日華連絡船(上海航路)の第1船「長崎丸」は、昭和17年5月13日に沈没
大正12年から長崎〜上海間を結ぶ日華連絡船(上海航路)の第1船として就航した「長崎丸」は、姉妹船「上海丸」と週2便の定期運航をしていましたが、昭和14(1939)年に設立された東亜海運(株)に移籍しました。
東亜海運(株)は、戦時体制の下、日中戦争の戦場となった中国水域での通常運航が難しくなったことから、昭和14(1939)年に国策会社として設立された会社で、この水域に航路を持つ日本郵船や大阪商船、日清汽船などの各社が、それぞれの基幹航路を船ぐるみで提供していました。
日華連絡船の第1船「長崎丸」と姉妹船「上海丸」は、その出資船として共に移籍したのです。

絵葉書「出島岸壁ニ於ケル長崎丸」
寸法:99×142
所蔵:船の科学館
そして、太平洋戦争が勃発した昭和16(1941)12月8日、軍命を受けた「長崎丸」は揚子江河口で、母国に逃げ帰ろうとしていたアメリカ客船「プレジデント・ハリソン」を追撃・擱座させ、拿捕に貢献しました。
ところが、翌17年5月13日、海軍からの機雷敷設の連絡が遅れたため、長崎港外の伊王島北方で味方の機雷に触れて沈没します。
その事故により死者13名・行方不明者26名を出し、不運な最後を迎えました。大正12(1923)年2月11日の就航から僅か19年での終焉でした。
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