大阪〜瀬戸内〜別府航路は、明治6(1873)年に開設され、当初は小規模船主が熾烈な競争をしていましたが、明治45(1912)年に大阪商船の初代「紅丸」(後の鳴門丸)が就航後、別府温泉の発展とともに乗客が増加の一途を辿りました。
大正13(1924)年に入ると、大阪商船は初のディーゼルエンジン船となる2代目「紅丸」(後にくれなゐ丸に改名)など6隻を相次いで就航させ、内海航路の基盤が整備されました。
その後、大阪商船他6社が出資して設立した関西汽船(株)の3代目「くれない丸」の就航に引き継がれます。

絵葉書「関西汽船「くれない丸」進水記念」
寸法:100×166
所蔵:船の科学館
「瀬戸内の女王」と称された「くれない丸」は、新三菱重工業(株)神戸造船所において、昭和34(1959)年11月18日に進水しました。

「くれない丸」の概要
| 総トン数 | 2,928トン |
|---|---|
| 全長 | 86.70メートル |
| 型幅 | 13.40メートル |
| 型深 | 6.25メートル |
| 主機 | ディーゼル 5,400馬力×1基 |
| 最高速力 | 19.5ノット |
| 旅客定員 | 827名(1等20名、特別2等136名、2等80名、3等591名) |
| 航路 | 阪神〜別府・阪神〜高松 |
「くれない丸」が昭和35(1960)年3月に就航すると、続いて同年9月に「むらさき丸」、昭和38(1963)年に「すみれ丸」「こはく丸」など、3000トン級の客船が最大6隻体制で就航しました。ちなみに、全ての船に色の名前がつけられています。
また、「くれない丸」は、昭和36(1961)年に当時実験途上にあったバルバスバウ(造波抵抗の低減を図るための球状船首)を装備して実証実験を行っています。
姉妹船「むらさき丸」との併走実験では、その効果を実証したそうです。
さて、造船技師であり、船舶画家として多くの作品を残した山高五郎は、瀬戸内海の島々をたびたび船で巡って楽しみました。就航した直後の「くれない丸」に乗船し、小豆島沖を通過する際の島の様子を描いた作品を残しています。

絵画「小豆島「くれない丸」より」
作:山高五郎
寸法:185×315
所蔵:船の科学館
「くれない丸」は昭和56(1981)年に客船としての役割を終えた後、横浜港でレストラン船「ロイヤルウイング」として運航されていましたが、本年(2023年)5月14日の営業を最後に引退しています。
63年間も就航した驚異的な御長寿船でした。

レストラン船「ロイヤルウイング」
出展:写真AC
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