嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、江戸湾にアメリカの東インド艦隊司令長官ペリー提督が率いる4隻の巨大な異国船「黒船」が現れ、浦賀沖に投錨しました。
4隻のうち2隻は蒸気フリゲートの「サスケハナ」「ミシシッピ」、2隻は帆走スループの「サラトガ」「プリマウス」でした。
異国船を目にした人たちは、その大きさ、帆船を曳航する蒸気船から吐き出される黒煙、海水を散らしながら外輪が回転して進む姿に、強い衝撃を受けました。

黒船『サスケハナ』の木版画
寸法:495×685
所蔵:船の科学館
さて、ペリー提督は、日本に「開国と通商」を求めるアメリカ大統領の国書を携え、日本にその承諾の返答をもらうために来航しました。
当時アメリカは、蒸気船による太平洋航路を開くことを計画しており、捕鯨船や蒸気船の補給基地などを求めていたのです。
ペリー艦隊は浦賀に近づくと大砲を打ち、自分たちの存在をアピールします。 当時の日本は鎖国政策をしき、外国船が寄港できるのは長崎に限られていましたが、ペリーが長崎ではなく江戸湾・浦賀に来航したのは、幕府に圧力をかける目的があったと考えられています。
浦賀沖に停泊すると、日本の軍船が艦隊を取り囲み、浦賀奉行所が交渉にあたります。
長崎へ廻らせようとする日本側、江戸で日本政府最高位の者にしか国書を渡さない、とするアメリカ側。ペリーの態度は強硬で、交渉を重ねた結果、久里浜(現・神奈川県横須賀市)で国書を受け取ることになりました。
幕府が対応に苦慮している間、ペリー艦隊は江戸湾で測量を行ったため、日本側に動揺を与えています。
ところで、帆船時代の軍艦(大砲24門以上)は、大砲の数によって戦列艦(60門以上)と「フリゲート」に分けられてました。

絵画「蒸気フリゲート 「サスケハナ」側面図」
作:谷井建三
寸法:192×277
所蔵:船の科学館
フリゲートは通常大砲を24〜40門備え、高速で偵察などを主な任務にしていた軍艦です。
「サスケハナ」に搭載されていた大砲は口径10インチ(25.4cm)が3門と口径8インチ(20.3cm)が6門で、合計9門が上甲板に配置されていました。
10インチの大砲は、大砲の位置を前後にスライドできる架台に乗り、船首に2門、船尾に1門配置されていました。
8インチ砲は、4輪の架台に乗り、左右舷に3門ずつ配置されていました。
アメリカの文献の中に、大砲の数が9門なので「スループ」である、との意見も見られますが、「サスケハナ」は排出量3,824トンの「木造外車フリゲート」です。
大砲は鋳鉄製で、弾丸と発射火薬を大砲の先から挿入する前装砲で、弾丸の重さは10インチ砲が86ポンド(39.0s)、8インチ砲が68ポンド(30.8s)でした。
フリゲートの次にランクされたのが「スループ」で、2・3本のマストと20門前後の大砲を備えていました。

絵画「帆走スループ 「プリマウス」精密側面図」
作:谷井建三
寸法:188×272
所蔵:船の科学館
「プリマウス」に搭載されていた大砲は口径8インチ(20.3cm)の鋳鉄製前装滑腔砲4門、32ポンド(14.5s)の鋳鉄製前装滑腔砲18門、合計22門が搭載されていました。
その後、蒸気船の時代になっても、「フリゲート」「スループ」の名称はそのまま使用されましたが定義は明確でなく、時代によって大きさ・備砲の数は変化しています。
1840年代後半のフリゲートは排出量2,000〜3,000トン、スループは1,000〜2,000トンでしたが、フリゲートは次第に大きくなり5,000トンを超えるものが出現しています。
当館では、黒船来航170周年を記念して、2023年6月3日(土)から 7月9日(日)までの間、別館展示場においてミニ企画展示「黒船来航170年 『ペリー提督日本遠征記』大公開!」を実施します。
アメリカ側公式記録『ペリー提督日本遠征記』原書(1856年出版)のほか、当時の様子がわかる絵図などを展示致しますので、是非ご覧ください。
あわせて読みたいおススメの記事












コメント
※現在、コメントに対する返信は対応しておりません。予めご了承ください。