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日米修好通商条約批准のための随伴艦「咸臨丸」、安政7年1月27日に最大の暴風雨に遭遇

日米修好通商条約批准のための外交使節の随伴艦となった「咸臨丸」は、安政7年1月19日に浦賀を出港した翌日から、居室の床に海水が進入するほどの荒天に見舞われますが、1月24日の夜になってようやく高波がおさまり、乗組員たちは船酔いにも慣れ始めました。

ところが、1月27・28日(1860年2月18・19日)に航海中最大の暴風雨に遭遇し、難しい操船を余儀なくされました。同乗したブルック大尉も、帆桁から帆がちぎれてしまうのではないか、と何度も心配するほどの強い風で、雨も滝のように降りました。

激しい風雨と巨大な波に翻弄されるなか、ブルック大尉は徹夜で指揮をとり、咸臨丸は無事に危機を脱することができました。
一方、ブルック大尉が復路航海に備えて、日本人乗組員に航海技術を教え始めると、その態度に反感を持つ者も現れ、ぎくしゃくした雰囲気が漂うようになっていました。

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絵画「「咸臨丸」
作:野上隼夫
寸法:102×176
所蔵:船の科学館

その後、2月4日(1860年2月25日)には日付変更線を通過し、航海も半ばを過ぎると、2月7日には香港からサンフランシスコに向かうアメリカ商船「フローラ」に遭遇します。
フローラは、咸臨丸が太平洋上で出会った初めての大型商船で、ブルック大尉は相手船の船長とメガホンで対話をしたそうです。

この頃から10日間ほど平穏な航海が続き、太陽が時々顔を出すと布団を干すこともあったそうですよ。

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
世界初の航洋ディーゼル船「トルナトール(元セランディア)」は、昭和17年1月25日に御前崎沖で座礁

ディーゼル船全盛時代をもたらす契機となった世界初の航洋ディーゼル船「セランディア」は、1912(明治45)年にコペンハーゲンのバーマイスター・アンド・ウエイン造船所において建造されましたが、数回にわたる売却・改名を経ています。

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絵画「ディーゼル船「セランディア号」」
作:野上隼夫
寸法:86×168
所蔵:船の科学館

第二次対戦勃発後の1940(昭和15)年10月には、フィンランド・アメリカ・ラインの手にわたり、「トルナトール」と改名し、フィンランド〜アジア間の航路に就航しました。

「トルナトール(元セランディア)」の概要

船種 貨客船
総トン数 4,964トン
垂線間数 112.9メートル
16.2メートル
主機 ディーゼル2基(2軸)
合計出力 2,500馬力
航海速力 11〜12ノット
旅客定員 40人(竣工時は26人)
   

1941(昭和16)年3月、トルナトールは鋼材と紙を積んでフィンランドを出港し、パナマ運河を経由して、同年5月に横浜港に着きました。

しかし、翌月、母国フィンランドに帰る間際に、フィンランドが日独伊三国同盟側についたことでソビエト連邦との戦争が始まり、母国に帰ることができなくなりました。 やむを得ず、トルナトールは日本政府の管理下に入り、帝国船舶の所属になり、山下汽船の委託船として、フィンランド人船員が運航を行っていました。

その後1942(昭和17)年1月、トルナトールは中国の青島から石炭を積み、川崎港に向かう途中、1月25日に静岡県御前崎沖で座礁し、大破しましたが、乗組員は全員無事に救出され、後日フィンランドに帰国したそうです。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
ペリー艦隊の第1次来航、1853年1月24日にケープタウン入港

日本開国の交渉の任に就いたペリーを乗せた蒸気フリゲート「ミシシッピ」は、1853(嘉永6)年1月11日にセントヘレナ島を出港し、1853年1月24日に3番目の寄港地ケープタウンに入港しました。

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「ミシシッピの航路図」
所蔵:船の科学館

ケープタウンでは、無煙炭(むえんたん)226トン、瀝青炭(れきせいたん)362トンの合計588トンの石炭、水と食料の他に12頭の牛と18頭の羊を積み込んでいます。

ペリーは、途中の寄港地で充分な石炭を入手できないことを心配し、アスピンウォール商会に依頼して石炭船を2隻手配しています。1隻はケープタウンで、もう1隻は次の寄港地・モーリシャス島で積めるようにしていたのです。

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「後ろにテーブルマウンテンを望むケープタウンに入港するミシシッピ」
所蔵:船の科学館

補給を終えると、次の寄港地モーリシャス島をめざして、2月3日にケープタウンを出港しました。
モーリシャス島に行く航路は強い風を上手く利用するため、ヨーロッパのほとんどの蒸気船がそうしているように、曲線航路を取りました。

ところで、ケープタウンから南へ約50キロメートル延びたケープ半島突端に「喜望峰」がありますが、その名の由来をご存じでしょうか。

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「Cape of Good Hope(喜望峰)」
出展:写真AC

喜望峰に初めて到達したのは、1488年にポルトガル人のバルトロメウ・ディアスで、ディアスは嵐に悩まされたので「嵐の岬」と名付けましたが、その後、ポルトガル王ジョアン2世が、北東に向かえばインドに到達できると考え、「希望の岬(Cape of Good Hope)」に改名したと言われています。

日本では、諸説ありますが、誤訳が広く定着し「喜望峰」が使われているそうです。
いずれにしても、香辛料等々のアジアの産品を入手するため、海路を見つける必要に迫られての発見だったのです。

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
大阪条約5灯台のひとつ「部埼灯台」は、明治5年1月22日に点灯

関門海峡の東の玄関口に建つ「部埼灯台(へさきとうだい)」(福岡県北九州市)は、明治5(1872)年1月22日に点灯し、高さ9メートル、海面から39メートルの高さから17.5海里(約32キロメートル)を灯し、日本有数の難所の航行を見守っています。

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「部埼灯台」 出典:写真AC

「部埼灯台」は、兵庫開港に備えて、慶応3(1867)年4月、幕府とイギリスとの間で締結した「大阪条約」で設置を約束した5灯台(友ヶ島、江崎、和田岬、六連島、部埼)の一つで、明治新政府が引き継いで建設されました。

重厚な石造りの洋式灯台は、日本の灯台の父と称されるイギリス人技師R.H.プラントンの設計で、現存する灯台として九州最古の灯台です。
また、この灯台には、明治42(1909)年から、関門海峡東端の最狭部の水道「早鞆瀬戸(はやとものせと)」の潮流を知らせる「潮流信号所」が併設されています。

ところで、灯台の下の青浜海岸には、部埼灯台の由来として語り継がれている「僧 清虚(そう せいきょ)」の立像が建立されています。

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「僧 清虚の立像」 出典:写真AC

大分県国見町出身の僧 「清虚」は、天保7(1836)年、下関から高野山へ修道に向かう船中で、部埼に向かって念仏を唱える乗客から、部埼周辺の海は暗礁が多く、航海の難所となっていることを聞くと、高野山行きを断念して、この地で船の道標となる火を焚き続けることを決意しました。
清虚は、日中に托鉢で得た糧を焚料の買い入れにあて、74歳で亡くなるまでの13年間、雨の日も風の日も、読経とともに火を焚き続け、航海の安全を祈ったそうです。
その思いが明治の代まで受け継がれ、部埼灯台の礎になっています。

昭和48(1973)年には、地元有志により立像が建立され、灯台と共に航海の安全を見守り続けているのです。

「部埼灯台」は第50回灯台記念日(平成10年11月1日)に行われた公募「灯台50選」では、人の心に残る日本の灯台50選に選ばれ、令和2(2020)年には旧官舎と共に国の重要文化財に指定されています。

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投稿者:メル カテゴリー:灯台・建築物 コメント:0

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