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今日の海の日

「船・潜水艦」に関連する記事が288件あります

史上最大・最強の戦艦「大和」は、呉海軍工廠で昭和15年8月8日に進水 

史上最大にして最強の戦艦として歴史に名を留める戦艦「大和」は、昭和12(1937)年度計画(第3次補充計画:㊂計画)によって建造された大和型戦艦の1番艦で、昭和15(1940)年8月8日に呉海軍工廠で進水し、「大和」と命名されました。

戦艦大和(山高).jpg

絵画「戦艦「大和」」
作:山高五郎
寸法:256×354
所蔵:船の科学館

この進水式(命名式)は、ドックの渠頭部に設けられた社殿風の式台で、天皇陛下の御名代として久邇宮朝融王海軍大佐が臨席され、高官や工廠の作業員らが見守る中、執り行われました。

進水は、ドックに注水して曳船によって引き出す方法で行われ、浮揚した船体を前に、海軍大臣代理 日比野呉鎮守府司令長官が命名書を読み上げると、直後に工廠長によって支綱(船体を固定していた綱)が切断されました。
なお、「大和」の艦名は、奈良県の旧国名「大和」に由来しています。

当館が所蔵する進水記念の風鎮(掛け軸に下げるおもり)をご紹介しましょう。

戦艦大和進水記念品.jpg

「戦艦「大和」進水記念の風鎮」
寸法:50×220×60
所蔵:船の科学館

この風鎮は、戦艦「大和」の進水記念に製作されたもので、有田焼で作られた風鎮には、同工廠の庭田造船部長(当時)がデザインした橿原神宮と二重橋が描かれ、裏側には皇紀二六〇〇年(昭和15年)の文字が刻まれています。

しかし、進水記念品として製作されたものの、配布は中止となり、一部の関係者にのみ手渡されました。そのため現存数はごくわずかとされる、大変貴重な資料です。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
明日8月8日「屋根の日」に知る、江戸の水上交通「屋根船」とは!?

明日8月8日は「屋根の日」です。
漢字の「八」が屋根の形に似ていて、「八」を重ねると瓦が重なり合う姿に似ていることから、(一社)全日本瓦工事業連盟が屋根瓦をアピールすることを目的に制定し、(一社)日本記念日協会によって認定・登録されています。

さて、「屋根」と言えば住宅を思い浮かべますが、実は、江戸時代の河川や運河・水郷では「屋根船」が数多く活躍していました。
「屋根船」は、遊山や宴席を楽しむ大型の「屋形船」とは異なり、より小型で、交通や手軽な遊びに利用された船です。船型や水押(みよし)、屋根の造りにも違いがあり、一見して見分けることができました。

屋根船模型.jpg

船舶模型「屋根船(日除船)(縮尺1/20)」
寸法:440×110×90
所蔵:船の科学館

「屋根船」は、正式には「日除船(ひよけぶね)」と呼ばれ、手軽な船遊びや交通手段に使われていました。

『川船年貢盛付証文』(享保6年)によると、その寸法は上口長さ24・25尺(7.3〜7.6メートル)、幅6尺(1.8メートル)、2〜4挺櫓となっており、猪牙船の幅を広くしたような四畳敷きの小船に簡素な屋形を設けた船でした。
武士以外は障子を立てることが禁じられ、庶民は簾(すだれ)を用いましたが、風紀上の問題から、雨や雪、荒波以外は簾を下げることは制限されていました。

「屋根船」の船賃は、江戸市中の水上タクシーと言われた「猪牙船」より高く、現代でいえば「ハイヤー」のような存在でしたが、それでも多くの人々に利用されました。

錦絵 両国大花火の図.jpg

錦絵「両国大花火の図」
作:歌川芳艶
寸法:352×770(3枚続)
所蔵:船の科学館

この錦絵は、江戸時代末期の浮世絵師 歌川芳艶(1822-1866)が、両国橋の納涼・花火打ち上げを描いたものですが、屋根船や猪牙船など花火船の光景が描かれています。

江戸市民の船遊びは、屋形船に加えて、より手軽な屋根船も利用されるようになり、一部の富裕層だけでなく庶民にも広がっていったと考えられています。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
戦艦「武蔵」は昭和17年8月5日に竣工 〜「大和」の姉妹艦の誕生と最期〜 

日本海軍が建造した最大の戦艦「大和」の姉妹艦「武蔵」は、大和型戦艦の2番艦として、三菱重工長崎造船所で昭和13(1938)年3月29日に起工、昭和15(1940)年11月1日に進水し、昭和17(1942)年8月5日に竣工・就役しました。
竣工は「大和」の竣工からおよそ8ヶ月後のことで、既に太平洋戦争の最中でした。

「武蔵」の基本的な性能こそ「大和」と同じでしたが、副砲塔の防御強化、25ミリ3連装機銃4基の増備などが行われていました。
また、「武蔵」には竣工時から21号電探(航空機などを探知するためのレーダー)が搭載されており、「大和」には後の昭和18(1943)年9月に設置されました。

戦艦武蔵.jpg

絵画「 戦艦「武蔵」」
作:元海軍従軍美術家 松添健
寸法:640×900
所蔵:船の科学館

「武蔵」の竣工を記念して、輪島塗の香盒(香を入れる容器)が製作され、関係者に贈られたとされています。 香盒には「武蔵」の文字がどこにも記されていませんが、裏側に「竣工記念 弐六〇弐」(皇紀2602年:昭和17年)と記されています。

戦艦武蔵竣工記念品.jpg

戦艦「武蔵」竣工記念の香盒
寸法:横幅80×厚さ10
所蔵:船の科学館

戦艦「武蔵」の竣工から約半年後の昭和18(1943)年2月、山本五十六連合艦隊司令長官は旗艦を「大和」から「武蔵」に移し、日本海軍の根拠地であるトラック島へ進出しました。
しかし、そのわずか2ヶ月後の4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官はソロモン諸島上空でアメリカ軍戦闘機に撃墜され、戦死しました。

その後の「武蔵」は物資輸送等に従事した後、昭和19(1944)年10月、史上最大規模の海戦ともいわれるフィリピン・レイテ沖海戦に挑みましたが、アメリカ空母機の猛攻撃を受け、24日シブヤン海で沈没してしまいました。

太平洋戦争では海戦の主役が戦艦から航空母艦へと移り変わり、史上最大・最強を誇った「大和」と「武蔵」も、その巨大な主砲を十分に生かすことなく航空機の攻撃によって沈没しました。二隻の運命は、戦艦の時代から航空機の時代への転換を象徴する出来事となりました。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0
戦前日本の最優秀客船「新田丸」、昭和16年8月5日に最後の商業航海を終える

今から86年前、わが国の最新技術を結集して建造された「新田丸」は、昭和15(1940)年3月に完成しました。本来はヨーロッパ航路の定期客船として計画されていましたが、第二次世界大戦の勃発により、太平洋航路(ハワイ経由サンフランシスコ・ロサンゼルス行)へ変更され、同年4月から就航しました。

次の絵葉書は、「新田丸第一回太平洋横断記念」と題された初日カバーですが、横浜出帆日の1940年5月18日の消印が押されています。

新田丸第1回就航記念.jpg

絵葉書「新田丸第一回太平洋横断初日カバー」
寸法:320×250×25
所蔵:船の科学館

「新田丸」は、それまで欧米に依存していた客船建造技術や鋼材、艤装品、家具調度品などを、ほぼ国産化して建造された戦前日本を代表する客船で、世界で初めて、一等客室の全室に冷暖房を完備した客船でした。

絵葉書 貨客船 新田丸 就航記念 船内.jpg

絵葉書「貨客船 新田丸 就航記念」
寸法:90×138
所蔵:船の科学館

ところが、昭和16(1941)年7月26日、米英両国による日本資産の凍結によって外国航路の運航は中止となり、7月25日にマニラを出港した「新田丸」は、8月5日に横浜港へ帰港し、商業客船としての最後の航海を終えました
こうして「新田丸」は、北米航路をわずか6往復しただけで、商業客船としての短い生涯に幕を下ろしました。

翌9月12日には、あらかじめ有事の徴用を想定して建造されていた「新田丸」は海軍に徴用され、2等喫煙室(後部マストの真下)には通信機械が設置されました。

新田丸解剖図.jpg

「新田丸の内部精密解剖図」
作画:谷井健三
所蔵:船の科学館

そして、同年11月から海軍初のパラシュート部隊や陸軍部隊を輸送する任務に就き、12月8日に太平洋戦争の開戦を迎えました。
このパラシュート部隊は、昭和17(1942)年1月、セレベス島メナドの奇襲作戦で初めて実戦投入され、カカス飛行場の占領に成功したことで知られています。

豪華客船として誕生した「新田丸」は、この日を境に、その華やかな船歴を終え、軍用船として新たな運命を歩み始めることになります。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0

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