黒船の来航を契機に開国に向かった日本は、慶応2(1866)年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダと「江戸条約」を締結しました。その条項には、外国船の安全航行のため、指定された場所に灯台を建設することが盛り込まれていました。
翌慶応3(1867)年には、アメリカの船会社パシフィック・メール社が、サンフランシスコ〜横浜〜上海を結ぶ太平洋航路を開設し、その重要な航路を支える灯台として「犬吠埼灯台」や「野島埼灯台」の建設が進められました。
「犬吠埼灯台」の設計・施工監督は、「日本の灯台の父」と呼ばれた英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンによって行われ、明治5(1872)年9月28日に着工、明治7(1874)年11月15日に完成・初点灯しました。
次の錦絵「総州銚子港灯台略図」には、江戸末期から明治初めにかけて活躍した浮世絵師 歌川国輝によって「犬吠埼灯台」が描かれています。
灯台には、初めて国産化に成功した煉瓦19万3,000枚が使用され、その近代的な姿に魅了された見物客が後を絶たなかったそうです。

錦絵「総州銚子港灯台略図」
作:歌川国輝(二代)
寸法:370×730(三枚続)
所蔵:船の科学館
さて、今日のブログでは、英国人技師ブラントンと、その技術に注目して見ていきましょう。
「江戸条約」によって灯台の設置を求められた幕府は、慶応3(1867)年、灯台建設で名を馳せたスティーブンソン兄弟を在英のまま幕府の技術顧問にしました。
一方、ブラントン(1841-1901)は、技師としての教育を受けた後、鉄道技師として働いていましたが、日本での灯台建設事業の募集に応募し、主任技師として採用されました。
採用後、スティーブンソン兄弟のもとで実地訓練を受け、慶応4(1868)年8月に来日し、以来、明治9(1876)年に離日するまでの7年半の間に、灯台26基・浮標13基・立標3基・灯船2隻を設置し、大きな功績を残しています。
そのブラントンの代表的な灯台の一つが「犬吠埼灯台」で、煉瓦造りの日本一の高塔は二重円筒構造になっています。
灯台は遠くから見えることが重要で、高さが求められます。
そして、高い塔には強風に耐える強度が求められ、地震国の日本では耐震も重要な要素です。しかし当時の日本には、欧米並みの強度を持つ煉瓦がなく、煉瓦の輸入は現実的ではありませんでした。
そこで、ブラントンは、強度が十分でない国産煉瓦を用いて二重円筒構造を採用し、それを放射状の8枚の壁で連結しました。この構造によって煉瓦の使用量を抑えながら、耐震性・耐風性・耐湿性を高めたのです。
この工法は日本人技師に受け継がれ、日本一灯塔が高い「出雲日御碕灯台」にも使われています。
「犬吠埼灯台」は、国際航路標識協会が1998(平成10)年に選定した「世界灯台100選」に選ばれています。また、第50回灯台記念日に実施された公募では日本の灯台50選に選定されました。さらに、2008(平成20)年には「近代化産業遺産」、2020年には国の重要文化財に指定されるなど、その歴史的・文化的価値が高く評価されています。
あわせて読みたいおススメの記事







































