おおっ糸我の町が見えてきた。

こんな風情の中、どんどん下る。みかん山だ。

するとこの景色。

そう、この溜池は野宿地第二候補の場所だった。真ん中少し右側の東屋がある横にちょっとした草地がある。グーグルマップから確認してた(笑)。先の溜池と同じく周りに人家は無いが、農家さんの移動はあるね。でもここも通り過ぎた。まだ時間が早いな!と。
この手書きの看板は必要かぁ?とさえ思った。それほどしっかりしたよい場所にあったからだが、これだけだとインバウンドの人にはわからないか。インバウンドの人たちは熊野古道と言う字は覚え意識してると聞いた事ある。
この石道標は江戸時代のものだったが、善太郎とは会っていない年号だったのが悔しく(笑)。

こんな場所も通り過ぎ。

この説明にはげんなりしたな。

最初の部分。なんか言葉をうまくすり替えているじょ?と。上代より?、、、蟻の熊野詣でとは誰の事やねん!?と。この道をたくさんの人が歩いたと伝えたいのだろう。何故か?と。江戸時代前なら歩くのは僧侶か修験者ぐらいだった事だろう。蟻さんらは上皇らの一行だろうし、、、。先の糸我の看板のように史実に沿っての説明がほしいな。現代の巡礼の気持ちの中ではアリのままの情報でよいんだぜ。
うん。これは三重県も同じ事。あまり美化しないで史実を伝えてほしいと願う。神仏に向かって歩いているのだから。
まあボクの勝手な認識間違いならよいんだけど。
繁栄と衰退。

心が痛む。うん。他人事ではない。ボクもしっかり先を考えないと!と。
善太郎道中日記では 右山一つ越えて下り道の右側にひばり山あり と。
これだ!。

この石道標の年号は大正五年だった。残念、善太郎らには会ってないが、まさしくここがひばり山の入り口だ。感動!。よく見ると下の方で折れているのに気付く。さっきのもそうだった。地震で折れたのかな?と。でも大切にされてきた事が本当に素晴らしいと思った。
道が平坦になった。町中心部に入った。
糸我稲荷神社だ。

つづく〜( ´ ▽ ` )
by理事長