大阪の淀川では、江戸時代の淀川舟運の航路を一部再現した「蘇れ!!淀川の舟運」が、春と秋の期間限定で運航され、2026年秋は、10月2日から12日まで運航されます。
今日のブログでは、船の科学館の収蔵資料から、淀川舟運の歴史を見ていきましょう。
淀川は、古代から水運が盛んで、京都伏見〜大坂間の物資輸送の大動脈であると同時に、畿内水運網の幹線水路として重要な役割を果たしました。
また、川幅が広い淀川に橋を架けることは大変難しく、橋をかけても洪水のたびに木の橋は流されてしまうため、淀川の両岸には渡し船が往来していました。
豊臣秀吉が伏見城を建ててからは、京都では、伏見港が交通と商業の中心地となって栄え、淀川を運ばれてきた荷物は伏見港で荷揚げされるようになり、多くの船が行きかうようになりました。
秀吉は、二十石船や三十石船に朱印状を与えて船を管理し、朱印状を与えられた三十石船は、関所の通行手形(過書)を持つ「過書船」(河関通行税免除の特権を持つ船)として伏見と大阪の間を航行しました。
小回りが利く二十石船以下の船「淀船」にも過書船と同じ特権が与えられ、伏見・木津川・桂川など淀川の川すじの荷物を運びました。
その後、徳川家康も淀川を行き来する船に朱印状を与え、船を管理しました。 享保7(1722)年に淀川を航行する船の数は、大坂からの上り船が年間3,600隻、下りの船が年間2,500隻だったと書かれた資料が残っています。
「淀川両岸一覧」の「伏見京橋」からは、三十石船の発着地として上り・下りの旅人で賑わう様子がうかがえます。

絵図 版本「淀川両岸一覧 伏見の京橋」
刊:文久元(1861)年
寸法:178×120
著:暁 晴翁
画:松川半山
所蔵:船の科学館
江戸時代後期の淀川舟運の様子を描いた絵巻物「澱江風物図巻」には、琵琶湖南部から大坂に至る淀川流域沿岸要所が描かれ、その中には淀川を行き交う三十石船(過書船)が描かれています。
過書船は、淀川のような浅い川を航行するのに適した、喫水の浅い平底の艜船(ひらたぶね)の一種です。船首は左右の舷側板を先端で接合した「二枚水押(にまいみよし)」とよばれる特徴的な形をしていました。
大きさは、30石積で長さ37〜50尺(11.2〜15.2m)・幅6〜7尺(1.8〜2.15m)・深さ2尺(0.6m)前後、250石積で長さ95尺(28.8m)・幅15尺(4.5m)・深さ3尺(0.9m)余でした。250〜300石積の大船も就航していましたが、江戸時代末期には淀川の水深が浅くなったため、130石積を限度としたといわれています。
「早登り三十石」「早船三十石」「人乗三十石」とも呼ばれた旅客用の三十石船は、船頭・船子4人と乗客28人を乗せ、上りに一日または一晩、下りに半日または半夜をかけて、大坂と伏見の間を1日に昼夜2回定期的に運航していました。

絵図「澱江風物図巻」(複製)
寸法:400×1220
所蔵:船の科学館
提灯を吊るした三十石船には小船が横付けし、酒や食べ物を売っています。
この小船は「飯くらわんかい、酒のまんかい」などと威勢よく声をかけて飲食物を売った「くらわんか船」で、淀川の名物として知られていました。
また、岸の綱引道では、人足たちが綱を使って、川を遡る三十石船を力強く曳く光景が描かれています。このような綱引道(綱手道)は、両岸合わせて9ヶ所設けられていました。
三十石船は、江戸時代の文学や、後世の講談・浪曲などにも登場します。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、弥次郎兵衛と喜多八が伊勢参詣のあと京都に向かい、伏見から三十石船に乗って大坂へ下る場面が描かれています。
また、講談や浪曲で知られる『石松三十石船』では、森の石松が金刀比羅宮参りの帰りに大坂から三十石船に乗り合わせ、乗客たちと繰り広げる滑稽なやり取りが描かれています。
このように淀川舟運の主役として人や物を運んだ三十石船も、明治初めに小型蒸気船が就航すると、次第にその役割を譲っていきました。さらに鉄道網が発達すると、淀川の交通を担ってきた三十石船は、やがてその姿を消していきました。
かつて三十石船やくらわんか船が行き交った淀川での「蘇れ!!淀川の舟運」は、そうした淀川舟運の歴史に思いを馳せながら、水上から沿岸の風景を楽しむことができる貴重な機会となっています。
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