• もっと見る

今日の海の日

「船・潜水艦」に関連する記事が196件あります

東洋汽船サンフランシスコ航路「香港丸」は、明治31年7月7日に進水

日清戦争後、明治29(1896)年に創立された東洋汽船は、アメリカのPM社(パシフィック・メール)が独占していたサンフランシスコ航路に進出するため、イギリスの造船所で6,000総トン型・18ノットの「日本丸」級3隻(日本丸・亜米利加丸・香港丸)を建造しました。

香港丸絵葉書.jpg

絵葉書「大阪商船に売却後の香港丸」
寸法:90×140
所蔵:船の科学館

「香港丸」は、「日本丸」の第3船として、日本丸と同じSir J.Laing造船所に発注され、明治31(1898)年7月7日に進水し、翌32年2月8日に香港を出港してサンフランシスコに向けて処女航海に出ました。
船型は「日本丸」と同じくスクーナー型で、優美なクリッパー型の船首、純白の船体に煙突が2本、マスト3本の客船でした。33年には、遊歩甲板上に喫煙室を新設することに伴い、3本マストが2本マストに改装されています。

「香港丸」の概要

総トン数 6,010トン
垂線間長 126.79メートル
型幅 15.39メートル
型深 9.90メートル
主機 三連成レシプロ機関×2基
出力 8,100馬力(連続最大)
速力 17.7ノット(試運転最大)
旅客定員 523名(一等110名、二等14名、三等399名)

明治37(1904)年に日露戦争が始まると他の姉妹船と共に仮装巡洋艦となり、インド方面にまで出動してバルチック艦隊を牽制するなどの役目を果たしました。

翌38年12月に徴用が解除されるとサンフランシスコ航路に戻りましたが、PM社が同航路に投入したコレア号型4隻に優位を奪われ、「天洋丸」級(東洋汽船所有)と交代することになり、姉妹船「亜米利加丸」と共に南米西岸線に移りました。
しかし同航路には適合せず、亜米利加丸に続いて大正3(1914)年に大阪商船に売却されました。

あわせて読みたいおススメの記事

この記事をシェアする

投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
間もなく引退する砕氷型巡視船「そうや」は、「宗谷」の代替船として昭和53年7月3日に進水

海上保安庁第1管区海上保安部 釧路海上保安部に所属している巡視船「そうや」は、船体の老朽化に伴い、間もなく引退することが決まっていますが、どのような巡視船でしょうか。

巡視船そうや.jpg

船舶模型「巡視船PL01 「そうや」(1/100)」
寸法:986×156×310
所蔵:船の科学館

巡視船「そうや」の概要 ※竣工時

船型 ヘリコプター搭載型
総トン数 3,137トン
長さ 98.6メートル
15.6メートル
喫水 5.2メートル
主機関 ディーゼル(16,000馬力)
速力 21.0ノット
乗員 56名(最大71名)
主要装備 ベル212型ヘリコプター 1、40ミリ機関砲 1、20ミリ機銃 1
建造所 日本鋼管(株)鶴見製作所

当館が所蔵している船舶模型は、海上保安庁から寄贈を受けたもので、当初の型番は「PL01 」とされていましたが、後に「PLH01」に変更されました。
海上保安庁の大型巡視船は「PL」、ヘリコプター搭載は「H 」、1号船であることが「01」で示されています。

p44巡視船になった宗谷.jpg

「南極観測業務を終え、第一管区海上保安部の巡視船になった「宗谷」」
所蔵:船の科学館

絵画宗谷解役式.jpg

絵画「(初代南極観測船)「宗谷」解役式」
作:岩瀬玄海
寸法:370×450
所蔵:船の科学館

ところで、巡視船「そうや」は、昭和38(1963)年8月から巡視船となった初代南極観測船「宗谷」の代替船として、昭和52(1977)年から2ヶ年計画で建造された砕氷能力を有するヘリコプター搭載の大型巡視船で、昭和53年7月3日に進水し、同年11月22日に竣工しました。

以来、砕氷能力とヘリコプターの機動力を発揮して、氷に閉ざされることの多いオホーツク海や、アメリカとの捜索救助範囲の境界などの広範囲にわたって、海難救助や警備を行っています。
平成23(2011)年に発生した東日本大震災では、東北沖に出動して行方不明者の捜索などの任務にもあたりました。

ところが、「そうや」の船齢が30歳を超えると各所に老朽化が進み、改修工事が行われながら業務を遂行していましたが、過去に例のない40歳台に達すると代替船の建造が検討され、令和3(2021)年度から代替船の建造が始まりました。

代替船は、ジャパンマリンユナイテッド(株)横浜事業所磯子工場において昨年(令和6年)9月2日に進水して「そうや」と命名され、令和7年度中に就役する予定となっています。

あわせて読みたいおススメの記事

この記事をシェアする

投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
日本初の新造病院船として活躍した「弘済丸」は、明治32年6月28日に日本回着

明治27(1894)年8月、朝鮮半島の支配権をめぐって、日本と清国の間で日清戦争が始まりました。
戦争には軍艦の他にも多くの軍事輸送用の船舶が必要とされ、9ヶ月にわたる日清戦争では、日本郵船・大阪商船等の船会社から、あわせて140隻・22万7,000総トンの船舶が陸海軍に徴用されました。

そのなかには、日清戦争以降、本格的に運用されるようになった「病院船」の活躍がありました。
日本赤十字社は、病院船に改造した船舶に乗り込み医療に従事していましたが、戦時に専用の病院船となる船舶が必要と考え、英国スコットランドのロブニッツ造船所に2隻の貨客船「博愛丸」「弘済丸」を発注し、第1船「博愛丸」は明治32(1899)年4月10日、第2船「弘済丸(こうさいまる)」は同年6月28日に日本に回着しました。

E5BC98E6B888E4B8B8-thumbnail2.jpg

絵葉書「日本赤十字社 病院船 弘済丸」
所蔵:船の科学館

「弘済丸」の概要

総トン数 2,626.60トン
垂線間長 94.29メートル
型幅 11.88メートル
型深 9.02メートル
主機 三連成レシプロ機関×1基
出力 2,887馬力(連続最大)
速力 12.5ノット(試運転最大)
旅客定員 319名(1等47名、2等22名、3等250名)
乗組員 46名

日本赤十字社は、平時は日本郵船が運航、戦時は日本赤十字が病院船として使用する契約を日本郵船と締結していたので、「弘済丸」は日本に回着後、8月から日本郵船の近海航路に就航しました。

しかし、翌(明治33)年、北清事変が起きると「博愛丸」「弘済丸」は病院船に改装され、同年7月から傷病兵の輸送を行い、病院船の任を解かれると神戸〜基隆航路に就きました。明治37(1904)年2月に日露戦争が始まると、再び病院船となって傷病兵16,785人を輸送しています。

日露戦争後は、「博愛丸」と共に上海航路に就航しましたが、大正4(1915)年からは鉄道省に傭船されて関釜連絡航路や青函連絡航路に配船され、大正12(1923)年に発生した関東大震災では、避難民の輸送船として1,843人を輸送しています。

その後、大正15(1926)年に八木商店に売却されると、船名を「美福丸」に改名、蟹工船に改造され、漁期は蟹工船、閑期は貨物船として働きました。
以後、所有者が転々と変わりましたが、昭和17(1942)年8月、青森県白浜沖で米潜の雷撃により沈没し、生涯を閉じています。

あわせて読みたいおススメの記事

この記事をシェアする

投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
寛永7年6月25日、江戸幕府第3代将軍徳川家光が御座船「天地丸」に試乗

江戸幕府は、慶長8(1603)年に徳川家康が将軍宣下を受けて開かれましたが、当初の政情は安定せず、西国大名は水軍の増強につとめていました。
そこで幕府は、慶長14(1609)年に大船建造禁止令によって500石積以上の大型船の所有を禁止し、西国諸大名が所有していた安宅船(あたけぶね)の全てを没収して、諸大名の水軍力を削減します。

すると諸大名は、安宅船に代わる関船(せきぶね)を制限いっぱいの大きさで建造し、船によっては鮮やかな漆塗りで仕上げ、様々な金具で装飾した豪華な屋形を設けて御座船とし、参勤交代等に用いて権威を誇示しました。

その中で、幕府が御座船として建造し、寛永7年6月25日(1630年8月3日)に時の将軍 徳川家光が試乗した「天地丸」は、その時代に建造された大型関船の模範となりました。

天地丸絵画.jpg

絵画「将軍御座船「天地丸」」
作:谷井建三
寸法:590×895
所蔵:船の科学館

この絵画は、御座船「天地丸」が隅田川の御船蔵を出て永代橋をくぐり、帆を上げつつ帆走に移ろうとしている状況を再現して描かれています。
「天地丸」は、船体・総矢倉・2階建ての屋形など全体が鮮やかな朱塗りで、帆には三葉葵の御紋が印され、小櫓76挺立でした。

天地丸船舶模型.jpg

船舶模型「 御座船「天地丸」(1/13.5)」
寸法:2,060×600×1,020
所蔵:船の科学館

「天地丸」の概要

全長 34メートル
肩幅 7.2メートル
深さ 1.9メートル
櫓数 76挺立
帆の反数 16反

「天地丸」は、寛永7(1630)年に完成してから、数回にわたる大修理によって、幕末の文久2(1862)年に廃船となるまで、233年間の長きにわたって使用されました。
さらに「天地丸」が完成した2年後(寛永9年)には、大櫓100挺立の軍船「安宅丸(あたけまる)」の建造が始まっています。
寛永11(1634)年に完成した「安宅丸」は江戸に回航され、翌12年6月2日(1635年7月15日)には、将軍 徳川家光は諸大名を引き連れて「安宅丸」に上覧しています。

絵画「安宅丸」.jpg

絵画「幕府軍艦「安宅丸」」
作:谷井建三
寸法:590×890
所蔵:船の科学館

「天地丸」や「安宅丸」が建造された寛永初期という時代は、徳川幕府の基礎が固まりつつも豊臣滅亡から10年余しか経っておらず、幕府の西国大名に対する並々ならぬ警戒心から水軍力が強化され、江戸の防備が図られています。

あわせて読みたいおススメの記事

この記事をシェアする

投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0

サイト内検索

カレンダー

  •  
  •  
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  •  
  •  

このブログについて