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多くの「日本人初」を成しえた浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)、1850年12月3日に遠州灘で漂流

幕末に活躍した「浜田彦蔵(米名 ジョセフ・ヒコ)」は、日本人として初めてアメリカの市民権を得、滞米中には3人の大統領に会い、帰国後に日本初の海外新聞を発行したことなどが知られています。

彦蔵(幼名 彦太郎)は1837(天保8)年に播磨の古宮村(現在の兵庫県加古郡播磨町)に生まれ、養父は弁才船の船長で、樽廻船の一員として上方から江戸に酒などを運んでいました。

大阪に出入りする弁財船.jpg

絵画「江戸後期・大坂に出入りする弁才船(菱垣廻船・北前船・樽廻船)」
作:谷井建三
寸法:590×890
所蔵:船の科学館

江戸時代は国内海運が飛躍的に発達した時代で、なかでも上方〜江戸間は最大の幹線航路で、大坂から木綿・油・醤油・紙・薬などの日用品を積んだ「菱垣廻船」や、灘などの酒を積んだ「樽廻船」が江戸へと向かいました。

上の絵画は、軽量でかさばる荷を胴の間に積み上げた菱垣廻船(舷側の垣立下が菱組の格子になっていることから菱垣の名がつきました)、北前船(中央)、荷積み前の樽廻船(右端)などが描かれ、弁才船でにぎわう江戸時代の大坂が再現されています。

さて、1850(嘉永3)年10月初旬、彦蔵は13歳の時に、養父の住吉丸に乗って江戸へ行く機会を得ました。
途中、荒天になり、避難港の九鬼で天候の回復を待っていたところに、樽廻船仲間の栄力丸が九鬼港に避難してきました。

栄力丸は1600石級の大型弁才船で、新造船でした。船主は住吉丸の親戚で、乗組員たちは彦蔵の近くの村人が多く、彦蔵を知る人もいました。
彦蔵は、後の人生が大きく変わることになるとは知らず、九鬼港で住吉丸から栄力丸に乗り換え、住吉丸より早く品川に着き、江戸見物を楽しんだそうです。

その後、栄力丸は11月23日に江戸を後にし、12月3日、遠州灘を航行中に天候が急変して嵐になり、漂流が始まりました。
およそ50日ほど流され、1851年1月22日、アメリカの黒船「オークランド号」に救助され、3月4日にゴールドラッシュに沸くサンフランシスコに到着しました。

オークランド号は中国からサンフランシスコに向かう商船で、船長ほか10名の乗組員たちが、とても親切に彦蔵たちの面倒をみてくれたそうです。

当館は、安政6(1859)年の図面を基に、日本海事史学会の石井謙治氏が監修した樽廻船の模型を所蔵しています。
本模型は、長さ約34メートル、幅約11メートル、 高さ約31メートル、大きさ1600石積(酒樽3200個積載)なので、彦蔵の運命を変えた栄力丸(1600石級)に比較的近い大きさと思われます。

弁財船.jpg

船舶模型「弁才船・樽廻船(1/5)」
寸法:7260×4340×6540
所蔵:船の科学館

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投稿者:メル カテゴリー:船・潜水艦 コメント:0

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