2020年に開業したJR東日本「高輪ゲートウェイ」駅の名前の由来にもなった「高輪大木戸」は、江戸時代の中期 宝永7(1710)年に芝口門に建てられ、享保9(1724)年に現在の高輪2丁目に移され、昭和3(1928)年2月7日に国指定の史跡に指定されています。
江戸時代、この地は江戸の南の入口にあたり、治安維持と交通規制の役割を担う「大木戸」が設けられていました。
街道の両側には石垣が築かれ、その間に門と柵が設置され、大木戸では高札を掲げて人馬の手形が検められました。
しかし、江戸時代後期には大木戸は廃止され、明治初年には道路拡張によって西側の石垣が撤去され、現在は、第一京浜国道沿いに海岸側の石垣のみが残されています。

錦絵「東海道高輪風景」(3枚続)
作:歌川貞秀
寸法:370×723
所蔵:船の科学館
「高輪大木戸」は幾人かの浮世絵師によって描かれ、当時の様子がうかがえます。
上の錦絵では、「高輪大木戸」を出て最初の宿場町・品川の宿の様子が描かれています。

錦絵「東都名所 高輪之図」
作:歌川広重
寸法:250×378
所蔵:船の科学館
歌川広重の錦絵には、品川沖に「弁財船」が描かれています。
大廻しの海船は直接海岸に着けられず、江戸湊に入ると、品川沖や佃島沖に沖係りするのが常でした。

錦絵「品川高輪風景」(三枚続のうち一枚)
作:歌川国輝(二代)
寸法:370×250
所蔵:船の科学館
歌川国輝(二代)の錦絵には、停泊する弁財船の周りには小型の帆船、手前には一本水押の小型船「荷足船」が描かれています。
「荷足船」は、江戸湾や市中で、小荷物や客輸送に使われていました。
そして、「高輪大木戸」といえば、伊能忠敬が日本地図を作るため、「高輪大木戸」を起点として測量を始めた場所としても知られています。
日本地図は伊能忠敬の死後、弟子たちによって完成しましたが、その地図を国外に持ち出そうとしたシーボルトは国外追放になっています。
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