現在、船の科学館が係留・展示を行っている初代南極観測船「宗谷」は、耐氷型貨物船「地領丸」として昭和13(1938)年6月10日に竣工し、明日、竣工から88年を迎えます。
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「過去の満船飾実施の様⼦」
さて、「宗谷」は、日本で初めて南極観測を成功に導いた船ですが、建造当初から南極観測を目的としていた船ではありません。
今日のブログでは、戦争・敗戦・復興・科学技術立国への転換を果たした激動の昭和時代に、姿を変え続けた「奇跡の船 宗谷」の歩みをたどってみましょう。

「昭和13年7月 試運転中の地領丸」
所蔵:船の科学館
「宗谷」は、昭和11(1936)年からソビエト連邦向け耐氷型貨物船3隻の第2船「ボロチャエベツ」として建造が始まりました。しかし日ソ関係の悪化など諸事情により、ソ連へ引き渡されることはありませんでした。
第2船は「地領丸」と改名され、昭和13(1938)年6⽉10⽇に竣⼯し、辰南商船の所有船となって、チャーター船として各地を航行しました。

「特務艦「宗谷」改装工事完了時」
所蔵:船の科学館
翌年(昭和14年)、海軍に買い上げられ、測量を行う特務艦に改造され、船名が「宗谷」に変更されました。
耐氷構造を備えた「宗谷」は、その性能を活かして北方海域での測量業務を行うだけでなく、南洋諸島でも測量業務を担いました。
やがて太平洋戦争が始まると、「宗谷」は輸送業務を主体とする特務艦に改造され、日本海軍の重要拠点であったトラック島を中心に、測量業務や物資輸送などの任務につきました。

「昭和21年8月、旧満州から引揚げ者収容のため葫蘆島に停泊する宗谷」
所蔵:船の科学館
太平洋戦争を生き抜いた「宗谷」は、戦後は在外邦人を祖国に送り届ける「引揚げ船」となり、南洋諸島や中国、樺太などの各地から、およそ1万9千人に及ぶ引揚者を日本に送り届け、帰還を支えました。
引揚輸送の任務を終えると、昭和24(1949)年に海上保安庁灯台部に移籍します。改装工事を受け、白い船体の「灯台補給船」に生まれ変わり、全国の灯台や航路標識施設への物資輸送などに従事しました。

「前甲板にブイを乗せて航走する灯台補給船「宗谷」」
所蔵:船の科学館
1950年代に入ると、「国際地球観測年」に向け、各国の南極観測計画を調整する「南極会議」が開催されることになり、日本はその第1回会議(1955年7月開催)・第2回会議(1956年9月開催)で南極観測への参加意志を表明しました。
しかし各国の反応は冷淡で、強い反対意見も出ました。アメリカ・ソ連の賛同を得て辛うじて賛成多数となり、日本の参加と観測基地の割り当て(プリンス・ハラルド海岸)が承認されたのです。
一方、南極観測のための船は、改造可能な船の候補として耐氷構造の「宗谷」が選ばれ、昭和31(1956)年から浅野船渠で工事が始まり、南極への一歩を踏み出しました。

「初めて南極に到着した「宗谷」(第1次観測)」
所蔵:船の科学館
南極観測船に大改造された「宗谷」は、日本初の南極観測船として昭和31(1956)年11月8日に東京晴海ふ頭を出港し、南極に向かいます。
以来、昭和37(1962)年4月まで、6回にわたる南極観測で活躍し、地球6.7周分に相当する距離を航行しました。

「第一管区海上保安部の巡視船となった「宗谷」」
所蔵:船の科学館
南極観測の任務を終えた「宗谷」は、再び白い船体となり、昭和53(1978)年に解役になるまで、第一管区海上保安部所属の「巡視船」として、最後の仕事を全うしました。
退役後は、昭和54(1979)年5月から「船の科学館」に係留展示され、今なお“歴史的価値のある遺産”として、多くの人々にその歴史を伝え続けています。
明日(2026年6月10日)は「宗谷(地領丸)」の竣工を記念して、満船飾を行いお祝いをします。この機会に「宗谷」にご来場・ご乗船いただき、船体に刻まれたその歴史を感じていただければ幸いです。
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