同調圧力が強まり個の力が弱まっている社会は望ましくないでしょう[2024年10月02日(Wed)]
DIAMOND online2024年7月16日付け「スポーツ選手の「感動を与えたい」は厚かましい、元NHKアナの人気作家が感じる“危うさ”の正体」から、ここ数年、高齢女性の一人暮らしや慎ましくも豊かなライフスタイルを綴った本が注目を集めている。人生100年時代、老いてもなお人生を生き生きと楽しむためにはどうすればいいのか。元アナウンサーで現在87歳の下重暁子が「自分で自分を楽しませる」ための秘訣を綴る。
「一人の時間」を 1日15分持とう
高齢女性の「一人暮らし」本がブームだという。
『87歳、古い団地で愉しむ ひとりの暮らし』(多良美智子著)に『89歳、ひとり暮らし。お金がなくても幸せな日々の作り方』(大崎博子著)、『102歳、一人暮らし。 哲代おばあちゃんの心も体もさびない生き方』(石井哲代、中国新聞社著)など、書店には、元気に一人暮らしをしている方々の本がずらりと並ぶ。
これらの本の著者たちは、配偶者に先立たれて一人暮らしをしている人もいれば、 離婚して一人暮らしをしている人、子どもや孫はいるが自分の希望で別々に暮らしている人など、家族関係や背景はさまざまだ。ただ、一人暮らしをしている点が共通している。
結婚していてもしていなくても、子どもがいてもいなくても、最後は一人暮らしになる人は多い。明るく元気に一人暮らしをしている人の生活ぶりや人生哲学から、何かしらヒントを得たいと思う人が多いのだろう。
私はいまのところ二人暮らしだが、もともと孤独を好む上に、家庭内別居をしている状態なので、一人の時間が多い。
「一人の時間」を持つことは、家族と生活をする人にとっても大切である。
一人の時間を持つことで自分を見つめ直し、自分について考えることができる。
といっても、子どもがいる、仕事がある、介護が必要な家族がいるなど、人それぞれ事情はあるだろう。そういう人には、一日15分だけでも「一人の時間」を持つことを勧めたい。
この時間はテレビを消して、本も開かず、家事もしてはいけない。自分と向き合う一人の時間が、自分を掘り、自分の個を育てることになるのだから。
将来の一人暮らしに備えるならば、単独行動に慣れること、そして一人でできる趣味を見つけておくのがよいだろう。
私は若いころから単独行動ばかりだ。買い物は基本的に一人で行き、つれあいの服を買っておく、などということはしない。夫や子どものものを買う女性は多いが、小さい子どもの間はともかく、自分のものは自分で選ぶのがいい。それが自分勝手に生きるということだ。 最近の若者は性別問わず、おひとりさまを好むようだが、中高年の女性は慣れていないからか、“つるむ”のが好きだ。デパートに家族と行き、喫茶店で友人とお喋りするのが日課になっている人も多い。
「一人で映画館に行けない」 「一人でレストランに入れない」
という人はいるが、それはやったことがないから不安に感じるだけで、少し勇気を出してやってみると、その心地よさに気づくだろう。そもそも周囲は、あなたが一人かどうかなど、気にしていない。気にしているのはあなただけだ。
一人で行動できるようになると、行動範囲が広がるし、これまで気づかなかった景色に気づくようになる。面倒な人間関係や、無理して付き合っていた友人を断ち切ることもできる。 一人を楽しむことができれば、配偶者の存在など、それほど気にならなくなっていく。それでいいと思う。
自分だけの趣味と 一人遊びの重要性
自分で自分を楽しませる。配偶者がいようがいまいが、これが生きていく基本だと私は思っている。
そのためには一人遊びに慣れること。一人でできる趣味を持つことも大切である。趣味に良し悪しはないが、一人で楽しめるものは、他人に左右されず、一生楽しめる。
たとえば絵を描く、文章を書く、歌を歌うなどの趣味は、思う存分、自分勝手の境地に遊ぶことができる。
一人遊びが好きな私にとって、我慢ならないのは、皆で一緒に何かをさせようとする光景だ。テレビなどで見る高齢者施設の娯楽風景のことである。
何十人もの入居者が集められて、同じ遊戯をさせられたり、折り紙や習字などをさせられている。一人ひとりの趣味・趣向は違うはずなのに、施設にとっては集団行動させるのが効率的なのだろう。安全面からも利点があるのだろう。
だが、老人だからというだけで、つまり年齢という条件によって、誰もかれもが一括りにされることに、私は耐えられない。
仮に認知症になっていても、人間は個として尊重されるべきである。それができないのは、個々の施設やスタッフの問題というより、日本のありようの問題のように感じられる。
高齢者が生きにくい世の中になりつつあることに怒りを感じ、以前『老人をなめるな』という本を書いた。いまは若い人が少ないからと若い人ばかりを大切にし、高齢者を蔑ろにする社会は世代間の分断を加速させ、結局のところ、若い人も生きづらくなる。
そもそも私は年齢は自分で決めるものだと思っている。
加齢による肉体的変化は受け入れなければならない。だからといって、 70代や80代が年寄りと誰が決めたのか。外部が決める物理的な年齢に囚われて、自分で自分を年寄りにしてしまってはいけない。年齢で自分の可能性を狭めてはいけないのだ。
いずれにしろ、高齢者施設に入っても入らなくても、死ぬまで一人で楽しめる何かを持っていたほうがいい。そのためにはいくつになっても新しいことを始めようという好奇心を持ち、感性を磨き続けたい。
どんな状況でも自分で自分を楽しませられる人は強いのだから。
「与えられる」ことに 慣れてはいけない
「自分で自分を楽しませる」が基本の私には、人に楽しませてもらうという発想がない。
だからこそ、スポーツ選手がインタビューで「感動を与えたい」などと発言していると、おやっと思う。
感動は人に与えられるものではなく、自分が自然に感じるものだ。自分の内側から湧き上がってくる感情を、他人がコントロールすることはできないし、してほしくもない。「感動を与えたい」という表現には、厚かましさを感じてしまう。
選手は自分のためにプレーをしてほしい。自分が楽しむため、自分が勝つために必死に戦う姿に、見る者は勝手に感動するのだ。
しかし世の中には、「感動を与えてくれてありがとう!」と感謝している人も少なくない。
これは危ういことだ。スポーツ選手のような選ばれし人が感動を与え、一般の人々がそれをありがたく受け取る、という関係性は危うい。
たかがスポーツではない。「与える−与えられる」の関係性に慣れると、大衆は誰かにコントロールされることに疑問を覚えず、受け身になっていく。
国のリーダーたちに対しても、「安心させてもらおう、指示を出してもらおう」という姿勢になっていく。その先に明るい未来があるはずがない。
自分で自分を感動させ、自分で自分を楽しませる。意思も感情も、自分から出てくるものだと心得ておきたい。
誰かに楽しませてもらおうなどと考えていると、自分を失くしていく上に、そうならなかったときに他人に対して不平や不満が出る。家族や配偶者にイライラする。
誰も楽しませてくれないし、感動もさせてくれない。守ってもくれないし、安心もさせてくれない。だからこそ人は自分勝手に生きるしかないのだし、それが自分のためになるのだ。 手始めに、毎日着る服で自分を喜ばせてみたらどうか。
日本には「よそ行き」という言葉があり、普段着より、よそ行きのほうが大事だという風潮がある。だが私は反対で、普段着こそ大事だと思っている。普段の積み重ねがその人を作り上げていくからだ。
とはいえ大袈裟に考える必要はない。
いま持っている服に、一つブローチをつけるだけでもスカーフを巻くだけでも気分が変わる。私は人があまり持っていない、ちょっと珍しいブローチが好きだ。子どもの手のひらほどの大きさのものや、蝉や蝶など昆虫のモチーフ、アルマーニの蜘蛛のモチーフのものなど、気に入ったものを集めている。
街ですれ違った人に「あら、ブローチ素敵ですね」と、声をかけられることがある。自分が好きで楽しんでいるものが、たまたま誰かに伝わるくらいがちょうどいい。
服装は自己表現。普段着こそ重要。私はそうした考えを昔から持っていた。
高校時代、通っている学校の背広型の制服がダサくて気に入らなかった私は、自分でデザインして作ったセーラ服型の制服を着て学校に通っていた。先生に注意はされたが、卒業までそれで通した。
当時の教師は、異端の芽を摘まなかった。異端から、他にはない個性が育ってくることを知っていた。
翻っていまはどうだろう。2023年3月、髪型が校則違反だからと、学生を卒業式に出席させなかった高校の対応が問題になった。
この国のさまざまな局面で、同調圧力が強まっているように感じる。その結果、個の力が弱まっているのではないか。
結婚していてもしていなくても、子どもがいてもいなくても、最後は一人暮らしになる人は多い。明るく元気に一人暮らしをしている人の生活ぶりや人生哲学から、何かしらヒントを得たいと思う人が多いのだろう。一人の時間を持つことで自分を見つめ直し、自分について考えることができる。といっても、子どもがいる、仕事がある、介護が必要な家族がいるなど、人それぞれ事情はあるだろう。そういう人には、一日15分だけでも「一人の時間」を持つことを勧めたい。この時間はテレビを消して、本も開かず、家事もしてはいけない。自分と向き合う一人の時間が、自分を掘り、自分の個を育てることになるのだから。将来の一人暮らしに備えるならば、単独行動に慣れること、そして一人でできる趣味を見つけておくのがよいだろう。最後は1人暮らしになることは仕方ないですが、どのように考えて生きていくかということでしょう。自分で自分を楽しませる。配偶者がいようがいまいが、これが生きていく基本だと私は思っている。そのためには一人遊びに慣れること。一人でできる趣味を持つことも大切である。趣味に良し悪しはないが、一人で楽しめるものは、他人に左右されず、一生楽しめる。たとえば絵を描く、文章を書く、歌を歌うなどの趣味は、思う存分、自分勝手の境地に遊ぶことができる。一人ひとりが生きたいように生きいることができる社会がいいですね。何十人もの入居者が集められて、同じ遊戯をさせられたり、折り紙や習字などをさせられている。一人ひとりの趣味・趣向は違うはずなのに、施設にとっては集団行動させるのが効率的なのだろう。安全面からも利点があるのだろう。だが、老人だからというだけで、つまり年齢という条件によって、誰もかれもが一括りにされることに、私は耐えられない。仮に認知症になっていても、人間は個として尊重されるべきである。それができないのは、個々の施設やスタッフの問題というより、日本のありようの問題のように感じられる。いまは若い人が少ないからと若い人ばかりを大切にし、高齢者を蔑ろにする社会は世代間の分断を加速させ、結局のところ、若い人も生きづらくなる。誰もが一括りにされる施設は仕方ないですが、個を尊重すればそれぞれ行きたいように生きることができればいいのでしょう。「自分で自分を楽しませる」が基本の私には、人に楽しませてもらうという発想がない。だからこそ、スポーツ選手がインタビューで「感動を与えたい」などと発言していると、おやっと思う。感動は人に与えられるものではなく、自分が自然に感じるものだ。自分の内側から湧き上がってくる感情を、他人がコントロールすることはできないし、してほしくもない。「感動を与えたい」という表現には、厚かましさを感じてしまう。選手は自分のためにプレーをしてほしい。自分が楽しむため、自分が勝つために必死に戦う姿に、見る者は勝手に感動するのだ。しかし世の中には、「感動を与えてくれてありがとう!」と感謝している人も少なくない。これは危ういことだ。スポーツ選手のような選ばれし人が感動を与え、一般の人々がそれをありがたく受け取る、という関係性は危うい。たかがスポーツではない。「与える−与えられる」の関係性に慣れると、大衆は誰かにコントロールされることに疑問を覚えず、受け身になっていく。国のリーダーたちに対しても、「安心させてもらおう、指示を出してもらおう」という姿勢になっていく。その先に明るい未来があるはずがない。確かにその通りかもしれません。与える−与えられるの関係性は慣れると受け身になってしまう可能性があるでしょう。そのことをどう思うか考える必要があるでしょう。異端から、他にはない個性が育ってくることを知っていた。 翻っていまはどうだろう。2023年3月、髪型が校則違反だからと、学生を卒業式に出席させなかった高校の対応が問題になった。この国のさまざまな局面で、同調圧力が強まっているように感じる。その結果、個の力が弱まっているのではないか。同調圧力に抑圧されず一人ひとりの個性が尊重され生きたいように生き続けることができる社会が望ましいでしょう。
「一人の時間」を 1日15分持とう
高齢女性の「一人暮らし」本がブームだという。
『87歳、古い団地で愉しむ ひとりの暮らし』(多良美智子著)に『89歳、ひとり暮らし。お金がなくても幸せな日々の作り方』(大崎博子著)、『102歳、一人暮らし。 哲代おばあちゃんの心も体もさびない生き方』(石井哲代、中国新聞社著)など、書店には、元気に一人暮らしをしている方々の本がずらりと並ぶ。
これらの本の著者たちは、配偶者に先立たれて一人暮らしをしている人もいれば、 離婚して一人暮らしをしている人、子どもや孫はいるが自分の希望で別々に暮らしている人など、家族関係や背景はさまざまだ。ただ、一人暮らしをしている点が共通している。
結婚していてもしていなくても、子どもがいてもいなくても、最後は一人暮らしになる人は多い。明るく元気に一人暮らしをしている人の生活ぶりや人生哲学から、何かしらヒントを得たいと思う人が多いのだろう。
私はいまのところ二人暮らしだが、もともと孤独を好む上に、家庭内別居をしている状態なので、一人の時間が多い。
「一人の時間」を持つことは、家族と生活をする人にとっても大切である。
一人の時間を持つことで自分を見つめ直し、自分について考えることができる。
といっても、子どもがいる、仕事がある、介護が必要な家族がいるなど、人それぞれ事情はあるだろう。そういう人には、一日15分だけでも「一人の時間」を持つことを勧めたい。
この時間はテレビを消して、本も開かず、家事もしてはいけない。自分と向き合う一人の時間が、自分を掘り、自分の個を育てることになるのだから。
将来の一人暮らしに備えるならば、単独行動に慣れること、そして一人でできる趣味を見つけておくのがよいだろう。
私は若いころから単独行動ばかりだ。買い物は基本的に一人で行き、つれあいの服を買っておく、などということはしない。夫や子どものものを買う女性は多いが、小さい子どもの間はともかく、自分のものは自分で選ぶのがいい。それが自分勝手に生きるということだ。 最近の若者は性別問わず、おひとりさまを好むようだが、中高年の女性は慣れていないからか、“つるむ”のが好きだ。デパートに家族と行き、喫茶店で友人とお喋りするのが日課になっている人も多い。
「一人で映画館に行けない」 「一人でレストランに入れない」
という人はいるが、それはやったことがないから不安に感じるだけで、少し勇気を出してやってみると、その心地よさに気づくだろう。そもそも周囲は、あなたが一人かどうかなど、気にしていない。気にしているのはあなただけだ。
一人で行動できるようになると、行動範囲が広がるし、これまで気づかなかった景色に気づくようになる。面倒な人間関係や、無理して付き合っていた友人を断ち切ることもできる。 一人を楽しむことができれば、配偶者の存在など、それほど気にならなくなっていく。それでいいと思う。
自分だけの趣味と 一人遊びの重要性
自分で自分を楽しませる。配偶者がいようがいまいが、これが生きていく基本だと私は思っている。
そのためには一人遊びに慣れること。一人でできる趣味を持つことも大切である。趣味に良し悪しはないが、一人で楽しめるものは、他人に左右されず、一生楽しめる。
たとえば絵を描く、文章を書く、歌を歌うなどの趣味は、思う存分、自分勝手の境地に遊ぶことができる。
一人遊びが好きな私にとって、我慢ならないのは、皆で一緒に何かをさせようとする光景だ。テレビなどで見る高齢者施設の娯楽風景のことである。
何十人もの入居者が集められて、同じ遊戯をさせられたり、折り紙や習字などをさせられている。一人ひとりの趣味・趣向は違うはずなのに、施設にとっては集団行動させるのが効率的なのだろう。安全面からも利点があるのだろう。
だが、老人だからというだけで、つまり年齢という条件によって、誰もかれもが一括りにされることに、私は耐えられない。
仮に認知症になっていても、人間は個として尊重されるべきである。それができないのは、個々の施設やスタッフの問題というより、日本のありようの問題のように感じられる。
高齢者が生きにくい世の中になりつつあることに怒りを感じ、以前『老人をなめるな』という本を書いた。いまは若い人が少ないからと若い人ばかりを大切にし、高齢者を蔑ろにする社会は世代間の分断を加速させ、結局のところ、若い人も生きづらくなる。
そもそも私は年齢は自分で決めるものだと思っている。
加齢による肉体的変化は受け入れなければならない。だからといって、 70代や80代が年寄りと誰が決めたのか。外部が決める物理的な年齢に囚われて、自分で自分を年寄りにしてしまってはいけない。年齢で自分の可能性を狭めてはいけないのだ。
いずれにしろ、高齢者施設に入っても入らなくても、死ぬまで一人で楽しめる何かを持っていたほうがいい。そのためにはいくつになっても新しいことを始めようという好奇心を持ち、感性を磨き続けたい。
どんな状況でも自分で自分を楽しませられる人は強いのだから。
「与えられる」ことに 慣れてはいけない
「自分で自分を楽しませる」が基本の私には、人に楽しませてもらうという発想がない。
だからこそ、スポーツ選手がインタビューで「感動を与えたい」などと発言していると、おやっと思う。
感動は人に与えられるものではなく、自分が自然に感じるものだ。自分の内側から湧き上がってくる感情を、他人がコントロールすることはできないし、してほしくもない。「感動を与えたい」という表現には、厚かましさを感じてしまう。
選手は自分のためにプレーをしてほしい。自分が楽しむため、自分が勝つために必死に戦う姿に、見る者は勝手に感動するのだ。
しかし世の中には、「感動を与えてくれてありがとう!」と感謝している人も少なくない。
これは危ういことだ。スポーツ選手のような選ばれし人が感動を与え、一般の人々がそれをありがたく受け取る、という関係性は危うい。
たかがスポーツではない。「与える−与えられる」の関係性に慣れると、大衆は誰かにコントロールされることに疑問を覚えず、受け身になっていく。
国のリーダーたちに対しても、「安心させてもらおう、指示を出してもらおう」という姿勢になっていく。その先に明るい未来があるはずがない。
自分で自分を感動させ、自分で自分を楽しませる。意思も感情も、自分から出てくるものだと心得ておきたい。
誰かに楽しませてもらおうなどと考えていると、自分を失くしていく上に、そうならなかったときに他人に対して不平や不満が出る。家族や配偶者にイライラする。
誰も楽しませてくれないし、感動もさせてくれない。守ってもくれないし、安心もさせてくれない。だからこそ人は自分勝手に生きるしかないのだし、それが自分のためになるのだ。 手始めに、毎日着る服で自分を喜ばせてみたらどうか。
日本には「よそ行き」という言葉があり、普段着より、よそ行きのほうが大事だという風潮がある。だが私は反対で、普段着こそ大事だと思っている。普段の積み重ねがその人を作り上げていくからだ。
とはいえ大袈裟に考える必要はない。
いま持っている服に、一つブローチをつけるだけでもスカーフを巻くだけでも気分が変わる。私は人があまり持っていない、ちょっと珍しいブローチが好きだ。子どもの手のひらほどの大きさのものや、蝉や蝶など昆虫のモチーフ、アルマーニの蜘蛛のモチーフのものなど、気に入ったものを集めている。
街ですれ違った人に「あら、ブローチ素敵ですね」と、声をかけられることがある。自分が好きで楽しんでいるものが、たまたま誰かに伝わるくらいがちょうどいい。
服装は自己表現。普段着こそ重要。私はそうした考えを昔から持っていた。
高校時代、通っている学校の背広型の制服がダサくて気に入らなかった私は、自分でデザインして作ったセーラ服型の制服を着て学校に通っていた。先生に注意はされたが、卒業までそれで通した。
当時の教師は、異端の芽を摘まなかった。異端から、他にはない個性が育ってくることを知っていた。
翻っていまはどうだろう。2023年3月、髪型が校則違反だからと、学生を卒業式に出席させなかった高校の対応が問題になった。
この国のさまざまな局面で、同調圧力が強まっているように感じる。その結果、個の力が弱まっているのではないか。
結婚していてもしていなくても、子どもがいてもいなくても、最後は一人暮らしになる人は多い。明るく元気に一人暮らしをしている人の生活ぶりや人生哲学から、何かしらヒントを得たいと思う人が多いのだろう。一人の時間を持つことで自分を見つめ直し、自分について考えることができる。といっても、子どもがいる、仕事がある、介護が必要な家族がいるなど、人それぞれ事情はあるだろう。そういう人には、一日15分だけでも「一人の時間」を持つことを勧めたい。この時間はテレビを消して、本も開かず、家事もしてはいけない。自分と向き合う一人の時間が、自分を掘り、自分の個を育てることになるのだから。将来の一人暮らしに備えるならば、単独行動に慣れること、そして一人でできる趣味を見つけておくのがよいだろう。最後は1人暮らしになることは仕方ないですが、どのように考えて生きていくかということでしょう。自分で自分を楽しませる。配偶者がいようがいまいが、これが生きていく基本だと私は思っている。そのためには一人遊びに慣れること。一人でできる趣味を持つことも大切である。趣味に良し悪しはないが、一人で楽しめるものは、他人に左右されず、一生楽しめる。たとえば絵を描く、文章を書く、歌を歌うなどの趣味は、思う存分、自分勝手の境地に遊ぶことができる。一人ひとりが生きたいように生きいることができる社会がいいですね。何十人もの入居者が集められて、同じ遊戯をさせられたり、折り紙や習字などをさせられている。一人ひとりの趣味・趣向は違うはずなのに、施設にとっては集団行動させるのが効率的なのだろう。安全面からも利点があるのだろう。だが、老人だからというだけで、つまり年齢という条件によって、誰もかれもが一括りにされることに、私は耐えられない。仮に認知症になっていても、人間は個として尊重されるべきである。それができないのは、個々の施設やスタッフの問題というより、日本のありようの問題のように感じられる。いまは若い人が少ないからと若い人ばかりを大切にし、高齢者を蔑ろにする社会は世代間の分断を加速させ、結局のところ、若い人も生きづらくなる。誰もが一括りにされる施設は仕方ないですが、個を尊重すればそれぞれ行きたいように生きることができればいいのでしょう。「自分で自分を楽しませる」が基本の私には、人に楽しませてもらうという発想がない。だからこそ、スポーツ選手がインタビューで「感動を与えたい」などと発言していると、おやっと思う。感動は人に与えられるものではなく、自分が自然に感じるものだ。自分の内側から湧き上がってくる感情を、他人がコントロールすることはできないし、してほしくもない。「感動を与えたい」という表現には、厚かましさを感じてしまう。選手は自分のためにプレーをしてほしい。自分が楽しむため、自分が勝つために必死に戦う姿に、見る者は勝手に感動するのだ。しかし世の中には、「感動を与えてくれてありがとう!」と感謝している人も少なくない。これは危ういことだ。スポーツ選手のような選ばれし人が感動を与え、一般の人々がそれをありがたく受け取る、という関係性は危うい。たかがスポーツではない。「与える−与えられる」の関係性に慣れると、大衆は誰かにコントロールされることに疑問を覚えず、受け身になっていく。国のリーダーたちに対しても、「安心させてもらおう、指示を出してもらおう」という姿勢になっていく。その先に明るい未来があるはずがない。確かにその通りかもしれません。与える−与えられるの関係性は慣れると受け身になってしまう可能性があるでしょう。そのことをどう思うか考える必要があるでしょう。異端から、他にはない個性が育ってくることを知っていた。 翻っていまはどうだろう。2023年3月、髪型が校則違反だからと、学生を卒業式に出席させなかった高校の対応が問題になった。この国のさまざまな局面で、同調圧力が強まっているように感じる。その結果、個の力が弱まっているのではないか。同調圧力に抑圧されず一人ひとりの個性が尊重され生きたいように生き続けることができる社会が望ましいでしょう。