黒船来航によって鎖国を解き開国すると、列強の軍艦や商船が頻繁に来航するようになりました。
こうしたなか、幕府は列強の圧力に対抗するため、近代的な海軍をつくることを決意し、「大船建造禁止令」を解くとともに、海外に新造艦を発注したり、中古艦を買い入れたり、近代的な海軍の増強をはかりました。
また有力な諸藩も洋式軍艦を建造・購入し、海軍力の強化を進めました。
なかでも、中古の蒸気軍艦では、幕府がイギリスから購入した木造外輪軍艦「回天」(1855年建造、排水量1,678トン)、薩摩藩がイギリスから購入した木造外輪軍艦「春日丸」(1863年建造、排水量1,015トン)、幕府がアメリカから購入しようとしたスクリュー推進木造軍艦「甲鉄」(1864年建造、排水量1,358トン、後の「東」)が知られています。
このうち軍艦「春日丸」(絵画右後方)は、薩摩藩が慶応3年11月3日(1867年11月28日)、長崎のグラバー商会の仲介で、清国向けの通報艦として建造・キャンセルされたイギリス船籍のキャンスー号(江蘇)を購入し、「春日丸」と改名した軍艦です。
「春日丸」という船名は、島津家が豊臣秀吉から朝鮮出兵を命じられた時に建造した軍船と同じ名前が命名されています。
軍艦「春日丸」は、300馬力を誇る1,015トンの外輪蒸気艦で、長さ74メートル、幅9メートル、大砲6門を装備し、戊辰戦争(箱館戦争)では「甲鉄」に次ぐ新政府軍の主力艦でした。
また、「春日丸」は試運転で平均16ノットの速力を出し、旧幕府軍の新造蒸気軍艦「開陽丸」の速力 10ノット(汽走時)を大きく上回る速さでした。
ところが、明治維新によって藩がなくなると、戊辰戦争で活躍した志士たちは、その方向性を巡って敵味方に分かれます。
明治10(1877)年に西南戦争が勃発すると、皮肉なことに、戊辰戦争の時に新政府軍の主力艦として活躍した薩摩藩の「春日丸」によって、鹿児島の町は砲撃を受けたのです。
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