本州と北海道を結ぶ大動脈として活躍した「青函連絡船」は、明治41(1908)年に運航が開始され、青森と函館間を結ぶ架け橋として、時代とともに歩みました。
開業当時はイギリス・スコットランドの造船所に発注した2隻(比羅夫丸・田村丸)が就航していましたが、函館港・青森港には桟橋がなく、荷物の積み下ろしに膨大な時間がかかっていました。
そこで、貨物輸送を効率化するために、船内に鉄道のレールを敷き、貨車をそのまま積み込める「客載車両渡船」が4隻建造されることになり、その第1船「翔鳳丸(しょうほうまる)」は、建造中に関東大震災に遭い工期が半年ほど遅れましたが、大正13年4月19日に浦賀船渠で竣工しました。
「翔鳳丸」の構造は当時としては画期的で、青函航路の輸送力向上に大きく貢献しました。

絵葉書「青函連絡船 翔鳳丸」
寸法:91×142
所蔵:船の科学館
青函連絡船「翔鳳丸」の概要
| 総トン数 | 3,460.80トン |
|---|---|
| 全長 | 110.06メートル |
| 型幅 | 15.84メートル |
| 型深 | 6.70メートル |
| 主機 | 英国製タービン×2基 |
| 出力 | 5,730馬力(連続最大) |
| 速力 | 16.95ノット(試運転最大) |
| 乗組員 | 123名 |
| 旅客定員 | 895名(1等39名、2等208名、3等648名) |
「翔鳳丸」の構造は端艇甲板・上部遊歩甲板・下部遊歩甲板・車両甲板・機関前後の正甲板からなり、車両甲板上には3条のレールが敷設されて15トン貨車20両以上を搭載することができました。

絵葉書「(青函連絡船) 翔鳳丸遊歩甲板」
寸法:88×139
所蔵:船の科学館
「翔鳳丸」は竣工の翌月(大正13年5月)から青函航路に就航しましたが、第二次世界大戦末期の 昭和20(1945)年7月14日、米国機による津軽海峡周辺への大規模な攻撃(津軽海峡空爆)を受け、青函航路を支えた「翔鳳丸」はこの空爆によって沈没しました。
この空爆では「翔鳳丸」をはじめ、「飛鸞丸」「第二青函丸」などの青函連絡船が被害を受け、戦災による犠牲者は、乗客・乗員あわせて424名にのぼったとされています。
空爆から60年目にあたる平成17(2005)年には、この悲劇を後世に伝えるため、青函連絡船戦災の碑が建立されました。

「青函連絡船戦災の碑」
出典:写真AC
日本初の旅客輸送用兼貨車渡船として青函航路の発展を支えた「翔鳳丸」は、その歴史は終戦間近の津軽海峡空爆によって断ち切られましたが、その功績と戦災の記憶は、現在も「青函連絡船戦災の碑」が後世に伝えています。
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