日清戦争で大陸進出への足がかりを得た日本は、やがて満州(中国北東部)や朝鮮半島に手を伸ばそうとするロシアと対立を深め、明治37(1904)年2月、日露戦争の火ぶたを切りました。
この日露戦争で、日本の勝利を決定づけたのは日本海海戦でしたが、ロシアのバルチック艦隊発見の第一報を打電したのが、仮装巡洋艦「信濃丸」でした。
開戦前夜、東シナ海を哨戒していた「信濃丸」は、五島列島沖で対馬海峡に針路をとるロシアの大艦隊を発見し、その情報を旗艦「三笠」で待ち受ける連合艦隊司令長官 東郷平八郎に「敵艦見ゆ」と打電し、勝利に貢献しました。
次の絵画には、まだ暗い海面に月明りでシルエットが浮かび上がった敵艦を発見した「信濃丸」が描かれています。

絵画「信濃丸」
作:山高五郎
寸法:173×285
所蔵:船の科学館
ところで、仮装巡洋艦「信濃丸」がどのように誕生したのか、ご存じでしょうか。
「信濃丸」は、日本郵船が欧州航路への本格的な進出に向けた新造船12隻の1隻として計画され、明治33(1900)年1月30日にイギリスグラスゴーのD.W.ヘンダーソン社で進水(誕生)しました。
貨客船「信濃丸」の概要
| 総トン数 | 6,388トン |
|---|---|
| 載貨重量 | 6,740トン |
| 長さ | 135.6メートル |
| 幅 | 15.0メートル |
| 満載喫水 | 7.89メートル |
| 主機 | 三連成レシプロ機関2基 |
| 出力 | 4,000馬力 |
| 最高速力 | 15.4ノット |
| 旅客定員 | 238名(一等26名、二等20名、三等192名) |
当初は、欧州航路への第1船「常陸丸」に続いて、「信濃丸」も三菱長崎造船所で建造される予定でしたが、「常陸丸」の竣工が大幅に遅れたことで、第2船「信濃丸」の納期遅延が必至になり、「信濃丸」の建造はD.W.ヘンダーソン社に発注替えされました。
明治33年4月に竣工すると、9月に神戸港からメルボルンに向けて初出航し、翌34年6月に神戸港から欧州航路に就航しますが、欧州航路への航海はこの1航海のみとなり、以後、シアトル航路へ配船されました。
日露戦争の前年、作家 永井荷風が「信濃丸」で渡米したことが知られています。
その後、明治37(1904)年2月に陸軍に徴用されて軍用船となって日露戦争に参加し、同年12月に解除されるまでの間、兵員等の輸送に従事しました。
翌38年1月にシアトル航路を1航海した後、3月に海軍に徴用されて仮装巡洋艦になり、5月27日から日本海海戦が始まります。

絵葉書 「信濃丸」日本郵船株式会社
寸法:90×141
所蔵:船の科学館
明治39(1906)年1月、神戸〜シアトル航路に復活しますが、明治43(1910)年4月から昭和4(1929)年まで、神戸〜基隆航路の定期船となりました。
「信濃丸」は欧州航路の新造船として誕生しましたが、シアトル航路で有名になり、基隆航路時代を最も長く過ごしています。
晩年は、北進汽船に売却され、昭和5年には日魯漁業の蟹工船になり、戦後は引揚船として活躍しましたが、昭和26(1951)年に蟹工船の状態で解体となりました。
船齢51年、波乱に満ちた生涯でした。
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