日本とベトナムは、昭和48(1973)年9月21日に外交関係を樹立し、本日50周年を迎えました。
さて、日本とベトナムの交流は、16世紀末から17世紀前期にかけて、幕府から異国渡海朱印状を交付されて渡航した貿易船「朱印船」貿易まで遡ります。
朱印船の多くは長崎から出港し、安南(あんなん)や交趾(こうち)と呼ばれたベトナム、呂宋(るそん/フィリピン)、暹羅(しゃむ/タイ)などの東南アジアに向かい、日本の銀、銅、硫黄、刀剣などと引き換えに、生糸や絹織物、陶磁器、香辛料などを持ち帰りました。
朱印制度は、慶長9(1604)年に徳川家康によって始められ、寛永12(1635)年に鎖国となって海外渡航が禁止となるまで続き、その間の朱印船は356艘を数えます。1年平均で11艘、多い年には20艘を超す盛況ぶりでした。
次の絵図は、徳川第2代将軍秀忠から、長崎の朱印船貿易家・荒木宗太郎に下付された元和8(1622)年11月4日付交趾国宛朱印状の写しです。
「従日本到交趾国船也(にほんよりこうちこくにいたるふねなり)元和八年十一月四日」と記され、左上の朱線の四角が秀忠の主印を示しています。
下は「荒木宗太郎異国渡海船之図」ですが、明らかな写しくずれがあり、原画は末次船のような絵馬と推定されています。
ところで、長崎の朱印船貿易家・荒木宗太郎は、長崎から安南へ赴き、国王の信頼を得て王女・玉華姫と結婚しました。
玉華姫がベトナムの言葉で「アイン・オーイ(愛するあなた)」と宗太郎に呼びかけるところを長崎の人々が耳にし、玉華姫は長崎の人々に「ア二オーさん」と呼ばれ親しまれ、生涯を長崎で過ごします。
玉華姫は鎖国政策により二度とベトナムに帰ることはできず、長崎市内にある荒木家のお墓で眠っているそうです。
ア二オー姫の輿入れの様子は、長崎伝統の大祭「長崎くんち」において7年に1度「御朱印船(荒木船)」の演目で披露され、今も長崎の人々に受け継がれています。
また、今秋、日越外交関係樹立50周年記念事業として、ア二オー姫と荒木宗太郎をめぐる物語が、新作オペラ「ア二オー姫」として上演が決定しています。
この絵画は、荒木宗太郎の持ち船の絵図を元に、東シナ海を航行中の姿として再現し描かれたものです。
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