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今日の海の日

「歴史・人物」に関連する記事が178件あります

明治2年7月8日の開拓使設置に伴い、「咸臨丸」「昌平丸」は開拓使付属輸送船に

慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争は、明治2(1869)年の箱館五稜郭の陥落によって終わり、新政府は蝦夷地(北海道)を開拓するため、同(明治2)年7月8日(1869年8月15日)に開拓使を設置しました。

当時の北海道は原生林が生い茂り、土地の開墾や道路の整備などの工事が不可欠で、開拓使は、開拓のための人や物資を輸送する船舶を多数必要としていたことから、兵部省の管轄にあった「咸臨丸」と「昌平丸」はその中に加えられ、開拓使付属の輸送船となりました。

咸臨丸模型.jpg

船舶模型「 蒸気軍艦 「咸臨丸」(1/50)」
寸法:1314×346×773
所蔵:船の科学館

「咸臨丸」は、幕府が近代海軍創設のため、オランダに発注したコルベット型帆船で、日米修好通商条約批准のための随伴艦として太平洋を横断後、神奈川・横浜港の警備、小笠原諸島の調査等を行った後、蒸気機関を外して帆走の運搬船になり、箱館戦争では旧幕府軍として戦いました。

開拓使付属の輸送船になると、物資や開拓使の官吏を乗せて東京・函館を往復したり、北海道内沿岸の物資輸送に従事したりしました。
また、開拓使は北海道への移民を積極的に推進したため、新天地を求める移住者の輸送にも当たっています。

昌平丸.jpg

船舶模型「洋式軍艦「昌平丸」(1/50)」
寸法:965×240×600
所蔵:船の科学館

一方、薩摩藩が独力で建造したパーク型帆船「昇平丸(後に昌平丸)」は、幕府に献納され、江戸から長崎海軍伝習所への第1次伝習生派遣に従事するなどしています。
開拓使付属の輸送船になると、「咸臨丸」とともに、人や物資の輸送に従事したのです。

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
箱館湾海戦で健闘した旧幕府艦「蟠竜丸」は、ヴィクトリア女王から徳川将軍に贈呈され、安政5年7月5日に品川入港

戊辰戦争の最後の戦い「箱館湾海戦」において、新政府艦隊6隻と戦った旧幕府艦隊の陣容は、「回天」「蟠竜丸」「千代田形」の3隻でした。
そのなかで、「蟠竜(ばんりゅう)丸」は新政府艦「朝陽丸」を撃沈する戦果をあげたことが知られていますが、この「蟠竜丸」は、英国ヴィクトリア女王から徳川将軍に寄贈された汽走ヨットだったことをご存じでしょうか。

軍艦「蟠竜丸」の原名「エンペラー」は、1857(安政4)年、イギリスのグリーン造船所で汽走ヨット(軍艦)として建造されました。
「エンペラー」は、横置式トランク・エンジンとトップスル・スクーナー型帆装を備え、12ポンド砲4門が搭載されていました。

そして、「エンペラー」が徳川将軍に寄贈されたのは安政5年(1858年)、日英修好通商条約に調印するために来日した使節から贈られ、7月5日(8月13日)に品川に入港しました。
この船は、天に上る前のうずくまった状態の龍を意味する「蟠竜」と命名されています。

「蟠竜丸」の概要

排水量 370トン
長さ 41.2メートル
6.7メートル
主機 トランク・エンジン
出力 60馬力
備砲 12ポンド砲4門

慶応4(1868)年、「蟠竜丸」は榎本武揚が率いる旧幕府艦隊に加わり、箱館湾海戦では「朝陽丸」を撃沈する戦果をあげましたが、最後は砲弾がつきてしまい、浅瀬に擱座・退艦し、新政府軍によって焼き払われてしまいました。

ばん龍丸の後身雷電.jpg

絵画「雷電」
作:山高五郎
寸法:141×236
所蔵:船の科学館

箱館湾海戦後、「蟠竜丸」はイギリス人によって回収され、大規模な改修が施されました。
イギリス人は再生した「蟠竜丸」を日本に売り込み、北海道開拓使が購入すると後に「雷電」に改められ、明治10(1877)年には海軍の軍艦「雷電」になりました。

その後、明治21(1888)年に廃艦になると捕鯨船・商船に転身し、明治30(1897)年に解体。40年の生涯を閉じています。

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
箱館湾海戦後、明治2年5月12日に新政府艦隊「甲鉄」が五稜郭に砲撃開始

慶応4(1868)年、幕臣だった榎本武揚は、新たな国家建設を夢見て軍艦多数を率いて北海道へと向かい、箱館を拠点に明治新政府に対抗しました。
宮古湾海戦に続く箱館湾海戦では、旧幕府艦隊「千代田形」は新政府艦隊に捕らえられ、「回天」「蟠竜丸」は焼き払われて敗北しました。

一方、陸上でも旧幕府軍と新政府軍の戦闘は激戦となり、箱館湾海戦の翌日(明治2年5月12日/1869年6月20日)早朝から、新政府軍「甲鉄」などの艦船は、旧幕府軍の本拠地「五稜郭」に向けて砲撃を開始しました。

五稜郭からの砲撃は港湾に届かなかったのに対し、「甲鉄」の大砲は4キロメートルにも及ぶ威力があり、徐々に命中率を高めると、五稜郭の太鼓櫓は砕け飛び、郭内各所の守備兵に大きな脅威を与えました。

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絵画「幕末軍艦「甲鉄」と「春日」」
作:山高五郎
寸法:149×246
所蔵:船の科学館

その後、旧幕府軍は明治2年5月18日に降伏し、五稜郭は新政府に明け渡されました。
そして榎本武揚は明治5年に赦免され、海軍中将や海軍卿(海軍大臣)等の大臣を歴任し、荒井郁之助は初代気象台長に就任し、浦賀ドックの創設に尽力します。

また、旧幕府軍の「蟠竜丸」は、火を放たれるも海中に横倒しになって火が消え、イギリス商人によって上海で修理・改造されて「雷電」と改め輸送船になり、軍艦・捕鯨船として使用されました。
一方、新政府軍の「甲鉄」は明治21(1888)年、「春日丸」は明治27(1894)年に廃艦になっています。

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投稿者:メル カテゴリー:歴史・人物 コメント:0
文久元年4月19日、咸臨丸はロシア軍艦対馬占領事件解決のため品川出港

幕末の万延2年2月3日(1861年3月13日)、ロシアの軍艦「ポサドニック」が海軍の根拠地設立のために対馬に来航し、停泊の許可を求め一時不法占拠する「ロシア軍艦対馬占領事件/ポサドニック号事件」が起きました。

幕府は、長崎奉行に軍艦を退去させるよう命じましたが解決せず、外国奉行小栗豊前守(おぐりぶぜんのかみ)に対馬に行き、ロシアと交渉するよう命じました。
小栗豊前守は、アメリカから戻って神奈川、横浜港の警備等をしていた「咸臨丸」に乗船し、文久元年4月19日(1861年5月28日)に品川を出港して対馬に向かいました。

しかし、ロシアとの折衝は上手くいかず解決できなかったので、同年5月13日(1861年6月20日)に対馬から引き揚げましたが、「咸臨丸」は途中で機関が故障してしまい、長崎で修理を行うこととなり、江戸に戻ったのは5ヶ月後の10月22日でした。

咸臨丸帆走時イラスト.jpg

絵画「「咸臨丸」帆走時の精密側面イラスト」
作:西村慶明
寸法:305×465
所蔵:船の科学館

ところで、ロシアとの折衝を行った小栗豊前守は、日米修好通商条約批准書交換の「遣米使節団」の副使として活躍した人で、帰国後に外国奉行に任命されていましたが、このロシアとの折衝に失敗したことで辞任を申し出ています。

そして、この事件を通して、幕府の経済力・軍事力の弱さを痛感した小栗は、文久2(1862)年に再び勘定奉行になり、横須賀製鉄所(造船所)の建設を推進しました。

錦絵横須賀造船所.jpg

錦絵「日本名勝図會 横須賀造船所」
発行:明治二十九年十二月印刷
寸法:370×245
所蔵:船の科学館

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