文久元年4月19日、咸臨丸はロシア軍艦対馬占領事件解決のため品川出港
幕末の万延2年2月3日(1861年3月13日)、ロシアの軍艦「ポサドニック」が海軍の根拠地設立のために対馬に来航し、停泊の許可を求め一時不法占拠する「ロシア軍艦対馬占領事件/ポサドニック号事件」が起きました。
幕府は、長崎奉行に軍艦を退去させるよう命じましたが解決せず、外国奉行小栗豊前守(おぐりぶぜんのかみ)に対馬に行き、ロシアと交渉するよう命じました。
小栗豊前守は、アメリカから戻って神奈川、横浜港の警備等をしていた「咸臨丸」に乗船し、文久元年4月19日(1861年5月28日)に品川を出港して対馬に向かいました。
しかし、ロシアとの折衝は上手くいかず解決できなかったので、同年5月13日(1861年6月20日)に対馬から引き揚げましたが、「咸臨丸」は途中で機関が故障してしまい、長崎で修理を行うこととなり、江戸に戻ったのは5ヶ月後の10月22日でした。
絵画「「咸臨丸」帆走時の精密側面イラスト」
作:西村慶明
寸法:305×465
所蔵:船の科学館
ところで、ロシアとの折衝を行った小栗豊前守は、日米修好通商条約批准書交換の「遣米使節団」の副使として活躍した人で、帰国後に外国奉行に任命されていましたが、このロシアとの折衝に失敗したことで辞任を申し出ています。
そして、この事件を通して、幕府の経済力・軍事力の弱さを痛感した小栗は、文久2(1862)年に再び勘定奉行になり、横須賀製鉄所(造船所)の建設を推進しました。
錦絵「日本名勝図會 横須賀造船所」
発行:明治二十九年十二月印刷
寸法:370×245
所蔵:船の科学館
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