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今日の海の日

複雑な経歴をたどった貨客船「敦賀丸」の前身は、慶応2年8月16日に江戸幕府が購入!? 

日本の沿岸に汽船の定期航路が設けられたのは、慶応2(1866)年から翌年にかけて、江戸幕府の運送船「奇捷丸(きしょうまる)」(鉄製・517総トン)が江戸〜大阪間を数回往復したのが、最初であるとされています。

実は、この「奇捷丸」が、後に貨客船「敦賀丸」として知られる船の前身でした。 幕府が海軍力を強化するために慶応2(1866)年8月16日に購入した外国製蒸気船でしたが、その後、船主・船名が変わり、明治7(1874)年には「敦賀丸」となりました。
今日のブログでは、複雑な経歴をたどった貨客船「敦賀丸」について見ていきましょう。

敦賀丸(セピア).jpg

絵画「敦賀丸」
作:山高五郎
寸法:153×250
所蔵:船の科学館

本船の前身は、元治元(1864)年にイギリスの造船所で竣工した貨客船で、慶応2(1866)年8月16日に幕府が購入して「鵬丸」と改名し、同年11月19日に「奇捷丸」と改名されました。

明治元(1868)年に静岡藩の所有となりましたが、明治3(1870)年には北ドイツの船会社に売却され、「TA PANG NYO」と改名されました。さらに同年、アメリカの船会社に転売され、「 LUZON 」と改名されています。
その後、明治7(1874)年の台湾征討に際して、明治政府が110,000ドルで買い戻し、「敦賀丸」と改名されました。

明治8(1875)年以降は郵便汽船会社(後に日本郵船)の所有となりましたが、明治27(1894)年には陸軍に徴用されて兵員等の輸送任務に就き、個人所有を経て、大正4(1915)年に北洋商船の所有になりました。

上の絵画の左下には「敦賀丸 ex. TA PANG NYO, LUZON S.S.TSURUGA MARU(北洋商船所属当時の写真による)」と書き込まれています。前身となった外国船時代の船名まで書き添えられていることから、山高五郎がこの船の複雑な船歴を重視していたことがうかがえます。

敦賀丸.jpg

絵画「S.S.TSURUGA-MARU」
作:山高五郎
寸法:174×247
所蔵:船の科学館

貨客船「敦賀丸」の概要

総トン数 1,006.13トン
純トン数 736トン
垂線間長 67.66メートル
型幅 8.83メートル
型深 6.72メートル
主機 三連成レシプロ機関×1基
出力 330馬力(連続最大)
速力 11.5ノット(試運転最大)、9.0ノット(満載航海)
旅客定員 428名(2等74名、3等354名)

大正9(1920)年には鉄道省に傭船され、青函連絡航路に就航しましたが、昭和に入ると個人所有となり、昭和6(1931)年には中華民国に売却されています。
その後も長く使用され、約90年にわたって世界の海で活躍した長命船でした。

幕末から昭和まで、国や船主、船名を幾度も変えながら激動の時代を生き抜いた「敦賀丸」。その数奇な船歴は、幕末から近代日本への歩みを映し出していると言えるでしょう。

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0

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