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世界初の自動化船「金華山丸」は、昭和36年11月27日に竣工

かつて昭和30年代までの大型貨物船では、50名を超える乗組員が働いていましたが、船内業務の自動化や電子化が進み、現代は20名前後の乗組員が交替で運航しています。

その自動化のパイオニアとなったのが、三井造船玉野造船所で昭和36(1961)年11月27日に竣工した三井船舶の貨物船「金華山丸(きんかさんまる)」(8,316総トン)で、世界初の自動化船として誕生しました。

金華山丸.jpg

絵画「自動化船「金華山丸」」
作:野上隼夫
寸法:93×154
所蔵:船の科学館

「自動化船」誕生の背景には、昭和30年代の経済成長によって、多くの機関部エンジニアが陸上産業に従事し、海上勤務者の人員不足がありました。

この問題を解決するには自動化システムが不可欠で、「金華山丸」には主機を船橋(ブリッジ)から遠隔操縦するブリッジ・コントロール方式と、機関部の監視と制御をエンジン・コントロール・ルーム1ヶ所で集中的に行う集中監視制御方式が採用されました。
これにより乗組員34名体制の運航が可能となり、加えて、それまで高温と騒音の中での肉体労働が監視労働に変わり、職場環境も一変しました。

金華山丸写真.jpg

写真「貨物船「金華山丸」」
所蔵:船の科学館

同年12月9日、「金華山丸」が処女航海へと出航すると、世界を驚かせました。

パナマ運河を通過する際には、ブリッジから遠隔操縦する様子を目にした水先案内人は驚き、ニューヨークに電信を入れ、その情報はアメリカ連邦政府にまで届き、国防長官等がニューヨーク入港時に見学に訪れたそうです。
また、現地の新聞にも報じられ、欧米諸国でも自動化船の建造機運が高まりました。

「金華山丸」は昭和54(1979)年までニューヨーク航路や東カナダ〜五大湖航路に就航し、引退後に船体は解体されましたが、機関制御コンソールは商船三井に保存され、本社受付(東京都港区)に展示されているそうです。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
明治7年11月24日に竣工した灯台巡視船「明治丸」は、明治29年に商船学校に譲渡

国民の祝日「海の日」の由来となった船として知られる「明治丸」は、鉄船時代の造船技術を今に伝える遺産として、国の重要文化財に指定され、現在、東京海洋大学・越中島キャンパスで保存されています。

  

その「明治丸」(1,027総トン)は、明治政府がイギリスのネピア造船所に発注した灯台巡視船で、明治7(1874)年11月24日に竣工し、翌年2月に横浜に回航されました。

灯台巡視船「明治丸」.jpg

絵画「灯台視察船「明治丸」」
作:山高五郎
寸法:590×890
所蔵:船の科学館

「灯台巡視船」という船種は、日本各地の灯台を巡回して物資を補給したり、灯台建設資材を運んだりする船のことで、明治初頭、灯台の増加に伴い新鋭船が必要となって「明治丸」が建造されました。

横浜に回航された直後には、明治天皇のロイヤルヨットとして2回就航しています。最初は軍艦「清輝」進水式の帰途に横須賀から乗船され、2度目は東北・北海道への巡幸の時でした。
その後、明治10年7月からおよそ20年間にわたって灯台巡視船として活動を続けました。

灯台巡視船を引退した「明治丸」は、明治29(1896)年に商船学校(東京海洋大学の前身)に譲渡され、係留練習船となりました。昭和20(1945)年までの約50年間に5,000名以上が実習し、船員が育成されています。

明治丸修繕の図.jpg

山高五郎保存資料「明治丸修繕の図(明治34年石川島造船所)」
所蔵:船の科学館

「明治丸」は、当初は2本マストのトップスル・スクーナ型でしたが、商船学校に譲渡後は、技業訓練のため3本マストのシップ型に改造されました。
中央デッキハウスの後方部分が撤去されてメイン・マストが立ち、ミズン・マストは後部デッキハウスの後端を縮めてその後に後退させ、各マストのヤードが5本づつになりました。

さらに、昭和12(1937)年には、腐朽によりパーク型帆船に改装されましたが、国の重要文化財に指定された後に保存修理が行われ、再びシップ型に戻されています。

明治丸横(海洋大).JPG

撮影:船の科学館

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
【海の学び】うるま市立海の文化資料館の企画展『船をつくる道具たち』は、2025年1月31日まで開催

那覇空港から車で約90分、勝連半島から平安座島を結ぶ海中道路の中央部に位置する「うるま市立海の文化資料館」(沖縄県うるま市)では、2024年11月2日から2025年1月31日まで企画展『船をつくる道具たち』が開催されています。

   

うるま市チラシ.jpg

画像提供:うるま市立海の文化資料館

開催期間: 2024年11月2日(土)から2025年1月31日(金)
※月曜日(月曜が祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日〜1月3日)
会  場: うるま市立海の文化資料館
展示構成: 第1章「船大工の道具」
第2章「色々な材質の船」
第3章「木造船の道」
第4章「海中道路とは」
第5章「おわりに」
     

◎詳細はウェブサイトから確認して下さい。

 

企画展『船をつくる道具たち』では、沖縄の船はどのような道具や素材で造られていたのか、船大工用具に焦点を当て、船の素材、木造船からFRP船(ガラス繊維強化プラスチックを使用した船)への変遷、海中道路ができる前後のうるま市のくらしの変化などが紹介されています。

うるま市写真2.JPG

「第1章「船大工の道具」にて展示中の鋸など」
画像提供:うるま市立海の文化資料館

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「第3章「木造船の道」にて展示中の丸木舟」
画像提供:うるま市立海の文化資料館

また、本展では関連講座の開催も予定されています。

関連講座 「なにかで船をつくってみよう!」
牛乳パックやトレーなど色々な素材を使って、自分だけのオリジナル船を作って走らせてみましょう。
日時:2024年12月14日(土)随時受付
会場:海の文化資料館
対象:小学生以上(小学生は保護者同伴)
定員:20名(当日先着順)
参加費:無料
関連講座 「海中道路ができるまでとその後」
海中道路ができる前とできた後で、島の暮らしはどう変化したのか、紙芝居(読み聞かせ)で紹介します。
日時:2025年1月25日(土) 午後2時〜5時
読み聞かせ:紙芝居サークル「夢の橋」
会場:海の文化資料館
定員:20名(当日先着順)
参加費:無料

◎詳細はウェブサイトから確認して下さい。

「うるま市立海の文化資料館」では、「サバニ」や「クリブネ」など、古くから沖縄で使われていた木造船のほか、漁業で使用される道具などが常設展示されています。
特に、琉球域内や日本との海上輸送に大きな役割を果たし、1950年代に姿を消したと言われている沖縄の伝統木造船「マーラン船」が展示されており、海と共に生きた先人たちの知恵と暮らしを見ることができます。

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「常設展示しているマーラン船」
画像提供:うるま市立海の文化資料館

船の科学館では、2015年度から全国の博物館・美術館・水族館等が行う「海の学び」の活動を支援しています。

船の科学館「海の学びミュージアムサポート

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投稿者:メル カテゴリー:海の博物館活動 コメント:0
太平洋航路大型客船「天洋丸」の姉妹船「地洋丸」は、明治41年11月21日に竣工

日本の海運業・造船業では、日清戦争後の明治29(1896)年に「航海奨励法」「造船奨励法」が施行され、大型鉄鋼汽船に対して奨励金が交付されるようになりました。また、同年に開設された三大遠洋航路(欧州・北米・豪州)には「特定航路助成制度」によって国から補助金が交付され、外航海運の振興が図られました。

明治30年代に入ると、太平洋航路に就航する各国の客船は逐次大型化し、ついには2万総トン級の大型客船「ミネソタ」(20,718総トン・アメリカ・グレートノーザン汽船会社・1903年竣工)と同型船「ダコタ」が参入しました。

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絵画「「ミネソタ」出港」
作:山高五郎
寸法:175×246
所蔵:船の科学館

その頃の日本船は、おおかた6千総トン級クラスだったので到底太刀打ちできない状況でしたが、明治29年創業の東洋汽船は、日本において初めて1万総トンを超えた「天洋丸」(13,454総トン・明治41(1908)年竣工)級3隻(天洋丸・地洋丸・春洋丸)を三菱長崎造船所で建造し、外国汽船会社に対抗しました。

天洋丸解剖図.jpg

絵画「客船「天洋丸」解剖図」
作:野上隼夫
寸法:516×728
所蔵:船の科学館

「天洋丸」の姉妹船「地洋丸」は第2船として明治40(1907)年12月7日に進水、翌41年11月21日に竣工し、12月16日に横浜港から香港〜日本〜ハワイ〜サンフランシスコ航路に就航しました。
最後は、大正5(1916)年3月、マニラから香港に向けて航行中、タンカン島で座礁・沈没しましたが、乗客はイギリス駆逐艦に無事救助されています。

「地洋丸」の概要

総トン数 13,426トン
全長 174.0メートル
型幅 19.2メートル
満載喫水 9.69メートル
主機 蒸気タービン3基
出力 20,000馬力
速力 21.12ノット(試運転最大)
旅客定員 1等47名・2等53名・3等268名

ところで、当館は、『図説 日の丸船隊史話』(至誠堂、1981年)の著者として知られる山高五郎(1886-1981)の船舶絵画をご遺族からご寄贈いただき、その作品の紹介を行っています。

山高五郎は、東大大学院時代の明治43(1910)年の夏、恩師の計らいで「地洋丸」に機関部研修生として便乗を許され、横浜〜マニラ往復の約1ヶ月の貴重な洋上体験をしました。
次の絵画は、その研修の際、マニラ停泊中に山高が船尾でたたずんでいると、突然目の前に米海軍所属のホランド型の潜水艦が浮上し、ポンポンポンと煙を吐きながら遠ざかって行ったところが描かれています。 当時の潜水艦はまだ開発途上と言える段階なので、さぞ珍しかったことでしょう。

地洋丸の船尾から.jpg

絵画「マニラで「地洋丸」の船尾から浮揚した米潜」
作:山高五郎
寸法:174×260
所蔵:船の科学館

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0

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