こちらは、初代南極観測船“宗谷”です。
先日調べ物をしていた際に、今年2026年が白瀬中尉の没後80年にあたることに気が付きました。白瀬中尉は1946年9月4日、85歳で亡くなっています。
皆さまはこの白瀬中尉をご存じでしょうか?
日本人として初めて南極大陸へ到達した探検隊を率いた人物が、白瀬矗(しらせのぶ)陸軍中尉(1861.7.20ー1946.9.4)です。
「しらせ」と聞いて「おや?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。

1911年から1912年にかけて、世界では南極点到達をめぐる熾烈な競争が繰り広げられていました。
探検家ロアール・アムンセンが率いるノルウェー隊と、海軍大佐ロバート・スコット率いるイギリス隊です。
1911年12月14日、アムンセン隊が世界で初めて南極点へ到達し、無事に生還を果たしました。 いっぽう、スコット隊はその約1カ月後の1912年1月17日に南極点へ到達しましたが、その帰路で隊員全員が命を落とすという悲劇的な結末を迎えました。
そして、この歴史的な南極探検の時代に、日本からも南極を目指した人々がいたのです。
それが、白瀬中尉率いる白瀬南極探検隊でした。
1910年11月29日、白瀬南極探検隊は機帆船「開南丸」で東京・芝浦を出港しました。
この開南丸という船は、もとは「第2報效丸(だいにほうこうまる)」という名の木造漁船で、船体に補強を施し、蒸気機関を取り付けた204トンのとても小さな船でした。
また、「開南丸」という名前は、海軍大将東郷平八郎によって命名されました。
翌1911年2月、開南丸は補給のためニュージーランドへ寄港し、その後さらに南下して3月には南極圏へ入ります。
しかし、南極の短い夏はすでに終わろうとしています。ほどなくして海面の凍結が始まったため、これ以上の前進は不可能と判断し、上陸を断念しました。
一度オーストラリアのシドニーへ戻った白瀬隊は、約半年の再準備を経たのち、再び南極へ挑戦しました。

1912年1月、アムンセンやスコットと同じくロス海方面から上陸した白瀬隊は、南極点到達こそ果たせなかったものの、南緯80度05分まで前進し、その地一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と名付け、当時の探検活動の慣例にしたがって日章旗を掲げて日本領とすることを宣言しました。
さらに「開南湾」「大隈湾」と、この南極探検にちなんだ地名を残しています。
ちなみに砕氷艦「しらせ」の船名のもとになった「白瀬氷河」は、昭和基地のあるリュツォ・ホルム湾の最奥部に位置し、1961年に白瀬中尉を記念して命名されました。
また、後援者である大隈重信伯爵から南極行きの目的を「南極点踏破」から「学術探検」に変更するよう助言を受けた白瀬隊は、大和雪原の探査、気象や岩石、ペンギンなどの学術調査を実施し、研究報告をまとめています。
このような壮挙を成し遂げた白瀬中尉ですが、帰国後の生活は順風満帆ではありませんでした。
南極探検には多額の費用がかかり、白瀬中尉自身が大きな借金を背負うことになったのです。その返済のため、南極の映像を持って国内をはじめ、朝鮮半島・満州・台湾などでも講演会を行いました。
1927年になってアムンセンが来日した際に2人は会見を行いますが、白瀬はその際、自分の生活苦が滲む身なりを恥じて、会うのをためらったともいわれています。
苦しい生活が続き、借金を完済したのは1935年、白瀬中尉が74歳のころだったとされています。
そして、当初は熱狂をもって注目された南極探検も、いつしか人々の記憶は薄れていきます。
そんな空白の期間が40年以上過ぎた1955年、日本は再び南極を目指すことになります。
1957年〜1958年に実施されるIGY(国際地球観測年)に向けた南極観測への参加です。
しかし、南極部会で日本の南極観測参加が審議された際、太平洋戦争における遺恨を持つ一部の国からは猛反対を受けました。肩身の狭い状況で日本が参加を認められた背景には、アメリカとソ連による支持に加え、白瀬南極探検隊の学術研究の実績が追い風になったともいわれています。
いっぽう、南極観測への参加をめぐって国内でもさまざまな議論がありました。
終戦からわずか10年、まだまだ復興途中の日本にとって南極観測など大金をかけて行う余裕はないという意見も少なくない中、白瀬中尉の南極探検がひとびとの背中を押す力となっていました。
参加に賛同したひとりに、松村謙三文部大臣がいます。松村大臣は学生時代、白瀬隊の南極出港を熱狂的に見送った経験がありました。その思い出から「戦争に敗れ、意気消沈している時、こうしたことをやらなければだめだ! 」と、南極観測を強く支持したのです。
また、白瀬中尉が借金返済のために各地で行った講演会のひとつに、第1次南極観測で越冬隊長を務めた西堀栄三郎氏が参加していました。当時子どもだった西堀氏は講演を聞いてその情熱に感銘を受け、このことをきっかけに南極に憧れを持つようになったといいます。
白瀬中尉から始まった熱意が、日本を再び南極へと送り出したのです。
そして1956年11月8日、初代南極観測船“宗谷”は第1次南極観測隊を乗せて日本を出港しました。

こうして始まった南極観測は、“宗谷”、“ふじ”、“5002しらせ”、そして現在の“5003しらせ”へと受け継がれ、今年2026年に70周年を迎えました。
この節目の年に、日本の南極観測の原点ともいえる白瀬南極探検隊の歴史にも触れてみてはいかがでしょうか。
白瀬中尉の故郷である秋田県にかほ市には、この偉業を顕彰する「白瀬南極探検記念館」があります。
白瀬隊の南極探検はもちろん、現代の日本の南極観測についても広く紹介されていて、見ごたえのある施設です。
興味のある方はぜひ訪れてみてください。
白瀬南極探検記念館(秋田県にかほ市)
https://shirase-kinenkan.jp/

そしてもう1カ所、白瀬南極探検隊にまつわる場所をご紹介します。
白瀬中尉が開南丸で出港した地、芝浦です。
東京都港区の埠頭公園には、出港の記念碑のほか、開南丸を模した遊具、南極大陸を表した池も設置されています。
新交通ゆりかもめ「芝浦ふ頭駅」から徒歩5分ほどですので、“宗谷”ご見学の際に少し足を延ばしてみてはいかがでしょうか。
埠頭公園
https://shibaurachuopark.com/futo-park
《船の科学館 イベント紹介》
【青海スタンプラリー】
“宗谷”が係留されている青海地区にある3施設合同でスタンプラリーを開催中です。
海上保安庁の海洋情報資料館、TOKYOミナトリエ、初代南極観測船“宗谷”の3施設を回ってスタンプを3つ集めると、ここでしか手に入らないオリジナルグッズをプレゼント♪
開催はいよいよ9月30日(水)まで!
▽「青海スタンプラリー」の詳細はこちらをご覧ください。
https://funenokagakukan.or.jp/2026/42957/
それでは今回の【宗谷通信】は、ここまで!
以上、“宗谷”から整備係兼学芸員のアデリーがお伝えしました。
先日調べ物をしていた際に、今年2026年が白瀬中尉の没後80年にあたることに気が付きました。白瀬中尉は1946年9月4日、85歳で亡くなっています。
皆さまはこの白瀬中尉をご存じでしょうか?
日本人として初めて南極大陸へ到達した探検隊を率いた人物が、白瀬矗(しらせのぶ)陸軍中尉(1861.7.20ー1946.9.4)です。
「しらせ」と聞いて「おや?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。

写真「わが国初の南極探検を成功させた白瀬隊長」
所蔵:船の科学館
所蔵:船の科学館
1911年から1912年にかけて、世界では南極点到達をめぐる熾烈な競争が繰り広げられていました。
探検家ロアール・アムンセンが率いるノルウェー隊と、海軍大佐ロバート・スコット率いるイギリス隊です。
1911年12月14日、アムンセン隊が世界で初めて南極点へ到達し、無事に生還を果たしました。 いっぽう、スコット隊はその約1カ月後の1912年1月17日に南極点へ到達しましたが、その帰路で隊員全員が命を落とすという悲劇的な結末を迎えました。
そして、この歴史的な南極探検の時代に、日本からも南極を目指した人々がいたのです。
それが、白瀬中尉率いる白瀬南極探検隊でした。
1910年11月29日、白瀬南極探検隊は機帆船「開南丸」で東京・芝浦を出港しました。
この開南丸という船は、もとは「第2報效丸(だいにほうこうまる)」という名の木造漁船で、船体に補強を施し、蒸気機関を取り付けた204トンのとても小さな船でした。
また、「開南丸」という名前は、海軍大将東郷平八郎によって命名されました。
翌1911年2月、開南丸は補給のためニュージーランドへ寄港し、その後さらに南下して3月には南極圏へ入ります。
しかし、南極の短い夏はすでに終わろうとしています。ほどなくして海面の凍結が始まったため、これ以上の前進は不可能と判断し、上陸を断念しました。
一度オーストラリアのシドニーへ戻った白瀬隊は、約半年の再準備を経たのち、再び南極へ挑戦しました。

船舶模型「南極探検船「開南丸」(1/50)」
寸法:1,010×165×595
所蔵:船の科学館
寸法:1,010×165×595
所蔵:船の科学館
1912年1月、アムンセンやスコットと同じくロス海方面から上陸した白瀬隊は、南極点到達こそ果たせなかったものの、南緯80度05分まで前進し、その地一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と名付け、当時の探検活動の慣例にしたがって日章旗を掲げて日本領とすることを宣言しました。
さらに「開南湾」「大隈湾」と、この南極探検にちなんだ地名を残しています。
ちなみに砕氷艦「しらせ」の船名のもとになった「白瀬氷河」は、昭和基地のあるリュツォ・ホルム湾の最奥部に位置し、1961年に白瀬中尉を記念して命名されました。
また、後援者である大隈重信伯爵から南極行きの目的を「南極点踏破」から「学術探検」に変更するよう助言を受けた白瀬隊は、大和雪原の探査、気象や岩石、ペンギンなどの学術調査を実施し、研究報告をまとめています。
このような壮挙を成し遂げた白瀬中尉ですが、帰国後の生活は順風満帆ではありませんでした。
南極探検には多額の費用がかかり、白瀬中尉自身が大きな借金を背負うことになったのです。その返済のため、南極の映像を持って国内をはじめ、朝鮮半島・満州・台湾などでも講演会を行いました。
1927年になってアムンセンが来日した際に2人は会見を行いますが、白瀬はその際、自分の生活苦が滲む身なりを恥じて、会うのをためらったともいわれています。
苦しい生活が続き、借金を完済したのは1935年、白瀬中尉が74歳のころだったとされています。
そして、当初は熱狂をもって注目された南極探検も、いつしか人々の記憶は薄れていきます。
そんな空白の期間が40年以上過ぎた1955年、日本は再び南極を目指すことになります。
1957年〜1958年に実施されるIGY(国際地球観測年)に向けた南極観測への参加です。
しかし、南極部会で日本の南極観測参加が審議された際、太平洋戦争における遺恨を持つ一部の国からは猛反対を受けました。肩身の狭い状況で日本が参加を認められた背景には、アメリカとソ連による支持に加え、白瀬南極探検隊の学術研究の実績が追い風になったともいわれています。
いっぽう、南極観測への参加をめぐって国内でもさまざまな議論がありました。
終戦からわずか10年、まだまだ復興途中の日本にとって南極観測など大金をかけて行う余裕はないという意見も少なくない中、白瀬中尉の南極探検がひとびとの背中を押す力となっていました。
参加に賛同したひとりに、松村謙三文部大臣がいます。松村大臣は学生時代、白瀬隊の南極出港を熱狂的に見送った経験がありました。その思い出から「戦争に敗れ、意気消沈している時、こうしたことをやらなければだめだ! 」と、南極観測を強く支持したのです。
また、白瀬中尉が借金返済のために各地で行った講演会のひとつに、第1次南極観測で越冬隊長を務めた西堀栄三郎氏が参加していました。当時子どもだった西堀氏は講演を聞いてその情熱に感銘を受け、このことをきっかけに南極に憧れを持つようになったといいます。
白瀬中尉から始まった熱意が、日本を再び南極へと送り出したのです。
そして1956年11月8日、初代南極観測船“宗谷”は第1次南極観測隊を乗せて日本を出港しました。

写真「S31.11.08 初の南極観測に出港する宗谷」
所蔵:船の科学館
所蔵:船の科学館
こうして始まった南極観測は、“宗谷”、“ふじ”、“5002しらせ”、そして現在の“5003しらせ”へと受け継がれ、今年2026年に70周年を迎えました。
「白瀬南極探検旗」で見送られる「5003しらせ」
撮影:船の科学館
撮影:船の科学館
この節目の年に、日本の南極観測の原点ともいえる白瀬南極探検隊の歴史にも触れてみてはいかがでしょうか。
白瀬中尉の故郷である秋田県にかほ市には、この偉業を顕彰する「白瀬南極探検記念館」があります。
白瀬隊の南極探検はもちろん、現代の日本の南極観測についても広く紹介されていて、見ごたえのある施設です。
興味のある方はぜひ訪れてみてください。
https://shirase-kinenkan.jp/
白瀬南極探検記念館
撮影:船の科学館
撮影:船の科学館
そしてもう1カ所、白瀬南極探検隊にまつわる場所をご紹介します。
白瀬中尉が開南丸で出港した地、芝浦です。
東京都港区の埠頭公園には、出港の記念碑のほか、開南丸を模した遊具、南極大陸を表した池も設置されています。
新交通ゆりかもめ「芝浦ふ頭駅」から徒歩5分ほどですので、“宗谷”ご見学の際に少し足を延ばしてみてはいかがでしょうか。
https://shibaurachuopark.com/futo-park
埠頭公園 南極探検出港の記念碑
撮影:船の科学館
撮影:船の科学館
《船の科学館 イベント紹介》
【青海スタンプラリー】
“宗谷”が係留されている青海地区にある3施設合同でスタンプラリーを開催中です。
海上保安庁の海洋情報資料館、TOKYOミナトリエ、初代南極観測船“宗谷”の3施設を回ってスタンプを3つ集めると、ここでしか手に入らないオリジナルグッズをプレゼント♪
開催はいよいよ9月30日(水)まで!
▽「青海スタンプラリー」の詳細はこちらをご覧ください。
https://funenokagakukan.or.jp/2026/42957/
それでは今回の【宗谷通信】は、ここまで!
以上、“宗谷”から整備係兼学芸員のアデリーがお伝えしました。
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