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戦後初めて建造された大型貨客船「さんとす丸(2代目)」は、昭和27年12月28日に神戸港から初就航

第二次世界大戦後、戦前の遠洋定期旅客航路で再開されたのは、日本郵船のシアトル航路「氷川丸」と大阪商船の南米東岸航路の南米移民船「さんとす丸(2代目)」で、「さんとす丸(2代目)」は昭和27(1952)年12月28日に、神戸港から戦後初のブラジルへの移住者59名を乗せて初就航しました。

また、「さんとす丸(2代目)」は、戦後、日本で建造された最初の大型貨客船、日本初の1948年SOLAS条約(海上における人命の安全のための国際条約)が適用された貨客船として、新三菱重工業(株)神戸造船所で昭和27年12月10日に竣工しました。

さんとす丸写真 南米航路移民船.jpg

大型貨客船「さんとす丸(2代目)」
所蔵:船の科学館

「さんとす丸(2代目)」の概要

総トン数 8,280トン
載貨重量 10,870トン
長さ 144.93メートル
18.80メートル
深さ 11.80メートル
喫水 8.72メートル
主機 ディーゼル1基
航海速力 14.65ノット
旅客定員(竣工時) 1等12名 特別3等63名
旅客定員(昭和32年改装時) 1等12名 特別3等50名 3等558名

戦後の南米航路は、パナマ運河経由の東航ルートでしたが、この時の航行はインド洋〜大西洋を越えていく西航ルートでした。

さんとす丸.jpg

パンフレット「さんとす丸」
寸法:258×180
所蔵:船の科学館

ところで、ブラジルへの移民は、明治41(1908)年に笠戸丸で海を渡った移住者から始まりますが、初期の移住はコーヒー農場への雇用契約移民でした。
大正13(1924)年以降、国策としての移住が進められると、最盛期の昭和8・9(1933・34)年には2万人を超える移住者が生活するようになり、自ら農業協同組合が組織されるほど農業が盛んに行われていました。

この「さんとす丸(2代目)」初就航でブラジルに渡った移住者は、黄麻の繊維「ジュート」の栽培をするため、アマゾン流域への入植をめざす家族でした。
ジュートの茎から取った繊維は、コーヒー豆や穀物を入れる袋に加工され、ブラジル国内向け、輸出品として生産されていたのです。

そして、初就航から5年後の昭和32(1957)年、「さんとす丸(2代目)」は3等定員558名を有する本格的な南米移住船に改装され、船客案内所、3等喫煙室、診療室、病室、出産室等が設けられました。

しかし、改装から数年後に南米移民は激減し、「さんとす丸(2代目)」は貨物船として稼働するようになりました。
その後、昭和47(1972)年に香港に売却され、昭和51(1976)年に高雄で解体され、24年の生涯を閉じました。

さて、今日は年内最後のブログ投稿となりました。
今年も船の科学館公式ブログ「今日の海の日」をご覧いただき、ありがとうございました。
皆様にとって、2025年が明るい年となりますように、どうぞ良い年をお迎えください。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
近代港湾の先駆け「三国港エッセル堤」は、平成15年12月25日に重要文化財に指定

古くから北前船の寄港地として栄えた「三国港」(福井県坂井市・現在の福井港)は、暴れ川と言われる九頭竜川が運んでくる堆積土砂によって、たびたび船の航行・停泊に支障をきたし、港の機能が損なわれていました。

明治政府は、殖産振興・国土保全等の施策を進めるため、当時、治水の最高技術水準を有するオランダから外国人技師を招聘し、近代港湾の整備を始めました。
この九頭竜川と三国港の改修には、エッセルとデ・レーケの2名の技師が関わりました。

エッセルは明治9(1876)年から現地調査を開始し、改築の設計を完成させましたが、完成を見ることなく明治11年に帰国します。
工事はデ・レーケに引き継がれ、同年(明治11年)5月に着工、明治15(1882)年に竣工しました。

6438_三国港突堤(エッセル堤).jpg

「三国港エッセル堤」
出展:(公社)福井県観光連盟

エッセルの名前がついた「三国港エッセル堤」は、長さ511メートル、幅約9メートルの防波堤で、九頭竜川の河口に開いた港を包み込むように、緩やかなカーブを描いて沖合に延びています。
竣工から142年以上経った現在も、港の機能維持に貢献する現役として、防波堤の役割だけでなく、土砂等の流れる方向を制御し、土砂氾濫の拡大を防ぐ「導流堤」の役割も果たしています。

6439_三国港突堤(エッセル堤) (1).jpg

「三国港エッセル堤」
出展:(公社)福井県観光連盟

三国港は、野蒜築港(宮城県)と三角西港(熊本県)と並んで「明治三大築港」の一つに数えられるだけでなく、「三国港エッセル堤」は、日本の海域に初めて西洋式工法が導入された遺構の評価は高く、平成15(2003)年12月25日に「三国港(旧阪井港)突堤」として重要文化財に指定されています。

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投稿者:メル カテゴリー:灯台・建築物 コメント:0
戦争を想定して建造された貨客船 初代「ぶらじる丸」は、昭和14年12月23日に竣工

貨客船「ぶらじる丸(初代)」は、歴代の南米移民船の中で最大最高速の客船として知られる貨客船 「あるぜんちな丸(初代)」の姉妹船(昭和14年5月竣工)で、政府の「優秀船舶建造助成施設」の適用を受けて、昭和14(1939)年12月23日、三菱長崎造船所で竣工しました。

「優秀船舶建造助成施設」とは、昭和12(1937)年から実施された造船振興政策で、有事の徴用に適した高性能商船の増強を目的に、高性能商船の建造費用に補助金が交付される政策でした。
記録によると、「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」の2隻は、特設航空母艦の予定船10隻の中にリストアップされていました。

ぶらじる丸写真(上野文庫).jpg

貨客船「ぶらじる丸(初代)」
所蔵:船の科学館

「ぶらじる丸」の概要

総トン数 12,752トン
長さ 155.0メートル
21.0メートル
主機 ディーゼル2基
出力 16,500馬力
最高速力 21.382ノット(試運転最大) 17.0ノット(満載航海)
旅客定員 901名(一等101名、特別三等138名、三等662名)

「ぶらじる丸」は、竣工翌月から姉妹船と同じく南アメリカ東岸航路(西航世界一周航路)に就航しましたが、昭和14年9月に勃発した第二次世界大戦が激化すると、昭和16(1941)年9月に海軍に徴用され、横須賀鎮守府付属の運送船として附属し、攻略部隊として活躍しました。

昭和17年には、ソロモン方面の航空基地建設のため、ラバウルに軍夫約4千人と資材を輸送していましたが、ミッドウェー海戦で失われた空母群を補うため特設航空母艦に改造されることになり、途中、トラック島に人員・資材を陸揚げし、急ぎ横須賀に引き返しました。
しかし、その途中、アメリカ潜水艦から魚雷攻撃を受け沈没しました。船長は戦死し、乗組員らは20日間漂流の後、哨戒艇によって奇跡的に救助されたそうです。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
九州唯一の「のぼれる灯台・都井岬灯台」は、昭和4年12月22日に点灯

宮崎県最南端の都井岬(といみさき)の沖合には、黄金瀬(おごせ)をはじめとする暗礁が数多く点在し、昔から座礁・転覆が後を絶たない海の難所として恐れられていましたが、海運界の強い要望により、今から95年前の昭和4(1929)年12月22日に、「都井岬灯台」が設置点灯されました。

都井岬灯台.jpg

「都井岬灯台」 出展:写真AC

建設当初は、最も大きい国産の1等単閃光レンズ(高さ2.59メートル)が使用されていましたが、昭和20年の戦災によって大破炎上してしまい、昭和25年1月に3等大型レンズに変えられて復旧しました。
しかし、同年9月に来襲した台風によって再び大破し、翌年再復旧して現在に至っています。

こうして二度にわたる復旧工事が行われていますが、コンクリート造の灯塔と、灯塔から出入りする屋上庭園は昔の姿を残し、高さ15メートル、海面から255メートルの高さから23.5海里(約43キロメートル)を灯し、海の安全を守っています。

都井岬灯台2.jpg

「都井岬灯台」 出展:写真AC

「都井岬灯台」は、第50回灯台記念日(平成10年11月1日)に行われた公募「灯台50選」では、人の心に残る日本の灯台50選に選ばれ、平成31(2019)年には登録有形文化財の指定を受けています。

また、全国に16基ある「のぼれる灯台」の一つで、高さ15メートルの灯塔に登ると眼前に太平洋が広がり、空気が澄んだ日には、遠く水平線上に、種子島や屋久島を見渡すこともできるそうですよ。

そのほか、都井岬周辺は日南海岸国定公園に指定され、灯台周辺に自生する「蘇鉄」、生息する野生馬「御崎馬(岬馬)」は国の天然記念物に指定されています。

御崎馬.jpg

「御崎馬」 出展:写真AC

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