印南地蔵尊を左に見ながら下りて来た町中の入り口の場所だ。

この地で善太郎らは一泊しているんだ。
ちょっとわかりずらいが、右側の家側に細い路地がある。ボクの勝手な推測が始まった。真っ直ぐの車道は明治から昭和にかけての道だろうと。江戸時代では車道左側の家裏は印南川で海に程近く浜辺で家を建てるような敷地になっていなかっただろう。
以前、歴史研究家の大御所からよく言われた事。今の地形から判断するな!と。昔と言っても江戸時代ぐらいの事なら、山の高さ形はほとんど変わらないだろう。山から川へそして海へと。川は今より広かったことだろう。敷地を増やすため川に堤防を作り川を閉じ込めていったんだ。そして山から敷地を考えていく。川の水の当たる側、当たらない側を考えていくと、なんとなく当時の地形が見えてくる。
ここには川に突き出すように小高い山がある。Googleマップを拡大していくと印南大権現と言う鳥居のマークがある。善三郎の道中日記には、わらし権現の社あり と。これを鵜呑みに考えると、その山根を熊野古道が通っていたとボクは考えたんだ。なので地蔵尊から真っ直ぐ行かずに山根側に道があったただろうと。
ここだ。

当時はこれほど直角には曲がってないと思うが、ここだよ!と言う天の声が聞こえたような(笑)。
この地では方向さえ間違わなければ、山と川に挟まれた狭い空間だ。迷うことはないなと考え、わらし権現を探す事に。
恐る恐る細い路地に入って行くとおじさんが居た。ボクもおじさんなんだが、かなり年上のおじさんね。
ボクはおじさんにストレートに聞いていた。ここが熊野古道と違いますか?と。するとおじさんは、びっくりしたように、よくわかったね!ここが本来の熊野古道なんだ!と言ってついて来なはれ!と。

ここだ!。この分かれ道。

熊野古道は左側なんだよ!と。もちろんボクもそう思う。しかし、わらし権現なんて無いよ!と。わざわざありがとうございましたと、おじさんに礼を言ってここで別れた。小さな墓があった。積まれた墓石ら善太郎に会ったよ〜と教えてくれていたか(笑)。

そしてこの井戸。

振り返る。

素晴らしい!。

これを見た途端に地震モードになったボク。
これまで幾度津波が襲って来た紀伊半島の湾岸だ。それは私の地域も同じ事。熊野古道のルートも時代によりいろいろ変化してきたのだろうと。
わらし権現探しが始まった。この山の上に何かしら手がかりがあるだろうと。

うん?畑があった。

そりゃそうだ!簡単に見つかるはずはない。
戻り続きを行く事に。
間違いなくここは熊野古道だろう!と。

もうワクワクして進む進む(笑)。

分岐点が。もちろん左側へ。

出た!。

印南川だ。おそらく昔はここで舟渡ししてたのだろう!と勝手に決め込んだ(笑)。
下流側。見える橋は国道42号線だ。

上流側。今から行く旧道の橋だ。

なんとあの橋の近くで、さっき道案内してくれたおじさんとまた会う事に!。
にいちゃん!権現思い出した!と。
ええっ!!とボク。
はてさてどうなる事やら(笑)。
つづく〜( ´ ▽ ` )
by理事長