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国外永久追放処分を受けたシーボルトは1829年12月30日に帰国。17世紀のオランダ船もコンパスで航海!?

長崎出島のオランダ商館付医官として来日し、鳴滝塾で多くの門人に西洋医学・博物学を伝授したシーボルトは、1828(文政11)年に、禁制品の地図などを海外に持ち出そうとして国外永久追放の受け、1829(文政12)年12月30日に長崎を離れ、オランダに帰国しました。

ところで、船が針路をとり続けて進むには、常に向かっている方向を確かめる必要があり、その方向を知る計器がコンパス(羅針盤)です。

当館が所有する絵図「17世紀における帆船の図」には、オランダ船や航海用具が描かれていますが、上段・左側には「COMPAS DE ROUTE」(コンパス・羅針盤)が描かれています。

17世紀オランダ船、航海用具図.jpg

絵図 銅版画「17世紀における帆船の図」
寸法:490×655
所蔵:船の科学館

羅針盤は、中国発の三大発明の一つとして知られていますが、航海に使われるようになったのは、9世紀から11世紀頃、宋の時代に航海に広く使われるようになり、イスラム圏から西欧に伝わり、改良され、航海に不可欠な機器となりました。
大航海時代には羅針盤の実用化が進み、遠洋航海が可能になったのです。

現代は多くの船でジャイロ・コンパス(※)が使用されていますが、故障の少ない磁気コンパスが必ず併用されています。

当館が係留展示している初代南極観測船「宗谷」(昭和13年建造)の操舵室では、ジャイロ・コンパス(操舵輪の前)と磁気コンパス(ジャイロ・コンパスの前)の実物をご覧いただけます。

宗谷操舵室.jpg

「初代南極観測船「宗谷」の操舵室」
所蔵:船の科学館

  ※ジャイロ・コンパス
   高速回転させたジャイロ(コマ)にたいして、地球の重力以外の力が作用し
   ないような自由を持たせると、地球の自転にしたがって、ジャイロの軸が
   真北(北極の方向)を指すという原理を利用したものです。

さて、今日は年内最後のブログ投稿となりました。
今年も船の科学館公式ブログ「今日の海の日」をご覧いただき、ありがとうございました。
皆様にとって、2024年も明るい年となりますように、どうぞ良い年をお迎えください。

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
ペリー艦隊の蒸気フリゲート「サスケハナ」は、1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工

ペリー艦隊が初めて日本に訪れた時の旗艦「サスケハナ」は、蒸気フリゲート「ミシシッピ」(1841年竣工、3,220排水トン)の完成から9年後、1850年(嘉永3年)12月24日に同じくフィラデルフィア海軍工廠で竣工しました。

1846(弘化3)年5月から始まったアメリカ・メキシコ戦争において、蒸気艦の性能が評価され、アメリカ議会は4隻の蒸気艦の建造を承認しました。そのうちの2隻が「サスケハナ」と「ポーハタン」(1852年竣工、3,865排水トン)でした。

サスケハナ.jpg

絵画「蒸気フリゲート「サスケハナ」精密側面図」
作:谷井建三
寸法:192×277
所蔵:船の科学館

ところで、「サスケハナ」は、どのような船だったのでしょうか。

「ミシシッピ」と同じく艦種は木造外車フリゲートで、船体構造は木造ですが、船側(船の左右の側面)の外板と肋骨は鉄の斜材で補強されていました。
完成した時点では、イギリス海軍最大の「テリブル」(1845年竣工、3,189排水トン)、「ミシシッピ」(1841年竣工、3,220排水トン)を上回る世界最大級でした。

「サスケハナ」の概要
※当館が所蔵している図面や文献類から算出しています。

満載排出量 3,824トン
長さ 76.20メートル
全幅 13.72メートル
深さ 8.08メートル
喫水 5.94メートル
帆装 3本マストパーク型 1,970平方メートル
蒸気機関 斜動型×2基 合計出力795IHP
航海速力 8ノット(推定)
備砲 9門
乗組員 300人
   

サスケハナ内部精密解剖図.jpg

絵画「蒸気フリゲート「サスケハナ」 精密解剖図」
作:谷井建三
寸法:355×1,080
所蔵:船の科学館

精密解剖図の中央部分に描かれているのが推進装置です。
推進装置はボイラ、蒸気機関、外車で構成されていますが、石炭を燃やしてボイラの水から発生した蒸気は、パイプによって蒸気機関に導かれ、シリンダ内のピストンに往復運動を与え、蒸気機関はこの往復運動を回転運動に変えて外車の駆動軸に動力を伝えています。

サスケハナの蒸気機関は斜導式で、左右に1基ずつあります。
滑り台のような鉄製の台にシリンダが載り、シリンダの直径は70インチ(178cm)、ストローク(ピストンが動く距離)は10フィート(3.05m)ありました。
外車の直径は31フィート(9.45m)で、1分間に12回転というゆっくりしたスピードで回り、外車の先につけられたフロート(水かき板)が水をかいて船を動かしました。

帆走の時はフロートを取り外しますが、航海記録によると完全帆走は少なく、汽走と帆を併用して走ることが多かったようです。

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
安政6年12月24日、咸臨丸が日米修好通商条約批准書交換の随伴艦に決定

安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約が結ばれ、批准書はワシントンで交換することになっていました。
幕府は新見豊前守(しんみぶぜんのかみ)を正使とし、総勢77名の使節団を派遣することを決定し、アメリカの軍艦「ポーハタン」に乗船して行くことになりました。

ポーハタン号はペリーが2回目に来航した時の旗艦で、同条約が調印された場所でもあります。
日本郵便が平成15(2003)年に発行した記念切手には、嘉永7(1854)年に黒沼直継が描いた下田港停泊中のペリー艦隊旗艦ポーハタン号がデザインされています。

江戸開府400年切手.jpg

記念切手「江戸開府400年シリーズ<第3集>開国へ向かって」
寸法:212×140
所蔵:船の科学館

さらに、幕府内では、この機会に日本人の手で外洋航海を成功させたいとの思いから、ポーハタン号の随伴艦の派遣が検討されました。
随伴艦を派遣する表向きの名目は、正使・副使に万一不具合があった場合に備えて副使をもう1名同行させる、ということとし、安政6(1859)年11月に随伴艦の派遣が決定しました。

随伴艦に乗船する副使には木村摂津守が任命され、軍艦操練所の教授方頭取 勝麟太郎(後の勝海舟)以下教授方たちに乗り組み命令が下りました。
また、日本人だけで未経験の太平洋航行は不安があり、米国海軍測量艦の艦長ブルック大尉と乗組員の乗船も決定されています。

随伴艦の選定については、当初は荷物を多く積めるという理由で観光丸が選ばれていましたが、同乗するブルック大尉が検分した際、「観光丸は外車船で船体も弱く冬季の太平洋航行には不適当。スクリュー艦にすべき」との意見が述べられ、横浜港内に停泊していた「咸臨丸」に白羽の矢が立ち、安政6年12月24日(1860年1月16日)に「咸臨丸」が随伴艦になることが決定しました。

咸臨丸船舶模型.jpg

船舶模型「 蒸気軍艦 「咸臨丸」 (1/50)」
寸法:1314×346×773
所蔵:船の科学館

観光丸模型.jpg

船舶模型「蒸気軍艦 「観光丸」(1/50)」
寸法:1325×380×750
所蔵:船の科学館

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
ペリー艦隊の蒸気フリゲート「ミシシッピ」は、1841年12月22日フィラデルフィア海軍工廠で竣工

今から170年前の1853(嘉永6)年、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリー提督が率いる黒船4隻が、江戸湾浦賀沖に姿を現しました。

旗艦「サスケハナ」と「ミシシッピ」の2隻は蒸気機関を搭載した蒸気船で、帆を使わずに煙突からもくもくと煙を吐き、潮や風に逆らって力強く外車を回して進む姿は、当時の日本人に強い衝撃を与えました。

ところで、この「ミシシッピ」は、どのような船だったのでしょうか。

ミシシッピ側面図.jpg

絵画「蒸気フリゲート「ミシシッピ」精密側面図」
作:谷井建三
寸法:190×274
所蔵:船の科学館

「ミシシッピ」はアメリカで建造された最初の大型蒸気フリゲート艦で、1841(天保12)年12月22日にフィラデルフィア海軍工廠で竣工しました。
艦種は木造外車フリゲートで、船体構造は木造ですが、船側(船の左右の側面)の外板と肋骨は鉄の斜材で補強され、完成した時点では世界最大級であったと思われます。

「ミシシッピ」の概要
※当館が所蔵している図面や文献類から算出しています。

満載排出量 3,220トン
長さ 67.06メートル
全幅 12.19メートル
深さ 7.16メートル
喫水 5.79メートル
帆装 3本マストパーク型 1,765平方メートル
蒸気機関 サイドレバー型×2基、合計出力650IHP
航海速力 8ノット(推定)
備砲 10門
乗組員 約260人
   

ミシシッピのエンジン図.jpg

「ミシシッピのサイドレバー式蒸気エンジンの図」
所蔵:船の科学館

1846(弘化3)年から始まったアメリカ・メキシコ戦争では、「ミシシッピ」は艦隊の旗艦となり、ペリー准将が乗艦して勝利に貢献しています。
また、日本遠征中、「ミシシッピ」は「サスケハナ」や「ポーハタン」に比べて故障がほとんどなく、ペリーは信頼を置いていました。
ペリーは「ミシシッピが大のお気に入り」だったと言われていますが、これが理由だったかも知れませんね。

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