずガラクタを捨て、家の空間を多くする。自分にとって大切なものも、私の死後は、娘や息子にとってさえ要らない場合が多い。ましてや他人には何の価値もない。写真、記念品、トロフィー、手紙、すべて一代限りで今のうちにさっさと捨てる。その捨てるという作業に専念できる日が目下の私にはそれほど多くないので、整理は遅々として進まない。
空間が増えるということは、老年の家事労働が楽になることなのである。拭き掃除も簡単になる。探し物もしなくて済む。腰が痛い人は屈まなくていい。嫌な匂いを家の中に溜めず、いつも風通しのいい状態を保てる。
床もテーブルも物置ではない。ものはその本来の目的のために働けるようにしてやることが大切だ。床は移動のための空間なのだから、何も障害物なしに動ける状態がよく、テーブルは食事のためだけにいつも空けておかなければならない。
冷蔵庫の中のものも、古いものから残さずに使って、必ず別の料理に使う。しかし衣服などいつも古いものばかり着ていると、老人自身が古びているのだからますます見苦しくなる。時々古いものを捨てて新しい衣服を取り入れ、こざっぱりした暮らしをするのが私の理想だ。
他者を愛することが自分を幸せにする
第二の条件は、老年がもうそれほど先のことを考えなくてよくなっていることから始まる。私は自分が死んだ後のことなど考えられないし、またあまり考えて口を出してはいけないような気もしている。だから、自由になる範囲のお金や心や時間は、他人のために使うことが満たされるための条件のような気がしている。
それはこういう理論からである。人間は人に与えられる立場にいるうちはどんなに年を取っても現役なのである。しかし受けることだけを期待するようになると、それは幼児か老人の心境だから、つまりまだ一人前でないか、既に引退した人物かどちらかになるのである。老年になっても、全く自分の利益しか考えなかったら、その老人は孤立して当然だ。
つまり人生を活力で満たすものは「愛」、相手が幸福であることを願う姿勢なのである。他者を愛することが自分を幸せにする、という一見矛盾した真理を認めること、これが第三の条件なのだが、この程度のことは誰でも知っていると思っていると、それがそうでもない。老化は利己主義の方向にどんどん傾くからである。
自分だけの利益や幸福を追求しているうちは、不思議なことに自分一人さえ幸福にならない。これは別に老年だけの特殊事情ではないのだが、若い世代でも、まず自分の利益を守ることが人権というものなのだ、と教わったらしいから、幸福になりようがない。自分のことだけを考える子供のような年寄りになるのは、やはり失敗した老年を迎えたことなのである。
ないものを数えずに、あるものを数える 第四の条件は、適度の諦めである。
この世で思い通りの生を生きた人はいないのだ。それを思えば、日本人の99パーセントまでは、実生活において人間らしくあしらわれている。水道や電気の恩恵に浴し、今晩食べるもののない人も例外的にしかいない。医療機関に到達できずに痛みに耐えている人もいないし、子供を通わす学校がないという人もいない。
それらはすべて、世界中の人が当然受けているものではないのである。世界には常に政治的な難民と呼ばれる人や、日本人と比較しようもないほどの動物のようなみじめさの中で暮らす貧民がいる。彼らと比べると、総じて日本人は人間として最低条件が整った生活をして生きてきた。もって瞑すべし、と私はいつも思う。
ほんとうは社会の不平等や、親子の不仲や、友の裏切りは、人間としての人生の許容範囲の中にある。事故や事件で命を失うことは許容の範囲とは言えないかもしれないが、潜在的可能性の中にはある。「ないものを数えずに、あるもの(受けているもの)を数えなさい」という言葉がある。私はこの姿勢が好きだ。この知恵に満ちた姿勢でてきめん幸せになるからだ。
第一の単純な条件は、身辺整理ができていることである。まずガラクタを捨て、家の空間を多くする。自分にとって大切なものも、私の死後は、娘や息子にとってさえ要らない場合が多い。ましてや他人には何の価値もない。写真、記念品、トロフィー、手紙、すべて一代限りで今のうちにさっさと捨てる。そう思います同感です。私は自分が死んだ後のことなど考えられないし、またあまり考えて口を出してはいけないような気もしている。だから、自由になる範囲のお金や心や時間は、他人のために使うことが満たされるための条件のような気がしている。確かにそうですね。人生を活力で満たすものは「愛」、相手が幸福であることを願う姿勢なのである。他者を愛することが自分を幸せにする、という一見矛盾した真理を認めること、これが第三の条件なのだが、この程度のことは誰でも知っていると思っていると、それがそうでもない。老化は利己主義の方向にどんどん傾くからである。自分だけの利益や幸福を追求しているうちは、不思議なことに自分一人さえ幸福にならない。これは別に老年だけの特殊事情ではないのだが、若い世代でも、まず自分の利益を守ることが人権というものなのだ、と教わったらしいから、幸福になりようがない。自分のことだけを考える子供のような年寄りになるのは、やはり失敗した老年を迎えたことなのである。ないものを数えずに、あるものを数える 第四の条件は、適度の諦めである。この世で思い通りの生を生きた人はいないのだ。それを思えば、日本人の99パーセントまでは、実生活において人間らしくあしらわれている。水道や電気の恩恵に浴し、今晩食べるもののない人も例外的にしかいない。医療機関に到達できずに痛みに耐えている人もいないし、子供を通わす学校がないという人もいない。適度の諦めが必要ですね。納得です。ほんとうは社会の不平等や、親子の不仲や、友の裏切りは、人間としての人生の許容範囲の中にある。事故や事件で命を失うことは許容の範囲とは言えないかもしれないが、潜在的可能性の中にはある。「ないものを数えずに、あるもの(受けているもの)を数えなさい」という言葉がある。私はこの姿勢が好きだ。この知恵に満ちた姿勢でてきめん幸せになるからだ。「ないものを数えずに、あるもの(受けているもの)を数えなさい」そうですね。大変勉強になりました。これからの残りの人生の教訓にしたいと思います。



