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南米移民船「ぶえのすあいれす丸」は、昭和4年11月30日に神戸港から初航海に出航

南米移民全盛期に誕生した移民船「ぶえのすあいれす丸」は、昭和4(1929)年10月31日に竣工し、1ヶ月後の11月30日、神戸港から出航しました。
大正末期から昭和初期に建造された「さんとす丸」級の移民船3隻と共に南米東岸航路を就航し、ブラジル移民が乗船しました。

ブラジル移民が最も多かった昭和8(1933)年、翌9(1934)年には、年間約23,000人が「ぶえのすあいれす丸」等の移民船で海を渡り、新天地をめざしていました。

第1回芥川賞受賞作品『蒼氓』(そうぼう)は、作家・石川達三が 30歳の時、自身のブラジル移民体験に基づいて書かれた小説ですが、石川は、往路は移民船「らぷらた丸」でブラジルに渡り、復路は「ぶえのすあいれす丸」で帰国したことが知られています。

ぶえのすあいれす丸出航.jpg

絵画「ぶえのすあいれす丸の出航」
作:野上隼夫
寸法:530×727
所蔵:船の科学館

昭和14(1939)年7月に「あるぜんちな丸」が就航すると、「ぶえのすあいれす丸」と姉妹船「りおでじゃねいろ丸」はパナマ運河経由の東航南米線に就航し、翌15年には一時的に大連航路にも就航しました。

また、この時期には第二次世界大戦が始まりました。
「ぶえのすあいれす丸」は、太平洋戦争が始まると、昭和16年に日本陸軍に徴傭され、病院船となって傷病兵の輸送を行っていましたが、昭和18(1943)年11月27日、西カロリン諸島海域で米軍機の爆撃を受けて沈没し、14年の生涯を閉じました。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
太平洋戦争開戦の直前、太平洋航路の女王「浅間丸」は昭和16年11月30日に海軍に徴傭

昭和16(1941)年12月8日、日本はハワイのアメリカ海軍基地を急襲し、太平洋戦争に突入しました。

開戦の8日前の11月30日、太平洋航路の女王「浅間丸」は海軍に徴傭され、輸送任務に就きました。大量の弾薬を積み、12月2日に横浜港を出港し、輸送先のサイパン島で太平洋戦争の開戦を迎えました。

徴傭船浅間丸.jpg

船舶模型「 徴傭船「浅間丸」(1/1250)」
寸法:145×21×38
所蔵:船の科学館

横浜に帰港後、次は高雄に向かい、現地で日海軍1001部隊を(横須賀第3特別落下傘部隊)を乗せて1月5日に出港し、ダバオ(フィリピン)を経て1月16日にタラカン島(インドネシア)に到着し、部隊を降ろしました。この部隊は、後日、ティモール島に降下しています。

その後、昭和17(1942)年5月18日に徴傭を一時解除されるまで、輸送・補給任務に就きました。

さて、戦時中、陸海軍から依頼を受けて従軍した「従軍画家」が、戦地の様子を描いた作品を残しています。
当館が所蔵する従軍画家の作品の中から、浅間丸が描かれた作品2点をご紹介します。

海軍従軍画家・小林清栄は、ダバオ港を航行する浅間丸を描いています。

浅間丸ダバオ港.jpg

絵画「浅間丸 (ダバオ港にて)」
作:小林清栄
寸法:228×340
所蔵:船の科学館

海軍従軍画家・村松乙彦は、浅間丸の監視哨を描いています。

絵画 監視哨(浅間丸).jpg

絵画「監視哨(浅間丸)」
作:村松乙彦
寸法:650×725
所蔵:船の科学館

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
ペリー艦隊の第1次来航、1852年11月24日にアメリカ・ノーフォークを出港

フィルモア大統領から東インド艦隊司令長官に任命されたペリーは、日本開国の交渉使節として、1852(嘉永5)年11月24日にアメリカ東海岸のノーフォーク港を出港しました。

当初は、13隻からなる大艦隊を編成して遠征する計画でしたが、修理・整備を要する艦が多く、出発の遅延を懸念したペリーは、蒸気フリゲート「ミシシッピ」単独で出発することとしました。

ミシシッピ側面図.jpg

絵画「蒸気フリゲート「ミシシッピ」精密側面図」
作:谷井建三
寸法:190×274
所蔵:船の科学館

日本への遠洋航海は、太平洋を渡って来たように思いがちですが、アメリカから大西洋を横断し、アフリカ大陸南端の喜望峰を回ってインド洋に入り、シンガポール、香港、上海、琉球(沖縄)を経由して日本に向かいました。

ミシシッピーは、風の力と蒸気のハイブリッド船なので、石炭の補給が必要でしたが、当時は、太平洋を横断する蒸気船の航路は未整備でした。
ペリーが日本に来た目的は、まさに太平洋航路の補給基地を求めての遠征だったのです。

ミシシッピ航路図.jpg

「ミシシッピの航路図」
所蔵:船の科学館

11月24日にノーフォーク港を出港したミシシッピーは、1日平均7ノット以上のスピードで航行しました。
ボイラの出力を約30%落とし、帆と併用して走りましたが、1日あたり約26トンの石炭を消費しています。

ミシシッピー(アトリストー岬沖)遠征記より.jpg

「アトリストー岬沖を通過する蒸気フリゲート艦ミシシッピ号.マデイラ島北西端」
所蔵:船の科学館

アフリカ大陸のモロッコから西へ約650キロメートル、大西洋に浮かぶマデイラ諸島には12月12日に到着し、石炭440トン・水・食料等を補給しました。
3日後の12月15日、次の寄港地セントヘレナをめざして、マデイラ諸島を出港します。

ところで、このマデイラ諸島は、現在はポルトガルの自治州になっています。
マデイラはポルトガル語で「木」を意味し、島の美しさから「大西洋の真珠」と呼ばれています。
世界的なサッカー選手・クリスティアーノ・ロナウドの出身地としても知られています。

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
帆船時代最終期に登場したティー・クリッパー「カティ・サーク」は、1869年11月22日に進水

帆船時代の最終期に登場した大型商用帆船「クリッパー」は、鋭く前にせりだした船首クリッパー・バウが特徴で、19世紀に活躍しました。

残存する唯一のクリッパーは、英国海軍ゆかりの地・グリニッジで保存展示されている「カティ・サーク」で、スコットランドのダンバートンで1869年(明治2年)11月22日に進水しています。

ところが、カティ・サークが進水する5日前(1869年11月17日)にはスエズ運河が開通し、帆船から蒸気船へと移り変わる時代を迎えていました。

カティ・サーク.jpg

船舶模型「クリッパー型帆船 「CUTTY SARK」 (カティ・サーク) (1/50)」
寸法:1425×472×810
所蔵:船の科学館

「カティ・サーク」の概要

総トン数 963トン
長さ 64.74メートル
10.97メートル
深さ 6.40メートル
船質 木造
帆装 3檣シップ型
   

「カティ・サーク」は、骨組みは鉄で、外板は木で造られ、細長い船体に3本マストが立ち、34枚もの帆が張られていました。
風が良い時には17〜18ノットの高速で航行したと言われています。

就航後1877年(明治10年)までの8年間は、ティー・クリッパーとして中国からお茶を運び、その後は1897年(明治30年)まで、ウール・クリッパーとして産出国のオーストラリアから羊毛を運びました。
このとき、最新鋭の蒸気船を追い抜いて名声を得ますが、やがて羊毛輸送の運賃が低かったことに加え、メンテナンス費用がかさむようになり、運航を継続するのに十分な収益が得られなくなりました。

その後は何度か転売され、船名や帆装も変わりましたが、1922年(大正11年)にイギリスに買い戻され、かつての姿に復元され、1954年(昭和29年)に現在の場所グリニッジに落ち着きました。

2007年(平成19年)には修復作業中の失火で船体木造部を焼失しましたが、2012年(平成24年)に修復が完了し、一般公開されています。
お披露目にはエリザベス女王が列席されたそうですよ。

ちなみに、1923年(大正12年)に発売され、今年100周年を迎えたスコッチウイスキー「カティサーク」の名前は、この帆船に由来しています。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0

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