明治27(1894)年8月、朝鮮半島の支配権をめぐって日清戦争が始まりました。
この戦争は、日本にとって最初の外国との近代戦争ですが、「病院船」が活躍した戦争でもありました。
海軍は貨客船「西京丸」の姉妹船「神戸丸」を、陸軍は「小菅丸」など8隻を徴用し、日本赤十字社の要員を乗せて輸送と病院の兼用船にしていました。
日本赤十字社によると、この日清戦争で軍船で輸送された患者は38,123人に上ったそうです。
こうした経緯から、日本赤十字社は、戦時に専用の病院船となる船舶が必要と考え、英国スコットランドのロブニッツ造船所に2隻の貨客船「博愛丸」「弘済丸」を発注し、「博愛丸」は明治32(1899)年4月10日、姉妹船「弘済丸」は同年6月28日に日本に回着、運航は日本郵船に委託されました。

絵葉書「日本赤十字社 病院船 弘済丸」
所蔵:船の科学館
日本に回着した「博愛丸」は、明治33(1900)年1月から上海航路に配船されましたが、北清事変では「弘済丸」と共に陸軍病院船となって傷病兵の輸送を行いました。
その後も「博愛丸」は上海航路復帰・病院船を繰り返しましたが、明治36(1903)年4月に徴用解除となり、船体を白色から黒色に塗り替え、日本郵船に引き渡されて上海航路に復帰しました。
しかし、明治37(1904)年2月に日露戦争が始まると海軍病院船となって、延べ757日間に傷病兵13,893人を輸送し、大正12(1923)に発生した関東大震災では、避難民の輸送船として1,351人を輸送して活躍していますが、大正15(1926)年に水産関係の会社に売却されて蟹工船として働きました。

絵画「博愛丸」
作:山高五郎
寸法:178×104
所蔵:船の科学館
「博愛丸」の概要
| 総トン数 | 2,628.55トン |
|---|---|
| 垂線間長 | 94.79メートル |
| 型幅 | 11.88メートル |
| 型深 | 9.02メートル |
| 主機 | 三連成レシプロ機関×1基 |
| 出力 | 3,078馬力(連続最大) |
| 速力 | 15.42ノット(試運転最大) |
| 旅客定員 | 不明 |
| 乗組員 | 約40名 |
ところで、山高五郎が描いた絵画「博愛丸」には、サインの下に制作年が「2601」と記されていますが、「2601」は皇紀表記で昭和16(1941)年にあたります。
その頃の「博愛丸」は、昭和15年9月に海軍に徴用されて、昭和16年8月に解除されるまで、横須賀鎮守府所属の運送船でした。
そして、昭和20(1945)年6月、北緯50度23分、東経155度6分の地点(オホーツク海)で米潜の雷撃により沈没し、47年の生涯を閉じました。
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