東京湾の北西側に位置する「横浜港」は、黒船の来航を機に、安政6年6月2日(1859年7月1日)に開港され、日本の近代化とともに発展しました。
時代が明治に移ると、新政府は港湾施設の整備を重視し、明治22(1889)年から、イギリス人技師ヘンリー・S・パーマーの監督のもと、最初の横浜港修築工事に着手し、大桟橋ふ頭や防波堤などを建設しました。
パーマーは築港工事の前に、横浜で日本初の水道工事も指導しており、横浜では「水と港の恩人」と言われています。
さて、横浜港は港の発展と共に形を変化させていますが、当時の防波堤は、北水堤と東水堤が弧を描くように横浜港を囲み、北水堤には赤灯台、東水堤には白灯台が設置されていました。
ちなみに、港湾の防波堤の先端に設置される灯台は、世界共通ルールになっており、入港する船に対して、右舷標識(海から港に向かって右側)は「赤色」塗装で赤灯色、左舷標識(海から港に向って左側)は「白色」塗装で緑灯色になっています。
絵葉書「横浜港」
寸法:91×141
所蔵:船の科学館
上の絵葉書の右側に小さく写っているのが、赤灯台の愛称で知られる「横浜北水堤灯台」で、今から129年前の明治29(1896)年5月16日に初点灯しました。
以来、塔高15メートルの高さから、4海里(約7.4キロメートル)を灯し続け、今も現役で海の安全を守っています。
「横浜北水堤灯台」
出典:写真AC
「横浜北水堤灯台」は、大正12(1923)に発生した関東大震災の後、下層部分は鉄筋コンクリートで補強されましたが、上層部分の六角錐の鉄塔、ドーム形の天井などは当時の姿を残しています。
また、大正初期までは、灯台守が石油ランプ・ガス灯の維持管理を行っていたそうですが、現在は、太陽光発電装置によってLED灯器が光を発し、船舶航行の目標の役割を果たしています。
一方、絵葉書の手前に写る「横浜東水堤灯台(白灯台)」は、「横浜北水堤灯台(赤灯台)」と共に明治29(1896)年に設置され、関東大震災で被災するも復旧を遂げましたが、昭和33(1958)年4月14日に、客船「カロニア号」(総トン数34,172トン)が東水堤に衝突する事故によってなぎ倒され、廃止されました。
現在は、山下公園前に係留されている「日本郵船氷川丸」の桟橋に移設され、往時の「白灯台」の姿を蘇らせています。
写真「氷川丸と白灯台」
撮影:船の科学館
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