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今日の海の日

欧州航路に投入された超高速大型コンテナ船「鎌倉丸」は、昭和46年3月31日に進水

海運業界に輸送革命を起こしたコンテナ船の誕生は、昭和32(1957)年10月、アメリカ海運会社の戦時標準型貨物船を改装した「ゲートウェイ・シティ」(9,006総トン・35フィート226個積)が、ニューヨーク〜プエルトリコ航路に就航したことに始まります。

日本で初めてコンテナ船が就航したのは、日本郵船の「箱根丸」(16,420総トン・752TEU)で、昭和43(1968)年に北米西岸航路に就航しました。
昭和40年代後半に入ると、世界的に大型化が進み、かつ速力も要求され、日本の船会社も次々に超高速大型コンテナ船を投入しました。

そのなかの1隻が、昭和46(1971)年3月31日に三菱重工業神戸造船所で進水した日本郵船の「鎌倉丸」(51,139総トン・1,838TEU)で、日本・イギリス・ドイツの船会社が結成した「トリオ・グループ」の第1船としてヨーロッパ航路に就航しました。
コンテナ船の積載能力を表す単位「TEU(Twenty-foot Equivalent Unit)」は、長さ約6.1メートルの20フィートコンテナ1個を1TEU、長さ約12.2メートルの40フィートコンテナ1個を2TEUとしてカウントしています。

鎌倉丸進水絵葉書2.jpg

鎌倉丸進水絵葉書3.jpg

鎌倉丸進水絵葉書1.jpg

絵葉書「超高速コンテナ船「鎌倉丸」進水記念」
寸法:102×164
所蔵:船の科学館

コンテナ船は、規格化されたコンテナの中に荷物を詰めてトレーラーで港に運び、岸壁に備え付けられた専用クレーンで船に積み込み・積み降ろしを行い、さらにコンテナの状態で配送できるという一貫輸送を可能とし、「20世紀最大の発明」の一つ」に挙げられています。

007-2鎌倉丸写真 日本郵船 大井埠頭 コンテナ船.jpg

写真「超高速コンテナ船「鎌倉丸」」
所蔵:船の科学館

そして、コンテナ船による輸送は、地域の中心となるハブ港間は大型コンテナ船で、ハブ港と周辺港との間は小型コンテナ船で効率良く輸送されています。
欧州〜アジアのハブ港間には2万TEU以上、アジア〜アメリカ、アメリカ〜欧州間には1万TEUクラスの大型コンテナ船が就航し、ハブ港周辺では200〜1500TEUクラスのフィーダー船と呼ばれる中小型コンテナ船などが活躍しています。

コンテナ船ONE_2024大井ふ頭.jpg

撮影:船の科学館

この写真は、当館の職員が貨客船「おがさわら丸」(東京港竹芝〜小笠原村父島)の船上から、大井コンテナふ頭に着岸する世界最大級のコンテナ船(Ocean Network Express)を撮影したものです。
全長約400メートルの巨大な貨物船には、一度に2万4000個のコンテナを積み込むことができるそうで、鮮やかなマゼンタカラー(ピンク色)の船体は、世界中の港で目立つ存在になっています。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
【宗谷通信26】“宗谷”の「軸」にご注目!
こちらは、初代南極観測船“宗谷”です。

だんだんと寒さもやわらいで、東京では3月19日に桜の開花が発表されました。
"宗谷”が係留されている青海北ふ頭公園には、桜の木も植えられています。数は多くないですが、花が咲くとこんな風景も見られます。ぜひ桜の季節の“宗谷”にも会いに来てくださいね。

PXL_20240404_025030799.jpg

さて、今回は“宗谷”の「軸」に注目してみたいと思います。

先日、船体点検の際に「軸室(軸路)」に入る機会がありました。
「軸室」は文字通りプロペラ軸(シャフト)と主機(フライホイール)をつなぐ中間軸が収められている細長い空間です。船体中央にある主機と船尾隔壁の間に設けられた軸室は、船尾管(プロペラ軸から海水の侵入を防ぐ重要な装置)の検査や注油などの作業を容易にします。また、万が一船尾管が破損した場合にも、船内へ浸水することを防ぐため、水密構造となっています。

軸の場所はこちらです↓
宗通26_軸_42.-南極観測船「宗谷」精密解剖図 谷井建三 314×654.jpg

『南極観測船「宗谷」精密解剖図』に加筆
作:谷井建三
所蔵:船の科学館


主機のある機械室からも軸のごく一部を見ることができますが、その先は壁の向こうとなっており、機械室から直接出入りできる道もないため、その先がどのようになっているのか、いつも気になっていました。

宗通26_機械室から軸室へ.jpg
"宗谷”機械室
主機関から軸が船尾方向へ続く様子
主機から生まれた力が、この軸を通して船尾のスクリュープロペラまで伝わり、船を動かします。


展示船となってからは軸室に立ち入ることはほとんどないため、送風機を使っての換気や酸素検知等、事前の安全対策をしっかりと行いました。
密閉された場所では発生した錆で酸素が薄くなっている場合があり、船内のこうした区画に入る際には十分な注意が必要です。

軸室の中はこのような様子でした。
密閉された場所のおかげか思いのほか状態がよく、壁の塗装も十分きれいです。
前回入ったときにしっかりと手入れを行ったそうで、ホコリ等もほとんどありません。
宗通26_軸室.jpg
手持ちライトで撮影。明るく補正をしています。


また、「とても狭い」と聞いていたので覚悟していましたが、実際に入ってみると、想像していたよりは広く感じました。
とはいえ腰をかがめないといけないほど天井は低く、足元にも段差がたくさんあり、移動には注意が必要です。そして回転する軸に巻き込まれることを想像すると、軸が回っている時は、あまり入りたくないな…と思うほどには狭い空間です。
この軸がスクリュープロペラに繋がり、船を力強く動かしていたかつての雄姿を思うと、今はしんと静かな空間になっているのが不思議な気持ちになりました。

"宗谷”はもともと軸が1本の船でしたが、南極観測船への大改造の際に主機関が1基から2基になり、軸も2本になりました。
そのため軸室も両舷に1カ所ずつあります。今回入ったのは右舷の軸室でした。
蒸気機関をディーゼル機関に換装するのも大工事のように思いますが、軸を増やすなんて驚きの改造ぶりです。
ところで、その1軸だった時代の名残を見られる場所があるのをご存知でしょうか?

兵庫県芦屋市にある海技大学校には、”宗谷”が1軸だったころに使っていたスクリュープロペラが保存されています。
宗通26_海技大プロペラ.JPG
南極観測船“宗谷”のプロペラ
製造年月日:1952年 直径:422cm
場所:海技大学校(兵庫県芦屋市)
撮影:船の科学館


銘板には次のように刻まれています。
「このプロペラは、主機関として蒸気往復動機関(1450馬力・毎分90回転)を使用していたときの推進用プロペラである。」

現在“宗谷”船内に展示中の南極観測船時代のスクリュープロペラをご覧になったことがある方は、その見た目の違いに驚くかもしれません。
宗通26_宗谷ペラ.JPG
“宗谷”のスクリュープロペラ
“宗谷”船内にて展示中


南極観測船時代のものはブレード(羽根)が非常に肉厚で、直径も約3mと、以前のものと比べて1mほど小さくなりました。素材も鋳鋼製となり、南極での航海に対応するための仕様に変更されています。

この砕氷船らしいスクリュープロペラについても、いずれまたお話ししたいですね。
ご来船の際は“宗谷”係留岸壁に展示中の青函連絡船“羊蹄丸”のスクリュープロペラと見比べていただくと、違いがよくわかっておもしろいと思います。

また、ゆりかもめ「芝浦ふ頭駅」近くの埠頭公園では、初代"しらせ”のスクリューブレードを間近で見られます。
こちらはプロペラ全体ではなくブレード1枚のみではありますが、その大きさと迫力は圧巻です。お時間のある方はぜひこちらも訪れてみてください。
ここは日本で初めて南極へ赴いた白瀬南極探検隊が木造船“開南丸”で出港した場所で、その記念碑やペンギンの像もあり、南極観測の歴史を感じることができますよ。
宗通26_しらせペラ-EDIT.jpg
砕氷艦しらせ(初代)のスクリュープロペラ
場所:埠頭公園(東京都港区)
撮影:船の科学館


今回の【宗谷通信】は、ここまで!
以上、“宗谷”から整備係兼学芸員のアデリーがお伝えしました。

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投稿者:アデリー カテゴリー:宗谷通信 コメント:0
河川用貨客船「洛陽丸」は、明治40年3月25日に設立された日清汽船に所属

中国の長江(揚子江)は、古来より内陸交通の大動脈で、特にアヘン戦争以降は、列強各国の格好の進出拠点となりました。
日本が長江航路に参入したのは日清戦争の後で、日露戦争の後には英・独・仏・清の7社に日本の4社(大東新利洋行、大阪商船、湖南汽船、日本郵船)が加わり、11社が競合する状態でした。

明治政府は、外国汽船会社との対抗と、日系4社の共倒れを危惧し、渋沢栄一を指名して統合を進め、明治40(1907)年3月25日に国策会社「日清汽船」を設立しました。

その「日清汽船」の上海〜漢口航路の最大船として就航していたのが、昭和4(1929)年に江南造船廠(中国)で建造された河川用貨客船「洛陽丸」(4,378総トン・垂線間長100.5メートル)でした。
「洛陽丸」は、大きさのみならず、速力、艤装、船内設備等のあらゆる面で競合他社を凌駕し、「長江の女王」と呼ばれるようになりました。

洛陽丸1.jpg

船舶模型「河川用貨客船「洛陽丸」(1/100)」
寸法:1112×200×335
所蔵:船の科学館

しかし、その栄光は長くは続きませんでした。
昭和6(1931)年の満州事変、続く昭和12(1937)年の支那事変(日中戦争)の勃発により、敵対する中国軍の水路封鎖で運航休止を余儀なくされ、さらに中国軍機から空爆を受けて「洛陽丸」を含む6隻が沈没し、短い生涯を閉じました。

洛陽丸2.jpg

船舶模型「河川用貨客船「洛陽丸」(1/100)」
寸法:1112×200×335
所蔵:船の科学館

本日のブログでご紹介した船舶模型は、籾山艦船模型製作所(株)の籾山作次郎氏が制作した竣工模型で、戦前は東京・原宿にあった「海軍館」に展示されていました。
浅喫水の船体が巧みに再現され、細部の仕上げも精緻で、芸術品の名にふさわしい出来栄えになっています。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
戦前日本の最新技術が集結した最優秀客船「新田丸」は、昭和15年3月23日に竣工

日本郵船(株)の英語名称NYKの頭文字をとった三姉妹船「新田丸」「八幡丸」「春日丸」の長女「新田丸」は、欧州航路に就航する定期客船として、三菱重工業(株)長崎造船所において昭和13(1938)年5月9日に起工され、昭和15(1940)年3月23日に竣工しました。

日本郵船(株)は日清戦争(1894-95)後、国の助成政策のもと欧州・シアトル(北アメリカ)・オーストラリアへの遠洋定期航路を開業しましたが、欧州を起点とする英仏などの客船とは差があり、昭和12(1937)年に交付された「優秀船舶建造助成施設」の助成金を利用して、新鋭の高速客船3隻の建造を計画しました。
「新田丸」の建造費は約1,200万円(現在の価格で約300億円)で、その1/3相当の助成金を受けています。

次に紹介する模型は、船の科学館の建設に際し、昭和48(1973)年に日本郵船(株)から寄贈していただいたもので、竣工時の姿が忠実に再現されています。

船舶模型 貨客船 「新田丸」 .jpg

船舶模型「貨客船 新田丸 (1/50)」
寸法:3650×450×1030
所蔵:船の科学館

貨客船「新田丸」の概要

総トン数 17,150トン
全長 179.8メートル
型幅 22.5メートル
型深 12.4メートル
主機 蒸気タービン×2基
最大出力 28,359馬力
計画出力 21,000馬力
最大速力 22.5ノット
旅客定員 285名(一等127名、二等88名、三等70名)
乗組員 238名

「新田丸」が建造された当時は、海外に行くには船に頼るしかなく、長い船旅を快適に過ごせるように色々な工夫がされていました。
例えば、欧州航路は移民の輸送がないため、居住区域の大部分は一等で占められ、一・二等食堂、一等客室、理容室、美容室には、世界で初めて冷暖房完備になっていました。
また、一等には映画も上映できる食堂・ラウンジ・喫煙室・読書室・水泳場・体育室・舞踏室などが、二等には食堂・ラウンジ・喫煙室・水泳場(臨時)など、三等にも食堂と喫煙室が設けられていました。
家具調度品等のほぼ全てが国産化され、欧米の一流客船に負けない「夢の豪華客船」といった存在でした。

就航記念絵葉書には、「一等食堂(ダイニングサロン)」と「水泳場」が紹介されています。
「一等食堂」正面のサイドボード上には、尾形光琳の「紅白梅屏風」を模した漆の蒔絵が飾られているように、船内の随所に日本古来の美術や装飾が施されていたそうです。

絵葉書 貨客船 新田丸 就航記念 船内.jpg

絵葉書「貨客船 新田丸 就航記念」
寸法:90×138
所蔵:船の科学館

ところで、お気づきかも知れませんが、「新田丸」は客船として計画されていましたが、貨物輸送にも重点が置かれ、「貨客船」として竣工しています。
約13,000立法メートルの貨物倉が設けられ、絹製品専用の絹物室、冷蔵貨物室、郵便物室など5つの水密区画に分かれていました。

新田丸解剖図.jpg

「貨客船 新田丸の内部精密解剖図」
作画:谷井健三
所蔵:船の科学館

そして、竣工当時は第二次世界大戦(1939.9.1〜1945.8.15)の最中だったことから、予定していた欧州航路には就航できず、日米を結ぶ太平洋航路に就航しています。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0

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