慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争は、明治2(1869)年の箱館五稜郭の陥落によって終わり、新政府は蝦夷地(北海道)を開拓するため、同(明治2)年7月8日(1869年8月15日)に開拓使を設置しました。
当時の北海道は原生林が生い茂り、土地の開墾や道路の整備などの工事が不可欠で、開拓使は、開拓のための人や物資を輸送する船舶を多数必要としていたことから、兵部省の管轄にあった「咸臨丸」と「昌平丸」はその中に加えられ、開拓使付属の輸送船となりました。
船舶模型「 蒸気軍艦 「咸臨丸」(1/50)」
寸法:1314×346×773
所蔵:船の科学館
「咸臨丸」は、幕府が近代海軍創設のため、オランダに発注したコルベット型帆船で、日米修好通商条約批准のための随伴艦として太平洋を横断後、神奈川・横浜港の警備、小笠原諸島の調査等を行った後、蒸気機関を外して帆走の運搬船になり、箱館戦争では旧幕府軍として戦いました。
開拓使付属の輸送船になると、物資や開拓使の官吏を乗せて東京・函館を往復したり、北海道内沿岸の物資輸送に従事したりしました。
また、開拓使は北海道への移民を積極的に推進したため、新天地を求める移住者の輸送にも当たっています。
船舶模型「洋式軍艦「昌平丸」(1/50)」
寸法:965×240×600
所蔵:船の科学館
一方、薩摩藩が独力で建造したパーク型帆船「昇平丸(後に昌平丸)」は、幕府に献納され、江戸から長崎海軍伝習所への第1次伝習生派遣に従事するなどしています。
開拓使付属の輸送船になると、「咸臨丸」とともに、人や物資の輸送に従事したのです。
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