幕末の第11代薩摩藩主 島津斉彬は、富国強兵・海防強化を推進し、西欧の科学技術の導入にも大変熱心でした。
嘉永4(1851)年に藩主に就任すると、洋式帆船「伊呂波丸」、小型洋式船「越通(おっと)船」を建造し、その後、オランダの造船書を参考に、パーク型帆船「昇平丸」(後に幕府の大型洋式軍艦「昇平丸」)を完成させました。

絵画「海の偉人肖像画 島津斉彬」
作:馬堀法眼善孝
寸法:630×510
所蔵:船の科学館
嘉永元(1848)年にオランダの蒸気船技術書を入手すると、蘭学者 箕作阮甫(みつくりげんぽ)に翻訳を依頼し、翻訳書『水蒸船略説』をもとに蒸気機関の製作に着手しました。

「薩摩藩が製作した「雲行丸」のサイド・レバー汽機」
所蔵:船の科学館
その頃の日本は、木造帆船建造の伝統はありましたが、機械工業の基盤はなく、蒸気機関の製造は至難の業でした。にもかかわらず、薩摩藩は洋書を頼りに試作機関を完成させ、江戸に回航されていた越通船に搭載して、安政2年8月23日(1855年10月3日)、田町藩邸の前の品川海岸で試運転を行いました。
結果は良好で、後にこの越通船は「雲行丸(うんこうまる)」と命名され、日本初の小型木造外輪蒸気船になりました。
試運転の様子については、「雲行丸は、最初は片町・高輪辺りを航走し、品川沖に停泊していた西洋式軍艦 昇平丸の近くまで行き、田町に帰って来た」と伝えられています。
江戸で成功を納めた「雲行丸」は安政4年に薩摩に回航され、翌年、長崎海軍伝習所の「観光丸」が薩摩へ練習航海をした際、所長カッテンディーケら教官一行に「雲行丸」を見せ、意見を求めました。
一行は、日本人だけで蒸気機関を完成させたことに驚愕した上で、蒸気漏れや欠点によって十分な出力が出ていないことを指摘し、「雲行丸」は長崎で修理されることになりました。
「雲行丸」の試運転が行われた安政2年は、フルトンのクラーモント号成功から48年後にあたります。
そして、その頃の日本は、ペリーの黒船来航を機に、幕府は「鳳凰丸」、薩摩藩は「昇平丸」、水戸藩は「旭日丸」の洋式帆走軍艦を建造し、「観光丸」を練習艦とした長崎海軍伝習所が開設され、オランダに「咸臨丸」と姉妹艦「朝陽丸」が発注されています。
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